冷たいてのひら

※「英雄は誰も救えない」その後の話

 ナマエは、鉄面皮と称されるヒューベルトのてのひらが温かいことを知っていた。その手で触れられると、肌は焼けるように熱くなったし、心はぽかぽかと温かくなった。その温もりを知ってもう何年になっただろうか。今では触れ合うことのなくなってしまった肌が、心が、少し寂しい。それでも自立した子供達が孫を連れてくると、心は満たされた。それは彼も同じだろう。孫からはその冷たい表情が怖いと恐れられているヒューベルトだが、ナマエには僅かに口角が吊り上がるということがわかっていた。

 そんな小さかった孫達もヒューベルトの本心を理解し始めた頃、ナマエが倒れた。急なことだった。それからというもの、ヒューベルトは彼女の側を離れることはなかった。料理など出来もしないというのに、焦げ付いたり生煮えの料理を作ってはナマエの側で食した。趣味の盤上遊戯もわざわざ彼女の隣で一人遊びだ。

「ヒューベルトさん、私のことはどうか気になさらないでください…」

 いつの日だったかナマエがそう言ったときは、感情を表に出さない彼が珍しく感情を露わにして怒った。そして涙を滲ませた。年を取ると涙腺が緩むというのは彼にも適用されていたらしい。ナマエはヒューベルトのその気持ちだけでよかった。

「ヒューベルトさん、前にも言いましたけど私のことは気になさらないでください」
「それなら前にも言ったでしょう。私が貴女の側にいるのは私の勝手なのですから、そうとやかく言わないでください」
「この前遊びに来たドロテアさんから聞きましたよ。フェルディナントさん達からの遊びの誘いも断っていると。フェルディナントさん達は貴方を気遣っているのですから、たまには出かけたらどうですか?私は構いませんよ」

 宮内卿の立場を辞してからというもの、ヒューベルトはフェルディナントや黒鷲の学級の同級生達とお茶会に出かけたり観劇に出かけることが多くなっていた。それが、ナマエが病床に伏せてからはぱったりと途絶えた。たまには息抜きをしてほしい、そうフェルディナント達がヒューベルトを誘うことを知っているナマエは彼に行くよう促すが、ヒューベルトは頑なだった。

「大丈夫ですよ、一日くらい。それに、心配なら誰かを此処に呼んで下さい。そうして下さったら私も寂しくはありません」
「……そこまで言うのなら分かりました」

 そうして翌週の良く晴れた日の夕方、ヒューベルトはフェルディナントと劇場に向かった。屋敷に残されたナマエの部屋にはすっかり引きこもりを脱却したベルナデッタの姿。ベルナデッタはナマエの見舞いにと花束を抱えていた。

「ベルナデッタ、花をありがとう」

 ベルナデッタが持ってきた花束はナマエが手紙で頼んでいたロジーナ・ラベンダーだ。それはナマエの、そしてヒューベルトの一番好きな花だった。

「だって、だってナマエが欲しいって言ったんですよ…!」

 半泣きのベルナデッタは花束を花瓶に生けることなくナマエにそのまま手渡す。

「ごめんなさいベルナデッタ、こんなことを頼んでしまって。他に頼れる人がいなくて…」
「無理に喋らなくて良いです!こんな時に、どうしてヒューベルトさんと一緒にいてあげないんですか…!ナマエの馬鹿!ヒューベルトさんが帰ってきたら…どう思うか考えたんですか…」
「………」

 全部ナマエの我儘だ。せめて死ぬのなら、綺麗に死にたいと思った。死に綺麗なものなどないと、戦争を経験した彼女はわかっていたはずなのに、それでも繕いたいと思ってしまった。ナマエはベルナデッタから受け取った花束を胸にしっかり抱く。

「ねえベルナデッタ…伝言をお願いしても良い?」
「嫌です」
「酷いわ。じゃあ紙とペンを取ってくれる?」

 ベルナデッタは渋々ナマエに紙とペンを渡す。ペンを持つナマエの指は力なく、メッセージカードの至るところにインク染みができる。それでも彼女はゆっくりと、この世で一番愛している彼にメッセージを書き上げた。

「ベルナデッタに代筆してもらえばよかった…」
「これで良いんですよ」
「そうね」

 そのままナマエは身体をベッドに沈み込ませて目を閉じる。

「ちょっと疲れちゃった」
「…もう、休んで下さい」

 ベルナデッタはナマエの書いたメッセージカードを花束に差し込んだ。そして、ヒューベルトの帰宅を待ち続けた。



 彼の帰宅を待つうちに、涙は枯れてしまった。ベルナデッタは玄関でヒューベルトとフェルディナントを出迎える。戻ってきたら四人で昔話でもしようと言っていたのだ。涙は枯れていた筈なのに、それでもベルナデッタの目は赤く腫れていた。そのせいで、ヒューベルトは勘付いてしまった。若い時のようには走れなくなった細い脚で彼女の部屋へと必死に駆ける。しかし逸る心に身体はついていかず、部屋のノブに手をかけ、そのまま倒れこむようにナマエの部屋へ入った。
 ふわり、花の香りがした。彼女が、そして自分が一番好きな花の香りだ。ヒューベルトが痛む身体を押さえ立ち上がると、そこには花束を抱えて眠るナマエの姿があった。恐る恐る近づくヒューベルト、花束を抱いた彼女の胸は上下していない。しかし、もしかするとベルナデッタと協力して悪事を働いているだけかもしれない。いつしか息が続かなくなって、息継ぎをして笑いだすのだと、そう信じたかった。

「ナマエ、どうして…」

 触れた彼女の身体は室温と変わらなかった。あれだけ温かかった彼女のてのひらは冷たくなっていた。肌に触れる度に肌を心を焦がしたあの温度はそこになかった。あるのは胸の上にある桔梗の花束と拙い文字の“愛しています”だけ。

「私を愛しているというのなら、どうして側にいさせてくれなかったのですか…!」

 鉄面皮の悲痛の叫びとすすり泣く声にベルナデッタとフェルディナントは廊下でただ涙を堪えることしか出来なかった。



 あの日から、ヒューベルトは笑わなくなった。もともと表情に乏しかったが、それが輪をかけて酷くなった。その姿には周囲の人間も心を痛めたが、どうすることもできなかった。
 その年の誕生日、ヒューベルトの下に桔梗の鉢植えが届いた。差出人にはナマエ=フォン=ベストラの文字。彼女が花屋に頼んでいたものだった。

「全く、貴女って人は…」

 それからヒューベルトは甲斐甲斐しく鉢植えの世話をした。花の手入れなどしたことはなかったが、ベルナデッタの協力を得てどうにか花を咲かせることができた。小ぶりの花が一輪だけ。しかしヒューベルトには一輪あれば良かった。ヒューベルトは桔梗の花を手折り、そのまま屋敷の外へ出る。僅かな使用人は彼が耄碌したかと思ったが、彼はしっかりとした足取りで目的の場所へ向かった。

「ナマエ、こんなに綺麗な花が咲きましたよ」

 父の隣に作ったナマエの墓石の前にそっと桔梗の花を置く。冷静になって考えると、綺麗にラッピングしたら良かったと思う。それでも、この咲いた花を早く彼女に見せたいという気持ちの方が先立ってしまった。

「ナマエ、貴女を愛しています。今すぐそちらには行けませんが、父上と共に待っていて下さい」

 次に会うときは、美味しいテフと甘い菓子を持っていきますから、そう呟くとヒューベルトは立ち上がる。後ろからは息を切らしたベルナデッタ。

「貴女、運動不足だからすぐ息切れするんですよ」

 そう言った彼の口角は僅かに上がっていた。

index / Written by 夜の解像度

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