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TopMain終着点にキミがいる
近づいてくる気配に顔を上げれば、相変わらず不健康そうな隈を湛えた顔が私を見下ろしていた。日中、外で顔を合わせるのは久しぶりで、改めて日の光に照らし出された濃い隈をまじまじと観察してしまう。本当に外が似合わない男だな、と一人おかしくなってると、怪訝そうな顔をされた。

「なんだ」
「別に何でも。道あっち」

馬鹿正直に思ってたことを答えるつもりもないので、お目当ての美術館が待つ方角を指さす。私がさくさくと歩き始めると、ローもそれ以上は特に何も言わなかった。

それほど騒がしくない街並みを歩いて向かっていると、今回の展示のポスターが度々視界に入ってきて、密かにわくわくし始める。直前になると実感が湧き始めて、楽しみになってくるのは結構いつものことだ。そんな私とは対象に、後ろを何でもなさげに歩く男がふと気になって振り返る。

「本当に興味あったの?」
「なかったら来ねェ」
「ふうん」

発端はこの前の食事でのこと。今度の休みに美術館へ行くと雑談程度に話を持ち出すと、珍しくローが興味深そうに相槌を打った。驚きながらも展示内容を見せると、これもまたしっかりめに目を通している姿に思わず「…一緒に行く?」と声をかけた。
ちらりとこちらを捉えた視線と端的に口にされる日付。スケジュール帳を捲ると、見事にローが指定した日付は自身も休みで、思いがけず一緒に行くことになったわけだ。

なんかんだ、こんな昼間から予定を合わせて出かけるのは初めてだった。いつもは大体夜に会ってご飯を食べるだけで、休みが合って一日どこかに、なんてしたことがない。
肌に浮いた汗を冷ますように吹きぬけた爽やかな風に、新鮮な気持ちがこみ上げた。ほんの少しだけ、浮かれてるのかもしれない。言わないけれど。

独創的な曲線をしているオブジェを横目に、美術館の自動ドアを潜り抜けると冷房のひんやりとした空気が満ちる。心地よさに浸りながらチケットカウンターに向かおうとすると、掲示板に貼られている様々なポスターに足が止まった。
今回の展示内容とは別に次回開催のものや、他拠点で開催されている展示のポスターにさらっと目を通していると、横のローも同じように読みふけっていた。

お互い満足したのを見計らってから足を進め、二人分チケットを買う。受け取ったパンフを読みながら展示場所へと向かうと、僅かな話し声も聞こえないほど辺りが静かになっていった。
チケットを切って中に入ると、並ぶ作品に皆の声が、意識が、吸い込まれているかのような独特の静寂。軽く深呼吸をしてから眼前の作品に目を向けると、あっという間にのめりこんでいた。それこそ、隣の男も忘れて。


四つめくらいの作品に感嘆の息を漏らした頃だろうか、体感的には入ってからそんなに経っていない。やっと隣の男がいなくなっていたことに気が付いた。申し訳程度にぐるりと辺りを確認したが、私がいる展示エリアにはもういなさそうだ。
つい、一人のノリで回り始めてしまったが、いつの間にか姿を消していたローに特に罪悪感は湧いてこなかった。ローも自分と同じように一人で回りたいタイプであろうという確信があった。

基本的に、こういう場は一人で来る方が好きだ。だからこそ誰も誘っていなかったし、自分だけの優雅な休日を過ごす予定だった。それでもローを誘う言葉を口にしていたのは、こうなることが何となく分かっていたからだろう。口にせずとも、示し合わさずとも、お互いが心地よいと思える過ごし方ができるのは純粋に好きだった。
今までそこら辺があまり合わなかった過去の人物らを思いだして一瞬気分が沈んだが、考え込むのもバカらしい。一息ついて、作品の概要を説明するプレートに目を滑らせれば、すぐ雑多な思考は彼方へと消えていった。

***

得も言われぬ確かな満足感。るんるんと弾む心のまま展示室から出ると、出た先に立っているだけで不愛想な雰囲気を醸し出しているローを発見する。もちろん二人で来ているのだからここで勝手に帰られても困るのだが、その姿に不覚ながら甘い嬉しさが胸の奥で音を立てる。加えて展示内容をめいっぱい楽しんだ私はかなりご機嫌な足取りでローに歩み寄った。

「楽しかった〜〜!」
「…そりゃよかったな」

相槌を打つローから小さな笑みの吐息が漏れる。それに少しどきりとしないこともなかったが、素知らぬ顔で隣に並んだ。

「お腹減った。ご飯行こ、ご飯」

黙って歩きだすのは異議なしということ。ひんやりした空気を手放して日差しの下に出て行くのは億劫だったが、空腹には勝てない。美術館を後にして外に出ると、ローが明確な目的地があるかのように進んでいくので思わず首を傾げた。

「どこ行くの」
「…カフェ、行くんだろ」
「カフェ?…あっ」

行く道すがら雰囲気の良いカフェに二人して足を止めたことを思いだす。確かにあの時、ランチも美味しそうだしここでお昼食べてもよいかも、と思った記憶があるが、まさかローの方が覚えているとは。
美術館といい、ランチといい、妙に今日は波長が合う感覚がする。ただでさえご機嫌なのに更に気分がよくなってしまって、口元の緩みをこらえるのが難しくなってきた。

「なにニヤニヤしてんだ」
「いや……なんか、いいなと思っただけ」

口が軽くなっている自覚はあったし、口を滑らせてしまったという感覚もあった。そしてぱっと見上げたローの顔で、私が零した言葉の意味を正しく受け取られてしまったことも理解した。
大きな波が寄せるときのように、さっと血の気が引いた直後に体中を巡る高い熱。耳まで熱を持っていることが分かって、ぎこちなく顔を逸らす。

「さっき変な影響でも受けたか」
「違うわ」

このままどうにか流そうとしていたのに、つい突っ込んでしまう。確かに雰囲気ある作品が多く展示されていたが、別に何か影響を受けて急にキャラ変したとか、断じてそういうのではない。ローに淡々と質問されると、またうっかり何か発言してしまいそうで私は固く口を引き結ぶ。
これ以上何か答えるつもりはないという意思表示、というよりかは追及を逃れるように速足でローの前を歩く。引き止めるような気配がしたが、そんなものは無視だ。

「おい」
「あ〜お腹減った〜」
「名前」

頑なな態度でいれば諦めてくれるという確信があったのだが、突然ローに腕を引かれて思考が停止する。なぜ引き止められたのか。青空の下、呼ばれる名前も心底慣れなくて体が強張る。口から心臓が飛び出しそうなほど緊張しながらローの方に振り向くと、ちょっとバカにしたような、それでいて何かに満足しているような、意地悪くかたどられた口元の笑み。

「そっちじゃねェ」

息を忘れるほど羞恥に見舞われていた私は一瞬何のことか飲み込めなかったが、頭の隅の冷静な私がカフェの道順を思いだす。ちらりと周りの建物を見渡すと、確かに真反対の方向に行こうとしている自分がいた。

普段道を間違えることなど滅多にないのに。動揺しているのがあからさまな事実に、またどうしようもなく穴に入りたくなる。上手い言い訳が見当たらず口をはくはくさせていると、いつもより愉しげなローが掴んだままの私の手を引く。じりじりと太陽に照らされて熱を発するアスファルトを見つめながら、この場から逃げ出したくなる気持ちを何とか抑え込んだ。

「……もう、やだ」
「そうか」
「夕飯は奢りの焼肉じゃないと釣り合わない」
「安いな」
「うっさい」

許せる口実を作っただけで幾分か気が楽になって、大きく息をつく。もう忘れた。今起こったことは全て私の記憶から抹消した。そうすることにした。だから、カフェに着くまでは、このやけに温度が上がらない手を握っていてあげることにしよう。

*捧げ物


終着点にキミがいる


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