荷造りで縛られた心

 王城にある執務室とは思えないほど落ち着いた装飾の執務室がナマエは好きだった。落ち着いているとは言っても、マホガニーの机は良いものであるし、絨毯は質の良いとされるダグザ産だった。そしてナマエは何より、優しく体を包み込むベルベットのソファが好きだった。ナマエは宮内卿の執務室にあるベルベットのソファに腰を下ろし、ベストラ候の仕事が終わるのを待つ。カリカリと書類にペンを滑らせる音が心地よい。
 そうして数刻、ペンを置いたベストラ候はテフを用意するように従者を呼びつけた。そしてナマエの向かいに座る。

「待たせて悪かったな」
「いえ、お疲れ様でした」

 幼い頃から知っている彼女に労われるというのも悪くない。微笑むナマエにベストラ候は仕事の疲れが空気中に溶け出してゆくのが分かった。

「それで、私に話とは?」
「ああ、今日はひとつ、お前に任務を与えよう」

 任務という言葉を聞いた瞬間、ナマエの背筋が伸びる。彼女はベストラの私兵団、ベストラ魔道工兵の中でも猟犬と呼ばれる存在だ。ベストラ候の懐刀であるナマエは、いままであらゆる任務をこなしてきた。そして、今回も恙なく遂行してくれるだろうと、ベストラ候は彼女を呼び寄せたのだった。

「次の大樹の節からヒューベルトがガルグ=マクの士官学校に通うことになったということは知っているな」
「はい。エーデルガルト様をお守りするためだと」
「お前にもその士官学校に通ってもらいたい」
「それは、宮内卿としてのお言葉ですか?それとも――」

 宮内庁職員として命を受けるのか、ベストラ魔道工兵として命を受けるのかで話は変わってくる。宮内庁職員として士官学校に通うことになるのならば、それは皇女エーデルガルトの身の回りの世話をするためだ。エーデルガルトと歳の近いナマエには今までもそういった仕事を幾度となくこなしてきた。しかし、ベストラ魔道工兵として任務を請け負うなら話は変わってくる。ベストラ魔道工兵はベストラ候の私兵団だ。私兵として任務にあたるのならば、エーデルガルトのためでなくベストラの為に動かなければならない。だからこそ、ナマエはベストラ候に尋ねたのだ。

「今のは宮内卿としての言葉だ。しかし、それと同時に私自身の言葉でもある」
「エーデルガルト様の身の回りのお世話をするほかに何をお望みですか?」
「ヒューベルトを守ってくれ。士官学校に行ってしまえば私の目が届かなくなる」
「…かしこまりました。このナマエ=フォン=ミョウジに全てお任せください。この命を持ってして任務にあたります」
「ああ。だがお前が死んではいけないよ」
「はっ」

 早速荷造りをしなければ、とナマエは足早に執務室から立ち去る。それと同時に従者がテフを淹れて持ってきた。

「おや、ナマエはどこに…?」
「行ってしまったよ。私が飲もう、そこに置いていてくれ」

 たまにはテフにも付き合ってほしいものだ。ベストラ候はテフが苦手だった幼い頃の彼女を思い出しては頬を緩めた。



 荷物の少ないナマエが荷造りを終えるのは早かった。そのためエーデルガルトを手伝おうとしたが、大丈夫だと突き返された。そして、ヒューベルトを手伝ってあげたら?と一言。彼もそう荷物の多い人ではなかったと思うが、ナマエはエーデルガルトに言われた通りベストラ邸へと向かった。

「ヒューベルトさん、ナマエです。荷造りのお手伝いに参りました」
「おや、私は自分でやれますよ。私よりエーデルガルト様の方に…」
「エーデルガルト様にはヒューベルトさんを手伝うようにと」
「……そうでしたか」

 ヒューベルトはエーデルガルトにいらぬ気を回されたのだと分かった。彼女は何かにつけてナマエと二人きりにしようとする。おそらくそういう仲になるのを期待しているのだと思うが、幼い頃から共にいると側にいるのが当たり前で、わざわざそういう仲になろうとは思えなかった。

「ヒューベルトさん?」
「いえ、少し考え事をしていました。手伝って頂けるのでしたら、魔導書の整理を任せても良いですか?」
「はい、勿論です」

 そう返事をするナマエの笑顔は確かに女性として魅力的だ。顔の造形も整っているし、何より彼女は男心をくすぐることに長けていた。いつだったかの舞踏会で狙った男を誘惑し、立て続けに暗殺したことが思い出される。その時は流石に恐ろしい女だと思った。
 いつの間にかヒューベルトの荷造りする手は止まり、視線ばかりが動きナマエを追いかけていた。その視線に気が付いた彼女は振り向き微笑む。その瞬間、ヒューベルトの中に今までなかった感覚が沸き上がった。

「ヒューベルトさん、日が暮れてしまいますよ?」
「…ええ、そうですね」
「もしお疲れでしたら、私が荷造りを全て終わらせますよ」
「いえ、大丈夫です。貴女に見せられないものもありますから」
「え、ああ、そうですよね」

 ヒューベルトさんも男の人ですものね、と呟いた声はヒューベルトの耳には届かなかった。もし届いていたとしても、ヒューベルトは否定しなかっただろう。紋章で人々を支配するセイロス教団の話や闇に蠢く者の話は彼女にしたくなかった。そもそもナマエを危険に晒したくないからという理由で士官学校に彼女を連れて行かないことにしたのだ。それだというのに、あの人は余計なことをしてくれる。ヒューベルトは父である宮内卿に内心唾を吐いた。

「ヒューベルトさん、また手が止まっていますよ」
「…貴女は私の母上ですか」
「ふふ。ごめんなさい」

 もし彼女に子供ができたらどんな母親になるだろうか?ヒューベルトは遠い未来に思いを馳せようとした瞬間、心臓にズキと痛みを感じた。名も知らない、顔もわからない、しかし彼女を愛してくれる男の側で彼女が微笑んでいる。彼女と結婚するのはどういう人間だろうか?結婚したら彼女はベストラに仕えることをやめてしまうのだろうか?

「ナマエ、今後どのようなことがあってもベストラの為に力を貸して下さい」
「急にどうなさったんですか?」
「誓いを」

 ヒューベルトの真剣な視線に、この命ベストラに捧げると誓います、とナマエは恭しく頭を下げた。これでこそベストラの猟犬だ。

「今日のヒューベルトさんは少し変ですよ?」
「そんなことありません」
「疲れているのでしょう。荷造りが終わったら、二人でテフでも飲みましょう。焼き菓子も」
「貴女が甘いものを食べたいだけでしょう」
「ふふ、ごめんなさい。ヒューベルトさんなら私に付き合ってくれると思って」
「全く、仕方ないですね」

 従者を呼び寄つけたヒューベルトはテフと焼き菓子の用意を頼む。美味しいテフを飲む為にも頑張りましょう。ナマエが微笑む姿に、ヒューベルトの心臓はドクドクと速さを増した。

「今日は変ですね」

 彼女に言われた通りだ。ヒューベルトは心臓が痛んだり早まったりすることはわかれど、その気持ちに気付くことはなかった。

index / Written by 夜の解像度

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