捕まってしまう。捉まってしまう。
眠ってはいけない。それが例え己にとってひどく耐えがたく、苦痛に苛まれることであろうとも。眠ってはいけない。
──彼の頭にあるのはその思いだけだった。眠ってしまえば、意識を落としてしまえば、全てが終わる。それは本能が察した命の危機。
眠ってはいけない。
■
空は快晴。風も穏やか。何の変哲もない、とある休日の早朝の事である。
藍色のパーカーにライトグレーのチノパンを身に纏ったデュースは、日課になりつつある朝一番のオンボロ寮付近の見回りを済ませて裏口への道を歩いていた。その目前にふと魔力の揺らぎを感じた瞬間、黒とマゼンタが揺れた。
──上から。
「ぅおっ……、……お、はよう、ございます……?」
「うむ、おはよう。今日も早いのうデュース」
降ってきた顔と声を前にして、デュースは驚きを露にしなかった。気を抜いていたわけではないが気を張り詰めていたわけではない。それ故である。肩がびくりと大きく揺れたが大声は上げず、しかし困惑を抱きながら纏う空気は徐々に張り詰めていく。
何故か。それは──
「しばし時間を貰えぬだろうか? ……ちと、力添えを願いたい」
目の前に現れた彼の顔が──いや、瞳が、常にないほど真剣な色を宿していたからに他ならない。
わざわざ休日の早朝にオンボロ寮に赴いたデュースを訪ねるなど、珍しい。何かがあったのだろうか。リリアはオンボロ寮に関わる者たちのスケジュールをある程度把握している。そんな彼が意図的に動いたということは、つまり。
(先輩が対処しきれない、魔法では解決が難しい何かが……)
常世の条理とは逸脱したモノが関わっている可能性が否めない。
まずは話を、とオンボロ寮の談話室にリリアを招き入れたデュースは、まだ起床前である監督生の部屋の前に式文を飛ばした。客人を招いている旨を簡潔に書き記したソレ。彼女が部屋を出てきた瞬間手元に舞い降りるように術式を組んだものである。
ソファーに座るようリリアに促して、デュースは紅茶を淹れるため席を外す。
オンボロ寮にはデュースが持ち込んだ様々な茶葉や茶菓子が多く存在していた。もはや完全にオンボロ寮の一員として立場が確立されつつある。なお茶菓子に関しては、グリムの盗み食い防止のために特定の魔力を込めなければ開かない魔道具に保管。食いしん坊の嗅覚は馬鹿にできないためである。さもありなん。
談話室に紅茶の香りが広がる。スンと空気を吸い込んだリリアの目が瞬く。いつぞや茶会に招かれた時に出された紅茶の香りである。いくつかの茶葉が混ぜられているようだった。ハーツラビュル寮独自の伝統的な配合ではないかと思われる。唯一この茶葉の出所を知るデュースは特に何も話さないため分からないが。
そんな一見穏やかな空気に満たされた空間の中、リリアは重々しく口を開いた。彼自身どう言葉にすれば良いのか選びあぐねいているような様子。
「シルバーが、寝ないのじゃ」
「…………寝ない、と言いますと」
この言葉だけで察するにはあまりにも情報が少ない。
しかしふとデュースは先週末に聞いた噂にも等しい話を思い出した。珍しくディアソムニアの眠り王子が居眠りを一度としてしなかった、と。
……なお、眠り王子とはNRCの生徒らしい彼への皮肉である。
普段から眠りに意識を落としていることが多い彼が、寝ない。その言葉だけを聞くとようやく普通の生活を送れるようになったのかとすら思う。だがリリアの硬い表情や重い空気からして状況はあまり良くないであろうことは察して余りある。
「言葉通り、寝ない。いつもは所かまわずうつらうつらと意識を夢の世界へ旅立たせて居るのじゃがの……全くその気すらない」
「居眠りの多かった先輩にとって良いことでは? ……とは簡単にいかないんですね」
「うむ」
重々しく頷いたリリアの様子に、デュースは表情を引き締めた。
「ベッドに入ろうとすらせん。眠ってはいけないのだ、と。あれ程まで頑ななシルバーを見たのは、久々じゃ。……この二日、一睡もしておらん。うたた寝すらせん」
「は? 二日、あの先輩が……?」
学年も部活も違う、リリアという人物を通じてしか関わりの殆どない相手。それでもデュースはシルバーの眠り癖を知っていた。何せリリアが事あるごとに話題に挙げるのだ。知らないわけがない。故に、現状の異常さに瞠目した。
歯ぎしりせんばかりの表情で言葉を重ねるリリアの顔に滲んでいるのは悔しさと遣る瀬無さ。硬く組まれた両手の爪や指の食い込み具合からして相当な力が込められている。そうすることで何とか自制心を保っていることが窺い知れた。
デュースの眉間がしわを刻み、自然と両眼が細められる。さらに詳しく話を聞く必要性を感じたのだ。
リリアの話を要約すると、シルバーは自らの意思で無理に起きているのだという。
思いつく限りの手段をもって起き続けている。主人と仰ぐマレウス・ドラコニアの言葉にも頷かず。リリアの労りを受け入れず。セベクの苦言には耳も貸さない。ベッドには近づきすらしない。
「絶対に寝ないという気迫が、並大抵のそれではない。つい先ほど、あやつは、己の太ももに万年筆を突き立てておった。これではいつ血を流しても可笑しくはないっ」
そして極めつけが、自傷行為にも等しいこの一件。全くもって正常とは程遠い状態である。そして最も危惧すべきは、リリアほどの魔法士が原因に気付けていない、ということだ。状況は良くない。
紅茶の香りがデュースの鼻をくすぐる。ほんの少しだけ心の落ち着きを取り戻した。しかし、リリアの前に置かれたカップは一口として手を付けられていないまま。常に笑みを絶やすことのない印象の深い彼が、唇を噛み、眉を下げている。
睡眠にまつわる呪いや怪異、それらを思い浮かべてデュースは僅かに逡巡する。どうすべきか。一つ深く息を吐き、決心するように頷くとそのまま立ち上がった。
「事情は分かりました。ちょっと道具を持ってきますので、お待ちください。戻ったら先輩のところへ案内お願いしますね」
「……すまぬな。感謝する」
「いえ。聞く限りだと手遅れになる前に来てもらえたようなので、こちらとしてはありがたいくらいです。お気になさらず。……すぐに戻ります」
断りを入れてデュースはオンボロ寮での自室へと直行する。立ち入れる者を魔法と陰陽術で制限しているその場所には様々な道具を持ち込み保管していた。必要となりそうだと判断した幾つかの道具。それ等を有事の際のために用意していた鞄へと詰め、金属バットを収納したケースを背負い、部屋を出る。──いや、出ようとした。
ドアノブに手を掛けた瞬間、何故か
表情を引き締めて振り返ったデュースの目にまず留まったのは、漆塗りの刀。刀掛けに鎮座している一振りの鞘が主張しているようにも見えた。
……ちなみにこの刀掛け、何故かミステリーショップに入荷していたのだ。そのこともありオンボロ寮とハーツラビュル寮を行き来するようになってから、こちらではバットケースから出しておくことが基本となっていた。
(……これも持っていく方が、良いか?)
無言で手に取りベルトで挟むようにして腰に刀を差す。
デュースとリリアが初めて出会った際、中心にあったと言っても過言ではない物。物理的に斬る能力を失ってなお刀たるモノ。成程、と納得すら覚えた。
部屋の鍵をしっかりと締め直し、リリアの待つ談話室へと足早に戻る。彼は既にテーブルの上を片付け、ソファーを後にして待ちきれない様子で佇んでいた。居ても立っても居られないのだろう。
デュースは階段を静かに駆け下りながら準備が出来た旨を伝える。そして監督生の部屋の前に飛ばした式文を「出掛ける」という内容に上書きしようとしたのだが、その必要も無い事に気づいた。起きてきたらしい監督生が階段の上からひょっこり顔をのぞかせたのだ。客人を招いていることをデュースの式文を通して知っているからか、身なりは完全に整えられていた。
「リリア先輩おはようございます。……あれ、デュース出掛けるの?」
「うむ、おはよう。邪魔をしていた。早朝からすまんの」
「ああ。ちょっとディアソムニア寮まで」
「え、あ、分かった。行ってらっしゃい」
「行ってくる」
彼女の視線がデュースの左側──刀へと注がれている。彼女はデュースが日本刀を扱う所を見たことが無いのだ。純粋に驚いていることが伝わってきた。それを感じながらも気づかないふりをする。今優先すべき事は変わらない。
小さく手を振り二人揃って玄関を飛び出した。向かうはディアソムニア寮。眠り癖がありながらも睡眠を拒んでいるシルバーの元へ。
□
リリアに案内された部屋の片隅で、シルバーは今にも閉じそうな瞼を必死に開いていた。抵抗虚しく今にも意識が落ちそうな様子ではあったが。硬い木の椅子に座ったまま、時折体が傾ぐ様はどうにも見る者の不安を煽る。
苦い表情のリリアとは対照的にデュースはパチリと目を瞬かせた。次いで、ほう、と純粋に感嘆の息を吐く。よく踏みとどまった、とでも言うべきか。本当にギリギリ、最後の一線で彼は最悪の事態を回避していたのだ。
顔を顰めているリリアに視線を向け、デュースは目元をやわらげた。フッと強張りを解いた笑みすら向ける余裕がある。
「ここで僕を頼ってくれて、本当に良かった」
そう手間を取らずして解決できる一件である、と。言外にそう告げられたも同然。そこで漸くリリアは息を吐けたような心地だった。
例えデュースが人の理とは一線を画した世界に通じる知識を持ち、視える人間だとは言え、一目見て状況が分かるというのは余程の事態だ。強く感じたのは執着。獲物をつけ狙うそれだ。
睡眠時には誰もが無防備である。人、動物、この世ならざるモノ、関係なく。その無防備になった所を狙う存在は少なくない。生者、亡者、この世の理からは外れたナニカ。流石に詳しくは探らないと分からない。だが、シルバーは明らかにそういった輩に狙われていたのだ。纏わりつくナニカが付けていた
──シルバーが眠ることを拒んでいるのは、本能で危険を察知した為であった。つまり防衛本能。
茨の谷、という妖精族が多く住まう土地で、人とはある種の一線を画した存在と永く共にあった彼だからこそ。恐らく他の者であれば普段と変わりなく眠りにつき、そして抗う術もなく
リリアに一言断りを入れてデュースはシルバーに近づいていく。その後ろではセベクが様々な感情が入り乱れた表情で事の成り行きを見守っていた。口を開かないことを条件にこの場に居る許可を得ていたのだ。一度睡眠をとらなくなったシルバーと大喧嘩をしているのだから妥当な条件である。
「先輩、良く耐えましたね。──後は僕に任せてください。眠っても構いませんよ」
「し、かしっ」
「大丈夫ですよ。だって今、此処に、リリア先輩に呼ばれた僕が来ましたから」
片膝を折るようにしゃがみ込み、シルバーの顔を下から覗き込むようにしてデュースはそう告げる。その顔に浮かぶのは微笑。まっすぐにシルバーを見据える瞳は不思議な色合いにきらめいている。妙に緊迫した空気の中、あまりにも不釣り合いな穏やかに凪いだ双眸。
今この瞬間にも落ち切ってしまいそうな瞼を懸命に開けていたシルバーは、何故か肩の力が抜けていくのを感じた。
「──貴方が身の危機を感じて睡眠を拒むようになった
その言葉の半分を、既にシルバーの頭は処理しきれていない。デュースの声が鼓膜を震わせても言葉として理解できていなかった。──意識が落ちる。
カクリと傾いだ彼の身体を支えてデュースはズボンの後ろポケットへと手を伸ばす。休日のラフな格好だったためマジカルペンは取りやすい場所に差していたのだ。
「本当に間に合ってよかった。これで僕が来る前に気絶なんかして意識を落としていたら……ややこしい事になっていたところでした」
何となしにそう言いながらデュースはマジカルペンを振るう。半ば気絶するように寝入ったシルバーを浮かび上がらせると、リリアとセベクに目配せをした。この部屋には寝具が無い。それどころかクッションの一つも無い。
いち早く意図を察したセベクは扉を開け放った。そして止まることなく誘導を始める。ふんっと鼻を鳴らさんばかりの様子だ。
道案内に従いシルバーの自室であろう場所へと案内されたデュースは、彼の負担にならないよう静かにベッドへと降ろした。次いでセベクが寝入った彼へと毛布を被せていく。仕草が少々乱暴だったことにはリリアもデュースも目を瞑った。彼なりに心配していたのだろうが、いささか素直さには欠けている。それでも分かりやすくはあるのだが。
「……して、デュース」
「はい」
「これからどうするのか聞いても良いかの」
「ええ。……と言いましても、特に何も」
「は?」
問いに対する答えがあまりにも予想外だったのだろう、リリアは珍しく素でポカンと口を開けた。その反応も尤もである。小さく笑んでデュースは室内を見回す。
「特に何もすることはありません。様子を見守って、後は起きるのを待つだけです。先輩たちも好きに過ごしてもらって問題ないですよ」
ベッドサイドに適当な椅子を寄せ、そこに腰かけるとデュースは左手を添えたままだった刀に右手を伸ばした。
すらり、無言で鞘から漆に塗られた刀身を抜く。デュースはそれをシルバーの枕元に置いた。峰を彼の頭側に、刃を外側に向けて。
白銀の刀身を漆で塗り、「斬る」という本来の能力を失った刀だからこそできる芸当。抜き身の刀を頭上に置くなど通常ならば絶対にしない行為だ。寝返りでうっかり怪我をすることだってあり得る。何せ日本刀は切れ味が良い。それこそ、触れれば斬れる、の文字通りに。
「物を切る能力を無くした刀とは言え、刀とは斬るために在るものですからね。……護って御覧に入れますよ」
シルバーが眠りについてから数十分が経とうとする頃、リリアから借りた本を読んでいたデュースはふと僅かに顔を上げた。目だけを動かしてベッドの彼へと意識を向ける。視界の隅ではリリアが動きを止め、真顔でシルバーの頭上を凝視していた。
ぱたり。デュースは本を閉じた。次いでさり気ない仕草で右手を漆塗りの刀へと伸ばし、柄をしかりと握る。その際に刃の向きを真上へと。次いで刀身を垂直に持ち上げた。
いたって特別な動作には見えない。力など強く込められていない。刃を上に向けて持ち上げる。本当に、たったそれだけの動作だった。
空気がどことなく軽くなったような、息がしやすくなったような、そんな感覚。リリアとセベクは直感的に何かが途切れたことを察する。
何気ない顔で漆塗りの刀を操るデュースは、同席している二人に気取らせないだけでその実かなり慎重に事を進めていた。刀身を通して柄を握る手に伝わる僅かな振動。ふつり、と。紐が切れるような感覚。刀身に乗るデュースの霊力と、刀本来の斬る能力を最大限に発揮させた結果である。
目を閉じることなく意識と勘を研ぎ澄ませて探ること数秒。呼吸にして三拍分。デュースは緩慢な動きで刀をシルバーの頭上へと戻した。持ち上げる前と同じく峰を彼の頭側に、刃を外側に。
一瞬だけ張り詰めた空気はいつの間にか霧散している。何事も無かったかのようにデュースは再び本を開いた。前々世の審神者時代で経験した、手遅れになった事例の記憶。それを奥底に押し込めて深く細く息を吐いた。
数時間後、約二日ぶりにまともな睡眠をとったシルバーは重い瞼を開いた。
鈍い痛みを訴えている頭を懸命に起こした彼は寝る直前のことをあまり覚えていなかったらしい。「白昼夢でも見たのかと思っていた」という言葉には流石のデュースも苦笑いを浮かべる他ない。
リリアには心配と苦言を呈され、セベクからは常にない大声で詰められる。それでもシルバーは心配の裏返しであると分かっているのか、微笑んで頷いていた。あまりの声量に若干眉間にしわが寄っていたのはご愛嬌というやつだ。
こうしてリリアたちから見れば何とも呆気なく今回の一件は終息を迎えた。
──ちなみに、なぜ此度の一件でマレウスの姿が見えなかったのか、というと。
シルバーの頑なに拒否し、頼ろうとしない姿勢にちょっぴり傷いたせいか魔力の制御が若干不安定になった所為である。とは言え大した影響はない。何せ一国の次期国主であるからして、魔力の制御は叩き込まれている。しかし膨大な魔力の起伏は微弱であろうとも他者への影響を及ぼすことがある。
ディアソムニア寮に所属する者は妖精族が多いとはいえ、他種族も在籍している。魔力酔いを引き起こしてしまう可能性がゼロでは無かった。他の寮生のため部屋に籠っていたのである。
何も彼を除け者にしたわけではないし、忘れていたわけでもない。
■
数日後の昼休み。リリアの視線の先では、普段と変わらず穏やかな顔でシルバーが着席したまま眠っている。うつら、うつら。頭が傾ぐ様子からは先日の鬼気迫る様子は微塵も感じられない。
実に穏やかで、実に心休まる光景が戻ってきた。自身の養い子を前にホッと息を吐く彼は微笑を浮かべたのだった。
2022/1/1/【従う・白昼夢・奥底】
読者さん方の夢からも良くない縁が切れますように。
眠る彼と夢路関連、そして夢見主くん。いつかは書きたいと思っていた話なので今書きました。にっこり。
読者さん方の夢からも良くない縁が切れますように。
眠る彼と夢路関連、そして夢見主くん。いつかは書きたいと思っていた話なので今書きました。にっこり。
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