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TopMainせいてんのへきれき
「今日って満月!?」

すぱんと小気味よい音を立てて襖を開くと、同室の友人がうんざりしたように顔を上げる。部屋でくつろいでいたらしき友人は髪も結っておらず、顔にかかった一房をかきあげる仕草がなんとも大人っぽかった。私とは違って。

「あんたね…くの一にあるまじき足音をたてて帰ってくるんじゃないわよ」
「あ…ごめん」
「で、満月がなんだって?」

呆れた様子であるにも関わらず、話を聞いてくれる姿勢を見せてくれる友人に飛びつくと「うっとおしい!」と引きはがされる。それもこれも昔からのことであるため、大して気にせず私は荷物を下ろしてその場に座った。

「あのね、さきちゃんが教えてくれたんだけどね。あ、さきちゃんっていうのは団子屋のかわいい子で」
「知ってるわよ」
「そうだっけ?えと、それでね、今流行ってるおまじないを色々と教えてもらったの!」
「はあ、おまじないねえ」

友人は頬杖をつきながら怪訝そうな顔をしている。まあ、あんまりおまじないの類を信じるタイプじゃないって知っていたけれど。それでも馬鹿にしないことも知っていたから、構わず話を続ける。

「そう!恋のおまじない!おまじないはたくさんあったんだけど、一番流行ってるのは満月を使ったやつでね」
「…もしかしてそれ、満月に好きな人からもらった物をかざして〜、ってやつ?」
「知ってたの!?」
「ちょっと前にくの一教室でも流行ってたわよそれ」
「ええー!」

私は全く知らなかった、と思ったがその不満を友人にぶつけるのはお門違いだ。友人曰く、輪の中にいても心あらずなことが度々あるらしい私は、きっとその時もそうだったのだろう。自業自得である。流行りに乗り遅れていたことでちょっぴり落ち込んでいると、友人が「それで?」と促す。

「今夜やるつもりだったの?確かに今日は満月だけど」
「えへへ〜…だめかな?」
「別にだめじゃないけど…やりたいならやれば?」

友人の許可を取る必要なんてどこにもないけれど、思わず訊いてしまうのはおなごの定めだろうか。ひらひらと手を振って勝手にしなさい、と言わんばかりに友人は机に体を向ける。私は今夜の準備をするべく、箪笥を開けて中に大事に閉まっていた一冊の本を取り出した。

「まあ…おまじないの効果があるなしは別として…、忍者が満月に頼るなんて、ちょっと皮肉な話だとは思うけれどね」
「へ?なんで」
「なんでって…、本来満月は忌むべき天候でしょうが」
「あー…」

闇に忍んで仕事をこなす忍者にとって、満月の光は明るすぎる。私だって、もし実習の時に満月だったら顔を顰めるだろう。それは確かに、そうだけれど。恋する今の私にとっては縋るべき存在だ。くの一としてのプライドが〜、なんてどうだっていい。今日は実習でも何でもないし。

「使えるものは何でも使う!それも忍者でしょ?」
「…恋する乙女はパワフルだこと」

友人はふっと微笑んで、筆を止めていた書き物を再開した。実家への手紙か、それとも課題か。もしや恋文。内容は分からなかったが、覗くほど趣味も悪くないため視線を逸らす。課題は私もやらないとな、と思いだして少しテンションが下がったが、それでも今夜のことを考えればそんな気分は綿のように吹き飛んでしまった。

***

「嘘でしょ!」

自室の襖を開け放して外に出た私が悲痛な叫び声をあげると、友人が身を縮こまらせながら外に出てくる。

「何騒いでるのよ…」
「月が!見えない!ここからじゃ見えないよ!」
「あら」

自室から月見をしたことなんてなかったため、位置的に月が見えるかどうかなんて考えもしなかった。見上げた月は、ちょうど長屋の屋根に半分隠れ、さらに流れる雲によって全て隠れてしまうこともある。こんなことではおまじないは行えない。よよよ、と崩れ落ちると、友人が哀れみ半分呆れ半分の表情を向けてくる。

「また今度にしたら?」
「また今度っていつ!?というか、待ってもここからじゃ見えないんだからあんまり意味ないよ!」
「ちょっと、うるさいわよ」

友人に注意されて、ハッと口を噤む。あまり騒いで他のくのたまを起こそうものなら、後での報復が怖い。つい肩が落ちて俯きがちになると、友人が「ほら」と手を招いた。

「ずっとそこにいたら風邪ひくわよ。もう中に入りましょ」
「うん……」

優しい声に吸い込まれて自室に戻ろうとしたが、やっぱり諦めきれない心がうずきだす。だってこんなにもやる気だったのに、これしきのことで諦めるなんて。ぎゅ、と胸に抱えた本を力強く握る。もう一度月の方角を確認して、私は羽織を脱いだ。

「やっぱりやる!」
「はあ?」
「あの方角なら忍たま長屋の方からなら見れると思うし」
「あんた今から忍たま長屋に行くつもり!?」
「うん」

絶句した友人も構わずに、脱いだ羽織を自室に放り投げて行こうとすると「ちょっと!」と呼び止められる。

「バレたら大変なことになるわよ!」
「あくまで私一人で抜け出したってことで。シナ先生に何か言われたら私は寝てて気づきませんでした、って言えばいいよ!」
「そういう問題じゃなくて!」

まだ何か言っていた気がするが、もたもたしていられなかった私は忍たま長屋のほうに走り出した。ああ見えて、結構心配性なんだよな。ちょっと忍たま長屋に行って、ちょっとおまじないをしてくるだけだ。きっとすぐ済む。

静寂の中、身をひそめて忍たま長屋を目指す。くのたまの敷地内じゃないとはいえ、忍たまの敷地内もトラップはそれなりに存在する。目印を見落とさないように慎重に進んだが、今日は月が明るいのでそんなドジも踏まなさそうだった。

忍たま長屋の方に辿り着いて、その静けさにほっと息をつく。六年生方が夜中に鍛錬していることは話に聞いていたので少し恐かったのだが、そんな様子もなさそうだ。今日は別の場所で鍛錬しているのかもしれない。あまり人目のつかなさそうなところを探し出して、草むらからそっと這い出る。
周りに人がいないことをよく確認してから、私は夜空を見上げた。立派にまんまるい月が、堂々と浮かんでいる。ここならまじないをするにも問題なさそうだ。持ってきていた本をぎゅっと握りしめて、私は輝く月に掲げた。

まじないの内容はこうだ。好きな人からもらった物を満月に掲げて、好きな人との成就を三回お祈りする。
私は目をつむり、その人の顔を思い浮かべた。柔らかくて、陽だまりのようで、優しい…。

「あれ?」

ちょうど三回祈り終えたところで響いた声に、かつてないほど跳ね上がる。その声は誰でもない、私に向けられているもので。慌てて腕を下ろしてぎこちなく振り返ると、思ってもいない人物がそこにいた。

「ふ、ふ、不破先輩!?」
「えっと……こんばんは?」

顔を真っ青にした私を見て、さすがに開口一番問い詰める気は失せたのか、不破先輩が苦笑いを浮かべる。ああ、どうしよう、何か言い訳をしなければ。焦れば焦るほど口が上手く回らずに半泣きになっていると、不破先輩が「落ち着いて」と優しく私を宥める。

「怒らないから、大丈夫」
「は……はい…」
「…落ち着いた?」
「はい…すみません……」

力なく項垂れると、不破先輩がにこりと微笑む。その笑みにようやく深呼吸ができて、さてどう誤魔化したものかと頭を動かし始めたところで、また別の声が響く。

「雷蔵?何やってるんだ」
「か、勘右衛門…」

ひょこ、と顔を覗かせた尾浜先輩に、思わず眩暈がしてまた吐きそうになる。私の姿を捉えた尾浜先輩は「あれ、くのたま?」と首を傾げた。不破先輩が取り繕おうとする気配を感じたが、その前に尾浜先輩が何かを納得したのかけらけらと笑う。

「逢引?くの一の方から来るなんて、大胆だなー」
「ち、違います!」
「そうなの?じゃあ忍たま長屋まで来て何してたんだ?」
「それは……」

後ろに隠した本を握る手に力が入るのを感じながら、何とか言い訳を探すが、あまり私はこの手に関しての成績が良くない。嘘とか、演技とか。くのたまにあるまじきかもしれないが、苦手なものは苦手なのだ。

「や…野暮用で…」
「ふうん、そうか野暮用。それならあまり突っ込むべきじゃないな。その野暮用はもう済んだのか?」
「それは…はい」

尾浜先輩は本当にそれ以上は何も訊いてこなかった。尾浜先輩とは初めてお話ししたが、なんというか掴みどころのない人だ。でも、急に怒鳴りだしたり先生を呼ぶ人じゃなくてよかった、と内心息をつく。不破先輩は口を挟むタイミングを失ったのか、窺うようにそろりと尾浜先輩に視線を向けた。

「雷蔵はこの子知り合いなんだろ?」
「えっ…と、まあ」
「じゃあ送ってやれよ。言われずとも、そのつもりだったんだろうけど」
「三郎たちには…」
「適当に言っておくよ」
「ありがとう」

会話の内容にびっくりして佇んでいると、不破先輩が「じゃあ、くの一長屋の方まで送るよ」と私を見つめる。

「い、いえ!大丈夫です!一人で帰れますので、不破先輩のお手を煩わせるわけには…」
「でも先生に見つかったら大変だろう?」
「それは…」
「補習とぼくに送られるの、どっちがいい?」
「うっ……、」

容赦ない問いに負けて、深々と頭を下げると不破先輩がうんと頷く。思いがけない展開になってしまった。もしかしてもうまじないの効果が出たというのだろうか。混乱していると、尾浜先輩が私の手元をじっと見ていることに気が付く。しまった、本隠すの忘れていた。
これを見たところでどうにもならないとは思うが、と冷や汗が背筋を伝ったところで、尾浜先輩がふと空を仰ぐ。そして私に視線を戻すと、にっこりと笑った。

「今日は綺麗な満月だな」

バレている。くのたま間で流行っているまじないなんて忍たまの尾浜先輩が知る由もないと決めつけていたが、間違った先入観だったというわけだ。冷や汗をだらだら流す私の横で、不破先輩は尾浜先輩の発言に疑問符を浮かべている。それが普通の反応です、不破先輩。
一刻も早くこの場を立ち去りたくて、私は尾浜先輩に「失礼します」と一礼して不破先輩を縋るように見上げる。何かを感じ取ったのか、不破先輩は身をかがめて草むらを指さした。

「じゃあこっちから抜けていくよ」
「はい」

抱えた本が汚れないように、私は慎重に不破先輩の後をついて行った。こんな古ぼけた本、尾浜先輩が何故まじないに使うものだと一発で見抜けたのか分からない。私にとっては、大切な宝物だということに変わりないが。

目の前の背中を見つめて、小さく息を吐く。当の本人は、覚えてないだろうけれど。


あれは二年生の時だ。兵法の授業に全くついていけなくて、私は自習しようと資料を探しに図書室へ向かった。二年生の私にはどれが勉強に役立つものか分からずに、半泣きで本を漁っていると声をかけてくれたのが不破先輩だった。

「兵法の勉強?君は…二年生かな?」
「はい…」
「それならこれがいいよ」

そう言って差し出してくれた一冊の本。大切に受け取って貸し出しカードを書こうとすると、不破先輩が「ああ、いいよ」と止めた。

「それ、もう図書室には置いておかない本なんだ」
「そうなんですか?」
「うん。図書室の棚も有限だからね。たまに整理して要らない本は配るか売るかしてしまうんだよ。だからそれは君にあげる。委員長にはぼくから言っておくから」
「あ、ありがとうございます!」
「勉強、頑張ってね」

一目惚れだった。だって、くのたまは忍たまはいびりぬいてやるものだと昔から教えられる。だから、忍たまと喧嘩なしでちゃんと喋ったのも、忍たまの先輩に優しくしてもらうのも初めてだった。
我ながらちょろいとは思うが、あの時の自分の目に間違いはなかったと今も胸を張って言える。あれから、不破先輩に会いたくて図書室にしょっちゅう通うようになったが、いつも不破先輩は穏やかで、聡明で、優しくて。そりゃ、たまに私に物事を訊かれたときに悩んで答えが出せないこともあるけど、それは不破先輩が思慮深い人だからだ。

あの時にもらった兵法書は私にとって特別なものになってしまった。箪笥の奥にしまい込むほど、大切なものに。もう内容を諳んじれるほど読み込んでしまったし、おかげで兵法のテストは毎回高得点をとるぐらいに得意になってしまったけど、捨てられるものではない。
ああ、なんかちょっと、人に引かれかねないほど想いを募らせている自分がいやになってきた。成就するわけがないし、したところでどうにかなるものでもないのに。こんなまじないにまで頼って。不破先輩の背中が、ひどく遠く感じた。

一人考え込んで鬱々とし始めていると、いつの間にか草むらを抜けたようで、姿勢を低くしていた不破先輩がすっと立ちあがる。

「ここからは多分大丈夫かな。くの一長屋まであと少しだしね」
「本当にありがとうございます」
「いいえ」

必然的に並んで歩く形になり、体が強張る。ええと、何か当たり障りのない話題。

「先輩方は先ほどまで何をしておられたんですか?」
「……野暮用?」
「……」

思いっきり障りある話題を選んでしまったというか、不破先輩に思いがけず攻められてしまったというか。挑戦的な返しにまた血の気が失せていると、不破先輩があわあわと顔の前で手を振る。

「ごめんごめん、冗談だよ。さっきまで実習だったんだ」
「あ、そうだったんですね…。こんな明るい夜に、大変じゃありませんでしたか」
「そうだねえ、ちょっとやりにくかったかもね。でもまあ、そこまで大変な内容じゃなかったから」

隣にいると、不破先輩の装束からふわりと火薬の匂いが鼻を掠めたが、触れないことにした。実習の内容を深く訊いても、どちらもいい気はしないだろうし。

「勘右衛門もさっき言っていたけれど、本当に今日は綺麗な満月だね」
「そう、ですね…」

先ほどまで満月に縋っていた事実に胸がざわついて言葉が詰まる。恋のまじないを、しかも不破先輩相手にしていたなんて、口が裂けても言えない。しかし、こうして今、不破先輩の隣を歩けているということはあのまじないの効果なんじゃないかと思わずにはいられなかった。
今日は見事な満月だから、効き目が強かったのかも。だって、こんなに明るい夜あっただろうか。数年前のただの小娘だった私なら、夜空を見上げて暗いと言っていただろう。だが、忍びの世界に触れてから見る今宵は眩しかった。

「不破先輩も満月はお嫌いですか?」
「え?うーん、嫌い……ではないかな」
「同室の友人が、満月は忌むべき天候って言っていたので」
「忍務の時は確かに困るよね」

でも、と不破先輩は続ける。

「月が明るいと、灯りがなくても本が読めるから」
「それは確かに」
「ふふ、同意してくれると思った」

柔らかい声に動揺して、見つめる必要のない足元の石ころを凝視する。今顔を見たら、確実に死ぬ。そうに決まっている。何か気を紛らわせるもの、と辺りを見渡したところで、くの一長屋の近くまで来ていることに気が付いた。まずい、ここから先は。慌てて立ち止まり、不破先輩に向き直す。

「こ、ここまでで大丈夫です」
「そうだね、さすがにぼくもこの先は…」

くのたまの数々の罠が不破先輩に襲い掛かってしまう。不破先輩もそれは重々分かっているため、苦笑いで歩を止めた。
あとの私の忍務はお礼を述べて、何事もなかったかのように自室に戻るだけ。そう決めて口を開こうとすると、不破先輩が軽く腰を折って目線が思ったよりも近くなる。は、と空白を紡いだところで不破先輩が言い聞かせるように私を見つめた。

「今度はもう迂闊に来たりしちゃだめだよ」
「は、はい、肝に銘じます…」
「先生に怒られるから、とかもそうだけど…女の子なんだから」
「えっ?」

不破先輩のひとみが、月明かりに照らされて、凪いだ。

「男ばかりの敷地に、夜来るのはだめ」

静かに響いた声音に放心してしまって、それでも何かしら返事をしなければと僅かに残った正常な思考が私の首を縦に振らせる。納得したらしい不破先輩はひとつ頷いて、にこりといつものような先輩の笑顔を浮かべた。

「おやすみ」

穏やかなそれに、私の思考はブラックアウトした。

陽だまりのようだと思っていた想い人は、月明かりも似合う男だったと知ってしまった夜。


せいてんのへきれき


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