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月神香耶side
慶応三年、六月の夜。開けっ放しのふすまから入る、ぬるい風が肌を撫でた。
「香耶さん、ちょっと来て」
部屋の外から名を呼ばれて、私は顔を上げた。
繕っていた縫い物を脇に置く。
彼の表情から真面目な話だと予想して、行灯の火を消した。
私が廊下に出ると、総司君は私の手を引いて、広間へと向かう。広間のふすまを開けると幹部が勢ぞろいしていてなんとも暑苦しい。
そして彼らと相対しているのは……。
「香耶、久しぶりね!」
「千!?」
千と、その横に控える忍び装束の菊ちゃん……もとい、君菊さん。
私が千のところに歩み寄ろうとすると、総司君が私の手を引っ張って留めた。
「香耶さんはこっち」
と、連れて行かれたのは総司君の膝の上。
「沖田さん? 香耶を放してあげてくださいません?」
「君に指図される覚えはないよ」
「今から香耶には大ー事な話があるんです!」
「僕は香耶さんから離れないよ」
「あ、あのぅ…?」
なんだろう。この険悪な雰囲気。
「おい総司、話が進まねえ。香耶は横に置いとけ」
「置いとけって……」
「はいはい」
言われて総司君は、私を膝から降ろし、手をぎゅっと握る。
千の物言いたげな視線を受けて、私はそっと苦笑いしておいた。
だってこれが総司君の最大の譲歩なんだろうからね。
千鶴ちゃんもまたこの混沌とした場に呼ばれた理由が分からなくて、首を傾げた。
「それで、お千ちゃん。ここにはなんの用で来たの?」
「千鶴ちゃん、私ね、貴女と香耶を迎えに来たの」
「えっと……、どういう意味?」
広間に戸惑いが広がる。
総司君の手にぐっと力がこめられた。ちょっと、手が痛いよ。
「時間がありません。すぐにここを出る準備をしてください」
「どうして、あなたたちと?」
「そうだぜ、訳がわからねえ! いきなり訪ねてきて会わせろって言い出すし。会わせたら、いきなり連れてくだ? 頼むから、俺らにも理解できるように説明してくんねえか?」
「私からもお願い、お千ちゃん」
「……そうね。じゃあ、順を追って説明しましょう」
そう言って、千はみんなをぐるっと見回した。
「あなたたち、風間を知っていますよね? 何度か刃を交えていると聞きました」
「……なんでそのことを知っている?」
歳三君が眉間をしかめる。
「ええと……この京で起きていることは、だいたい耳に入ってくるのです」
「なるほど。おまえも奴らと似たような、うさんくさい一味だってことか」
「あんなのといっしょにされると、困るんだけど。でも、遠からず……かしら」
「……まあいい、風間の話だったな」
「あいつは、池田屋、禁門の変、二条城と……何度も俺たちの前に現れている薩長の仲間だろ」
左之助君の言葉で、私もこれまでにここであった事件の数々を思い出した。
「仲間っていうより、彼らは彼らの目的のために動いてるみたいだけどね」
「どっちにしても、奴らは新選組の敵だ」
「彼らの狙いが香耶と千鶴ちゃんだということも?」
「承知している。彼らは自らを鬼と名乗っている」
近藤さんの口から出た『鬼』という単語に、ぴくりと千鶴ちゃんが反応する。
「彼らが鬼という認識はあるんですね。ならば、話は早いです。
実を申せば、この私も人ではありません。私も鬼なのです。本来の名は、千姫と申します」
優雅に一礼する千姫は、やんごとなき身分の姫君のようだ。実際そうなんだけどさ。
さらに菊ちゃんもそれにならって頭を下げた。
「私は、千姫様に代々仕えている忍びの家の者でございます」
「なるほどな。やけに愛想が良いと思ってたが、てめえの狙いは最初っから新選組の情報を仕入れることか」
「さあ、なんのことにござりましょう」
歳三君の鋭い眼光を、菊ちゃんはにっこり笑ってさらりとかわす。
「おい、知り合いなのか?」
「よく見ろ、新八。君菊さんだ。島原で会ったときと服装は違うが、顔は同じだろ?」
「な……何ぃ!?」
新八君は左之助君の言葉に面白いくらいびっくりしていた。
千鶴ちゃんも、目を見開いてまじまじと忍服姿の菊ちゃんを見つめる。菊ちゃんはそんな彼女ににっこりと微笑んでみせた。
千の話はまだ続く。