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TopMain余韻は今も
気が付けばその男のことを好いていた。想いが通じ合ったときは、きっとこれは必然だったと思い込むほど浮かれた。意地悪なところが好き、素直じゃない優しさが好き、強引で甘ったるい触れ方が好き。彼の声を聞くだけで脳が溶けていきそうで、恋に溺れるとはよく言ったものだと身をもって経験した。

同室の友人がいないのを見計らってくのいち長屋に招き入れた夜。秋の夜風が冷たくて、身を寄せると眩暈がするほど熱かった。声をひそめて、熱心に求め合った。湿っぽい吐息が部屋に満ちて、思考が鈍っていく。触れても触れても焦がれるのは、人間の強欲さ故だろうか。

不意に、彼の輪郭が浮いていることに気が付いた。よく見ると面が外れかかっているようだ。汗のせいだろうか、とぼんやり思いながら手を伸ばす。普段だったら彼の素顔を暴く絶好のチャンスだとばかりに飛びついただろうが、そんなこと思う余裕もなかった。
浮いた輪郭をなぞると、ぺり、とまた僅かに面が剥がれる。浮いた隙間から、うっすらと人肌が見えた。それが本当に彼の素顔だったのかは分からない。彼の友人らによると、二枚重ねで変装していたなんて話も聞く。それでも、面の下に浮き上がった汗がどうしようもなく私を昂らせた。

彼が、そこにいる気がした。

「さぶ、ろ」

頬を撫でていた私の手を優しく絡めると、彼はいじわるな瞳を細めて笑う。

「ちゃんと忘れろよ」

愛おしさを煮詰めたかのような囁きに、胸が締め付けられて「うん」とも応えられなかった。ただ、湧き上がる衝動のまま彼の首に力強く腕を回す。倒れこんできた彼が与えてくれる口づけは、熱に浮かされた思考を更に酔わせた。
このまま、死ねたらいいのに。薄らいでく意識の中、そんなことを思ったのは今でも覚えている。


ややが産まれた。珠のような女の子。夫は男じゃないのかと肩を落としていたが、そんなことはどうでもいい。かわいいかわいい、私のややだ。ややを抱えて外に出ると、秋晴れの爽やかで少し乾いた風が頬を撫でる。身ごもっている間はあまり外に出られなかったため、久しく感じる外の風は心地よかった。

「あまり体を冷やすな」

かさり、と草木の揺れる音と共に現れた彼に目を瞬かせる。面でどうにでも調整できるだろうに、それでも彼の顔つきから時の流れを感じるのは、共に生きているであろう片割れの顔を今も忠実に再現しているからなのだろう。

「よかった。生きていたのね」
「開口一番もっと他になかったのか」
「本当のことだもの。…見て、産まれたの」

若干距離を保ったままでいる彼にややを近づけると、おずおずといったように彼が歩み寄ってくる。しばらくややと睨めっこをする彼に、思わず笑った。

「触っていいのに」

私のからかうような声音に彼は少しむっとしてから、指先でややにゆっくりと触れる。ややは伸ばした彼の指先を掴んで容赦なく口に含んでいた。

「こらこら、ばっちいよ」
「おい」

なんて軽口を叩いてみても、ややは指先を離す素振りを見せない。ぎゅっと掴んだまま、あー、うーと意味のない母音を発しているややに、彼の顔が柔らかく緩む。

「かわいいでしょう、私の子は」
「おまえの子じゃなくてもややはみんなかわいいものだろ」
「あら、そんなこと言う歳になったの?」
「うるさいぞ」

彼は指先でややと遊びながら「雷蔵が、」と呟く。久しく聞いたその名に顔を上げたが、彼はややに視線を落としたままだった。

「おめでとう、と」
「…そう。ありがとう」

昔から常々思っていたことではあるが、私生活では感情があまり隠せない彼の性質は忍びとしてどうかと思う。預かってきた他人の言葉くらい、もう少し晴れ晴れと言ってほしいものだ。そう心の中でひとりごちたが、彼に祝いの言葉を贈られたくないのは、私も一緒なのかもしれない。
あの時の激しい波のような気持ちは、お互いにないだろう。残ったのは執着か、情か、はたまた。言及はしたくなかった。彼が生きているうちは、この縁を切りたくはない。
きっと、そろそろ刻限だった。ややからそっと手を離して踵を返した彼の背に、安堵のような気持ちと共に侘しさが胸を沈める。

「よかった」

また、会えてよかった。以前、彼と会った時には既に身ごもっていた。見送る彼の背に、今日を想像したことを覚えている。私と、かわいいややと、彼。

「会わせたかったの。三郎に」

腕の中のややを見つめると、小さな手を伸ばされる。手を握れない代わりに頬を寄せると、ぬくいその体温に少しだけ視界がぼやけた。

「前言撤回だ」

気づくと彼が目の前に立っていた。

「かわいいよ、おまえによく似て」

風のように首筋を撫でていった手つきはあの頃となんら変わりなく、十四のときの熱を鮮明に思い起こさせる。涙をこらえて顔を上げる頃には、彼の姿はそこにはなかった。
あの夜、隙間から見えた肌の色も、囁いてくれた声の響きも、もう覚えていないけれど。彼が“本当”にしてくれた瞬間は、今でも私の心をつかんで離さない。
がらりと戸が開いて、私を呼び戻しに来た夫の声。夫は私の姿を見て、どこか不思議そうに首を捻った。

「今誰かいなかったか?」
「…いえ、誰も」

私があの時触れたのは、確かに彼の素顔だった。


余韻は今も


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