オリーブの樹

平和の象徴であるあなた。

だけど
たった1本では結実できないその木。


そんなあなたは
ただひたすらに
穏やかな日々を焦がれている。





***



「もうしらないしらないしらない!」


わたしは今、自宅から馬車で半日ほどの距離の避暑地へ、ひとりで遊びに来ている。



調査兵団のエルヴィン団長は、わたしの夫。

先日大規模な壁外調査があったのだけど、エルヴィンさんは無事に帰還しているらしい・・・と、風の噂で聞いた。


そう“風の噂”で。





今日で何日目だろう。

すぐに帰れるようにって、結婚後、兵団本部のすぐ近所に住まいを設けたのに、エルヴィンさんは全く帰宅する様子がない。

いつでもお腹が空いて帰宅してもよいように
いつでも汗を流せるように
いつでも疲れた身体を休ませられるように

食事だって、お風呂だって、ベッドのシーツだって
いつも万全に準備してあるの。

だけどエルヴィンさんは全く帰宅する様子がない。



先日、偶然会ったハンジさんに聞いた話だと

『今回の壁外調査はとても重要な任務で、エルヴィン寝る間も無いくらい忙しいんだ。
心配かけてると思うけれど、もう少し待ってやって!』

そんな風に言っていた。


エルヴィンさんが忙しい人だなんて、結婚する前から重々承知していた。

だからこそ、ほんの少しの時間でも帰れるようにって、兵団本部の近くに住むことにしたんじゃない。

別に一晩中いて欲しい、だなんて我儘なんか言わない。

ほんの少しだけで良いの。
顔を見たいだけなのに。


なのに・・・もう1ヶ月も顔を合わせていない。


もう、私のことなんてどうでもいいのかな・・・

そんなことまで頭をかすめてしまう。





自宅にひとりでただただエルヴィンさんの帰りを待っているだけだと、流石に気が滅入ってしまうので、現実逃避をするかのように、思い立ってひとりでこんな所まで来てしまった。


今、季節は夏。

オリーブの樹が生茂るこの辺り。

木陰からのぞく木漏れ日の中に、ひっそりと建てられたロッジは、近くを流れる小川の流れる音と蝉の鳴く声が聞こえるくらいで、そのとても穏やかな空間は日々の疲れを癒すのにぴったりの場所。

近所にはひまわり畑もあって、ピクニックしながらお弁当を食べるのなんて、最高の気分。子どもの頃、両親に連れられて遊びにきたことのあるここは、ちょっとした思い出の場所。

なのについてないな。

今日の天気は雨。


しとしとと降り続く雨は、わたしの心の中までどんよりと曇ったものにしていた。

オリーブの樹々は、雨に打たれてゆらゆらと揺れている。

とはいえ、折角自宅とは違うところで一晩を過ごすと決めたのだし、ゆっくりと羽を伸ばそうと心に決めた。


近くに併設されている少し大きめの建物では、ここのオーナー夫妻が住まい兼小さなカフェを営んでいて、美味しい料理も満喫することができた。

小さな露天風呂だってあるから、ゆっくりとお風呂に浸かってリラックスもした。

雨は降っているけれど、こんな贅沢な一人時間もなかなかいいもんだと心は弾んだ。

カウンター席で食事をしたから、オーナー夫妻と沢山お話ししちゃって、ついでに仕事から一切帰って来ないエルヴィンさんの愚痴なんかをこぼしてたら「あらあら・・・」と心配されちゃったけど、穏やかなご夫妻はにこやかにわたしを受け止めてくれた。


なんだか、全く音沙汰のない旦那様にヤキモキしていたけれど、こうやって誰かがわたしの気持ちを受け止めてくれた事で、とても晴れやかな気分になっていた。

と同時に、勝手に一人で遠出してきてしまった事に、ちょっぴりと罪悪感も感じつつ。

次は、エルヴィンさんの予定のない日をちゃんと聞いて、一緒に改めて来よう・・・

そんなことを考えながら、夜は更けていった。





夜、ふかふかの広いベッドでひとり。


ピカッ!ゴロゴロゴロゴロ・・・


激しさを増す、雨と風。

こんな天気の中、ひとりでいつもと違う場所に寝泊まりしていると、不安が心の中を埋め尽くす。



きっと自宅だったら、たとえひとりでもこんなに不安になんてならなかっただろう。

それはなぜ?

それはきっと、エルヴィンさんと一緒に生活している空間だから。

お引っ越しだって一緒にしたし
家具も一緒に揃えて
毎朝外のお庭で摘んだ花を飾ったテーブルで朝ごはんを食べて
お休みの日はソファでゆったり二人で本を読んでくつろいで
夜には同じベッドで深い眠りにつく

そんな毎日を営んできた場所だから。


さみしい───


自分から現実逃避がしたくて自宅を飛び出してきたのに、やっぱりわたしの頭の中はエルヴィンさんでいっぱいで。

会いたくて恋しくて、このどうしようもない胸が締め付けられる気持ちは、やっぱりわたしは彼のことが好きなんだと、改めて気付かされてしまう。

朝になったら、やっぱり帰ろう。

わたしには、あの自宅でエルヴィンさんの帰りを待つ時間が、一番幸せなんだ。

窓から外の様子を伺うと、さわさわと雨風に打たれて滴るオリーブの樹々はまるで泣いているかのようで。

そんな姿に、心がとても痛んだ。





「ただいま・・・」


誰もいない玄関をそっと開く。

きっと今日もわたしひとり。

だけど、いつエルヴィンさんが帰ってきても良いように、窓を開けて空気を入れ替えて・・・と思いリビングに足を踏み入れた時

ソファでうずくまるようにして座る人影が。


「エルヴィンさん・・・!」


わたしの声にピクリと反応して、瞑っていたまぶたを重そうに開けながらゆっくりと振り返るエルヴィンさんは、無精髭を生やして、目の下には酷いクマ。

あまりにも疲れ切った様子に、驚きすぎて声も出ずただ立ちすくんでいた。


「・・・もう愛想を尽かして帰って来ないんじゃないかと思ったよ」


聞こえてきたのは、ぼそりと呟く小さな小さな声。

久しぶりに聞いたその声に、思わず視界がぼやけた。


「・・・わたしこそ、もうわたしの事なんて必要無いんじゃないかと・・・」


震える声で応える。

会えなかったことは、素直に寂しかった。

だけどそれ以上に、生きて帰れることさえも確約されていない、このエルヴィンさんの使命。

そんな中、生きて帰ってきてくれたことの喜び。

そしてまた彼の声を聞くことができた喜び。

そう。

わたし、帰ってきてくれなくて不満だったのは、エルヴィンさんが生きているという実感がほしくてほしくて仕方なかったの。


「おいで・・・」


いつの間にかぼろぼろと溢れていた涙で、ぐちゃぐちゃになったわたしの顔を見たエルヴィンさんは、ふわりと小さく微笑み、わたしへと手を差し伸べる。

差し出された手を取ると、ぐっと引き寄せられ彼の膝の上に腰を落とすと、ぎゅうっと背中に手を回し抱きすくめられた。

あったかい・・・


「もう・・・どこにも行くな。
君なしの人生など、考えられない。
忙しかったとはいえ、随分放ったらかしにして悪かった。」





オリーブの樹は、樹齢もとても長く、環境によっては千年の時を経てもなお実をつけることから、平和の象徴とされている。

だけど、たった一本だけでは、実をつけることさえままならない。

焦がれてやまない平和も、たったひとりではなし得ない。


ひとだって、どんなに安全な場所にいようが、たった一人では生きてはいけない。





雨も上がり、窓の外から差す日の光がカーテンを揺らしている。

あのオリーブの樹々たちも、日に照らされさわさわと喜んでいるだろうか。



そっと、わたしも彼の背に手を伸ばす。


「ううん。・・・おかえりなさい」





【番外編・オリーブの樹 FIN】

花季 -hanagoyomi-