ここで終わればハッピーエンド

 彼に出会うまでの私は、ごく普通の人生を送っていた。小学校、中学校、高校と順調に卒業をして、特に学びたい事なんてなかったけれど、口煩いお父さんの言葉に根負けして、それなりの名門大学に進学してそれなりの成績で卒業をした。卒業後は父さんの経営する会社にコネ入社をして、それなりの役職を与えられ、世間一般的には幸せで、ごく普通の人生を送っていた。だけど私の心はいつも何かに飢えていた。どこか満たされていなかった。
 満たされていない私は、心の内にいつも苛立ちと寂しさを抱えていた。それは社長令嬢として何不自由なく過ごしてきた私に、社会勉強と称して父親の目の届く、この会社での労働を強いてくるお父さんに対してなのか。花嫁修行と称してせっかくの休日に料理教室や着付け教室へと通うことを強要してくるお母さんになのか。はたまた、成人をとっくに過ぎたにも関わらずお父さんにもお母さんにも反抗することが出来ず、言いなりになるしか出来ない私自身になのか。何に対してかは分からなかったけれど、空っぽの私にはいつも孤独や寂しさが付き纏っていた。

 仕事終わりに帰宅する途中、ふとスマホが鳴った。カバンの中から鳴り響くスマホを手に取り画面を見ると、そこには懐かしい旧友の名前が表示されていた。ほんの一瞬、躊躇したけれど、応答ボタンをタップしてスマホを耳に当てると懐かしい声が届いた。

「ナマエ、久しぶり! 反対側の歩道、見て!」

 興奮した様子でそう騒ぐ彼女の声に従い、五車線ほどを挟んだ向かい側の歩道へ目を向けると、視界の中を勢い良く走る車が横切る。そのまま少し目線を奥へと逸らし左右へ瞳を動かすと、大きく手を振っている友人が目に入った。

「あ、いた」

 懐かしい学生時代の思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡る。失恋して泣く彼女を慰める為に一緒に授業をサボったことや、図書室で共にテスト勉強をしたこと、放課後に二人で買い食いをしたこと。親友と言っても過言ではないほどに仲の良かったけれど、社会人になってからはお互いの時間の都合が合わずなかなか会うことが出来なかった彼女が、今、数メートル先に居る。自然と笑みが溢れた。待ってて、そっちに行く。と告げ、前を見据えると歩道橋が目に入った。少し高さのあるヒールをコツコツと鳴らし、歩道橋へ駆け寄る。慌てて踏み外さないように手摺りをしっかり持ち、一段一段階段を駆け上がると、そのまま直線に伸びる橋を駆け足で蹴り上げ、今度は一段一段、階段を降りる。足元を確認しながら、一歩づつ着実に踏面へと足の裏を着地させる。ふと視線を上げると、そこには友人、レイラが満面の笑みで立っていた。

「ナマエ、久しぶり!」
「レイラ! 高校卒業して以来だからもう何年ぶりだろ……よく私に気付いたね」

 歩道橋を降りきってすぐの所で立ち話をしているとレイラに、ねぇ。飲みにでも行かない? と誘われた。時刻は夕方。まだまだ夜はこれからだ。いいね、行こう。と二つ返事で足を進め、手に持っていたままのスマホで、帰りは遅くなりますとお母さんに連絡を入れる。レイラのオススメの居酒屋へ向かうことになり、尽きることないお喋りを楽しみながら店へと向かった。

 席へ着いて、注文を済ませても話は尽きなかった。お互いの近況報告をしたり、仕事の愚痴を吐いたり、彼氏は出来た? なんて色恋話に花を咲かせたり、社会人になって初めてなんじゃないかと思うほど充実した時間を過ごしていた。そんな折、レイラのスマホが鳴った。気にしないで電話に出て! と促すと、ごめんねと少し申し訳なさそうにし、レイラはその場で電話に出た。久しぶり、から始まった会話は、今から? うーん。という思案の言葉や、ええ……仕方ないなあ……。といった溜息と共に僅か数秒で終わった。

「どうしたの?」
「それがさ、さっき言ってた彼氏なんだけど……店に飲みに来て欲しいってしつこくて」
「ああ、ホストをしてる彼氏さんだっけ」

 そうそう。と残り僅かだったビールを口へ含み、ごめんねと謝るレイラに、思わず私も行ってもいい? と口にした自分に、誰よりも私が驚いた。私のその言葉に今度はぱあっと表情を明るくし、勿論! 是非! と大喜びするレイラ。なんでこんな事言ったのだろうとよくよく考えた結果、単純にレイラの彼氏がどんな人なのか気になったのもあったけれど、何よりレイラともう少し一緒に居たいんだという結論に至った。居酒屋を出てすぐにタクシーを拾い繁華街へと向かう。大きなビルが聳え立ち、煌びやかなネオンが光る看板が並ぶ繁華街へ着くとレイラは慣れた足取りで私の数歩先を歩いて行く。

「ここだよ」

 ほんの数分歩くと、六階建ぐらいの高さのビルの前へ辿り着いた。エレベーターホールにある看板にはCLUB 蜘蛛の文字がでかでかと刻まれていた。そのすぐ下には先月のNo.1クロロ=ルシルフルという言葉と共に、まるで神話から出てきたかのような端正な顔立ちの男の人の写真が飾られていた。

「あ、この人だよ。私の彼氏」

 レイラはそのクロロ=ルシルフルさんの下へ続く数々の男性の写真の中から期待の新人! と書かれた男性の写真を指差した。クロロさんには遠く及ばないけれど、そこそこ顔立ちの整った男の人で、学生時代にレイラが失恋した彼によく似ているなあと思った。レイラに言うと、古傷を抉らないで! と言われそうだったから思っただけで口にはしなかったけれど。
 エレベーターを降り、スーツ姿の男性に身分証の提示をして店内へ足を踏み入れると、薄暗い空間が広がっていた。入り口近くに飾られた棚にはいろんな種類のボトルが飾られていて、まるで異世界に来たような気分になった。

「レイラ、ありがとう」

 案内された席に座ると、レイラの彼氏が嬉しそうに微笑みながら現れた。少し光沢のあるスーツを見に纏い、ばっちり決めたヘアセットに甘いマスクと芳しい匂い。なるほど、レイラの好みにドンピシャだ。と納得すると、私の隣にも男性が現れた。

「お隣よろしいですか?」

 その男性は私にそう声を掛けて、失礼しますと少し頭を下げ私の隣へ座った。ホストクラブになんて来たことのない私は困惑してレイラへ助けを求めようと隣へ視線を移したけれど、レイラは彼氏とのお喋りに夢中でそんな私には気付いていない。

「こんばんは、初めまして。これ、僕の名刺です」

 そう言って微笑みながら渡された名刺を確認しテーブルへ置き、こんにちはと返事をして彼の作ってくれたお酒を受け取った。何が何だか分からないまま、聞かれたことにただ答えるだけの会話が繰り広げられる。どこから来たの? 何才? そんな当たり障りのない会話を繰り返して数十分、突然彼は妙に深刻そうな声色で私へ言葉を掛けた。

「もうすぐ他の人と交代なんですけど――」

 あぁ、なるほど。そういうことか。入店前に軽くレイラから聞かされたホストクラブのシステム。レイラは、初回はお金掛からないからもし気に入った人が居れば指名すればいいよ、と笑っていた。彼はその指名とやらを欲しがっているのだろう。だけど――

「ごめんなさい。初めてだから色んな人と会話してみたいの」

 懇切丁寧にお断りをすると、それじゃあと名刺の裏に連絡先を書いて、もし気が変わったら途中からでも指名してよ。今日じゃなくてもいいからさ! と笑って去っていた。入れ替わりで次の人がやってきた。先ほどの彼と同じように、当たり障りのない会話を繰り広げる。どこから来たの? 趣味は? なんて、さっきの人にも同じこと答えたのになあ。と少し退屈さを感じてしまった。私にとっては同じ質問でも、彼らにとっては初めての質問なのだから仕方のないことだと頭では分かっているけれど、同じことを繰り返し話すのには飽き飽きしていた。数十分が経つと、また同じように指名してほしいと頼まれる。それも、先程の人と同じように懇切丁寧にお断りをすると、またも入れ替わりで別の人がやってきた。私はその綺麗な金髪に、目を奪われてしまった。

「こんにちは。お隣失礼します」

 そう言って笑った彼の瞳は綺麗な翡翠色だった。
 一瞬で目を奪われたその彼は、他の彼らと同様に名刺を渡してくれた。その名刺にはシャルナーク=リュウセイと書かれていた。

「シャルナーク、さん……」
「ん? どうしたの?」

 ぽつりと呟いた私の小さな声を拾ってくれたシャルナークさんは、慣れた手つきでグラスの水滴を拭いてくれる。そのまま私の双眸をしっかりと捕らえ、もう一度、よろしくね。と笑った。しっかりと私を捕らえる翡翠色の瞳に揺れる金髪。心臓がどくんと跳ねた。いや、心臓をぎゅうっと握られた様な感覚すら覚えた。

「わ、お姉さんの履いてるヒール、かわいいね」
「えぇっ、ほんとですか?」

 一人目の人も、二人目の人も言ってこなかった言葉。この靴は私が初任給で買った、一足十万円もした、お気に入りの靴だった。真っ赤な靴底に、私には少し高いヒール。それでもこの靴が大好きで、お父さんに与えられたカードで容易に買うことは出来たけれど、この靴だけは自分のお金で買おうと心に決めていた大好きな靴を、彼は褒めてくれた。それがこのお店に来て一番嬉しかったことだった。

「これ、初任給で買ったんですよ。私のお気に入りの靴です」
「靴底が赤なんだね。お姉さんにぴったりだ」
「お姉さん、じゃなくてナマエです」
「びっくり。ナマエまで可愛いんだ!」

 シャルナークさんはそう言って、あははと笑った。彼の言葉は私の自尊心や自己肯定感を高めてくれるものばかりだった。ナマエちゃんのセンスは抜群だね。どこの香水? 良い匂いがする。あ、ネイルも可愛いね。まるでお姫様の様に扱ってくれるシャルナークさんにすっかり心を奪われてしまっていた。だけど、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうもので。そろそろ交代だ、と席を立とうとするシャルナークさんの手を思わず掴んでしまった。

「し、指名します! シャルナークさんを!」
「えぇ、いいの? 他の子も見なくて」

 貴方がいいんです! とは言えなかったけれど、シャルナークさんともう少しお話ししたいです、と言葉を落とせばシャルナークさんは嬉しそうに笑ってくれた。私が指名したことに気付いたレイラは、じゃあ四人で乾杯しよーよ! と気前良くシャンパンを卸した。すると店内はさらに薄暗くなり、私達の席へ他のホスト達が集まってくる。すると、シャンパンコールに合わせて合いの手を入れてくれ、場を盛り上げてくれる。レイラはかなり酔っ払っていて終始楽しそうに笑っていた。シャルナークさんも、レイラと同じようにニコニコ笑っていて楽しそうにしていた。

「シャルナークさんもシャンパンが好きなの?」
「うん、好きだよ。あとはまあ、売上になるからね」
「売上?」

 シャルナークさんの話によれば、私やレイラが指名したホストに売上がつけられるようになっているらしく、その売上の金額順でNo.1が決まるのだと言う。入店前に見た看板に写っていたクロロさんはお店の中でも群を抜いて売上があるらしく、皆クロロさんに憧れてるんだ。とシャルナークさんがぼんやりと呟いた。

「シャルナークさんも、No.1になりたいの?」
「そりゃあもちろん、ね」
「その目標、私も一緒に応援していいかな……?」

 どうしてそんなこと言ってしまったのかは分からなかったけれど、ただシャルナークさんの悲しむ顔を見たくなかった。太陽のようにキラキラ笑うシャルナークさんが大好きだったからだ。シャルナークさんの返事も聞かずに、私もシャンパンください! と黒服にオーダーしていた。シャルナークさんは落ち着いてよ、と困惑していたけれど構わなかった。

「シャルナークさんと一緒に、No.1を目指したいの。……迷惑、かな?」
「そんなことないよ。本当に嬉しい。でもあんまり無理しないでね……? このシャンパン、いくらか知ってる? ちゃんと払えるの……?」

 急におどおどと態度が変わったから何事かと思えばそういうことか、と納得した。私には、お父さんが与えてくれた魔法のカードがあるし、通帳にも一千万円ほど残っている。小中高大と与えられていたお小遣いはほとんど使っていなかったし、お年玉もお給料もずっと貯めていたからだ。コネ入社のお飾りの役職のおかげでそれなりにお給料も貰っている。彼を支えるだけの力は持っているはず、だ。

「今のお会計はいくらか分かる?」
「えっと、初回料金が二千円、指名料が三千円、追加で卸したシャンパンが六万円だから……六万五千円に+税、かな」
「なぁんだ、思ったより安いじゃん! なら、あともう一本シャンパン卸して、お店終わるまでここに居るよ」

 私のその言葉を聞いて、一番驚いていたのは隣のレイラだった。

「ちょっとナマエ? 本気で言ってるの!?」
「うん! レイラは先に帰ってていいからね」

 私のその言葉にはレイラの彼氏が、ごめんね、そうさせてもらうよ。と返事をした。レイラと彼氏はそのままお会計を済ませると席を立ち、また連絡するねと言い残し去っていった。

「本当に良かったの? オレ、日付が変わるまでは仕事だけど」
「大丈夫だよ。お金の心配も大丈夫。それより、もっと沢山お話しようよ」

 シャルナークさんはそうだね、と笑いながら乾杯、とグラスを持ちあげた。この日を境に、私の平凡で普通だった人生は一変した。もし、あの日に戻れるとしても、私はきっと彼と共に過ごすことを選ぶだろう。例えその結末が今と変わらなくても。