a/hanagokoro/novel/1/?index=1
TopMain化かされたこころ
カリカリとペンの走る音に苛立ちだけが募っていく。手先を止めて息を吐けば、これでもかというほど重々しいため息が出た。
こつこつと廊下を歩く音が聞こえて、淡い期待を一瞬抱いたがすぐに振り払う。どうせ誰か忘れ物を取りに来たとかだろう。どこかの誰かさんが戻ってくるわけがない。現状、グラウンドからはサッカー部の練習に励んでいる憎たらしい声が聞こえているし。

ああもう、と声を上げそうなくらい怒りが溢れたとき、空っぽな教室に「あら?」という低い声が響いた。

「まだ残ってたの?」
「あ…、クザン先生」

全く予想してなかった人物の来訪に先ほどまでの怒りが収束していく。入口で教室を見渡して、私しかいないことを確認したクザン先生は私の方まで歩み寄ってきた。

「なんか作業中?」
「日直の日誌を、やってて」
「あー、なるほど」

背の高いクザン先生が少し身をかがめて私の手元を覗き込む。あまり話したことがない先生なだけに、近い距離感に僅かに体が強張る。ほんのりと、男物の香水の匂いが鼻を掠めた。

「あ〜、めんどくさいね、これ。…一人で書いてるの?」
「部活あるからよろしく、とか言って帰ってしまったので。もう一人の日直が」
「あらら…、それは災難」

クザン先生はもう一人の日直である男子の名前を確認すると「あいつか〜」と呆れたような声をもらした。口にすると、また怒りが湧いてきて、仕事を押し付けるようなサッカー部なんて初戦で負けてしまえと心の中で呪いを唱える。ささくれだった気分のせいで攻撃対象がかなり広くなっていたが、今はそんなのどうでもよかった。

「ごめんね、男ってバカで」
「…なんで先生が謝るんです?」
「んー、おれも昔はバカな男子だったから?」
「ああ…」
「すんなり納得しちゃうのねそこ」

先生は大人の男の人に見える、と思う。別にクザン先生は担任でもないし、先生の授業を取ったこともないから、どこかでちらちらと見かける程度だけれど。それでも、女の子には普通に優しくて、男子には雑に見えるけどフレンドリーな対応で、ゆるっとした雰囲気の先生というイメージだった。
だからくだらないことでちょっかいかけたりしないし、女子に何かを押し付けることもしない、普通の男の人。でも、昔やんちゃしてたと言われると、根拠もないが妙に納得してしまった。

「まー、なんだ。おれから担任の先生にチクっといてあげるから」
「ちゃんとボロクソに言ってくれます?」
「フフッ、うん、ちゃんとボロクソに言っとくよ」

三割冗談、七割本気で言えば、クザン先生は小さく吹き出してから頷く。それに幾分か溜飲が下がって落ち着きを取り戻した思考が、クザン先生の巧妙な機嫌取りに少し驚く。

「だから今日の所は仕方なくバカな男子の尻拭いしてやってちょうだい」
「はあい」

気づけば素直に返事をしていた。嫌な感じはしないけれど、ちょっとだけ悔しい、かも。
ちらりと視線をあげると、私の席のすぐそばに立っていた先生が離れていく。もう出て行くのかと思って目線で追うと、先生は教室の窓の戸締りをし始めた。もしかしてだけど、終わるまでここにいてくれるのだろうか。
不意にそんな考えが過ったが、なんだか期待するのも気恥ずかしくて目の前の日誌をとりあえず進める。さっきまで真面目に書いてたのがバカらしくなってきたので、内容は段々適当になり始めていた。

ガラガラ、パチン、と戸締りをする音だけが響く。先生と話したことは殆どなかったため、雑談をするにも話題がなかった。
もっとこのままでいたいような、むず痒い感触に早く終わらせてしまいたいような。もだもだとする気持ちのせいで、ペンの走らせ方がおざなりになっていると、「お、」と何かを見つけたらしいクザン先生の声に顔を上げる。先生は、窓の外をしげしげと眺めていた。

「仕事を放り出して元気に部活やってるねェ」
「…一生ベンチ温めてればいいのに」
「ンフフ…、さっきから思ってたけど面白いよね、きみ」
「イライラしてるだけですよ」
「いや〜、先生そういう過激なとこ嫌いじゃないよ」

戸締りを終えたらしい先生が、くすくすと笑いながらまた私の席まで戻ってくる。あまり会話したことなかったのに、不思議と先生との会話は波長が合った。
どうやら私の予想は当たっていたようで、先生は私が日誌を書き終えるのを待っていてくれるらしい。適当な近くの席に腰を下ろしたということは、そういうことだろう。視界の端に揺れた白衣に、少しだけドキッとした。

先生は私の席に椅子を近づけると、日誌を静かに読み始める。視線が気になって、中々思うように書き進められない。

「仕事が丁寧ねェ」
「そう、ですか?これでも適当なんですけど」
「おれだったら一文で済ませちゃうわ」
「あとで先生に色々言われるよりもそれなりに見えるぐらいまで書いたほうが楽だし…」
「さすが。女の子はそういうところ賢明」

先生と話していると、溜まっていた鬱憤が緩やかに晴らされていく。その心地よさは言葉にしがたいこそばゆさもあって、先ほどから妙な敗北感に襲われる。…ずるいな、この人。
先生は私の心を波立てない雑談をぽつぽつと振りながら、急かすこともなく作業を終えるのを待ってくれた。

ようやく最後の一文を書き終えて「おわった!」と声をあげると、「えらい」と真っ先に褒められるので気恥ずかしくなる。

「他に仕事は?」
「あとは家に帰るという仕事だけ!」
「家に帰るまでが日直だもんね」
「なにそれやだ」
「えェ〜」

冗談を交わせるくらいには心が軽くなっていた。先生がいなかったらこうはならなかっただろう。解放された喜びでうきうきと帰り支度をする。マフラーを巻き付けたところで先生に「出れる?」と問われたので、大きく頷いた。

「おつかれ」
「先生も付き合ってくれてありがとう」
「なんもしてないけどね、おれは」

もし先生が立ち寄ってなければ私は投げ捨てるように日誌を提出して、椅子を蹴っ飛ばすようにして帰っていただろうから、何もしてないなんてことはなかった。わざわざ言うのも恥ずかしいから言わないけれど。

二人で教室を出て、人の気配がしない廊下を取り留めのない会話をしながら歩く。いつの間にか、外から聞こえる練習の声は気にならなくなっていた。

「今、理科なに取ってるの?」
「生物」
「生物かー。化学に興味は?」
「えー…あるともないとも……」
「それないって言うのよ」

唯一暗記教科であるから生物を取っているだけで、理科自体にそもそも強い興味がなかった。が、クザン先生の授業なら楽しそうだという気は今日一日で芽生えてしまった。
化学、来年はとってみようかな。と言おうとしたけど、クザン先生は勧誘しようとしてその話題を振ったわけではなかったようで、それ以上の追及はとくに受けなかった。

職員室がある階まで下りると、クザン先生が立ち止まって私に向き直す。ここでお別れか、と一抹の寂しさが胸を吹き抜けた。

「じゃ、気を付けて帰んなさいね」
「はーい、さよーなら」
「さよーなら」

私は名残惜しくなる前に、逃げるようにして階段を駆け下りた。その足取りは、不覚にも浮かれてしまっている。昇降口を出ると、見事な夕焼けが校舎を照らしていた。ああ、なんか、こんな気持ちで学校を出るの久しぶりかも。
授業をとっていないから明日も話せるなんて確証どこにもないけど、それでも話せたらいいな、なんて。先生との会話の余韻を抱きながら、私はご機嫌で帰路につくのだった。


化かされたこころ


prev │ main │ next