185
(何色の花が咲くんだろう/徳川)
「わぁ海が見えたよ、とっても綺麗」
電車の窓の外を眺めながら、キラキラした笑顔で言うゆめみに、徳川は申し訳なさを通り越して不思議だなと思った。
4月に入って数日後のある日。
徳川とゆめみは、千葉の漁師町へと向かっていた。
東京駅から電車で1時間半、そこから徒歩30分の道のりだ。湘南から来た彼女は更に1時間以上電車に乗っていることになる。
3月後半に東京の祖父の家で医学の修行をしたゆめみ。その時に徳川にお世話になったゆめみは、お礼になんでもしてあげると言った。漁師町に一緒に来て欲しいと言ってしまったことを、徳川は後悔していた。
あまりにも遠過ぎるし、個人的な内容過ぎる。しかしゆめみは何度もいつ行くの?カズヤくんのお願い絶対に叶えるからねと繰り返し、根負けする形で今日の遠出が決まった。
海育ちの彼女にとっては、きっと海に行くことは珍しいことでも無いし、あまりに遠い場所へ付き合わせてしまうことを徳川は申し訳無く思っていた。
途中で疲れたゆめみにどんな不平不満を言われても仕方ないとさえ思っていた徳川は、目的地近くなっても楽しそうなゆめみに驚いていた。
「珍しくもないだろう?」
徳川がまだ「綺麗だな」と言っているゆめみに確認すると、ゆめみはその瞳を徳川へと向けて笑う。
「千葉の海は初めてなの、ドキドキしちゃう」
海が好きなんだな。海育ちの徳川もその高揚感は理解できる気がしてにこりと笑って「それは楽しみだな」と返した。
「あっ着いたよ、おりようカズヤくん!」
電車が止まると、ゆめみは真っ先に飛び出して、きょろきょろしていた。
ゆめみが楽しそうなのでほっとする気持ちと、駅から降りた後、更に30分歩くことになるが大丈夫だろうかとまだ心配が残っていた。
だがもしゆめみがこれ以上歩けないと言ったらおぶればいいと心に決めて、徳川もゆめみを追いかけて電車を降りた。
「少し冷たいけど、気持ちがいいよ!」
結論から言うと、何の心配も要らなかった。
ゆめみは景色を楽しみながら、楽しそうに鼻歌まじりで海までの道のりを歩き、砂浜が見えると、嬉しそうに走って行った。
そして靴下とスニーカーを浜辺にぽいぽい脱ぎ捨てると、ズボンを捲って一目散に海へと入って行った。
楽しそうにバシャバシャと海水を蹴り上げて歩くゆめみは「カズヤくんもおいでよ」と手を振った。
そんな景色はとても平和で、徳川はずっと見ていられるなと思った。
この場所には何度も来た徳川だったが、今までは通り過ぎるだけで、海に入ろうと思うどころか砂浜に足を踏み入れることさえしなかった。
ゆめみが何度も呼ぶので、徳川も靴を脱いで砂浜へと足を踏み入れる。
4月初めの海は決して泳ぐのに適しているとは言えず、ひんやりとした砂の感覚が新鮮だ。
今までは遠くから見ていただけだったので気が付かなかったが、近くに来ると貝殻やシーグラスがたくさん落ちていた。
徳川はその中でさくら色のシーグラスが目に入り、思わず拾った。完全に角が取れた丸い形が太陽の光を受けて淡く光る。優しい色合いがゆめみに似合うと思った。
ゆめみに近づくと、ゆめみもシーグラスを拾っていた。群青色のシーグラスだった。
「海、深海みたい・・・」
太陽の光にそのシーグラスをかざしながら、自然と徳川の方を見る。
目が合った。ゆめみは数秒徳川を見つめた後に、「このシーグラス、なんだかカズヤくんに似合うね」と言った。
少し大きめの波が来て、不安に思った徳川は手を差し伸べる。手を掴んで欲しかったのに、ゆめみはその手の上にコロンと群青色のシーグラスを乗せた。
この色が一番好きだったと思い出した。
ゆめみはにこにこ笑って「カズヤくんにプレゼント」と言う。
欲しかった訳では無かったが、嬉しいと思った。
すぐにまた波が来て、徳川はゆめみを抱き寄せた。そして代わりにさくら色のシーグラスをその手に掴ませた。
「では交換しよう」
ゆめみは「ありがとう、綺麗な色」と嬉しそうだ。
「お花みたい」
『ゆめみちゃんに似ているよ』と言おうとして、言わなかった。お花みたいに可愛いと思っていることに気付かれてしまう気がした。
「宝物にするね」
ゆめみが徳川に笑いかけた瞬間、ビーチボールがこちらへと飛んで来た。
中身は空気なので痛くは無いだろうが、ゆめみに当たりそうだったので、徳川は片手でキャッチした。
「すみません!」と駆け寄って来たのは、中学生の男の子だった。
色素の薄い茶色い髪をかきあげたその姿に、ゆめみは見覚えがあった。
彼もそう思ったのだろう。
ゆめみを見て少し驚いたような顔をした。
「確か立海大付属の・・・」
「えっと、確か六角中の佐伯くん、だよね?」
千葉のテニス強豪校の六角中の生徒だった。
六角中は毎年関東大会にも全国大会にも出場している強豪校のため、大会で何度か見かけたことがあったのだ。
「名前覚えてくれてたんだ、なんだか嬉しいな」
そう言って笑った彼の笑顔は爽やかで好印象だった。
ゆめみと佐伯がお互いに少し照れていると、徳川が「気をつけてくれ」とビーチボールを佐伯へと投げた。
佐伯はそれをキャッチしながら、初めて徳川に気付いたように「すみませんでした!」と慌ててお詫びをした。
その後で「徳川さんの知り合いとはね」と驚いたように言った。
どうやら徳川と初対面じゃなさそうだと思ったゆめみは徳川を見上げた。
「もしかして海で遊ぶのが目的じゃなかったの?」
徳川は少しだけ眉尻を下げた。
その表情の変化に、答えが肯定だと気がついたゆめみは恥ずかしくなって、その両手で口を押さえた。
完全に早とちりだ。砂浜に来たのだから遊ぶのだろうとそう思ってしまった。
「ごめんなさい・・・」
「いや気にしないでくれ」
徳川もゆめみに十分な説明をしていなかったのだ。それに、海で遊ぶゆめみが可愛かったのもある。
「サエさーん!遅いよー」
「つまんないのねー」
とその時、同じく六角中のメンバーがいつまでもボールをとって来ない佐伯に痺れを切らして駆け寄ってきた。
葵と樹である。
「ごめんごめん、オジイのお客さんに会ってね」
佐伯の言葉に、樹も「あれ、キミは確か」と言いかける。ゆめみも樹のことは知っていた。
「立海大付属中のゆめだゆめみです」
ゆめみは選手では無いので、きっと名前までは知らないだろうと思った。何となく自分だけ知っているのも気まずくて、名乗ってみる。
「知り合いなのか?」と徳川に聞かれて、ゆめみは「六角中テニス部のレギュラーだよ、六角中のテニス部は全国区なの、すごく楽しそうにテニスをするの、それで強いってすごいよね」と説明した。
「かっ、可愛い上にいい人だ・・・」
「良い子なのね」
ゆめみの説明に気を良くした葵と樹の表情が明るくなる。
「オジイの家まで送るよ」
佐伯はゆめみに手を差し伸べた。
話が見えないが徳川が否定しないので、『オジイの家』が徳川の目的地でもあるんだろうなと思ったゆめみは、その手を掴もうとした。
が、佐伯の手に乗せる前に徳川に掴まれた。
微妙な空気になる。
「ハハ、こっちだよ」
佐伯は気にしていないようで、爽やかに笑うと、砂浜から山の方へ案内してくれた。
恐らく徳川が場所を知っていると思ったゆめみだったが、親切にしてくれる佐伯達の好意を断ることはしなかった。
砂浜では、手を繋いでいたゆめみと徳川だったが、道に戻ると自然とゆめみは中学生の中に紛れた。徳川が後ろをついていく形となる。
「佐伯くんと、樹くんと、えっと、それから」
「あぁ、こっちは葵剣太郎、もうすぐ中学1年生」
「よろしくお願いします!」
「わぁ、入学おめでとうテニス部に入るの?」
「モチのロンです!ボク強いですよ」
「自分で言ってるのねー」
「こんなところで立海のマドンナと会えるなんてすごいなぁ!嬉しいです!」
そう言ったのが、佐伯、樹の3年生組では無く、1年生の葵だったので、ゆめみは「私を知ってるの?」と驚いた。
「もちろんですよ!」と笑う葵に、ゆめみは首を傾げる。
「六角中では小学生の時から試合を観に行くことが多いから、剣太郎も去年も一昨年も大会を観にいっているのさ」
佐伯は丁寧に説明してくれたが、ゆめみはなおも不思議そうだ。ゆめみは去年も一昨年も確かに関東大会、全国大会の試合を観に行ったが、レギュラーでも無ければマネージャーですら無かった。
そんな自分をこんなに皆が知っていることがとても不思議だった。
「えっと、ゆめださんともう1人の女の子は結構有名人なんだよ」
「えっ、そうなの?」
「立海大付属中は優勝校で皆注目していることもあるけど、ほら男だからさ、可愛い子はほっとけないというか」
佐伯の話をまとめると、ゆめみとゆめこは男子中学テニス部界では有名人らしい。
立海レギュラーと一緒にいるのは結構目立っていたようだ。その上、ゆめみもゆめこも容姿に恵まれている。
そんな自分達は今年からマネージャーになる。ゆめみが3月末に承諾した後、ゆめこもマネージャーになって欲しいとお願いして、承諾してもらったのがつい一昨日のことだ。ゆめみはゆめことマネージャーが出来るということで大喜びした。
もしかして私達がマネージャーになるのって中学テニス界の一大ニュースなのかも、なんて考えた。
「まぁ、俺は大会で会う前から知っていたけどね」
「え?」
「青学の不二とは幼馴染なんだ」
ゆめみは思わず「あの不二くんと?」と眉をひそめた。最近では仲の良い友情を築けているとは思うが第一印象は最悪だった。
佐伯はゆめみの反応に「あれ?不二ってそんな感じ?」と笑う。
「ゆめださんって面白いね」
大体不二の話をすると、色めき立つのに、正反対のゆめみの反応に佐伯は大笑いした。
「なになに?何の話ー?サエがそんな風に笑うの珍しいのね」
「油断も隙もないなぁ、サエさんは」
いつのまにか話題が分かれていた樹と葵が、佐伯の笑い声に前に出てくる。
にやにやと冷やかされた佐伯は堪らず「そんなつもりはないよ」と返した。
楽しく会話をしながら、海沿いを歩いていくと、山の方に長い階段が見えた。
階段を登った先には門がある。
階段に入ると、佐伯、樹、葵の3人は「オジイー!お客さんだよー!」と言って階段を駆け上がって行った。
「カズヤくん、ここで合ってた?」
さっきから無言の徳川が少し気になって、ゆめみは徳川を見上げる。
「ああ」
徳川は短く返事を返した後、少しぶっきらぼうだったかな、と思う。
正直言って、先程のやり取りは楽しいものでは無かった。でもそれを悟られたくは無かった。
徳川は実は嫉妬していたが、彼もまた天然なのでそれには気が付かない。
「もしかして具合が悪いの?」
ゆめみが一段階段の上から、そっと徳川の額に手を当てた。ひんやり気持ち良いと思う。少しだけ気分がマシになった。徳川は「悪い虫が付きそうでな」と言い訳した。
虫とはもちろん佐伯達のことだったが、言葉通り受け取ったゆめみは「カズヤくんも虫が苦手なんだね」とクスクス笑った。
怖いものなんか何も無さそうなのに、と笑うゆめみが可愛いと思う。
「まだここに来た目的を説明していなかったな」
徳川はゆめみが階段を登りやすいように手を添えながら、説明を始めた。
昨年のU−17合宿でお世話になった監督に、更なる強さを求めるならばとここを訪れることを勧められたらしい。
瞑想をすることで、洞窟を進んでいき、門を見つけることが目的らしい。
門の向こう側に行けば、精神レベルを自在に操れるようになるらしい。
昨年の12月から週末毎に通っているとのことだったが、まだ『阿修羅の新道』にたどり着いてはないないらしい。
ゆめみはゆっくりと話す徳川にもっともらしく頷いていたものの、ハッキリ言って全く理解できなかった。
何のことだろう。
それでも真剣な徳川の士気を削ぐ訳にもいかず、ゆめみは階段を登り終える前に「そうだったんだね」と全てを理解したもののように微笑んだ。
ゆめみがちっとも理解していないことを徳川も察したが、ゆめみがにこにことしているので、満足した。
門を抜けると、そこは寺だった。
寺の縁側に、ふかふかの座布団が置いてあり、そこに1人の老人が座っていた。
その人は、六角中の監督だった。
六角中のメンバーからはオジイの愛称で親しまれ、確かラケット作りが趣味ですごいと蓮二が言っていたことを思い出す。
「お師匠様、本日もよろしくお願いします」
徳川が頭を下げたので、ゆめみも敬うようにお辞儀をして「ゆめだゆめみです、お邪魔させて頂きます」と挨拶した。
「ほーうほーう、それが徳川くんの選択じゃな」
とだけ言った。
その表情は変化がなかったが、ゆめみが靴を脱いで寺に足を踏み入れると、オジイは「うぇるかむ」と言った。
徳川について行くと、そこは広い和室で襖が全て開けられ、外の景色がよく見えた。
隣の部屋では、小学生達がカードゲームをしたり、漫画を読んだりと大盛り上がりでうるさい。
全く瞑想に適しているとは、思えなかったが、徳川はそこに胡座をかいて座り、手のひらを上に向けて、そっと足の上に置いた。おそらくそれが瞑想のポーズなのだろう。
ゆめみはそっと隣に座って無言で瞑想を始めた徳川を見つめていた。
かっこいいと思う。
数分も経たないうちに、一度徳川が目を開ける。ゆめみに対する説明不足を思い出したのだ。
「帰りたいかもしれないが・・・」と切り出した徳川に、ゆめみは首を振った。
「私のことは気にしないで、ずっとここにいるからね」
にっこりと笑って「今日は洞窟の先に着けるといいね」と言った。
ちっともわかっていないだろうに、と思うが、その言葉に安心して、徳川はまた目を瞑った。
徳川はピクリとも動かない。
一瞬息も止まっているのではと心配になるが、凝視していると、僅かに肺が動いているのを感じてほっとした。
「ゆめださん、UNOしない?」
隣の部屋から佐伯が顔を出した。
よく見ると、小学生に加えて中学生も加わりさらに人数が増えていた。楽しそうだなとは思うものの、ゆめみは佐伯の声のボリュームが気になって、唇に人差し指を当てた。徳川の瞑想の邪魔をしたく無かった。
「そこの彼なら絶対に起きないよ」
ゆめみが不思議そうな顔をすると、佐伯はずいっと顔を近付けて来た。
「彼は今精神世界に行っているからね、もしここでゆめださんに何かがあったとしても・・・ね」
その言い方がなんだか少し怖い。
ゆめみはちょっと後ろにズレて佐伯と距離を取った。よくは分からないが、それはここを離れられる理由にはならないなと思った。
だってそれって、ここにある徳川の体は無防備と言うことでは無いのだろうか?
「私はここでカズヤくんを見守っているから」
小さい声で、しかしハッキリと言ったゆめみに、佐伯はにこっと爽やかな笑顔で「わかったよ」と言って立ち上がった。
すぐに承諾してくれたので、ゆめみはそっと息を吐き出す。
「サエー!テニスしようぜ!」
隣の部屋から声が聞こえて、佐伯は「いいよ!」と大きな声で返事をする。
聞こえていないかもしれないけど、ここには瞑想している人がいるのだ、出来れば静かにしてほしいとゆめみは眉をひそめる。
佐伯は最後に振り返ると「俺は裏のテニスコートにいるから、気が変わったら来なよ」と言い残して去って行った。
また部屋には2人きりに戻る。
とは言っても、隣の部屋へのドアは開けられていて、子供達が大騒ぎしている。
しばらく動かない徳川の顔をまた見つめていた。
『精神世界へ行っている』
佐伯が言った言葉がゆめみを不安にさせた。精神世界ってどこだろう。ここから遠いのだろうか。帰って来れなくなるということはないのだろうか。
しばらくまた徳川を見つめていたが、その姿には変化が無い。
何度も来ているようだったし、きっと大丈夫なのだろうと思い直して、ゆめみは少し目を離した。
寺の外に咲く植物を見て、その名前を思い出したり、柱や天井の木目を眺めて何かに似ていると思ったりした。
2時間くらいが経過した。暇である。
でもここを離れる気にはなれなくて、ゆめみはまた眠るように目を瞑ったまま動かない徳川を見つめた。
カズヤくんは今どこにいるんだろう?と考える。先程徳川から聞いた情報をゆめみは心の中で反芻した。
『阿修羅の新道』の門を探して、洞窟を進んでいくと言っていた。その洞窟は佐伯の言っていた精神世界にあるのだろうか。
どこかにあるのだろう精神世界に想いを馳せる。今彼は洞窟を進んでいるのだろうか?
歩き続けているのだろうか?
そこは寒い場所なのかな?
『彼はどうしてここに私を来たかったんだろう?』
そんなことを考えているうちに、ゆめみはいつのまにか眠たくなった。
今朝は6時の電車に乗るために4時半起きだったことを思い出す。
その時、徳川は精神世界の洞窟の中をひたすら歩き続けていた。
徳川は黒い修行僧のような格好をしている。
瞑想を始めて気がつくと、いつもこの格好でこの洞窟の中にいた。
上と下しか分からない、閉鎖空間だ。
何となくより明るい方を目指して歩き始めて、ずっと歩き続けてきた。
それがいつも続きから始まるのか、また最初から始まっているのかも分からない。
師匠であるオジイから『凪いだ精神状態』になると『阿修羅の新道へ続く門』が現れると教えてもらったが、そのゴールは検討もつかないと思った。
少しだけカーブしている洞窟は、奥が見えないほど長く長く続いている。
並の神経では、耐えられない環境であっても、徳川は一度も足を止めたことは無かった。
『強くなりたい』
ただそのシンプルな願いだけが彼の足を動かしてきた。
それでも足が止まりそうになると、いつも思い出した。昨年の10月の屈辱を。
『死んでも倒したい奴がいる』
平等院の憎たらしい顔を思い浮かべると、血が沸騰するような力が湧いて来た。
あの男に打ち砕かれた自尊心プライドの破片が、今でも心臓に突き刺さるように痛む。
この痛みから逃れることが出来るのなら、他の苦しみなど全て受け入れられる。
だからいつまででも歩き続けられると確信していた。
しかし同時に徳川は、今のままではきっと門へは辿り着けないだろうことも分かっていた。
『強い精神と弱い精神の均衡が取れた状態』
それが凪いだ精神状態らしい。
『何でぇ・・・弱さ・・・見せないの?』
師匠からも言われたが、平等院のことを考えると、ひたすら強い精神になっていく。
それではきっとダメなのだろう。
弱い精神が必要なのか?
弱さを受け入れること、それが何より難しい。
そもそも弱さなど必要無い。
自分は強くなりたいのだから、ただ強くあればいいのではないのか。
『弱さ』とは何だろう?
にこりと恥じらうように微笑む女の子を思い出す。
徳川が人生を振り返り、その言葉を真剣に考えて、最初に思い付くのはその女の子、ゆめみだった。
ゆめみが弱いと言う訳では無い。
しかし、ただ弱さに1番近い気持ちになるのは彼女が絡んだ時だった。
弱い自分を誰か1人にだけ、こっそり見せなければいけないとしたら、自分はゆめみを選ぶだろうとも思った。
そして、ゆめみならどんな自分でも受け入れてくれる気がする、という期待もあった。
ゆめみは思い浮かべて、少し笑みがこぼれる。
子りすのような彼女が、早くも懐かしい。
と、その時、全く変化がなかった世界に変化が訪れた。
「本当にそうかのぅ?」
声が聞こえて、顔を上げると、そこには師匠、オジイが浮かんでいた。
金色の光を放っている。
「お師匠様・・・!?」
「徳川よ、阿修羅の新道に入るだけのぉ〜精神力を身につけたければ〜弱さを見せるのじゃ、だが、本当に受け入れてもらえるかのぅ?」
オジイの言葉に、徳川は初めて足を止めた。
思わず俯いて、そして顔を上げた時には、オジイはいなくなっていた。
そして、ずっと続いていただけだった洞窟に穴が開いていた。
切り立った崖のような大きな穴だ。
飛び越えることは不可能だろう。
後ろを振り向くと、道はまだあった。
しかし、戻るのは正解ではないと予感がした。
徳川は崖のギリギリに立つ。
下は地面が見えないほど深いが、この先に飛び込むことが正解だと直感した。
徳川は目を瞑った。
そして、重力に任せて、空中に身を投げた。
落ちる、落ちる、落ちて行く。
徳川は落ちて行きながら、
昨年の10月、U−17合宿でのあの日の自分を客観的に思い出していた。
日本のレベルは低いと決めつけて、ナメていた自分。
突っかかってきた平等院に、偉そうに身だしなみを注意した自分。
本気でやるから後悔するなと大見得切った自分。
ボールを当てられ、脳震盪を起こした自分。
意識を飛ばされ、無様にコートに倒れた自分。
「かっこ悪いな・・・」
徳川は一言そう呟いた。
ゆめみがはっと目を覚ました時、外は夕焼けに包まれていた。
いくら朝早かったとはいえ、こんなに眠っちゃうなんて、とショックを受けながら、徳川の方を振り向いた。
「カズヤくん・・・!?」
すぐにその異変に気がついた。
体勢はそのままであったが、異常なくらいの汗と、その表情にも苦しみの色が見える。
ゆめみはそっとその手に触れた。
異常に熱い。39度以上の熱だ。
それに脈も早い。
「誰か・・・!!」
ゆめみは大慌てでその部屋を出た。
徳川が目を開けると、そこには天然木の天井が見えた。
一瞬の間を置いて、ここが師匠の寺だと思い出す。なぜここにいるのかと思い出して、瞑想をして精神世界に行っていたことを更に思い出した。
急に現れた崖に飛び込んで、その後自分はどうなったのだろう。思い出そうとして、ズキズキと頭が痛んだ。
そうだ、何度もあの日の惨めな自分を思い出していた。そして、そんなかっこ悪い俺は誰にも受け入れてもらえないと思い知らされた。きっとそれがゆめみであっても。
ゆめみのことを思い出して、彼女はどうなったんだろうと焦る。何時間経ったのだろう。
徳川が体を起こすと、額から白いタオルが落ちた。気がつけば、徳川は布団に寝かされていた。そして、その布団に被さるような形で、ゆめみが寝ていた。
思わずゆめみに手を伸ばした。
「起こさないでください」
徳川の手がゆめみの頬に触れる前に、声が聞こえて、徳川は動きを止めた。
声がした方を見ると、佐伯が徳川を眺めていた。
「夜通し看病していましたよ、さっきやっとあなたの熱が下がって眠りについたところでね」
ゆめみを見ると、涙の跡が見えた。ずいぶんと心配をかけてしまったようだ。
「今は何時だ?」
徳川の問いに佐伯は「朝の5時です」と答えた。
「ゆめださんとはどういう関係なんですか?」
徳川は佐伯の質問には答えなかった。
ただ目の前で眠るゆめみしか目に入らない。この子が世界の全てだという錯覚さえした。
徳川はゆめみを起こさないように、そっと布団から出て、それから今度は優しくゆめみを布団に寝かせた。
そして掛け布団をふんわりとかけた。
徳川はゆめみが起きるまでの間、ずっとゆめみを見守り続けた。
ゆめみと徳川が東京行きの電車に乗れたのは、結局その日の午後だった。
ゆめみは朝9時くらいに目が覚めて、大げさに徳川を心配した後、一緒に台所を借りておにぎりを作って食べた。
そしてお世話になったオジイに別れの挨拶をした後、また30分以上かけて駅まで歩いて、ようやく帰路に着いたのだった。
「カズヤくん、気分は悪くない?」
ゆめみは何度目かの言葉を繰り返す。徳川が「問題ないよ、ありがとう」というと、心配そうにその手を徳川の額に当てて、平熱であることを確認するのだ。
「本当に心配したのよ、カズヤくんの熱40度超えていたし、ずっとうなされててかわいそうだった」
申し訳ないとは思ったが、ゆめみにそんな風に心配されるのは、気分の悪いものではないなと徳川は思った。
ゆめみは今朝からひと時も徳川と離れたがらず、電車に乗ってる今もぴったりと徳川にくっついていた。そんなゆめみは可愛いかった。
「悪かったな」
徳川がゆめみの頭を撫でると、ゆめみは「もう1人で洞窟に行かないでね」と言う。
「誰かとならいいのか?」
「私も一緒に連れてって」
「どこにあるか知っているのか?」
「うん、精神世界でしょ」
その言い方がまるで東京でしょ、と言っているのと同じ気軽さだったので、徳川は小さく吹き出した。
この子に崖から飛び降りたと言ったらどんな反応をするだろうと考える。
何でそんな無茶をするのかと怒られるか、まさか一緒に飛びおりると言われるかも知れない。
どっちにしろ可愛いなと思った。
しかし、崖の先には何も無かった。徳川はただ落ち続けただけだったのだ。
弱さを受け入れられない自分は『阿修羅の新道』には辿り着けないのかも知れない。
ゆめみの視線が電車の外へと向けられた。
窓の外には畑が広がる。
秋には金色の豆が実る、ピーナッツ畑だ。
今はまだ春の豆まきの時期を待つだけのただの土だった。
そんな殺風景な畑を見ながら、徳川は切り出していた。
「聞いて欲しいことがあるんだ」
徳川の言葉に電車の外を見ていたゆめみは、徳川を見た。
「なぁに?」
自分から切り出したことなのに、ゆめみの優しい瞳を見たら、視界が歪んだ。
ゆめみは少しびっくりして、そして徳川の手を掴んだ。
ちょうどその時、電車が止まったので、ゆめみは徳川の手を引いて、電車を降りた。
そこは何にもない駅だった。
誰もいない、無人の駅だ。
ベンチが3つだけ置いてあったので、ゆめみは徳川をその内の1つ座らせた。そして、しゃがんで背の高い徳川と同じ視線になって、優しくハンカチで頬を拭いた。
そうして初めて、徳川は自分が泣いていたことを知る。
「言ってみていいよ」
ゆめみは優しいゆっくりした声で言った。
「電車は30分くらい来ないみたい・・・だから」
徳川は思わずゆめみを抱き寄せた。
ふんわりと花の香りが鼻を掠める。
ちょうど徳川の顔がゆめみの鎖骨の辺りに当たる。
甘えるような徳川に、ドキッした。
「人生の転機があったと、話をしたことがあったね」
徳川はその姿勢のまま、ポツリと切り出した。
ゆめみは初めて会った時、湘南のヨットハーバーでそんなことを言っていたことを思い出した。
「人生の転機だなんて、そんなかっこいいもんじゃなかった・・・」
その表情は悔しそうで、ゆめみは心がぎゅっと痛む。
「あれはただのイジメだった」
徳川の頬を悔し涙が伝った。
認めたく無かった。
「大勢の前で、弱い者イジメを受けたんだ」
自分が弱いと認めたく無かった。
でもそれが事実だとずっと分かっていた。
ゆめみは目の前で泣く徳川になんて声をかけたらいいのか分からなかった。
ただその告白は勇気のいるものだっただろうし、彼の悔しい気持ちは痛いほど伝わってきた。
年下の自分に縋るほどのことなのだ。
ゆめみはそっと腕を徳川の頭の後ろに伸ばして、大切そうに抱きしめた。
そして、そっと頭を撫でる。
「嫌だったね」
ゆめみはそれが正解かは分からなかったが、そう言った。徳川は、ゆめみの胸に顔を埋めて更に肩を振るわせて泣いた。
ゆめみは泣く徳川を励ますように、ずっと優しく頭を撫でた。
徳川は話した。
昨年の秋のU−17合宿で、平等院という選手にリンチに遭ったことを。
意識が飛ぶまでボールをぶつけられたことを。
徳川が少し落ち着いたので、ゆめみは少し離れてハンカチで徳川の頬の涙をぽんぽんと拭った。
そして、手を繋いで隣の椅子に座った。
そのまま電車は2回見送った。空は見渡す限りの青空だった。
ゆめみはずっとぎゅっと手を繋いでくれていた。
徳川は不思議な気持ちだった。
かっこ悪いところを全部伝えたのに、変わりない優しさで寄り添ってくれている。
ゆめみに目線を合わせると、ゆめみも徳川を見た。
やはり優しい表情をしている。
「痛かった」
徳川は口から出た言葉に驚いた。
そんな情け無い言葉を言うつもりはなかったのだ。
しかし本音だった。
心も体も痛かった。
徳川の瞳はその言葉の反応を伺うように揺れていた。まるで拒否されるのを怯えているようだとゆめみは思った。
ゆめみはふんわり笑って「おまじないしてあげるね」と言う。
そして「いたいのいたいのとんでいけ」と言った。
「平等院さんに飛んで行ったよ」
何でもないことのようにそう言ったゆめみ。
徳川はフと笑った。
ざまぁみろと思った。
次に来た電車に乗って、ゆめみと徳川は東京方面へ帰ることにした。
電車に乗ると、ゆめみはさっきのことが何も無かったかのように雑談を始めた。
「ここ全部ピーナッツ畑になるのかなぁ」
電車の窓の外の景色はまだまだ畑が続いている。
ゆめみの優しい気遣いに気付きつつも、徳川は「あぁ、八街が近いからそうだろうな、最高級の落花生が出来るだろう」と返した。
「何色の花が咲くんだろう」
「どうだったかな」
「きっと一斉に花が咲くわ」
ゆめみは一面のピーナッツ畑を想像しているかのようで楽しそうだ。「では」徳川は切り出した。
「夏にもう一度来よう」
ゆめみは嬉しそうに徳川を見た。そして「うん!」と頷く。
その笑顔を見ながら、徳川は息がしやすいことに気が付いた。
昨年の秋から、ずっと息苦しさを感じていた。砕かれたプライドが心臓に刺さって血が出ているような痛みを感じていた。
今はそれから解放されていた。
ゆめみが『弱さ』を全てさらけ出したのに、受け入れてくれた。あんなに惨めで恥ずかしい自分でも、距離を置かずにいてくれる、その事実が徳川を強くした。
次は何が起きても大丈夫と思える。
確かに弱さを受け入れることで、強くなれるんだなと初めて理解した。
次に寺を訪れた時には、洞窟の更に奥に行けると徳川は予感していた。
まだ窓の外を見つめるゆめみを見ながら、彼女を見ているといつも心が温かくなるなと思った。
それは愛おしいという感情に似ていた。
ピーナッツの花が咲く頃には、恋人になれているかも知れないとそんなことを思った。
(221126/小牧)→187
祝!チャプター3突入!
その時は、ずっとその細い肩を抱いていたい。
Location 志島海岸、妙海寺、永田駅