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TopMain終業シンデレラ
「久々知兵助です。分からないことあれば遠慮なく訊いてください」

この案件のリーダーだと紹介された彼に、随分と若いんだなと驚いたのが最初の思い出。
漂う有能な雰囲気に違うことなく、てきぱきとした仕事ぶりに最初のうちは気圧されたものだ。周りに気を配れて、仕事も丁寧で、理不尽なことで怒ったりもしない久々知さんは尊敬できる人物であったが、とっつきにくいのも事実であった。

「すみません、久々知さん」
「はい」

声をかけると作業を中断させてしまうのは仕方のないことだが、湧き上がる罪悪感には未だになれない。相手によるものもあるが、久々知さんはどうにも緊張してしまって仕方がなかった。
しかし、久々知さんは嫌そうな顔もせず、動かしている手をすっと止めて私の方に体を向ける。

「このテストデータの作り方をちょっと、お訊きしたくて…」
「…ああ、ここ仕様書分かりにくいですよね。作り方お見せします」

どうぞ、と促されるまま隣の椅子に座る。久々知さんのモニターを覗き込める位置に移動すると、必然的に距離が近くなった。

「ここのチェック忘れがちになるので、気を付けてください」
「はい」

手元のメモ帳に書き込みながらモニターの処理を追っていると、ふわりと香水の匂いが鼻を掠めた。爽やかでほんのり甘いその匂いに、不意にドキリとしてしまう。
久々知さんも成人男性なのだから香水くらい別につけるだろうに、何故か私の中では無臭のイメージがあった。本当に、ただの偏見だけど。

「大丈夫そうですか?」
「はい。ありがとうございます」
「いえ。また分からなかったら訊いてください」

久々知さんの講義を終えて自席に戻れば、待ってましたと言わんばかりに、同じところで作業が詰まっていた隣のデスクの同僚が顔を上げた。

「やっぱり仕様書とにらめっこするより、久々知さんに訊いたほうが早かったです」
「もうちょっとましな書き方してほしいよねー」
「久々知さんも苦笑いしてましたよ」

隣に見えるように自分のモニターを傾けると、ぐっとお互いの距離が近くなる。同僚から香った女物の華やかな匂いの香水に、意味もなくほっとした。
久々知さんから教えられた手順をそのまま再現してみせると、同僚から感動の声があがる。

「なるほどね、こうすればよかったんだ」
「……ちょっと関係ない話していいですか」
「うん?どうぞ」
「…久々知さんと話すときって緊張しません?」

前かがみに私のモニターを覗き込んでいた同僚が、私を見上げながらぱちりと瞬きをする。

「うーん…確かに。ちょっと分かるかも」
「よかった…私だけじゃなかった……」
「なんていうか、不愛想じゃないんだけど、淡白だからね」
「久々知さんと仕事していると、絶対に迷惑をかけてはいけないという気持ちに駆られます…」
「あはははっ、すごい分かる。久々知さんに冷たい目で見られたら〜って考えるとね、ぞっとする」

先ほどまで抱えていた緊張が、同意を得られたことによって解けていくのを感じる。私だけが苦手意識あるのかと思っていたが、そんなことはなかったようだ。

「久々知さんの下でよかったと思ってはいるんですけど」
「それも分かるよ」

いい人なのは違いないのだ。尊敬もしている。ただ隙もないせいか、ばかみたいに緊張してしまうのは、私が小心者だからなのだろうか。

「今度の飲み会、久々知さんも参加するみたいだよ」
「あ、そうなんですか」
「意外な一面が見れたりして」
「意外な一面……想像つかないです」

この案件に配属されてから、飲み会は初めてだった。よって、私はまだ呑みの場での久々知さんを全く知らない。
社会に出てから、飲み会で印象ががらりと変わる人は少なからずいたが、久々知さんがそういう分類の人にも思えなかった。

「私、久々知さんの席の近くになったらどうしよう…」
「わあ、フラグだねえ」

自分でもフラグをせっせと建設している自覚はあったが、胸の奥で軋む嫌な予感は、認知したら負けだと言わんばかりに知らないふりをした。

***

乾杯、という課長の掛け声に合わせて、鳴り響くグラスのぶつかり合う音。待っていましたとばかりにジョッキを傾ける男陣。そんな中、見事なまでにフラグを回収した私は、久々知さんの目の前の席に座りながら生きた心地がしていなかった。
来た順に奥から座れ、という幹事の誘導のまま席に着けばこのざまだ。意識して避けるのも失礼極まりないし、そんなことするつもりは毛頭なかったが、だとしてもここまでドンピシャでくるだろうか。
まだ始まったばかりの飲み会は所々に沈黙が落ちていて、例にもれず私の周りも微妙な気まずさが漂う。こういう時、話の振り方が上手な人が営業とかに行くんだろう。自己嫌悪に遠い目をしていると、久々知さんが積まれていた取り皿を黙々と配り始める。

「あっ、ありがとうございます」
「いえ」

申し訳ない気持ちで受け取ると、続いていた静寂を破るように久々知さんが口を開いた。

「作業には慣れましたか?」
「えと、まだまだ分からないことばかりですけど、ちょっとは慣れてきました」
「よかったです。…苗字さんが来てくれて、本当に助かっているんですよ」
「えっ!」

予想だにしなかった久々知さんからのお言葉に思わず声をあげてしまう。気まずさに逸らしていた目線を久々知さんに向ければ、真正面から飛び込んできた美形さに目がちかちかした。職場ではあまり顔を突き合わせて話す機会もないため、初めて顔をちゃんと見た気にすらなる。

「飲み込みも早いですし、質問も的確で…」
「ああああの、私そんな大したことないので、そこまで褒められるとどうしたらいいか分からないです…」
「あ、え、すみません」
「いや久々知さんが悪いとかではなく!」

意図せず謝罪を引き出してしまったことに慌てて、前のめりになって否定すると、久々知さんの長い睫毛が上下に揺れる。

「…結構明るい方なんですね」
「明るい!?あ、いや、暗くはないですけど!」

動揺で普段より何倍も声が大きくなってしまっている自覚はあった。変な冷や汗をかきながら大きく身振り手振りをしていると、久々知さんが小さく笑う。その、固い蕾がほころんだかのような笑顔に、久々知さんも普通に笑うんだな、なんて。後から考えれば当たり前に失礼なことをナチュラルに思ってしまった。

不思議と先ほどまでの緊張が解れ、ぽつぽつと久々知さんと雑談をしていると、大漁の料理が運ばれてくる。私は一度会話を中断し、料理を行き渡らせるためにせっせと皿を回した。先ほどは久々知さんを動かせてしまったから私がやらなければ。
あくせくと皿を回し終えてひと段落つくと、目の前の久々知さんは、なぜかテーブル上の小鉢に目が釘付けになっていた。小鉢の中身はなんだっけ、と自分の手元に視線を落とすと、中には小さめの冷奴が収まっていた。もう一度久々知さんに視線を戻すと、久々知さんの顔はあからさまに嬉しそうな色に染まっていて目が点になる。

「豆腐お好きなんですか?」
「…えっ?」
「すごい釘付けになっていたので」

すると、久々知さんの白い肌が僅かに赤く染まる。

「はい、その…豆腐には目が無くて」
「美味しいですもんね、私も好きです」
「ほんとですか?」

私の台詞に久々知さんの表情が、ぱっと明るくなった。先ほどから子供のように真っすぐな感情表現に、少々面食らっている。それは悪い意味ではなく、馴染みやすさというか、…かわいらしい部分に興味が湧いていた。

「家で作ったりもするんですけど、やっぱり外で食べる豆腐も美味しくて…」
「家で作ったり!?豆腐ってお家で作れるんですか!」
「作れますよ」

仕事での淡白な態度が嘘みたいに、にこにこと楽し気に豆腐の作り方を話す久々知さん。いつの間にか私は、驚きも忘れて普通に久々知さんの豆腐談議に引き込まれていた。だって、家で豆腐作りをする人なんて初めて見たのだ。
私が様々なことに興味を示して質問をすると、久々知さんもよくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに嬉々として語る。そんなことを繰り返していると、時間が過ぎるのは嘘みたいにあっという間だった。
飲み物ラストオーダーです、という幹事の掛け声に、私と久々知さんはハッとする。

「す、すみません、一方的に話してしまって…」
「いえ、そんな!聞いててすごく面白かったです」
「豆腐のことになると周りが見えなくなるのどうにかしろって言われてるんですけど…、」
「あはは、親御さんに?」
「いえ、友人たちに」

苦笑いを浮かべた久々知さんに、なんだか変な違和感を抱く。久々知さんのことを友達ができないような冷たい人だと思っていたわけではない。そりゃ、友人のひとりやふたりいるだろう。それでも久々知さんの、長い付き合いなんだろうな、と思わせる物言いに、意外そうにしている自分がいた。


ほわほわと気分が高揚したまま外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。浮かれた心をゆっくり冷ますような冷気に、深く息をついた。ぞろぞろと店から出てきた課長たちが店の入り口で「二軒目行く人〜」とご機嫌に声をかける。
正直、帰りたい。別に会社の飲み会が死ぬほど嫌ってわけではないが、二軒目に行く気力はない。家のベッドが恋しくなりつつも、抜け出せずにいる自分が嫌になる。ここですっと帰っても別に誰からも何も言われるわけでもないのに。

一歩が踏み出せずその場でもだもだとしていると、「あの、」とこっそりした声が降ってくる。驚いて見上げると、いつの間にか久々知さんが隣に立っていた。

「電車の時間とか、大丈夫ですか?」
「あ、えっと…」

久々知さんが気を利かせて声をかけてくれたというのに、イエスともノーとも返せずに口ごもっていると、課長が「おーい」と久々知さんを呼ぶ。

「久々知は来ないのかー。たまには付き合ってくれよー!」
「すみません、帰ります」

課長の縋るようなお願いもさっぱりと断る久々知さん。だが、課長は慣れているのか「つめたい!」とおどけるだけで、無理に誘ったりもしてこなかった。私も久々知さんに続いて「帰ります」と、そう言わなければ。一人焦っていると、久々知さんが軽く私の腕を引いた。

「駅まで送ります」
「えっ!」

周りに颯爽と挨拶を済ませた久々知さんが、流れるように私を輪の中から連れ出す。混乱しながらも、連れられるがまま隣を歩いていると、少しして久々知さんが申し訳なさそうに私の顔を覗き込む。

「苗字さんも帰りたいのかと思って…、余計なお世話でしたか」
「いや…!むしろ、その…ありがとうございました。久々知さんのおかげで抜けられました」

たどたどしくお礼を述べると、久々知さんがほっと息をついたのが分かる。

「女性ですし、あまり帰り遅くなるのもよくないと思って…」
「お気遣いありがとうございます」

週末の夜、当然人も多い街中を歩いていると、時折隣を歩く久々知さんと肩がぶつかってしまう。本当に気にならない程度であるにも関わらず、今は変に意識してしまって仕方なかった。
並んで歩いていると、改めて久々知さんの背の高さに驚く。普段デスクワークだと、はっきりと身長差を感じる機会があまりない。
背も高くて、顔もありえないほど整っていて、穏やかで。もしかして久々知さんってこれ以上にないほどモテる人なんじゃないだろうか、と今更ながら気が付く。

「駅、こっちでしたよね」

綺麗な横顔を見つめていると、久々知さんが確認するように私を見下ろす。驚いた私は大して周りの景色を確認もせずに「そ、そうだと思います!」と上ずった声で答えた。落ち着け、動揺するんじゃない自分。夜道を二人で歩くというイレギュラーな空間に、どうにも言葉にしがたい緊張が漂っていた。

「課長っていつもあんな感じなんですか?」
「そうですね、いつも二次会は行きたがってます」
「なるほど…」
「強制じゃないので、今日みたいに帰って大丈夫ですよ」

久々知さんってやっぱり、そういうところはとても淡白というか。いい意味でメンタルが強い。いつもの久々知さんを感じて、ざわついていた思考が若干の冷静さを取り戻した。

「ちょっと酔ってましたし、抜けられてよかったです」

苦笑いを浮かべつつ零すと、久々知さんが驚いた顔をする。

「酔ってたんですね」
「あはは…いつもはセーブできるんですけど、久々知さんとお話してたら少し酔っちゃいました」

口を滑らせた後で、何言ってんだ私、と背筋が寒くなった。久々知さんも私のうっかり台詞にフリーズしてしまっている。

「く、久々知さんとお話しするの楽しくて!人と話してるとお酒のセーブ上手くいかなくなっちゃうんですよ〜…。仕事の飲み会なのに酔うなんてみっともないですよね」
「いえ…、」

私がまくし立てると、久々知さんも気まずそうに曖昧な返事を漏らす。確実に墓穴を掘っている気がする。背中に嫌な汗がびっしりと湧き出ているのを感じながら目を回していると、久々知さんがおずおずを口を開いた。

「えと、その、…おれも楽しかったです、苗字さんとお話しするの」

夜風が冷たいせいだろうか。鼻先や白い頬をうっすらと赤く色づかせてはにかむ久々知さん。照れが滲んだ柔らかなその声に、今度は私がフリーズする番だった。しかし社会人の性か、不器用さゆえか、咄嗟に社交辞令の笑顔を浮かべている私がいた。

「ほ、ほんとですかー!あれですね、機会があったらまた飲みたいですね!」
「ぜひ。おれもまた飲みたいです。…来週とか、空いてる日ありますか?」

そこで久々知さんは社交辞令が通じない人だということを改めて思いだした。先ほど課長の飲み会をきっぱり断っていた人だ。つまり、久々知さんがこう言ってくれているということは、裏表のない本音のお誘いと言うことで。

「すみません、来週は急すぎましたよね」

逡巡の間返事に詰まってしまい、申し訳なさそうに久々知さんの声が落ちる。ここをはぐらかしたら後で自分を叱るはめになるだろう。それだけは分かっていた。

「いえ!空いてます!…ので、」

久々知さんは私の大きな声にぱちりと目を丸くすると、「じゃあ金曜で大丈夫ですか?」と小さく微笑む。大きく頷くと、久々知さんはほころんでいた蕾がしっとり咲くように破顔した。

「よかった。楽しみにしてます」

いつのまにか駅には着いていた。そのまま改札まで送り届けられ、違う路線で帰るという久々知さんに私は慌てて頭を下げる。

「今日はありがとうございました!」
「おれのほうこそ、ありがとうございました。また連絡しますね」
「は、はい」
「お疲れさまでした。おやすみなさい」
「お疲れさまでした…!」

改札を抜けた後は、久々知さんの顔を見れなかった。絶対変な顔をしている自信があったので、見せられなかった。速足でホームへの階段を駆けあがり、落ち着かない気持ちで電車を待つ。一人になると途端に冷静になった思考が早送りで先ほどまでの出来事を再生し始める。

意外な一面どころの話ではない。とんだダークホースだ。
ホームの点字ブロックを見つめながら深呼吸をした私は、来週同僚にどんな顔をして会ったものか、などと不毛なことを考え始めるのだった。


終業シンデレラ


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