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TopMain泣かないで愛しの人
泣いてはくれないのだな。亜双義が何気なく呟いた一言によって、名前の何かが決壊した。

「……身勝手すぎるのもいい加減にしてくださいませ」
「?、おい…」

伸ばされる手をぱちんと払い除けて、名前は亜双義を睨みあげた。その瞳には涙の膜が張られており、亜双義は思わずぎょっとする。そして自分が彼女の地雷を踏み抜いたのだと、その時自覚した。

留学が決まったと告げたとき、驚いた様子ではあったが名前は祝いの言葉を述べるだけで、それ以外は特に何も言わなかった。告げた場所が外であり、周りにちらほら行き交う人達がいたことから、その場で言及しなかったのだと亜双義は思っていた。
だから亜双義の部屋に戻り、二人きりになってもう一度話を持ち出した。今度は日程や内容もそれなりに詳しく告げた。だが、名前は重く目を伏せたまま「そうですか」としか言わなかった。

正直に言うと亜双義にとっては別になんてことない感想だった。普段から名前は感情豊かなほうであるから、今回のことに関しても印象に残るような反応が返ってくると当たり前のように思っていたのだ。そして口からぽろりと漏れてしまった台詞が冒頭のものである。

亜双義が呆然と見つめる先には、わなわなと小さな唇を震わせてこちらを睨みつける名前。せぐりあげてきたであろう怒りの言葉を、名前は必死にひとつずつ紡いだ。

「わ、わたくしが、どんな気持ちで一真さまのお話を聞いていたかお分かりですか?」
「……すまん」
「何が悪いと思って謝っていらっしゃるのですか!」

怒りで震える名前を見ていられなくて、いたたまれない気持ちに謝罪の言葉を呟けば、火に油を注いだだけだった。

「わたくしは、一真さまがずっと倫敦ロンドンへの留学を心から望んでいることを隣で見てました。その夢が叶ったと、そう言ったあなたにどうして泣いてすがることができるものでしょうか」
「……」
「自分の思いを告げるなんて、そんなこと…!」

名前の睫毛が伏せられ、きらりと雫が零れ落ちる。
その姿に亜双義は性懲りも無く喜びを覚えた。自分のために必死に感情を抑えていた名前が今こうして抑えきれずに涙を零す姿に、えも言われぬ高揚感に満たされる。自身を戒める気持ちも勿論湧いていたが、目の前の名前の姿にそれは露と消えた。

「おまえの言う通り、オレは本当に身勝手な男だ」
「っ…」
「今こうしておまえが泣いてることを、嬉しく思うのだからな」

亜双義の言葉に唇を噛み締め、眉を吊り上げた名前は亜双義の胸を叩いた。力なんて込もっていないその拳は、亜双義にとって痛くも痒くもない。
思わず笑みがこぼれて、その細い肩を引き寄せてそのまま自分の腕に収めてしまう。力強く抱けば胸元から、うぅと名前の唸り声が聞こえた。

「わたくしが泣いて一真さまの足が止まるものなのであれば、いくらでも泣きますとも!」

でも、と名前はしゃくりあげながらか細い声で呟く。

「一真さまは、行ってしまわれるのでしょう…」

亜双義の胸板に顔を埋めて喋る名前の声は、少しくぐもって聞こえる。それでも確かにその呟きに名前の悲痛な気持ちの丈が込められていることが分かって、亜双義は耐えきれず腕の中の名前に口付けた。

名前の伏せられた睫毛が涙に濡れてきらきらと光るのを、愛らしいなと思いつつ亜双義は繰り返し口付ける。腰に手を回して強く引き寄せれば、名前の腕が亜双義の首に回った。
精一杯つま先を伸ばして亜双義に縋り付くように接吻キスをする名前の姿が、亜双義はたまらなく好きだった。

一旦接吻キスを止めれば、至近距離で名前の濡れた瞳とばちりと目が合う。唇が離れた途端、蕩けていた瞳を叱咤するようにきりりと吊り上げられた眉に、亜双義はあわく苦笑いを浮かべた。

「オレが倫敦ロンドンに行くまで、おまえの我儘は何でも聞くつもりだ」
「…では倫敦ロンドンへ行かないでくださいませ」
「……もちろん帰ってきた時には、おまえの元に一番に向かうつもりだ」
「わたくしの我儘は何でも聞くのではありませんでしたか!」

誤魔化しの接吻キスを目元や頬にすると、名前は煩わしげに身をよじった。
亜双義が想像通りの答えしか返さないことにご立腹の名前は、絞め殺す勢いで亜双義の首に回していた腕に力を込める。そして耳元に唇を寄せて、非難の声をあげた。

「本当に一真さまは身勝手です!私がどうしようと行ってしまうくせに!一真さまなんて、一真さまなんてきらいです!」
「おまえに嫌われたらオレはどう生きていいのか分からないんだが」
「…わたくしなんていなくても一真さまはのうのうと生きていけるくせによく仰いますね」

責め立てる名前の声に、亜双義は閉口した。名前を失ったら生きていけないのは八割方真実なのだが、この状況で反論してもきっと名前の怒りを煽るだけだ。
黙って名前の背を撫ぜれば、耳元からぐず、と鼻をすする音が聞こえる。

「…一生許しません、一真さまがわたくしにした所業を忘れてなんてやりません」
「そうか」
「もう、ほんとに、ほんとうに、許しませんから」
「……オレを忘れないでいてくれるのだな」
「ばか!」

肩口に埋めていた顔を上げて罵倒した名前の唇を、亜双義はすかさず奪う。ちう、と触れるだけの接吻キスをすれば、名前の顔がくしゃりと歪む。ああ、さすがにこの顔を見るのは胸が痛むな、と亜双義はぼんやり思った。

「かずまさま……」
「……」
「どうか、お体に気をつけてください」
「…ああ」
「名前は一真さまがどれだけ酷い男でも、待ちますから。ずっとずっと待っておりますとも…っ」
「…すまん」
「そこは愛の言葉を囁くところでございます!」

ぴしゃりと怒った名前に、亜双義は朗らかに笑った。

***

時と場所は変わり、倫敦ロンドン

バンジークスに連れられて出席していたパーティーで、言い寄ってきた婦人をやんわりと断った亜双義に、バンジークスが少し愉しげに声をかける。

「随分とお堅いのだな、ミスター・アソーギよ」

バンジークスの声に振り向いた亜双義は揶揄を気に留めることもせず「いや、」と首を横に振った。

「これ以上アイツを泣かせるようなことをすると、本気で別れを告げられそうなのでな」
「…ほう、貴公にそのような想い人がいたのだな。日本人か?」
「ああ」

ボーイから受け取った葡萄酒ワインが入ったグラスの縁をなぞる亜双義の口元は、自然と緩やかな弧を描いていた。

「こちらに来る時にアイツの泣き顔は嫌という程見たのだ。もう見たくはないな」

よく言う、と彼女の不満げな声が聞こえた気がしたが、より口元の笑みを深くした亜双義は、やはりあまり反省はできていないのだろう。


泣かないで愛しの人


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