腫瘍


「椿さんが抱える途方もない闇に、唖然としやした」

団子を食した沖田は竹串を添えるように皿に置き、そう繰り出した。練切りを切っていた銀時の手が止まる。老若男女が闊歩する騒がしい江戸の街で、二人の纏う空気は確実に浮いていた。通夜のように重々しい重圧に胸が圧迫される感覚がした。

沖田が言う、椿が抱える途方もない闇というものは少なからず銀時も感じていた。幼少期時代の無邪気に笑っていた少女に一体どのような不運が降り掛かったのか。銀時には想像もできない。しかしそれはまだ小さかった椿の容量をゆうに超える、日常からかけ離れた惨劇であることは理解できた。

「虚無って言うんですかねィ。椿さんの中には、何もありゃしねェ。しかも、あの人は自分の中にぽっかり穴が開いちまってることすら気付いてねぇときやした。…椿さんのあの虚無を見た時、思ったんでさァ。この人の深層は、俺が気安く触っていいもんじゃねぇって。」

ゆったりと吐き出される弁論は、何故か捲し立てるような焦燥を抱いているように銀時は思えた。あの日、レストランで彼女と再会した瞬間の自分を見ているようだった。

銀色のまつ毛に縁取られた瞳を憂いげに伏せた侍は、今頃お登勢のところで開業の準備をしている椿な思いを馳せた。きっと椿を目当てに訪れた客はなにも気付きはしないだろう。椿の闇も虚空も絶望も、美しい顔に見合わぬ背中に刻まれた無数の鞭の痕も。

気付くはずがない。椿のかんばせに価値を見出す人間などが、綺麗な笑顔で巧妙に隠された本心など。銀時は胸の内に募るもやを吐き出すようなため息を吐いた。

沖田は、銀時が己の言葉に返事をするつもりがないと察した。端から返事など必要としていない。今度は若草色の湯呑みを手に彼はずっと気がかりだった事を問い質した。ずっと聞きたかったこと。魚の骨が引っ掛かったように些細で、されど僅かながらに痛みを伴う疑問点。

───旦那はなにも思わなかったんですかィ?

主語はなかった。しかし沖田の疑問がなにを示しているのか、彼は一瞬にして理解した。

あの日。椿が沖田と付き合いたいと願った吉日。沖田は銀時がなにも思わなかったと本気で思っていることはあるまい。椿へ向ける彼の好意は、少なからず真選組の隊士達には筒抜けだったからだ。あの万事屋の旦那が一階のスナックの一従業員に恋慕を抱いているという噂はよく酒の肴になっていた。

だからこそ知りたかった。

器の広い万事屋の報われないはずであった恋を彼はどこへやったのか。野暮なことくらい重々承知。

「憐れだと思ったな」
「…それは報われなかった自分にですかィ?」
「違ェ。てめェにだよ」

そこで初めて沖田は目を丸くした。常日頃から斜に構える態度が嘘のように困惑しきった表情。沖田の珍しい顔付きを横目で盗み見るように眺めた銀時は、やがてぽつりと口遊むように呟いた。

椿の目的はあくまでも幕府から情報を引き出すことにあった。そしてそれは、幕府の関係者と関わりを持つことが条件だった。沖田の好意を見抜いていた椿は、恐ろしいことに彼を格好の餌食としたのである。

武装警察と恐れられる真選組。その中でも女を惑わす甘いマスクに長けた沖田である。皆が皆その美貌しか目にしていないことぐらい、当の本人も自覚はしていた。かっこいいと街で囁かれる度に外面しか見られていないことも思い知ってきた。

昔、かっこいいと言われることは彼の中で敬愛する近藤のような器の大きい男と言われることと同義だった。まだ純朴だった幼い頃はかっこいいと言われることは何よりもの誉れ。しかしいつからだろう。自分に酔う女は皆顔しか見ていないと気付いたのは。

綺麗。かっこいい。イケメン。容姿だけで沖田の人格を独断し、付き合いたいと申し出る女の中でも椿は一際酷かった。椿が沖田と付き合いたいという心の本懐。それは彼の強さでも性格でも、ましてや顔ですらない。

椿にとって沖田総悟という人間は政府から情報を引き出すための交渉の道具に過ぎなかった。真選組一番隊隊長となれば、相応の情報が入ってくる。それを利用し、かつて両親を殺害した挙げ句に自分を攫い春雨の奴隷船に引きずり込んだ下衆の正体を掴みたいだけだったのだ、彼女は。

つまりあの時椿が言った、沖田と付き合いたいという想いに一欠片の愛情も宿っていなかったということである。

「でも最後にゃ、背負ってきた親の仇もてめェの憎しみも全て捨てて、椿さんは旦那を選んだ。この意味、分かりやすかィ」

分からないはずがなかった。沖田が口にした数秒あまりの言葉の中に隠された本音。それを銀時が見逃すはずがない。

一朝一夕で払拭できぬ奴隷時代に募ったどす黒い霧も親の仇も、覚悟を以て捨てられるほど椿の中で銀時の存在が大きかった。通常ならばそう思うだろう。銀時本人も最初に駆けた思いはそれだった。しかし違うのだ。沖田が無言で訴える本心はそんな可愛いものではない。

心の底から惚れた女に幕府との交渉の道具にされそうになった。果てには胸に燻る愛情を暴発させたその女が違う男を選んだ。並大抵の屈辱と絶望ではなかっただろう。

故に、サディストの硝子で構成された心は今や誰にも見えない奥深くで限界を迎えていた。人斬りと恐れられようとも沖田はまだ十と八の少年であることには変わりない。若くして姉を亡くした少年の柔らかな心の亀裂が更に無残に大きくなる瞬間を、銀時は間近で垣間見た。

完璧な美貌を以てしても唯一惚れた女一人落とすことすらままならない。どうでもいい魚は嫌になるほど釣れるというのに。今ほど自分の整った顔立ちを嫌になった日はない、と沖田は心の中でごちた。

「まぁ、椿も本当は優しい女だ。どんな理由であれ、恋仲になりゃお前さんの汚ェ心にも真剣に向き合ってくれるだろうよ。だが、」

銀時は先程まで止まっていた手を動かし練切りを口の中に入れた。甘い餡子の味を堪能しながら、焦らすように話の続きを先延ばしする。そのあからさまな行為に若干の苛立ちを覚えた沖田は自分の余裕のなさにも腹が立った。

複雑に乱れた心の中を瞬時に整理できるほど彼は大人ではなかった。武士に連なる静謐など、今の沖田にはどこにもない。

しかし苛立ち混じりに続きを催促する眼差しに銀時が怖じ気付くことはない。練切りをゆっくりと味わい、ゆっくりと嚥下する。またゆっくりと湯のみに注がれた緑茶で喉を潤した。そして漸く銀時はせっかちに促されていた本題の続きに入った。

それは本当に愛って言えるのかねェ。

江戸の喧騒に飲み込まれてしまいそうな小さい声に沖田は息を呑む。この男は一体なんなのか。柄にもなく目の前の男に仄かな恐怖心を抱いてしまった彼は、反射的に長椅子に立て掛けられていた愛刀をふんだくるように掴むんだ。体に染み付いた血腥い癖がよもやこんな甘味処で発揮されるなど沖田は思いもしなかった。

そして鯉口より僅かに覗き見た刀身を銀時の首筋に宛てがう。周囲が挙げる悲鳴を遠くで聞きながら、不意に彼は思った。私服でよかったと。隊服でこのような真似をして面倒なことにならないはずがないからだ。

「おぉ怖いねェ。白昼に抜刀なんざするもんじゃねぇよ、お兄さん」

年長者気取りの振る舞いなどいつもの沖田なら気にすることすらなかっただろう。しかし今の彼は何分虫の居所が悪い。どのような言葉が起爆剤になるうるか分からない状況で、それでも銀時はわざと煽って見せた。

黙れ。まるで親の仇でも見るような目で彼はそう唸った。腹立たしい。銀色の馬鹿げた侍も、間抜けを絵にした周囲の人間も、烏玉の髪を輝かせたあの女も。ついでに土方も。




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