予感はしていた。別に私は彼のように人の気配を敏感に察知するような能力は持ち合わせていないが、意味もなく心が浮足立って落ち着かない時がある。じっとしていられなくて手を動かすためにお菓子作りを始めれば、狙ったかのようにそれが出来上がる頃合いに誰かが訪ねる音が響いてくるのだ。
ドアを開ければ穏やかさを湛えた彼の瞳と目が合って、胸が甘く鳴る。彼の顔にはいくつものしわが畳まれていたが、その立ち姿には相変わらず男性としての魅力を感じずにはいられない。
「お元気そうで何よりです」
「キミも変わらず…いや、また綺麗になったな」
ふふ、と低く甘やかな笑い声が鼓膜をくすぐり、レイリーさんの指先が私の髪を掬いあげる。そのまま指先で私の耳にかけると、優しい手つきで頬を撫でられ、思わず呼吸も忘れた。逃げるように「紅茶淹れます」とキッチンに引っ込むと、悪戯心を滲ませた朗らかな笑い声が聞こえて余計に恥ずかしくなった。
指先が耳の縁をなぞる感触がいやにこびりついて、顔の熱が発散されないまま紅茶を淹れていると、レイリーさんが「おや、」と声を上げる。おそらく部屋に漂う匂いのことだろう。
「レモンパイを焼いてたんです。そろそろ粗熱が取れた頃かな」
「おお、そうか、レモンパイか」
レイリーさんの声がやけに嬉しそうに弾むので、珍しいと思いつつ振り返る。
「お好きですか?」
「ああ。特にキミのおばあさんが作るレモンパイが好きでね」
レイリーさんは祖母の作るお菓子が昔から好きだったらしいが、明確に何が好きだと言われるのは今回が初めてだ。私のお菓子作りは祖母から教わったもので、レシピも全て祖母直伝のものだが、同等のものができているかと言われれば自信はない。
「おばあちゃんの味、再現できてるかな…」
「キミが作るものに間違いはないよ」
「いじわる言わないでください」
そうこう言ってる間に紅茶が入り、ティーポッドとカップをテーブルへと運ぶ。カップを二つ出すのはレイリーさんが来た時くらいのもので、変にそわそわしてしまった。
この人は目の前にいるのに不確かな人だから、こうして話をしている最中でも振り返ったらいなくなっていそうな、そんな気持ちが不意に押し寄せる。だからティーカップを二つ並べて紅茶を注いでいると、矛盾した二つの感覚に地に足付かないような、そんな心地になるのだ。
ふわりと辺りを満たした紅茶の香りにレイリーさんがにこにこしているのを横目で見つつ、レモンパイを切り分ける。本当は冷やしてからのものを出したかったが、彼は別に構わないと言うだろうから、まだ微かに熱を持つレモンパイを皿に乗せた。
「さて、レイリーさんの御眼鏡にかなうといいんですけど」
「余計な一言だったかな」
「いえそんな。祖母の作るお菓子が美味しいことは私が一番分かってます」
レイリーさんがフォークを手に取ったのを見計らっ て、同じようにフォークを手に取りパイに刺し入れる。適量掬って口に含むと、舌の上でさっとメレンゲが消えていった。残ったレモンカードの甘酸っぱさと、幾層もの重なりを感じさせるパイ生地の食感。
口に残る強めの酸味に、懐かしさが吹き抜けて祖母との記憶が一瞬よみがえる。味や匂いや音楽が刻み付ける記憶は、どうしてこう鮮明に思い起こされるのだろう。
懐かしさに浸って目の前の人を忘れていたことに気が付き、慌ててレイリーさんを見やると、その口元には緩やかな弧が描かれていた。
「お口には合いました?」
そう尋ねるとゆるりと顔を上げたレイリーさんが目尻のしわを深くする。
「ああ、もちろんだとも。…あの頃を思い出したよ」
あの頃はどの頃なんだと追及するのも野暮な気がして、祖母との出会いでも思い出したのだろうかと、勝手に想像を膨らませる。レイリーさんは紅茶に口をつけてしばらく余韻を楽しむようにレモンパイを見つめていた。
「素敵な、女性だったな」
「私の憧れです」
「…キミもおばあさんによく似ている」
にこりとレイリーさんが私に微笑いかける。それは私もレイリーさんにとって素敵と言うことだろうか、と言葉の意味を探って恥ずかしくなっていると、レイリーさんの慈しむような色を宿した瞳と目が合う。
「キミを見ていると、日ごと豊かに咲いていく花を見ているような、そんな気持ちになる」
「え…っと……、」
「さすがに年寄り臭かったな」
そう笑ってみせるレイリーさんに、言葉を返せずに俯くことしかできない。普通なら花にたとえられる褒め言葉など気障すぎてそのまま受け取れないものだが、レイリーさんが紡ぐそれはたおやかに私を射抜く。
嬉しいやら恥ずかしいやらでどうしたらいいか分からずうろたえていると、レイリーさんはレモンパイを食べ ながら「いかんな」と独りごちる。
「今日はどうも思い出話をしたくなる日のようだ」
「あ…分かりますよ。レモンパイって食べてるとそういう気分になりますよね」
「そうか、レモンパイか。いやしかし…何故だろうな。不思議なものだ」
二人とも同じような気持ちになっていたらしいことに笑いあっていると、ふとこの瞬間も思い出になるのかもしれない、という気持ちが湧いてくる。
それはとても寂しいような、しかし時の流れが愛おしく感じられるような。
「私もレイリーさんを思い出して、誰かに昔話をするのかな」
「こらこら、もう私を思い出にしてしまうのか。いささか寂しいぞ」
「ふふ、そうじゃなくって。いつかそういう日も来るのかなって、思っただけです」
レイリーさんは少し考えるそぶりを見せたのち、穏やかに「そうだな」と呟く。
「キミの中で思い出話として取り出せるような記憶の一つとなれるのは、とても光栄なことだ」
「レイリーさんはきっと私の中で永遠です」
「おや…、随分と熱烈な告白をもらってしまったな」
艶っぽく笑みを深めたレイリーさんに、自分の言葉が頭の中に反響する。ワンテンポ遅れて自分の行いに気が付き、今すぐ冷水に飛び込みたいほど全身が熱くなった。居ても立っても居られずに、私は慌ててキッチンへと飛び込む。
後ろから聞こえてくる上機嫌な鼻歌を聞きながら、煩悩も一緒に流してしまえるようにと私は洗い物を粛々と行うのだった。
紅茶に溶かす追憶
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