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TopMain君を待つ
いつも静かなこの島が落ち着きのない空気を纏うとき、彼は現れる。わざわざ海岸に確認しに行かなくても、住人たちの騒がしさを見れば港に大きな鯨が停まっていることは明白だ。かくいう私も、読んでいる本の内容が全く頭に入らなくなっていることは自覚できていた。しかし本を閉じるのも何だか癪で、ぺらぺらと意味もなくページをめくっていると、ノック音が響く。
びくっと跳ねた肩を叱咤して、待っていませんでしたけど、という顔を必死で作ってから私はドアを開けた。私を見下ろす背の高い男に、嬉しさが零れないように口を開く。

「久しぶり」
「ああ。体調はどうだ」
「元気元気」

おざなりに答えると、マルコはちょっと呆れたように笑って近くの椅子に腰を下ろした。

「ほら、診るぞ」
「えぇ…コーヒーは?」
「後でいい」

早くしろ、と言わんばかりに手を広げたマルコの傍に車椅子を進める。来てまずそれか、と思わないでもなかったが、それ目的で来ているのだから当たり前と言えば当たり前だった。マルコの前でスカートを膝までたくし上げると、いつものようにてきぱきと触診が行われる。

私の足は、動かない。生まれつきではなく、数年前にあった不慮の事故で動かなくなってしまった。最初こそ絶望したが、島の住人はそんな私を最大限気遣ってくれたし、慣れてしまえば、諦めてしまえば受け入れることができた。
そんな折、マルコが私の家に訪れた。この島は十数年前から白ひげ海賊団のナワバリだ。定期的に訪れる白ひげ海賊団と交流してる際に、私を可哀想に思った隣に住む旦那さんが船医であったマルコに相談したらしい。そんなこと露も知らなかった私は、何の前触れもなく現れた白ひげ海賊団の幹部に、家を荒らされでもするのかと怯えたのを覚えている。
診断の結果、マルコの能力を以てしても治せないということが分かったが、私に落胆はなかった。申し訳なさそうにされる前に、気にしないでと私は笑ったが、律儀なもので。マルコはそれ以来、島に寄った際には必ずこうして私を診に来ている。

「ん、何ともないな」
「元気って言ったでしょう。信用してよ」
「診るまで安心できないのが医者の性分だ」

今更診てもらったところでどうにもならないのは分かっている。それでも、もういいとお互いに言い出さないのは、同じ理由だったら嬉しいのに、と思ったり。マルコはただの心配性なだけな気はするが。
触診を終えてゆったりした空気が流れたところで、私はコーヒー用の湯を沸かそうとキッチンに入った。目の前で取り出すのは照れ臭ったのかなんのか、タイミングを見計らったようにマルコが何かを取り出してテーブルの上に置く。

「何なのか訊いても?」

マルコが私の家に訪れるようになってから、何かお土産を携えてくるのはもはや恒例のことになっていた。ふざけて仰々しく尋ねると、マルコは「見れば分かる」と悪戯っぽく返す。そう言われると気になってくるもので、私はケトルを火にかけてそそくさとリビングに戻った。

「あ、砂時計だ!」

置かれていたのはきらきらと輝く精巧な砂時計。綺麗な細工が施されたガラスの中を、色とりどりの粒がさらさらと落ちている様子を手に取ってじっと眺めていると、その様子を見ていたマルコが小さく吹き出した。

「夢中だな」
「き、綺麗だったんだもの!笑わないでよ」

私がむくれると、マルコは「悪い」と口元を手で覆った。その仕草は、絶対にまだにやついているからだ。唇を尖らせながら手元の砂時計に視線を戻すと、やっぱり綺麗で。こんな砂時計ならいくら眺めていても飽きが来なさそうだ。時間を計る必要が無くても、ずっとひっくり返し続けてしまうかもしれない。…マルコはそんな私を想像して笑っているのだろうか。
さすがにマルコを目の前にいつまでもそうしてるわけにもいかず、砂時計をテーブルの上に置きなおしてケトルの火を止めにいく。

「その砂時計を買った島はどんなだったの?」

コーヒーを淹れながらお決まりの質問をすると、マルコはゆっくりと話し始める。私は、マルコが携えてくるお土産も、お土産話も大好きだった。この島の景色すら見るのが一苦労な私には、様々な島の風景が色鮮やかに浮かんでくるマルコの冒険話は、楽しみにしているお菓子のようなものだ。
今日もそれを味わいながら聞いていると、私が淹れたコーヒーに口を付けたマルコが窓の外を見やった。

「この島は、夕陽が綺麗だな」
「そう?」

マルコが冒険の最中に見た幻想的な星空の話に続いて、唐突にこの島の話になるものだから首を傾げる。

「秋島だからかもね」
「随分と他人事だな」
「慣れっこだもの」
「忘れかけてる、の間違いじゃないか?」

やけに突っかかった言い方をするマルコに驚いて、思わず言葉に詰まる。何か怒っているのかもしれない、と訳も分からず背筋を冷やしていると、マルコはマグカップを置いて立ち上がった。私が言葉を発する前に後ろにさっと回り込んだマルコは、私の車椅子を押した。

「わあっ!」
「すぐ外なんだ。見たって損はないだろい」

ドアを開けて外に出たマルコは私の反論も聞かずに、私を押して家近くにある小高い丘を登り切った。マルコのことは大人の男性だと勝手に思っていたが、意外とこういう面もあるらしいことは最近分かってきた。そういうところは、海賊らしいというかなんというか。
丘を登りきると、爽やかな風が吹き抜ける。うっすらと冷たくて、夕陽の匂いがする風。眼前には、夢幻的に染め上げられた空が広がっていた。一色では表しきれない表情をしている、この島の夕空が私は好きだった。

マルコに連れ出されて、マルコが隣にいて、美しい景色を眺める。こんなことがあっていいのかというほど、幸せな空気が肺を満たしていた。涙が、溢れそうになるほど。
それでもマルコに恐らく他意はなくて、私は一患者で。そう思うと寂しさと共に、私の手を引いた強引な行いに少々腹が立った。

「こんなことしていいの?」
「ん?」
「味を占めちゃうかもよ」

仕返しのつもりで言ってのけると、言葉の先が分かったのかマルコが薄く笑う。

「そりゃあ別に悪いことじゃないだろ」
「あー、そんなこと言う」

イエスともノーともとれる曖昧な返事に腹が立って、もっと困らせてやろうという意地が湧いてくる。申し訳ないが、私はかわいげのある女ではないのだ。この質問だけはされたくないだろうと分かっていながら、私はマルコを見上げた。

「私も海に連れてって、て言ったら連れ出してくれるの?」

予想通り、答えは沈黙だった。まあ、そりゃそうだよね。こんなお荷物でしかない女、連れて行こうと思う方がおかしい。見上げているのが疲れたから首を前に向き直したけれど、マルコはきっと微妙な顔をしているだろう。マルコが言葉を選びきる前に、私は「嘘だよ」と明るく言った。

「海に出たいなんて思ってないもの。マルコの話聞いてるだけで楽しいし」
「……」
「置いて行かれるのには慣れたの。その代わり、待つ楽しさを覚えたから」

強がりじゃないのかと問われれば、強がりだった。だが、全部が全部嘘というわけでもなかった。足を失ってから置いて行かれることも、追いつくことも、諦めた。諦めた私に待つ楽しさを与えてくれたのはマルコだ。
勿論、出港時の背中にいつも抱えきれない寂しさを抱くけれど、次を思えば少しは楽になる。マルコが置いて行ってくれたお土産を見つめていれば、牢獄のようだった家で過ごす時間が苦じゃなくなった。

流れる沈黙の中、冷えてきた風に体を震わせるとマルコが「戻るか」と車椅子を押した。私も頷いて、それ以上は何も言わなかった。
家の中に入るとマルコがブランケットを私に差し出してくる。ブランケットのある場所なんて教えたっけ、と思いつつ受け取って羽織っていると、マルコが何やらポケットを探っているのが目に入る。何か紛失でもしたのかと思い訝し気に見ていると、マルコは一枚の紙を取り出し、私に差し出した。

「渡してなかったと思ってな」
「…もしかして、ビブルカード?」
「ああ」

マルコの懲りてなさに私は顔を顰めた。先ほどあんな問答をしたばかりだというのに、これはないだろう。そんな、まだ私に諦めさせないようなことを。

「こんなもの渡しちゃって、私が追いかけでもしたらどうするの?」
「文句は言えねェな」

次は間髪入れずに返ってきた答えに勢いよく顔を上げる。私が何度瞬きをしてもマルコは撤回するわけでもなく、私の持つビブルカードをとんとんと指先で叩いた。

「こんなもの渡した、おれにも責任があるってことだ」

何でもないように言うわりには、その余韻はとても甘く、柔らかかった。プロポーズに聞こえなくもない、というのはさすがに飛躍しすぎだろうか。それでも、私が思うよりずっとマルコに想われていたという事実は、そんな風に舞い上がってしまっても仕方のないことだった。
私の鳥かごをそっと開けて、優しげに見守るマルコの瞳に目の奥が熱くなる。それでもやっぱりかわいくない私は、涙をぐっと堪えて挑戦者の笑みを浮かべた。

「首を洗って待ってて」

マルコはくつくつと笑って、冷めたコーヒーを飲み干す。

「今度はおれが待つ側なわけだ」
「海賊のマルコにそんなことできるのか、ちょっと怪しいけどね」
「まあ、痺れをきらしたら奪っちまうかもしれねェな」

忘れてしまうかも、という意味で言ったんだけれど。予想外に返ってきた情熱的な言葉に耳が熱くなり顔を背けると、また笑われたので奥歯を噛む。ゆっくり伸びてきたマルコの腕は、さすがに払うことはできなかった。


君を待つ


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