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TopMain決意の孵化
血まみれの彼を見たとき、何が起きているのかすぐに飲み込めなかった私はやはり、助手失格なのだと思う。

「すみません、処置は最低限しか済ませていません」
「いえ大丈夫です。後はお任せください」

漂う焦燥感の中、野村先生と新野先生のてきぱきとしたやり取りが響く。事態を処理しきれていなかった私は、その声を遠くに聞きながら呆然と立ち尽くしていた。

「名前さん、できるだけ水を汲んできてもらえますか」
「…っあ、はい!」

新野先生に声を掛けられてハッとする。何をやっているのだ私は。横目で捉えてた善法寺くんは指示されるまでもなく、慌ただしく保健室を動き回っていた。
正気を取り戻した私は急いで井戸へと向かう。全速力で走ると、太ももの付け根が震えて足がもつれそうになった。緊急事態で、時は一刻を争う。その実感がじわじわと押し寄せてきて、目頭が熱くなる。今は何かを考える前に働かなければ。そうでなければ手遅れになる。

めいっぱい水を汲んで保健室に戻る。もう一度、血濡れのまま横たわる食満くんを見ると、先ほどよりかは幾分か冷静になれた。邪魔な袖を捲りあげて髪の毛をまとめ直す。そうするとやるべきことがすっと頭に浮かんできて、新野先生と善法寺くんと共に彼の手当てに取り掛かった。


数刻は休む間もなく動き回っていたと思う。やがて、治療をし終えた新野先生はふうと息をついて私と善法寺くんを見やった。

「二人とも、顔を洗ってきなさい。あとは私が診ておきます」
「はい」

私が汲んできた水は、既に赤く汚れきっていた。ついでに水を替えるために善法寺くんが桶を抱える。二人で無言のまま外に出ると、つめたく澄んだ夜風に吹かれてため息が出た。

「…お疲れさまです」
「…善法寺くんもね」

桶の水を捨てて、二人で汚れた顔や腕を洗うために井戸へと向かう。全体的にかなり酷い怪我をだったが、致命傷というほど手遅れなものはなかった。最善の処置を施したし、命は助かるだろう。その安堵もあったのか、善法寺くんは思ったより柔らかい表情だった。
そんな姿を見て、さすがだなと自嘲の笑みがこぼれる。善法寺くんがこんなにもしっかりしているというに、私といったら。

「…私、動揺しちゃった」
「……」
「人につけられた傷…っていうのかな。殺されそうになった人の処置は、初めてだったから…」

もしかしたら、殺されていたかもしれない。血まみれの食満くんがこと切れた姿が一瞬にして想像できてしまって、反射的に泣きそうになった。

「大丈夫です、留三郎は生きています」

落ち着いた声音が響くと共に、善法寺くんの手が私の手に重なる。血を洗い流していた私の手はどうやら震えていたらしい。落ち着かせるように善法寺くんが私の背を撫でてくれて、今になって恐怖と安心が溢れ出した。
いい大人がしゃがみこんで泣くなんて。それも自分より年下の男の子に慰められながら。情けないことこの上なかったが、今は嫌な心の感触を涙で洗い流してしまいたかった。

しばらく泣きじゃくって、ようやく落ち着いたところで顔をあげると善法寺くんに「どうぞ」と濡れた手ぬぐいを渡される。何から何まで、本当に情けない。だが、思いっきり泣いたおかげで思考は随分とすっきりしていた。受け取った手ぬぐいで顔を拭くと、くすぶっていた思いがはっきりと決意に変わる。

「…私、決めた。もっともっといっぱい医術を身に着ける。これまで以上に頑張って、頑張るの。絶対、死なせたりなんてしない」

言葉にすると、より想いは強くなった。ぎゅっと手ぬぐいを握りしめながら、夜空を睨みつけていると隣の善法寺くんがくすりと笑う。

「留三郎の手当てをするのは骨が折れますよ」
「え?」
「懲りない男なので」

多分、いや絶対。経験則だろう。若干の恨みが募っていることを私はしっかりと感じ取った。それでも諦める気にはおよそなれない。私はもう情けない顔はしないと根性を入れて善法寺くんを見つめる。

「望むところよ。何度も何度も救って、いっぱい叱ってやるって決めたの」
「ふふ、これまでにないほど頼もしい気分です」
「手始めにご飯食べましょう。新野先生にも何か持って行きたいし」
「そうですね」

疲労はこれまでにないほど溜まっていたが、動く足は軽かった。


いつ容体が変わるかまだ油断できない状態ではあったので、食満くんが目を覚ますまでは新野先生と交代で着いていた。そろそろ夜も明ける。噛み殺した欠伸の数は計り知れないが、外が明るくなると同時に、食満くんのまぶたが開くんじゃないかという期待も高まった。

一瞬、意識が飛んでいたように思う。感覚的には数秒だが恐らくもう少し寝ていた。その証拠に先ほどより日差しが明るい。硬くなった体をほぐすように伸びをしていると、ぴくりと食満くんの体が跳ねる。驚いて息を殺すと、食満くんの唸り声が微かに漏れた。
うっすらと、まぶたが開く。食満くんのかすれた唸り声に、普段の溌溂とした様子が蘇って気づけば涙を落としていた。ぽたぽたと涙のシミが布団に作られていく様子を濁った視界で見つめていると、食満くんの焦点の定まらない瞳が私を捉える。

声を、かけなければ。きちんと記憶があるかどうかとか、水は飲めるかとか、訊かなければ。そう思うのに、嗚咽が喉に引っかかって言葉が出そうになかった。
食満くんの腕が鈍重な動きで持ちあがる。何かを訴えたいのかと思い身を乗り出すと、食満くんの手がふわりと私の頭に乗った。頭の重みに思考停止していると、その手はあやすように私の頭を往復する。

「(な、撫でられている……)」

思わず驚きで涙も引っ込む。手を除けることもせずに、食満くんのさせたいようにしていると、食満くんのまぶたが閉じられていることに気が付く。もしかしなくても、寝ぼけているのではないだろうか。

「食満くん」
「……ん…」
「食満くん、水飲める?」

できるだけはっきりした口調で問いかけると、今度こそ起きたようだった。薄く目を開けて周囲の様子を確認している様子の食満くんを覗き込む。

「…あ、れ……」
「無理に声出そうとしないで。まず水飲もうか」

がらがらの声を出した食満くんの体を支えてゆっくりと起こし用意してあった水を飲ませると、段々と覚醒してきたようだ。

「すみません、おれ…」
「先生に運ばれて学園に戻ってきたんだよ。致命傷も特になし。しばらくは絶対安静だけどね」
「…はい」

起きてすぐだったにも関わらず、食満くんは冷静に事を受け止めたようだった。返事には、多少の悔しさが滲んでいた。体を起こした食満くんは自分の怪我の様子を確認すると、いてて…と言いつつも何でもないような振る舞いをするものだから、昨夜の善法寺くんの言葉が蘇る。本当に懲りていなさそうだ。

それでも、つり目がちの瞳がぱっちりと開いていることや、優しさに溢れた低い声がそこにあることが、何よりだった。血まみれだったことが嘘だったかのように思えるほど。

また少し泣きそうになっていると「失礼します」という声が響く。戸の方に視線を向けると、目を見開いた善法寺くんが立っていた。

「よかった!目を覚ましたんだね」

素早い動きで食満くんに駆け寄ると、流れるように体調のチェックを行っていく善法寺くん。さすが保健委員長だ。どこかくすぐったそうに善法寺くんの言葉に答える食満くんに、つい微笑ましくなった。

「悪いな伊作。迷惑かけた」
「いいよぼくへの謝罪は。つきっきりで看ていたのは新野先生と名前さんだからね」
「本当にご迷惑おかけしました」
「いやいや…」

これを迷惑と言うならば何のために私や新野先生が保健室にいるのかが分からない。怪我をしないでいてくれるのが一番ではあるが。
もうすっかりいつもの調子に戻った食満くんに、安堵の気持ちがどっと押し寄せる。しかし、何故か納得がいってない様子の善法寺くんはキッと食満くんを睨みつけた。

「本当に、ぼくはいいんだ。ぼくはね」
「お、おう」
「ただ、名前さんを泣かせた罪は重いよ」

バチンッ、と善法寺くんは容赦なく食満くんの額を指ではじいた。デコピンらしからぬ音がしたが大丈夫だろうか。食満くんが「いっで!!」と悲痛な叫び声をあげた後、私の方へ勢いよく振り返った。そうだ、泣いていた事実を今しがた善法寺くんにばらされたのだった。恥ずかしさでどう誤魔化そうか必死に頭を巡らせる。

「え、ええっと、ごめんね、その、動揺しちゃって…」
「あっ、いや!おれのほうこそ、ご心配おかけしてすみませんでした…」

慌てて頭を下げた食満くんに、居心地の悪さが凄い。善法寺くんはどこか清々した顔をしていた。絶対さっきのデコピン、自分の恨みも込めていたよなあ、と心の中で苦笑いする。

「…というか……あれ?」
「?、どうかしたの?」
「いや…あの、おれ…さっき……」

さっき、と言われて思いつくのは頭を撫でられた感触。反射的に顔が熱くなる。寝ぼけていたから覚えていないものだと思っていたが、うっすらと記憶があったらしい。私の反応に確信した食満くんは、焦りながら必死に取り繕おうとする。耳の縁が、ぼんやりと赤かった。

「変なことしてすみません!ゆ、夢だと思って!」
「なに、留三郎今度は何したの?」
「今度はってなんだ!…ゆ、夢の中で、下級生たちが泣いてて…それでその、頭を撫でた記憶があるんだが…」
「寝ぼけて名前さんの頭を撫でたってこと?」

善法寺くんの声は冷たかった。赤かった食満くんの顔がさっと青くなる。先ほどから忙しなくころころ変わる顔色は、正直面白い。

「名前さん、留三郎のこと殴っていいですからね。怪我人ですけど、保健委員長のぼくが許可しますから」
「おい!」
「あはは、大丈夫だよ。…泣いてたのは事実だから。急に頭撫でられたからちょっと驚いたけどね」

包み隠さずに白状すると、また食満くんの顔が気まずそうになる。食満くんとしても、私がここまで心配するとはきっと思っていなかったのだろう。慣れてしまった善法寺くんの小言より、多少は効いているようだ。

「…留三郎」
「わかったって、反省してる!…おれもそんな、べつに…名前さんのこと泣かせたいわけじゃない…」

視線を逸らしながら頭をかく食満くんは、年相応の男児らしくてかわいらしく私の目に映った。食満くんの反省も見て取れたところで、私は足取り軽く立ち上がって食満くんを見下ろす。

「次からは泣き落としに加えてお説教も入る予定だからよろしく!」
「えっ!?」
「それが嫌なら、もうこんな大怪我しちゃだめだからね」

少し、最後は弱々しい声になってしまっただろうか。きっと、まだ涙の余韻が残っていたせいだ。彼らは聡い忍者のたまごだから、バレてしまったかもしれないが、それ以上悟られないために私は保健室の戸に手を掛けた。

「食満くんの朝ごはん取りに行ってくるね」

精一杯の笑顔を浮かべて保健室を出る。静かな廊下に出た私は深く息をついて、目尻の水分を乱暴に拭いとった。ぎゅっと握りしめた決意の拳は、力が強すぎたのか爪が刺さってちょっと痛かった。

「…次、名前さんのこと泣かせたら手が出るからね」
「さっきも出てただろうが!」

戸を超えて聞こえてくる二人の元気そうな声を、失わないために。


決意の孵化


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