口にあわない



学園の放課後、日も暮れ始めの頃である。空の端が薄らと橙色を帯び始めていた。
昼夜が入れ替わるこの時間帯は境界があいまいになるため怪異と遭遇しやすい。このNRCもまた、例に漏れず怪異の影が見え隠れするのは黄昏から暁にかけて陽の気が静まる時間帯だ。
グラウンドに人影はない。整備の関係で陸上部は既に部活が終わっている。早々に帰寮することに気が進まなかったデュースは図書館へ足を運んでいた。勉強するだけならば初めからオンボロ寮でも良かったのだが、この日に出された課題にはどうしても参考資料が必要だったのだ。借りたのは自身が必要と感じた本と監督生が理解できそうな本。それ等を数冊。
監督生とグリムは恐らく手こずっているだろうなぁ、とぼんやり考えながら図書室を後にした。その帰りのことである。

──あ、口だ。
デュースは廊下の壁に大口を見つけて目を瞬かせた。扉のように縦に張り付いていることから一応の擬態はしているようだが、それにしてはお粗末な出来である。こんなにも堂々と隠れようとせず紛れて・・・いるモノを久々に見た。まあそれでも、視える者は限られているため実際には滅多に気づかれない存在なのだが。獣人や妖精族の中でも危機察知能力が高い者ならば無意識のうちに避けるだろう。
チラリと壁を横目で見てデュースはそのまま通り過ぎた。しかし数歩進んだ後、僅かに歩く速度を緩める。どこか見覚えのある一人の生徒とすれ違ったためだ。それもそのはず、腕章のリボンは常日頃自身が身に着けているそれと全く同じ。ハーツラビュルの上級生である。学年は憶えていない。特に親しいという訳でもない。何かしらの当番で一緒になったことがある程度の知り合い。
すれ違った際ふと嫌な予感がしたのだ。虫の知らせ、というやつである。直感が彼をそのまま放置しておくのは良くないと訴えかけてくる。
はぁあ、と盛大に息を吐いてデュースは肩を落とした。次いで流れるように振り返り大股で距離を詰める。

(……まあ、何かあって寮内がごたごたするのも面倒だしな、仕方がないか)

何かしらの力が放たれている所為か。ぽっかりと開けられたその大口が、開いた扉に見えているのだろうか。彼はそのまま自ら大口の中へと足を踏み出そうとしている。食虫植物の香りに引き寄せられる虫のように。若干見受けられる足もとのふらつきはソレと似たような作用の所為だろう。

なぜ積極的に首を突っ込むと決めたのか。それは、後々を考えると放置する方が面倒だから、という理由が第一にある。これに尽きると言っても過言ではない。ハーツラビュル寮のトップに立つのは、規律に厳しいリドルである。もしもこの生徒が寮独特の法に則って本日何かしらを任されているとしたら。そして既定の時間に寮へ戻れなかったとしたら。……考えたくもない。

「そっちに行くのはお勧めしませんよ」

瞬時に追いついたデュースは、右手でその襟首をつかんで動きを制止する。しかし完全に間に合っていないことを察した。彼の片腕が口の中に伸ばされている。救いはまだ口が閉じられていない事だろう。
完全に動きを制止できるわけがなく腕にそれなりの力を入れる羽目になった。──襟首をつかまれ首元が閉まった状態だというのに、何の反応もない。
デュースが静かに目を細めたのは一瞬。掴んだままの右手に力を込め、後方へと力任せに引っ張った。
ごろんと床に転がされた彼は辺りを見回した。何が起きたのか分かっていない様子で目を白黒させている。ようやく反応らしい反応が返ってきた。

「お、い! 何すんだ一ね……」

一年、と言おうとしたであろう言葉が途中ですぼみ消えていく。
タイミング良く、いや、悪く、とでも言えばいいのか。人なれしている様子の鳥が大口の中に入ってしまった。間髪入れずに口が閉じられる。その瞬間をデュースは当然として床で転がったハーツラビュル生も同様に目撃してしまった。何故常ならば視えないはずのモノが視えているのか。それは大口の干渉を受けているためだ。獲物として狙われた彼は限定的にその姿を捉えることが出来てしまっていた。
ばく、もぐ、ぺっ。
擬音にするならばこんなところだろう。色の悪い唇が動く。口が閉じ、ぐにゃりと歪み、吐き出される。瞬きの間に解放された野生の鳥が慌てたように羽ばたいていった。
薄暗い廊下に灯る照明が僅かに揺れる。チリリと空気すら揺れたような妙な感覚。後ろに引き倒されたままの彼は心臓がドッと跳ねた。嫌な跳ね方だ。早鐘を打っているのが嫌と言うほどわかる。ただ立ち上がろうとしているだけだというのに耳の内側に鼓動が響いている。上体を起こそうとと床に着いた手の指先に力が入らない。照明が届き渡らない仄暗い場所から、何かが滲み出て這い寄ってきそうな錯覚に襲われる。
もしかすると、もしかしなくとも、こうして転ばされたような状態でいるということは。つまり──?

(俺は、あの鳥と、同じになるところだった……?)

この生徒にとっての不幸は、中途半端に頭が回るというところだろう。気づかない方が幸せな事とは儘あるものである。
ああ、視えているのか。顔を強張らせ凝視する彼に気づいたデュースが優しくフォローしようとする。一応、という言葉がつくが。恐慌状態になられても困るのはデュースの方だからだ。相手の心を落ち着かせよう、安堵させよう、と。意図して作られた優しい微笑みを浮かべて口を開いた。

「なんて顔をしてるんですか。回避できたんですから良しとしましょう」
「っ!」

だが残念なことに全くもって効果が無い。いや、それどころかむしろ逆効果だった。この異常事態で常と変わらない笑顔。何でこの状況で笑えるんだ、と、より一層怯える人間の出来上がりだ。はぁあ? と顔を引き攣らせたまま顔をデュースへと向ける。とはいえこの顔も、せめてもの矜持が体面を持たせているだけだ。瞳は動揺と恐れで揺らいでいる。

「……そういえば確かありましたよね、七不思議の中に似たような話」
「え、あ?」
「ええと『突如出現するどの教室にもつながらない扉』とか『廊下の壁に正面からぶつかった生徒が突然消える』とか。……これっぽいですよね。専門家を呼んで駆除していないってことは、まあ放っておいても良いと判断されたヤツなんでしょうかね」
「いや知らねぇよ」

床に手を着いたままの彼はより一層憔悴した表情を浮かべた。軽い調子でそう告げたデュースを信じられないと言わんばかりに見上げる。何で今その話をした。配慮の気持ちはないのか。そんな言葉が聞こえてきそうな顔だった。
チラリと視線を戻せば彼の視界から大口は消えていた。色の悪い唇も、薄茶色で並びの悪い歯も無い。扉だと思ったはずの場所には廊下の壁がいつものように存在していた。

「……七不思議って害があんのか無いのかはっきりしてんのか? ってか、アレは何処に繋がってんだよ」

言いたいことは山ほどあるが、それを無理やり飲み込んで彼は問いを口にする。正確な答えが返ってくることなど期待していない。むしろ積極的に知りたいとも思わない。だが何かしらの疑問を払拭しないと立ち上がれないような気がしたのだ。何も分からないという状態も、逆に恐怖を煽られる一因となる。

(怖いもの見たさ、ってやつか?)

挑むような視線を受けたままのデュースは、気付かれない程度の小さな息を吐く。居合わせて被害が出る前に回避できたのは偶然である。七不思議もとい不可思議な現象について何でも知っているとでも思っているのだろうか。いや、もしかしたらある種の意趣返しなのかもしれない。答えられるわけがないだろう、という。
デュースとて全てを把握などできていない。むしろ知らない、知れない、知ろうとしないでいる事ばかりだ。
ただ現時点で言えるとすれば、それは──

「さあ、僕は知りませんよ。でもさっきのは口ですからね。生物として存在が確立されているのなら、次に行くのは……」

あたかも考えているかのようにデュースは中途半端に言葉を切った。獲物の誘い方といい、捕食と思われる様子といい、おそらくはそういうことだろう。立ち上がろうと動き出した彼から視線をずらし、デュースは僅かに目を細める。視線の先には本来ならば壁しかない。しかし両眼はソレを確かに捉えている。大口はまだそこに存在していた。通常の状態に戻ったであろう彼には既に視えていない、今回の元凶。

「……そう、かよ。ぁあそういや当番だ、寮に戻らないとマズいんだった! じゃあな!」

彼は今しがたの返答を打ち消すかのように声を張り上げる。
自ら問いかけておいて後悔していたのだ。聞かなければよかった、と。ジワリと目頭に水分が溜まっていくのを自覚する。重く圧し掛かる、命の危機に曝されていた可能性という事実。この場から早急に離れたかった。
立ち上がったは良いものの彼の足元は若干ふらついている。恐怖の所為か、それともあの大口の干渉の所為か。どちらにせよデュースの手が必要な状態ではない。その判断から、立ち去る彼をそのまま横目で見送った。そして、この日何度目になるか分からない溜息をつく。

「…………アレの口に合わなくて良かったですねぇ」

囁くように零されたその呟きは、彼の背に届くことは無かった。



2022/4/10/【心臓・知らせ・灯る】
七不思議関連で泣かせた夢見主。其の壱。
手の込んだ自滅をする先輩。聞かなければいいのにね。
ちなみに今回の夢見主くんの感想は「きったねぇし口臭ヤバい」です。特別に危機感はナシ。もし次に会ったら口の中に何かをポイッと入れるかもしれない。



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