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形容しがたい違和感を一日感じていた。賈クさんに同意を求めると不思議そうに「いや?俺は感じないね」と返されてしまい、私だけなのだろうかと首を捻ったのが今日の昼のこと。

開け放している窓から夜のぬるい風が入りこみ、目の前の男の柔らかい髪を揺らす。郭嘉殿は、夜が似合う男だとつくづく思う。それは夜遊びが激しいから、とかそういう意味ではなく。
月明かりを集めたかのような美しい髪に生白い肌、細い指。郭嘉殿は、夜に溶けてしまいそうな容姿をしていた。

もう仕事も終えてあとは寝るだけのはずだが、何故だか引き止められてしまった私は郭嘉殿の晩酌に付き合っている。酔いもしない私は別に晩酌が特別楽しいものではないのだが、郭嘉殿と夜を明かすように話すのは嫌いではなかった。

嫌ではないのだが、こんな風に引き止められたのは正直初めてだ。口説かれる、というより縋るように見つめられたのだ。やっぱり、今日の郭嘉殿はどこかおかしい。

「郭嘉殿、なんか今日は変じゃありませんか」
「変、か。…そうだね、少し変かもしれない」
「何かあったんですか」

今日の郭嘉殿は透けてしまいそうな気がした。透けて、そのまま消えてしまいそうな。それでいて、どこか人を誘い込むようにゆらゆらと揺れるものだから、気になってしまってしょうがない。もともと生命力が強そうな人ではなかったが、今日は拍車をかけて色素が薄かった。

「今夜は、眠りたくなくてね」

初めて聞いたかもしれない声音だった。郭嘉殿の声は普段あまり波立たない。それゆえに、僅かでも声音が揺れていると、こちらとしては酷く驚いてしまう。最初は体調が芳しくないのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「名前殿が一緒に寝てくれるなら寝る気も起きるんだけれど…」

馬鹿言わないでください、普段ならそう一蹴して終わりだが、その声は、随分と切実だった。

「…もしかして郭嘉殿、寂しいんですか」
「うん、なんだか人肌が恋しくて、」
「寂しいんですか?」

今日一日の違和感の正体はこれだろう。十中八九。賭けてもよかった。郭嘉殿の返答に変にはぐらかされている気がして、語気を強めにもう一度問う。本音を引きずり出せば、何かとかまってほしげにゆらゆらとするその雰囲気もどうにかなるのではないかと思った。
私の問いにややあってから郭嘉殿は困ったように笑った。涼しげな柳眉を下げて、琥珀のような艶を纏う瞳を細める。

「そう、だね。寂しいかな、とても。…そういう気分なんだ」

弱音、と受け取っていいのだろうか。郭嘉殿の傍にいて、それが零れ出る瞬間に立ち会ったのは初めてだ。そもそもこの人は弱音というものを吐くものだったのかと、不思議な気分になった。

俗世とある程度距離を置いている人、というのが郭嘉殿の第一印象だった。距離をとっているからこそ、郭嘉殿は全てをあるがままに受け入れる。だから不満も嘆きも弱音も、その口から零れ出るとは思いもしていなかった。
しかし、郭嘉殿の口からそれを聞いて湧き出る気持ちは別に落胆というわけでもなく。ただ、ほんの少し、愛しさのような。そんな何かが滲み出た気配がした。

「いいですよ、一緒に寝ましょう」

葡萄酒が入っていた杯を置いて、郭嘉殿の手を取る。私の突然の行動力にさすがの郭嘉殿も驚いたようで、長い睫毛をゆっくりと何度か上下にさせた。鈍い反応を見せる郭嘉殿をお構いなしに寝台へと手を引き、半ば無理やりその薄い体を横に倒す。そして私も隣に横になって向かい合うと、ようやく思考が追いついたのか、郭嘉殿の丸くなっていた瞳が徐々にとろけていった。

「強引だね…」
「嫌いじゃないでしょう」
「ふふ、もちろん」

私なんかよりよっぽど綺麗な郭嘉殿の指先が私の前髪を梳く。優しい手つきに、存在を確かめるかのような気配も感じて、瞳を閉じて郭嘉殿の手を受け入れる。このまま目を閉じていると寝てしまいそうだ、と思いながら指先の感触を追う。不意に頬を撫でられて目を開けると、郭嘉殿のたゆたう瞳と目が合った。
熱くも寒くもない今日は人肌を分け合うのにうってつけの夜ではないだろうか。少し距離を縮めるようにすり寄れば、郭嘉殿の柔らかく微笑む声がした。

「抱きしめてもいいかな」
「どうぞ」

郭嘉殿の腕が背に回る。二人だけの空間で郭嘉殿がゆったりと動く気配は、何故だかとても心地が良かった。僅かに郭嘉殿の腕に引き寄せられて、包まれる感覚。他の人たちに比べると、郭嘉殿は華奢なほうだと思っていたが、やはりそれでも私なんかと比べるとしっかりとした男性の体つきをしていた。
その胸に顔を寄せると、心拍音が伝わってきて意味もなく泣きそうになる。不意に、不思議と、孤独を感じた。寂しさを埋めるためにこうして一緒に寝ているというのに、触れ合うと寂しくなるなんて、どんな原理だというのだ。

「温かいね、名前殿は」
「…そうですかね」
「うん、ずっと触れていたくなる」

そのわりには郭嘉殿は私を抱きしめるだけにとどまっていた。確かに、お互いの寂しさを埋めあうにはこれで事足りるかもしれないが。意図を確かめるように見上げると、郭嘉は「参ったな、」と弱々しい声で呟く。

「これ以上、私は名前殿に触れることはできないよ」
「……」
「名前殿に触れたら…きっと私は悲しくなってしまうから」

それは今しがた私も経験した感覚。触れれば触れるほど、求めてしまう気持ちが切なくて、どうしようもなくなる。

「思ったより私は臆病みたいだ」
「そういう郭嘉殿を見るのは、やぶさかではないですよ」
「…これは思わぬ奇襲だね」
「軍師なら対応してください」

郭嘉殿が踏み切れない理由は大分わかっていた。郭嘉殿が俗世から距離をとることによって保っていた心の安寧を、今、私が崩そうとしている。

「まあ別に、無理強いはしませんけど」
「最後の最後…とかではだめかな」
「それは……怒りますよ」
「じゃあいけないね」

静かな空間に衣擦れ音が響いたかと思うと、郭嘉殿との距離は思ったより近くなっていた。高い鼻先がくっついてしまいそうなほどの距離で、郭嘉殿が私をのぞき込む。

「最後だとしても、名前殿の泣き顔は見たくないんだ」

私のためだけに生み落とされた言葉。そんな風に思ってしまった。
掠れた声で囁かれた言葉に、不覚にも目尻が濡れそうになってしまう。見たくないと言われたばかりなのに、と恥ずかしくなって郭嘉殿にぎゅうとしがみつくと笑われた。

しばらく郭嘉殿のぬるい体温を感じていると、案外素直に眠気がやってくる。意識を手放してしまう前に、郭嘉殿に伝えなければ。
…何をだろうか。眠気が思考を侵食して何も考えられなくなっていく。重たい口をどうにか開けて、私は必死に名を紡いだ。

「かくか、どの…おやすみ…なさい……」

意識を手放す直前だろうか。強く抱きしめられた気がした。

「…名を呼ばないで」

外から聞こえる虫の声と、懇願。

「これ以上私を弱くしないでほしい」

私があなたを俗世に引きずり戻してしまったこと、あなたは恨むだろうか。私は少しの優越感を感じています。そう言うと脳内の賈クさんに「性格が悪いぞ」と返された。


おくびょうの瓦解


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