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TopMainずるい温度
カタカタとお湯が沸いたことを知らせるように音を立て始めたケトルを一瞥してから、ケーキの物色を再開する。どうせ全部私が食べるのだが、どれから食べ るかは悩ましい問題であった。
数分悩んでからやっとのことでチョコケーキを取り出してお皿に乗せる。いつの間にかケトルの火は止められていて、私を怒らせた張本人がいそいそと私の紅茶を淹れていた。

テレビを見ながら紅茶が運ばれてくるのを待っていると、ゆらゆらと湯気が立ち昇るお気に入りのマグカップを置かれて、目の前の人物を見上げる。

「はいどーぞ」
「ん」

自分のコーヒーも入れたらしいクザンは、向かいの椅子に座ってペアのマグカップを置くと、箱から取り出されたケーキを見つめた。

「チョコにしたのね」
「なに、食べたかったの」
「いやいや。これ全部お詫びだから」

肩を竦めたクザンに、ふんと鼻を鳴らす。これだけで機嫌が直るとは思わないでほしいが、ケーキを目の前にした今、つらつらと恨み言を並べるのもバカらしく思えてフォークを手に取る。
均一にチョコのコーティングが施された表面にフォークを突き立てて、一口頬張る。濃厚なチョコの風味に幸せ心地になっていると、舌の上で甘酸っぱさを感じて手を止めた。

「ん!これ、ザッハトルテだ」

コーヒーをすすっていたクザンは訳が分からなそうに首を傾げて「ザッハトルテ?」と復唱する。ケーキの名前も知らずに買ってきたのかこの男は、と思ったがケーキの種類なんて大して興味はないのだろう。

「ザッハトルテ。このケーキの名前」
「チョコケーキじゃないの?」
「チョコケーキにも色々あるの」

私とザッハトルテを交互に見比べたクザンは、一緒にしか見えない、と言いたげな顔。見た目だけしか認識してないクザンではお話にならないと思い、一口分フォークで掬い取って突き出す。クザンはテーブルに腕をついて前かがみになりながら、私が差し出すそれを素直にぱくりと食べた。

「ジャム入ってるでしょ?あんずジャム」
「ジャム?…あ〜ほんとだ」
「これがザッハトルテ。チョコが濃いけど、ジャム挟んであるからしつこくなくて美味しいの」
「なるほどね」
「あんずジャム以外にしても美味しいんだよ。ベリー系とかマーマレードとか」

ふぅんと興味深そうに頷いてみせるが、これは三日後には忘れているリアクションだ。「詳しいね」とどこか他人事のように紡がれた台詞がなんとなく気に障って、先ほどまでの怒りがぶり返す。

「機嫌取りに買ってきたケーキの種類くらい把握したら」

不明瞭なうめき声と共にコーヒーでむせたクザンはバツが悪そうに視線を逸らす。同情の余地はない。

「まあケーキの種類が把握できるなら私との予定も忘れないか」

思わず語気が強めになってしまったが別に気にしない。事実なのだから。
紅茶に口をつけて少し心を落ち着かせていると、それはそれは複雑そうな顔したクザンが遠慮がちにこちらを覗き込んでくる。私がむっと厳めしい顔で応えると、クザンの眉が情けなく下がった。

ゆっくりと伸ばされたクザンの手が、テーブルに置いていた私の手に覆いかぶさる。大きな手が優しく私の手の甲を撫で、するすると手首までなぞられる。あやして落ち着けるかのような触れ方がいやになったが、手のひらから伝わる熱に睨み返す気力は失われた。

「ごめんね」
「ケーキだけで機嫌なおしたつもり?」
「そうじゃねェけど、」

クザンの困り顔に熱くなってた心が途端に鎮火されて、虚しさが湧き上がってくる。楽しみにしてたのに、という気持ちが今更ながら顔をのぞかせて、ため息をつけば情けない声まで出てきそうな勢いだ。

目を合わせていられなくてテーブルの小さな傷を見つめていると、クザンの指が絡んできてぎゅっと手を握られる。

「キスしていい?」
「…そういう風に機嫌とる男きらい」
「でも寂しそうな顔してるから」

指摘されると泣けてくるもので反射的に下唇を噛む。
相変わらずいつ付いたのか分からない傷を頑なに見つめていると、クザンの手が頬を包み込む。顔を上げると涙がこぼれそうになったが、まばたきをする前にテーブルの向こうから身を乗り出したクザンに唇を重ねられる。
後ろで流れるテレビの音量はさして大きくなかったが、やけに私の心をざらつかせるので早く消してしまいたかった。

忘れていたが、コーヒーを飲んだ後のキスは普段禁止にしている。そのため、数秒後に「まずい」と私が盛大に顔を顰めて、口直しのためにザッハトルテに手を伸ばすのは必然であった。


ずるい温度


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