「名前殿、ちゃんと郭嘉殿の手綱を握っておいて」
「無理ですよ!!この人ったら雲みたいにあっという間にふわふわとどこか行っちゃうんですから!」
いつものように星彩を口説こうとしていた郭嘉だったが、何故だかあっという間に名前の元に連行されてしまった。そしてとばっちりを受けた名前が勘弁してくれと言わんばかりに頭を抱える。
「あと別に私が手綱握る係ってわけでもないし…」
半泣きの名前がぽそぽそと呟くので、郭嘉は名前の手を取った。
「名前殿が私を繋ぎとめておいてくれるのなら本望だよ」
手の甲に郭嘉が軽く口づけを落とすと、名前がぴゃっと飛び上がる。
「と、郭嘉殿は言っているけれど」
「この人の言うことをまともに受け止めないでください星彩殿!」
普段から星彩も郭嘉の言う事は信用していないので名前の言う通りではあったが、何か引っかかるものがあった星彩はちら、と郭嘉に目線を送ってくる。郭嘉はそれに否定も肯定もせずに、ただ目配せをすると星彩は呆れたように息をついた。
「郭嘉殿、その振る舞いはいつか自分の首を絞めると思う」
「ありがとう星彩殿。心配してくれるんだね」
「ええ、あなたではなく名前殿の心配だけれど」
とだけ言い残して星彩は立ち去っていった。二人のやりとりをどこか違う風に受け取った名前は「そうですよ、絶対いつか刺されるんですから」と頷いている。その横顔を見つめていると、ぽんと背後から肩を叩かれた。振り返ればいつの間に背後にいたのか、賈詡が珍しく機嫌が良さそうに笑っている。
「あははあ、いつもの光景が戻ってきたって感じがするなあ」
「いつも以上なんですけど」
じとりと恨みがましそうに名前が見つめてくるので、郭嘉はとりあえずにっこりと微笑みを返した。すると遠慮なく背中を殴られる。
「この世界は魅力的な女性が多すぎるせいで郭嘉殿の火遊びも留まることを知らないんですから。私がどれだけ関係各所に謝って回ってると思ってるんですか!」
「でも郭嘉殿の尻拭いに奔走してる名前殿の方が前より活気があっていい」
「うっっ……」
いつもならそんな活気はいらないなどと文句が止まらないはずだったが、今回は何故か名前が言い淀んだ。一瞬、郭嘉には理由が分からなかったが、名前の表情が落ち込んだままだったので自分がこの連合軍に合流した経緯を思い出す。
名前や賈詡は郭嘉のいない世界を味わっているのだ。二人は妖蛇が世界を蹂躙していた未来から来ていて、その世界に郭嘉はいなかったと言う。未来で二人が何を思っていたのかは分からないが、少なくとも幾らかは郭嘉の存在を惜しんでくれていたようだ。
「本当にいっっつの間にか行方不明になってるんですから…、堪ったものじゃないです」
口調こそ文句を言うようなものだったが、深く悲しみに満ちた顔をする名前に郭嘉は面食らう。名前にこのような表情をさせた自分が許せなくもあり、それだけ惜しんでくれたという嬉しさもあった。我慢しきれなくなった郭嘉は、名前の顔にかかる髪の毛を指先で掬ってそのまま輪郭をなぞる。
「名前殿にそんな顔をさせてしまうなんて…」
ついでに腰にも手を回して引き寄せれば、抱かれるのを嫌がる猫のように名前が暴れた。
「近い近い!!いいですからそういうのは!!」
耳まで真っ赤にした名前にそれ以上の追撃をするのは得策ではなかったため大人しく体を離す。解放された名前は賈詡の背中にさっと隠れながら、こちらを睨みつけた。
「名前殿の気落ちようといったらなかったんだ。あんたにも見せたかったね」
「うるさーい!賈詡さんだって人のこと言えなかったくせに!」
「はて、どうだったかな」
すっとぼける賈詡に名前が噛みついている様子を見つめながら、郭嘉は自分がいなくなる側でよかったと思った。これを言ったら恐らく二人にしこたま怒られることは自明だったため、決して口には出さないが。
名前や賈詡が生存確率が低い状態で行方不明になろうものなら、天才と称えられたこの知略も揺らいでしまうくらい動転していたかもしれない。そんな未来を想像するだけでも気分が悪くなってくるのだから、実際に体験した名前達には自分でよかったなどと口が裂けても言えなかった。
「とりあえず、何も言わずにいなくなるのだけはもうやめてくださいね」
名前の言葉に、郭嘉は瞬時に首を縦に振ることが出来なかった。郭嘉は体調が悪いとそれを他人に見せまいとして、皆の前から姿を消す癖が元々ある。それはこの命燃え尽きる時も、できればそうしたいと常々考えている自分がいた。
名前は、無自覚なのかもしれないが泣きだしてしまいそうな顔をしていた。もし郭嘉が何も告げずに姿を消せば、名前はきっと今と同じような顔をするのだろう。それはどうにも心が痛んだ。
更に名前と共に郭嘉の習性をよく理解している賈詡からも追撃の視線を送られれば、曖昧に言葉を濁すことは許されなかった。
郭嘉は観念して頷いた。
「もうしないと、約束するよ」
「言質取りましたからね!聞いてましたよね賈詡さん!」
「おお、聞いてたとも」
逃げられないぞ、と言わんばかりの気迫を出す二人に、参ったな…と郭嘉はぼやいた。けれど、これが二人に対して果たせる最大限の義理なのだろう。二人を、裏切りたくはなかった。
***
この世界に来て分かったことがある。名前も案外ふらふらとする気性だということ。
名前は美女も美男も愛する。そういった性格であることは元の世界でも理解していた。元の世界では自国の者としか関わらないわけで名前が自軍の将に浮ついている姿を見ていても、他所に行ってしまうような感覚というのは特になかった。
しかしこの世界に国の垣根はない。となると、郭嘉がありとあらゆる美女に声をかけているのと同様、名前も美男や美女につられて、ふらふらとどこか行ってしまう事が多かった。加えて名前は人懐こい。名前が興味を持った相手達には朗らかに受け入れられ、和気藹々と話している姿がよく見られた。
郭嘉はそれを、なんだか不思議な気持ちで眺めていた。
とある宴席。郭嘉は美酒を呷り、将らとの談義に花を咲かせていた。
傍に名前はいなかった。勿論、いつも傍にいることが当たり前ではなかったが、最近はこういった場で名前が誰と話しているのかが少し気になった。
辺りに目を配ると、名前の姿はすぐに見つかる。周りにいるのは凌統、甘寧、陸遜といった呉の若く有望な将たち。
聞き耳まで立てるつもりはなかったのが、少し意識を向ければ会話の内容が聞こえてしまうような距離で、どうしても耳に入ってきてしまう。一度聞いてしまうと気にしないようにするというのも困難で、郭嘉は諦めて会話を聞くことにした。
「やっぱ馬鹿って馬鹿と惹かれ合うんだ」
「おい誰が馬鹿だって?」
「甘寧」
「んだと〜?」
大いに口を滑らせた名前の頭をぐわしと掴んでもみくちゃにする甘寧。名前がぎゃー!と悲鳴をあげながら抵抗していると、凌統が甘寧を制した。
「おい甘寧、離せっての」
「はあ!?いつも名前の味方しすぎだろお前は!」
「だってあんたが馬鹿なのは事実じゃないか」
「ああ!?」
名前を解放した代わりに今度は凌統と甘寧が一触即発の空気になる。名前はぼさぼさに乱れた髪を手櫛で直しながら、横にいた陸遜を小突いた。
「陸遜も助けてよ!」
「え?ああすみません…つい微笑ましく見てしまいました」
「微笑ましくない!まったく…この前仕事手伝った貸しがまだあるんだからね」
「ふふ、その借りはまた別の機会に返しますよ」
お互いに掴みかかっていた甘寧と凌統は二人の会話にぴたりと静止して、興味深げに名前を見つめる。
「なんだ、そんなことしてたのかい名前」
「つか名前に陸遜の仕事とか手伝えるのかよ」
「私これでも自国では軍師補佐なんですけど!?」
心外といったように名前が突っ込むと、そういえばと納得したような顔になる甘寧と凌統。
「名前殿は大変優秀ですから、助かりました」
「い、いやいやそんな…ただ資料整理とかしただけだし…」
「へえ、そんなに優秀ならうちに来てほしいもんだね。な、陸遜」
「えっ?」
思ってもいなかったであろう話を振られて、陸遜が目を丸くする。名前も急な話に驚きつつ「言うほどじゃないよ…?」と謙遜の姿勢を見せていると、凌統が名前の手首をつかんだ。
「いや真面目に。名前はうちの軍の雰囲気とも合うしさ」
「え?なに?引き抜き??」
唐突な誘いに名前は目を回していたが、凌統の追撃が止むことはない。
「冗談じゃないってことくらい、分かるよな?」
「……」
「俺たちも付き合い長くなってきたわけだけど…、前から思ってたよ。あんたがうちの軍にいてくれればいいのにって」
「凌統……」
以前聞いたことがある。遠呂智出現の際どの軍も壊滅寸前まで追い詰められ、曹操も行方不明となっていた頃。魏軍も例にもれず半壊しており、残った軍は曹丕が取りまとめていた。そして一時期は遠呂智の配下にあったという事もあり、その意向に従えなかった名前は魏軍を離れ個人で曹操を捜索していたこと。またその後、織田信長率いる連合軍に流れ着き、凌統や陸遜とはそこで出会ったこと。
確かにその話を思い返してみれば、凌統たちとはそれなりに長い付き合いなのだろう。今までの話からも出会って二日三日の仲ではないことは分かる。
「でも…付き合い長いんだから分かるよね?私、曹操様じゃないと嫌だってこと」
「……」
名前は意外にも曹操への忠義心が厚い。いつもは孫と爺のようなやり取りをしている二人だが、曹操の上に立つものとしての才覚に名前は一等惚れ込んでいた。
そしてそんな名前はこの世界で信長と曹操が並んで称されることを嫌がる。二人を似ていると言う者がよくいるからだ。その度に名前は「全く似てない!」といつも騒いでいた。恐らく信長率いる連合軍にいる時からなのだろう。身を置いてはいたが、信長への忠義心で動いたことはただの一度もないと言っていた。その姿を凌統が見ていないはずがない。
膠着した空気の中、陸遜がたしなめるように「凌統殿」と名を呼ぶ。凌統は大きくため息をつき、名前の手を離した。
「分かってるっての……あんたの気持ちくらい。でも言わなきゃ伝わりもしないだろ」
「それは…ありがとう」
それでも、まだ何か言いたげな凌統は名前をじっと見つめていた。
「曹操だけかい?」
「え?」
「うちに来てくれない理由」
「…それは……」
凌統が名前の顔に手を伸ばす。指先が肌に触れそうになったとき、郭嘉の視界がぐらんと揺れた。
眩暈だった。どうやら今日の体調と酒の相性が悪かったらしい。先ほどからうっすらと体調の芳しくなさは感じていたが、盃を傾ける手を止めずにいたらまんまと悪化してしまった。
動悸も酷くなってきたため、郭嘉は周りの者に迷惑をかけないようにと離席のために立ち上がる。そしてそのまま誰にも告げずに宴席の輪を後にした。
ひと気のいないところまで来ると、少ししてぱたぱたと足音がついてきた。
「郭嘉殿!」
名前だった。こちらに駆け寄ってくると、名前は郭嘉の体温を確認するように頬やら首やらをぺたぺたと触る。
「顔色悪すぎます!具合悪いなら酒飲むなっていつも言ってますよね!?」
「美酒だったからね、つい」
「ついじゃない!はい、とにかくお水飲んでください」
用意よく名前は水を持ってきてくれていた。どうやら郭嘉が具合が悪くて退席したことは完全にお見通しらしい。名前も歓談の真っ最中だっただろうに、よく気づいたものだ。水を口にしている間も、名前は甲斐甲斐しく郭嘉の背を擦った。
「落ち着いたら天幕まで送りますから。今日はもう休んでください」
「ありがとう。けれど、私一人で戻れるから名前殿は宴に…」
「はあ!?そんなことできるわけないでしょう!もういいから黙って介抱されてください」
郭嘉の気遣いは有無を言わさず却下される。このような事で迷惑をかけてしまうのは郭嘉にとって大変忍びなかったが、名前はいつもこうであった。当たり前のように郭嘉の傍にいてくれ、郭嘉の体を誰よりも気にかけてくれている。自身の不甲斐なさを痛感させられるものではありつつも、嬉しさや優越感があるのも事実だった。
先程だって熱烈に口説かれている最中であったというのに、郭嘉の為に抜け出して来てくれたことに喜びを感じている。
ふと、自分が口にした台詞がよぎる。名前に繋ぎとめてもらえるなら本望。確かにそういった気持ちもある。だがそれと同時に、
「……私も、名前殿を繋ぎとめておきたいんだ」
名前の手を取り真っすぐに見つめると、突然のことに名前がたじろぐ。郭嘉は卑怯な手を使っているのだろう。名前の心配してくれる気持ちを利用して繋ぎとめておこうなどと。だが、名前がそれで離れないでいてくれるのであれば、別に構わなかった。利用できるものは利用してこそ軍師である。
「名前殿、私だけのものでいてくれないかな」
極めて分かりやすく、捻くれずに、直球に伝えたつもりだったが、名前は何故か呆けた顔をした。そして数拍置いてから「あ、」と思い出したように声を上げる。
「もしかしてさっきの会話聞いてましたね?」
ぱちり、と瞬きをして返事に少し迷った一瞬の反応で、名前は確信したようで「やっぱり」と息をつく。
「大丈夫ですよ。そんな色仕掛けしなくたって別に他所に行ったりなんかしませんから」
色仕掛け。されたことは数あれど、まさか仕掛ける側になるとは。いや、郭嘉としてはまったく意図はしていないのだが。
「まあ、郭嘉殿としても私がいなくなったら多少なりとも困りますもんね。…いや、困るのは郭嘉殿じゃなくて賈詡さんか…?」
間違った方向に納得してしまっている名前の考えを、全て訂正するのはもはや難しい。せめてもの抵抗にと、郭嘉は名前の顔を覗き込む。
「名前殿がいなくなってはとても寂しいという話なんだけれど…」
「はいはいそうですね」
日頃の行いが悪いせいであろう。簡単に流されてしまった。どうしたものかと苦笑いを浮かべていると、名前が何かを口にすべきかどうか逡巡した様子でそわそわとするので、郭嘉は耳を傾ける。すると、小声で名前が呟いた。
「…私、これでもちゃんと曹魏のみんなのこと大好きなので。引き抜きを受けたりなんか、しないです」
「……それは私も?」
「なっ……んでいちいちそういう事聞くんですかね!?」
耳まで赤くした名前が怒鳴る。だが、負けじと郭嘉が見つめ返すと、怯んだ名前は顔を背けた。
「好きじゃなきゃ、ここまでしてませんよ…」
蚊の鳴くような声に、郭嘉は思わず笑みがこぼれた。会話の流れからして名前の好きと言うのはもちろん仲間愛のことを指すのだろうが、今はそれでもよかった。郭嘉が名前の肩でも抱いてもう少し接近してしまおうかと画策していると、先ほどの自分の発言に耐えきれなくなった名前が立ち上がって郭嘉の腕を掴んだ。
「ほらもう休みますよ!!」
「おや…名前殿も一緒に寝てくれるのかな」
「寝言は寝て言ってください!」
郭嘉の腕を引く名前の後ろ姿に思う。さて、これからどうやって囲い込んでしまおうか、と。
だが、手中に収めた時のことを考えれば考えるほど、別れも辛くなるであろうことは明白だった。今までだってそれを選びきれないでいたから長らくこの関係なのだ。踏み出す罪深さも、踏み出さない罪深さも分かってはいる。神様は随分と酷なことをさせるものだと思ったが、人を愛してしまった以上、その選択が付きまとうのは道理であった。
浮世の雲が望むもの
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