白詰草

ひんやりと冷たい風が頬を撫でる。
風が運んでくる匂いは、何処か若い草の香り。
雪が溶け、あちらこちらで植物の息吹が聞こえて来る春である。

ぼんやりとした月明かりの中、目の前に映るのはもう誰も住んでいない廃墟。
頼りない明かりの中、陰影をつけたその景色は殺風景で、人影のないそこは不気味以外の何者でもない。

ここは、ウォールマリア内のひとつの街。

三年前、巨人に占拠されて以来、もぬけの殻の街だ。

そんな場所に今私が居るのは、他でもない調査兵団による壁外調査のためである。
いつかウォールマリアを奪還するため、来たるその日に備えて物資を運びにここまでやってきた。

今は夜。

巨人は夜の活動は低下するという調査結果から、我々調査兵団も夜のうちに休息を取り、次への活動へと備える準備時間に充てている。
そんな中、私は気分転換に今日のキャンプ地から少しだけ足を伸ばした。



今朝、鳥が活発に活動を始めるより早い時間から、ウォールローゼを出発し、ここへとやってきた。
いつものことだが、被害なくして目標の拠点まで辿り着くのは難しい。
今回も例外ではなかった。
幾人もの兵士達が、巨人によって喰われ潰され、惨劇を繰り返しながらここまでやってきたのだ。
私たち調査兵団の兵士たちは、後戻りすることは許されず、仲間の悲惨な結末を悲しむ間もなく、進み続けなければならない。

調査兵団に所属して、もう十年。

ベテランの域に達する私だが、これを何度繰り返し経験してきたことか。

だけど、決して慣れることもない。

昨日まで苦楽を共にしてきた仲間に突然襲い掛かる悲劇。
本人は覚悟を持って壁外へ出向いているから、そうなることは承知の上だろう。
だけど、最期の断末魔を聞くたびに、そんな覚悟なんて意味もなく、ただ恐怖に包まれ死んでいくのだろうと身をもって感じさせられていた。




「ジェシカ・・・」


口にした名前は、私の直属の後輩でとても可愛がっていた兵士。
つい数時間前、他兵士たちと同じように、巨人に喰われ死んでいった。


『先輩!帰還したら、付き合って欲しいところがあるんです!
今度、友達の結婚式に参列するんですけど、着ていく洋服を一緒に見繕って欲しくて!』


そんな風に心躍らせ話す彼女は、側から見れば何処にでもいる少女だった──。



街中から少し離れたところに広場を見つけ、そこに立ち入る。

空き地だったのだろうか。
雑草だらけのそこには無造作にボールが転がっており、ここで子供達が遊んでいた様子が目に浮かぶ。
まるで、三年前巨人が攻め入った日から時が止まっているように見えた。

月明かりに照らされゆらゆらと揺れる白詰草。
近くに屈みひとつ摘み上げると、草の香りが鼻腔をくすぐる。

花もひとつの命。
そうやって摘み上げられた後は枯れる他ないが、その美しさは朽ちる直前まで、決して色褪せることはない。
そしてそれは、記憶の中に永遠を刻む。
ジェシカもまた、私の中で朽ちることはないだろう。




「団長の側近が、こんな所で一人で油を売っているとは、関心ならないな。巨人に遭遇したらどうする?」


物思いにふけっていると思わぬ声がしたので、びくりと強張る。
振り返るとそこには、私の直属の上司、エルヴィン団長が呆れ顔で私を見つめていた。


「す、すみません・・・ちょっと一人になりたくて。」


私に合わせるように、エルヴィン団長はゆっくりと歩み寄り、私の隣に同じように屈み込む。
そして、同じように白詰草を見つめる。


「ですが、団長こそこんな所に一人だなんて、無用心過ぎやしませんか?」


いつもの団長としての凛々しい表情ではなく、今の彼はどこか緊張の解れたような柔らかい姿だったので、思わずそう声を掛ける。
その僅かな違いに気付けるようになったのも、十年もの長い間側で仕えてきたからだろうか、或いはもっと違う感情がそうさせるのか。

ともかく、今の団長は、どこか憂いを纏ったような柔らかさがあった。


「はは、確かにそうかもしれないな。
だが、私もちょっと一人になりたくてね。
君が居たのは誤算だったが。」

「すみません・・・お邪魔をしてしまいました。」

「いや、いい」


死地を潜り抜けてきた束の間の休息。
いつもトップで部下達を奮いにかけているエルヴィン団長でも、やはり息抜きをしたくなるものなのか。
団長室で忙しく働き詰める彼には、尊敬を抱くのは勿論だが、同時に心配でもある。
そんな彼を支えようと、私なりに一生懸命尽くしてきたつもりだが、こうやって休息を共にしたのは初めてだった。


「ジェシカは・・・残念だったな」


静寂を突き破るように、エルヴィン団長は近くに咲いていた白詰草を摘み上げながら呟いた。

私を含め、ジェシカは団長の補佐である。
団長班には、他にも精鋭の男性兵士もいるが、作戦資料を纏めたり報告書をあげたりする為に、資料整理が得意な兵士があてがわれる。
そのため、比較的整理整頓が得意な女子が配属されることが多い。
ジェシカは、私の後任だった。
そのジェシカは、先程団長班に紛れ込んできた奇行種により、命を奪われてしまったのだ。

今、団長が存命しているのは、ジェシカのおかげだと言っても過言ではない。


「ええ、でも使命を全う出来たことに、私は誇りに思います。ただ・・・」

「ただ?」

「帰還後に出席する予定だった友人の結婚式を楽しみにしていたので、それだけが心残りです。」

「結婚式か」

「私たち調査兵団の女子たちには、憧れの場ですから・・・あ!勿論人類に心臓を捧げる事を後悔しているわけなんかじゃなく・・・」

「はは、わかっているよ。そこまで慌てなくとも、卑屈に受け取るほど、私は鬼ではないよ。憧れる気持ちも理解しているつもりだ。」

「す、すみません・・・」


ただひたすら、白詰草を見つめる。

すぐ隣に屈んだエルヴィン団長は、今にも肩が触れそうなほど距離が近い。
リヴァイ兵長ほどではなくても、忙しいにも関わらず適度な清潔感を保った彼からは、いつもいい香りがする。

私はこの香りが好きだ。

この香りを嗅ぐたび、私の胸は苦しくなるくらい、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。
恋だの愛だのにうつつを抜かしていられるような場所ではないから、その感覚の原因には常に蓋をしているが、それでも時折感じるこの感覚は、愛おしさを感じずにはいられない。



「団長、死ねば魂はどうなるのでしょう・・・」


なんだか、今日の私は少しおかしいかもしれない。
どうしてこんな事、団長に尋ねるのか。


「それを私に聞くかね?」


そりゃそうなるだろう。
でも、何故か今日は伝えたくて仕方がない。
明日が無事に迎えられる保証なんてどこにもないのだから。


「こんなに残酷な世界なのですから、死後の世界は平和なことを祈ります。」

「そうだな。」

「だけど、私は、例えこんな世界であろうと、団長の元に仕えられた事を誇りに思います。」


ゆらゆらと風に揺れる白詰草は、まるで私を勇気付けるかのように優しく踊っている。
私は白詰草に落としていた目線をエルヴィン団長へと向き変え、その碧い瞳をしっかりと見つめて言った。


「最期の最期まで、私は人類のために、そして、エルヴィン団長、あなたの為に心臓を捧げる決意でいます。」

「・・・ありがとう」


数秒にも、数分にも感じられるような時間。
一ミリたりとも動かず、私たちはただお互いの瞳を見つめ合っていた。







「左手を見せてくれないか?」


沈黙を最初に打ち破ったのはエルヴィン団長だった。


「はい・・・?」

「受け取ってくれないか?」


左手をとられ、その薬指に先程摘み上げた一輪の白詰草が巻きつけられる。
さっきまで感じていた胸の締め付けは、もはや痛いくらいに高鳴っている。


「団長、これ・・・」

「いや、何でもない。忘れてくれ。」


私が尋ねようとすると、私の左手をそっと離し、すっとその場を立ち上がる。

待って・・・、行かないで。
その意図を聞かせて欲しい!

そう声にならない私の叫びは、胸の痛みと共に彼を追い掛けようと手を伸ばす。


「・・・だんちょ「明日もまた早い、もう休まなくてはな。」


やっと発した言葉は、意図して彼によって遮られる。

今の今まで蓋をして見ないフリをしてきた私の想いは、次から次へと溢れ出そうとしていた。
きっと、エルヴィン団長は物言いたげな私のことには気付いているはずだ。
だけどほんの一言でさえも伝えることを許さないような雰囲気が、その場に漂っていた。

好き──

誰よりも、あなたが。

伝えられないもどかしさに、また胸を痛める。


「この世に平和が訪れた時には、その時はまた改めさせてもらうよ。だから、生き延びなさい。」


消え入りそうな小さな声。
でも、私は聞き逃さなかった。
そして、それを後ろ姿で言葉を溢すエルヴィン団長の背中は、とても大きくて。

左の薬指で、月明かりに照らされ白く淡く輝く白詰草。

きっとこの先、この光景は何があっても私の中で永遠に朽ちることはないだろう──。




【白詰草 FIN】

花季 -hanagoyomi-