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TopMain荀令君の休息
荀ケが市井の様子を見に外出した時だった。予想していなかった人物を見かけたことに荀ケが思わず立ち止まっていると、それに気づいた彼女が「あら」と振り返る。

「荀ケ様。奇遇ですね」
「え、ええ……」

荀ケは驚いた。まさか彼女を城下で見かけるとは思わなかったからだ。彼女は曹操の娘、姫君付きの侍女であった。荀ケとは数えるほどしか顔を合わせたことがなかったが、祭事の際などの業務連絡を彼女を通して行っていたことがあったため、彼女が優秀で丁寧な仕事をする人物であることを荀ケは知っていた。
その彼女が後宮から出て共も連れずに街を歩いている。荀ケは困惑しながらも尋ねた。

「どうされたのですか?護衛の者も見当たらないようですが…」
「うちのわがままな姫様の要望を叶えるために少々おつかいを。ついでに息抜きをしておりました。護衛は私一人ですから要りませんでしょう?」

女性一人なら尚更誰かを連れていて欲しかったのだが、と荀ケは悩ましくこめかみに手をあてる。しかし、彼女は荀ケの困った様子にもどこ吹く風といったように悠々と微笑んでいて、荀ケは意外な気持ちになった。
城内で見る彼女は凛としていてあまり他者を寄せ付けない雰囲気すら感じるものがあったが、今日の彼女はどこか奔放さが滲み出ている。こんな一面も持っていたのか、と新鮮さを感じつつ、荀ケは窺うように彼女を見つめて首を傾げた。

「では…、私がご一緒しても?」
「…荀ケ様も用事があったのでは?」
「いえ、市井の様子を見回ろうと思ってただけですので」

もう少し、彼女が住民たちに紛れ込むような振る舞いをしていたのであれば荀ケもそこまで心配はしなかったのだが、彼女は何をとっても気品があった。そこらの娘では済ませられない、明らかに高貴な出であることが分かるくらいの気品が。いくら曹操のお膝元で治安が他に比べてよいとされているこの都であっても、彼女のような存在は目立ってしまう。荀ケが放っておけるわけがなかった。

「気を遣わせてしまいましたね…、申し訳ありません。ここはお言葉に甘えることにいたします」

荀ケが引かないと分かったのか、彼女はすんなり荀ケの申し出を受けた。

「もう用事もほとんど済ませてしまっているのですが、あと一つ寄りたいところがあるのです。お付き合いいただけますか?」
「はい、勿論」

荀ケが快諾をすると、彼女は嬉しそうに歩き出した。その跳ねるような足取りを荀ケが追っていると、焼餅の出店へと着く。荀ケがわずかな戸惑いを見せている間に、彼女はあっという間に焼餅を二つ買って、そのうちの一つを荀ケに差し出した。

「共犯になっていただいても?」
「えっ」

急な誘いに荀ケが固まっていると、彼女は袖で恥じらうように口元を隠し、およよと憐れみを誘うような仕草をしてみせる。

「侍女長として皆の手本とならなければいけない私は買い食いなんてはしたない真似、一人ではとてもとても勇気が出ません……。ので、かの荀令君が共犯になっていただけるのなら、これほど心強いことはありませんわ」

そこまで言われて荀ケに断る気は湧かなかった。むしろ大袈裟な彼女の誘い文句に笑いすらこぼれた。

「ええ。では私も罪を犯しましょう」
「まあ、さすが荀ケ様」

二人で辺りに軽く腰かけて焼餅に口をつける。荀ケも買い食いなどいつぶりのことか思い出せないくらいには久しかった。温かく口の中に広がる優しい風味と頬を撫でる昼下がりの穏やかな風に、日頃煮詰まった気持ちがほどけていくのを感じる。

「荀令君も息抜きが必要ですわ」

荀ケの緩んだ顔を見ていたのか、彼女は言い聞かせるような物言いをして荀ケを見つめた。

「荀ケ様は素晴らしいお人柄だからこそ、苦労されることが沢山あるでしょう。どうかご自分を追い詰めないで肩の力を抜く時間も取られてくださいね」

彼女の言葉は慈愛に満ちていた。そこまで関わる機会もなかった荀ケを、このように気にかけてくれる彼女の優しさに胸の端があつく灯る。きっと彼女は部下として面倒を見ている下女たちにもこのように親身に接しているのだろう。少ない言葉からも彼女の性根が透けて見えるようだった。

「まあただのお節介な小言に過ぎないですけれども、どうか頭の片隅に置いといてくださいませ」
「……ありがとうございます」
「私はいつも今日のように息抜きをしているんです。あ、姫様には秘密にしてくださいね?」

彼女はおどけたように言って笑う。荀ケは城内と打って変わって砕けた空気を纏う彼女に大分心惹かれていた。つい、これきりにするのは惜しいという気持ちが溢れて、荀ケは口を開いていた。

「では、次からは私も共に連れてってくださいませんか」

先ほどまで朗らかに笑っていた彼女がぴたりと制止する。そして真偽をさぐるように荀ケの瞳を見つめ返して、困惑していた。

「ほ、本当に仰ってます?」
「…秘密を共有した仲だと浮かれていたのは私だけのようですね」

荀ケがわざとらしく悲しげに俯けば、彼女が慌てて荀ケの肩に触れた。

「わ、分かりましたから。次は荀ケ様にもお声がけします。だからそんな顔なさらないで」
「ふふ、ありがとうございます」

ぱっと顔を明るくして微笑んだ荀ケに、同情を誘う仕草をしていたことを察した彼女が目を瞬かせる。

「荀ケ様って意外と魔性の殿方ですのね」
「ま…魔性ではありませんが、純朴ではないのも事実です。…落胆したでしょうか」
「まさか。荀令君の人間らしい一面が見えてほっとしましたわ」

そう言ってもらえることに、何よりも安堵している自分がいた。近頃は荀令君という印象に振り回されることも少なくはない。彼女の言葉はそんな荀ケの心を解きほぐすかのようで、あたたかく、ありがたかった。

「そろそろ戻りましょうか。荀令君をこんなに独り占めにしては罰があたりそうです」
「そんなことはないのですが……」

それに、貴方になら独占してもらっても嫌な気はしない。そう口にしかけて、まだこの台詞は時期尚早かと荀ケは喉の奥に留めた。
急いては事を仕損じるからね、とこんな時に郭嘉の言葉を思い出している自分が何だか浅ましく恥ずかしいものに思えて、荀ケは重々しく口を閉じるのだった。


荀令君の休息


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