甘えと猜疑


「とても大切なものを失くしてしまったの」

烏玉の髪を右肩に流した椿は、冷めきったキャラメルラテに口を付けた。反対側では銀色の侍が死んだ目を僅かながらに輝かせ、豪勢なパフェに夢中になっている。

事の始まりは、数十分前。例に漏れず堕落した日常を貪っていた万事屋に、一通の電話が掛かってきたことだった。銀時が掴んだ受話器から抑揚のない女の声で、依頼があるからレストランのバトルロイヤルホストまで来て頂戴と流れた。その時は新八や神楽に向かわせる気でいた銀時も、通話の最後にケーキでもパフェでも食べさせてあげるという魅惑的な言葉に一瞬で落ちたのだった。

銀時の好みと性格を熟知したような誘い文句に当初の彼は欠片の猜疑心すら抱かずにいた。しかし実際に依頼者と対面してみれば、なぜあの受話器の奥にいた女が甘味で銀時を釣ったのかを彼は理解してしまった。

単直に言ってしまえば、顔見知りだったから。その一言に尽きる。松下村塾に通っていた頃よく遊んでいた女児が、一際綺麗になって目の前にいた。しかしその時に感じたものは喜びでも感動でもない。びり、と痺れるように銀時の背中を駆けたものは紛れもない戦慄。

だって、この女は。

「座らないのかしら?万事屋さん」

直接脳に働きかけるような嫌な声に、銀時はほのかに眉を潜めた。しかし背を向けることもできず、その場に棒立ちになっている訳にもいかない。

銀時が座ったところを見届けた女は、ふわりと鮮やかに笑む。子供をあやす母に似た優しい微笑は、少なからず銀時に衝撃を与えた。小さく息を呑む。それは、不気味なほど温厚で柔らかな笑みの中に、闇よりも濃い重圧を感じ取ったからだった。毛の生えた心臓に爪を立てられた気がした。

この女は誰なのか。銀時の潜在意識が、彼女が本当にかつて私塾で共に日々を過ごしてきた仲間である椿なのかを、疑問視し始める。

銀時は平然を装い、メニュー表のデザート欄を吟味するふりをしながら、目の前で座する女の顔を盗み見た。

立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。綺麗な顔立ちを見て、彼はそんなことわざを不意に思い出した。女特有の艶めかしく華やかな色香は、今までどれほどの男を魅せてきたのだろう。

そこで銀時は我に返った。違う。自分が知りたいことはそんな下らない艶話ではないのだと、誰にともなく弁明する。慌てることなどなにもない。しかし、銀時は焦燥しきった頭で思わずメニュー表で視界を遮った。彼の手に、嫌な汗が滲んでゆく。

この女は一体。対面するだけで他人の平常心を攫っていく魔性の女は、やはり記憶の中の少女とは似ても似つかなかった。誰かに頭を撫でられただけで、照れたようにはにかんでいた初な少女など、ここにはいない。

さりげなくメニュー表で顔を隠した銀時にさほど気にする様子もなく、女は手馴れたようにウエイターを呼んだ。彼女が注文したものはキャラメルラテとモンブラン。甘いものが好きなのだろう。妙な親近感を抱いた銀時は、便乗するようにチョコレートパフェを3つオーダーした。

通話で、確かに奢ると女は言った。しかし、銀時のあまりの遠慮のなさに思わず苦々しく笑ってしまう他ない。

「ねぇ。あなた、銀時でしょう?」

丁度、お冷やを飲もうとした手がぴくりと反応した。女の一言で、お互いの心の内に燻っていた霧が晴れてゆく。この男は間違いなく坂田銀時で、この女は間違いなく生駒椿なのだと。

返事に繋ぐ言葉は紡がれることはなかった。しかし問いかけに対する答えを悟った椿は、ウィンドウの外に広がる江戸の街に視線を移した。

否。一見窓の外に広がる景色を眺めているように見えるが、その目は景色など欠片も見ていない。今、椿が見ている景色は一体どのようなものなのか。在りし日の遠い過去か、それとも。

思考することを途端に脳は放棄した。椿の目に映るものを知りたい。知りたいが、知ることを心の奥が僅かに恐れたからだった。



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