プロローグ

電車に揺られること、約2時間30分。

今となっては実家よりも見慣れた駅に降り立ち、自然と肩の力が抜けたのが自分でもわかって安堵する。一人暮らしを始めて3年目、大学生として過ごすのも3年目に突入した今でも用事があったり親からの呼び出しを受けては度々実家へと帰省しているわたしはつい3時間程前も実家にいた。漸く用事を終え電車に揺られた後に、自宅までの歩道をゆったりと、それでも軽快な足取りで歩く。

駅から徒歩15分で着いて見上げた先はわたしの暮らしているマンションのビル。充実したセキュリティに綺麗な間取り、ワンフロアに二部屋という時点で少なくとも大学生が一人暮らしをする部屋ではなさそうにみえる。世間一般からみてわたしの家はお金持ちと呼ばれる類いに入るのかもしれないが、これでも庶民的な暮らしをしてきた。料理だってそれなりに覚えたし掃除だってできる。ちなみに得意料理はみそ汁!ご飯も炊ける!ほらすごい。そんな庶民派なわたしでも、一人暮らしをすることには反対されたのだ。理由は色々。一人で住むことが心配だ、とかちゃんと暮らしていけるのか、とか。そんな反対を何とか押しきり、親は折衷案として親戚の近くのセキュリティがしっかりとしたマンションに住むことを提案してきたというわけで。つくづく心配性な両親だ。今まで育ててもらったことにはもちろん感謝しているし、仲も良好。しかし流石に過保護すぎる。…なんてことをぼんやり考えながら慣れた手つきでオートロックを開け、部屋に通ずるエレベーターに乗り込むと先客がひとり。

「…っ」

その人と瞳が絡んだ瞬間、わたしは思わず息を飲んでいた。切れ長の睫毛にすっと通った鼻筋、人目を浴びそうな程の高身長で、何よりも彼の持つ綺麗な藤色の瞳は吸い込まれてしまうのではないか、という感覚さえしたほど。わたしはなんとなく、そう、ぼんやりと思った。まるで神様みたいだと。彼と見つめ合った時間なんて実際5秒もないのに、数十分経ったと体感するくらいには長かった。今まで会ったことはなかったけれど、どの階に住んでいるんだろう、なんて考えていると、そういえば彼のことで頭がいっぱいで自分の部屋の階を押し忘れていたことに気づきハッとし押そうとしたのと同時にチン、という聞き慣れた音と共にドアが開く。目線の先にオレンジ色で表示されていたのは、7階。それはわたしの住む階で。この人はまさかエスパーか、もしくは本当に神様だったのかもしれない、そうだそうに違いない。開閉ボタンを押してくれている神様に小さく頭を下げてエレベーターを降りると何故か続いて彼もわたしの後に続いて降りていていよいよ混乱しそうになっている時。

「701に住んでいるのはお前さんかい」

後ろから聞こえてきた言葉を反射的に振り返り、そしてパズルのピースがかっちりとはまった時のように、わたしの頭の中ですべてが繋がる。このマンションはどの階も二部屋しかないこと。7階に住んでいた人は今年の3月で退去していて、隣室が空いていたこと。帰省していたために2日間家を空けていたこと。つまりこの人は、

「先日此方に引っ越してきた702の葛之葉だ。昨日挨拶に伺った時は不在だったようでね。今回はタイミングがよかったな。よろしく頼む」

そう、その人はわたしのお隣さんだったわけで。

「…、701の名字です…!こちらこそよろしくお願いします」

理解はしているけれど頭が追い付いていない状況のなかで何とか言葉を紡いで思わず勢いよく頭を下げる。まるで満足したようにふっと笑って彼は部屋の中へと入っていくのをわたしは立ち尽くしたまま見送った。


なんだろう、この感情は。一目見た瞬間に恋に落ちるというのが今わかった気がした。そう、これは恋だ!きっと。恋。ああ、恋という響きも何だか素敵。だって一目惚れなんて初めてなのだから。自分の鼓動があんなに鮮明に聞こえたのも新鮮で。最後に見た微笑みに未だにドキドキしている。高鳴る心臓の音を抑えるように胸元の服を握りしめて、わたしは決意した。彼のことを知りたい、少しでも。少しずつでも近づいてやる!そう思った。この感情はもしかすると芸能人などに対して抱く憧れやファンのような崇拝的なものかもしれないし、本当に恋かもしれない。それも確かめたいのだ。


こうして、何も知らない彼のことを知るべく、全わたしによる、隣人の生態観察日記が幕を開けようとしているのだった。