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サボが記憶を取り戻した。

参謀総長のサボが倒れて意識不明になったのだから、それはもう大騒ぎだった。しばらくして無事目を覚ましたサボには、昔の記憶が戻っていたらしい。どんな過去を思い出したのかは人伝いに何となく聞いた。そして私は、サボが意識を取り戻してから彼に会うことを避けた。


甲板に出ると、見慣れた横顔。彼の姿を捉えた瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。瞬時に踵を返したくなったが、これ以上逃げても自分の首を絞めるだけだと分かっている。重い心を引きずって、私は彼へと一歩踏み出した。

「冷えちゃうよ」
「……お前もな」

サボは存外優しい顔で振り向いた。久しぶりに向けられた彼の声に、じわじわと高揚感と安堵が押し寄せる。

「ずっとここにいるでしょ」
「部屋にいると落ち着かねェんだ」
「…そっ、か」

頭の中がごちゃごちゃしている時に一人で部屋にいると余計落ち着かない気持ちは痛いほど分かる。きっと、閉鎖されている自室より、甲板に出て海がさざめいているのをぼんやり眺めていた方が気が紛れるのだろう。

「話すの久しぶりだな」
「……バタバタしてたからね。体調はもう大丈夫?」
「ああ。何ともない」

サボの言葉に、上手く取り繕うような返事ができなかった自分に苛立ちが募る。罪悪感が私の心を蹴飛ばして、どうしても焦りが全面に出てしまう。だが、誤魔化したってどうしようもない。むしろこれからその話を切り出さなければいけないのだ。

「…さ…サボ、あの、」

落としていた視線を上げると、サボは詰まっている言葉を優しく促すように「ん?」と柔らかい声音で応えた。今度は緊張ではなく、せぐりあげてきた涙のせいで言葉が詰まる。小さく息を吐き出せば、箍が外れたようにじわりと目頭が熱くなって視界がぼやけた。

「ご、ごめ…」
「え?」
「…ごめん……会いに行かなくて…」

サボは今にも泣き出しそうに顔を歪めている私を見て少し驚いたようだったが、何も言わずに私の言葉の先を待っていた。伝えたい言葉が頭の中に取っ散らかって、上手く拾えそうにない。しかし、気持ちを伝えるなら今しかないと、感情の赴くままに声を絞り出す。

「私…その、怖くて…もし、もし記憶が戻って、サボが変わってしまっていたら、私が必要なくなってたらどうしようって…、……ごめん」

ぎりぎりのところで膜を張っていた涙が、いよいよ零れ落ちて甲板にシミを残す。微かに漏れた私の嗚咽に、口を閉ざしていたサボが困ったように笑って、私へと手を伸ばした。革手袋をしていないサボの手が両頬を包んで、手のひらから段々と熱が伝わってくる。

「泣くなって」
「うっ…ごめ…」
「謝んなくてもいい」

流れる涙を親指で拭われて思わず瞳を瞑ると、こつんと額が触れ合う。サボの細い髪の毛が肌にあたって少しこそばゆかったが、今はあまり気にならなかった。
鼻先も触れてしまいそうな距離で、視線を落とすサボの睫毛が揺れる。

「……お前までいなくなったら、おれどうすればいいんだよ」
「え…」
「…おれ、記憶が戻ってから何か変わったか?」
「ううん…」
「だろ?…だからさ、お前が必要なんだよ。これからも、ずっと」
「……うん、」

頬に触れていた両手がゆっくりと下りていって、私の指とサボの節張った長い指がそっと絡む。暫く二人でお互いの熱を静かに確かめ合っていると、掠れた声で「おれも、」とサボが呟いた。

「おれも、実はお前に会いたくなかったんだ」

衝撃的なセリフだったが、サボがひどく穏やかに言うものだから、静かに先の言葉が紡がれるのを待つ。

「会っちまったら、おれ、泣き喚いてお前に縋りそうだったから。…かっこ悪いだろ?」

小さく震え始めたサボの声に、胸がぎゅっと締め付けられて喉が狭まる感覚がする。ああ、つらい。サボと触れ合っている全ての箇所から、サボの痛みや悲しみが流れてくるようで。指先だけ絡めていた手を一度解いて、しっかりとサボの手のひらを握りなおす。

「そんなこと、ない。絶対に」
「…本当か?」
「うん…」
「……」
「…誰も見てないよ」

次の瞬間、サボの腕が首の後ろに勢いよく回る。いつも優しく包むように抱きしめるのがウソみたいに、強く強く抱き締められる。微かに震えるサボが幼子のように思えて、ゆっくりと背中に手を回した。

「おれ……っ…なんで間に合わなかったんだろうな…、おれが記憶を取り戻してさえいれば、エースはっ…!」
「…うん」

多分それは誰にも言ってなかった弱音。記憶が戻ってから、ずっと心の内で繰り返していたこと。初めて口にしたそれは、一度零せばとめどなくと溢れた。全部吐き出してしまえるように、サボの背中を何度も優しく撫で下ろす。

「おれは多分、この先も何度も何度も後悔し続ける…っ、忘れることは無い…!」
「…でも、私がそばにいる。絶対ひとりにはさせない」

私の肩口に埋めていたサボの顔がゆらりと上がり、視線が絡み合う。普段は爛々と輝いているサボの瞳が、涙に濡れて宝石のような艶を見せるものだから、他人事のように綺麗だと思った。

「後悔して、自分が嫌になって、消えてしまいたくなっても、そばにいるよ。私はそばにいる。だから……」

緩やかに細められたサボの瞳がゆっくりと近づいて、かさついた唇が触れ合う。重なるたびに、気持ちの苦しさが増していくようなキスだった。決して消えはしない傷を、時間をかけて癒すように互いの存在を確かめ合う。

「もうおれは何も失いたくない、絶対に」
「うん」
「…おれのそばにいてくれ、」
「……プロポーズ?」
「…それは今度やり直す」

涙に濡れた瞳で笑うサボは新鮮に映って、愛おしいという感情が心の奥から滲み出た。くすぐるように鼻先をくっつけ、お互いの口から漏れ出た吐息は先ほどより温かく、強張っていた肩が下りていく。一体どんなプロポーズをしてくれるのやら、と改めて考えるとなんだか可笑しくて小さく笑った。

穏やかな波の音に包まれながら、ざらついた気持ちを涙で流してしまえるように、二人で夜を明かすように話した。昔のこと、兄弟のこと、これからのこと。悲しくて仕方の無い夜だったが、乗り越えるには確かに必要な時間だった。そのうち二人で疲れて眠ってしまって、甲板で寝こける私たちをみたコアラちゃんに怒られて、いつも通りに訪れた日常に、こうしてまた少しずつ慣れていく。


蒼が滲むとき


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