あのとき頭の中に響いた名前は、一体なんだっただろう。

今となっては、それすら思い出せない。


Selene


自己嫌悪、羞恥心、罪悪感
もうどれともわからない感情に押しつぶされそうになりながら、うんうんとうなっていると、玄関のチャイムが聞こえた。

時計を見上げると21時を過ぎている。
こんな時間に誰が?とインターフォンを覗くと、そこには見慣れた姿があった。

「よっ」
「桃矢さん・・っ」

玄関の扉を開け、すかさず頭を下げる。

「今日は本当にすみませんでした!!
 私、あの・・どうかしてて・・・
 せっかくさくらちゃんも楽しみにしてくれてたのに・・・」

じんわりと目頭が熱くなる。

花丸のついていた予定表。
きっと一生懸命ごはんを作って待ってくれていたはずなのに。
台無しにしてしまった。

しかも初対面の雪兎さんに私はなんてことを・・・

申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、顔を上げられない。

「大丈夫だ。」

桃矢さんの手が、ぐしゃぐしゃと私の頭をなでる。
なんてことをしてくれるんだこの人は。
そんなことをされたら、止められるものも止められない。

ぽたぽたと、玄関に涙の染みができていく。

「ふぅ・・・」

ため息が聞こえ、はっとして顔をあげると、そこには予想外に優しく笑う桃矢さんがいた。

「また来いよ。改めて。」

さくらも待ってるから
と桃矢さんが私の頭をなでる。

「はい・・・。
 ありがとうございます。」
「おう。」

私の返事に、桃矢さんは笑ってうなづいた。

あ、そうだ、と桃矢さんが左手を持ち上げる。
握られているのは、私が木之本家に置いてきた鞄。

鞄ごと置いてくるだなんて、ほんと・・・・。

慌てふためいた自分に、ため息しか出ない。

「わざわざすみません。
 さくらちゃんにも、謝らないとな・・・・。」

本当に、本当に申し訳ない。

突然帰ってしまったこともそうだけれど、目の前で他の女が好きな人に抱き着いたのを、彼女はどんな気持ちで見たのだろう。
はっきりさくらちゃんから雪兎さんを好きと聞いたわけではないとはいえ、あれはいただけない。

「明日、7時半にバス停前まで自転車で来れるか?」
「え?」
「さくら、連れてくから。」

謝る必要なんざねぇが、そうしないとお前が満足しないんだろ?
そう言って桃矢さんが笑う。

「何から何までごめんなさい。
 ありがとうございます。」
「ん。じゃ、また明日な」
「はい!」

ちゃんと鍵閉めろよ、と言い残し
桃矢さんは扉を閉めた。

謝ろう。ちゃんと、明日。

謝らなきゃ。
雪兎さんにも。

「雪兎さん・・・」

”おじゃまします”の声を聴いたとき、確かに思ったのだ。
懐かしい声だ、と。
会いたかった、と。

会いたかった、はまだわかる。
でも、懐かしい?


・・・だめだ。今日はもう考えるのをやめよう。
これ以上考えたら、爆発する。

ベッドにダイブし、私はそのまま目を閉じた。













「黒羽さーん!」
「さくらちゃん!」

ドキドキしながら待ち合わせ場所のバス停に着くと、そこにはすでに桃矢さんとさくらちゃんが待っていた。

「ごめんね、待たせちゃったね。」
「いえ、むしろ間に合わないかと思ったくらいで・・!」
「怪獣が寝坊したうえに、ローラーブレード学校に忘れてきたからな。」
「さくら怪獣じゃないもん!!」

二人のやり取りにくすり、と笑いが漏れる。
さくらちゃんはそれに気づき顔を赤くした。

「そうだ、体調どうですか?」
さくらちゃんが心配そうに私をのぞき込む。
急に帰ったことを怒っているのではないかと思っていたのに、逆に心配されてしまった。

私の気持ちを察してか、桃矢さんは笑ってこちらを見守っている。

「もう平気だよ。昨日はごめんね。」
「全然です!謝らないでください!」

パタパタと、さくらちゃんが顔の前で手を振る。

「また、改めて来てくださいね。」
「うん!」

よかった、とさくらちゃんがいっぱいの笑顔を見せる。

「じゃ、そろそろ行くぞ。」
遅刻する、と桃矢さんがさくらちゃんに早く乗れ
とせかす。

「あれ?雪兎さんは?」
”雪兎さん”
その言葉に、肩がピクリと震えた。

いつもは雪兎さんも朝一緒なんです、とさくらちゃんが私に説明してくれる。

「弓道部の早朝試合の助っ人」
「え!今日試合だったんだ!」

桃矢さんが、さくらちゃんに意地悪な顔をしている。

助っ人??
「雪兎さん、どこのクラブにも入ってないんですけど、何でもできるからたまに助っ人として呼ばれるんです!」
私の”?”に気づいたさくらちゃんがさらに説明を加えてくれた。

「お兄ちゃん!高校の校庭の前で止めて!
 黒羽さんも!一緒に見に行きましょう。」

いいんだろうか。
これで。

さくらちゃんからしたら、初対面で好きな人に抱き着いた、意味のわからない私と。

「折角だから!ねっ」
「う、うん。」

こんなにキラキラした顔で言われると、断ることもできない。

「じゃぁ飛ばすぞ。」

桃矢さんの自転車に置いて行かれないよう、必死で自転車をこいだ。










「次、月城くんよ。」

集中を妨げないよう、誰かが小さな声で囁いた名前。
どうやら雪兎さんの苗字は「月城」というらしい。

月城 雪兎。

うーん・・やっぱり懐かしいと思うような心当たりがない。


雪兎さんは的を見据えると、弓を持ち上げた。

真っすぐなまなざしに、ドキリと胸が鳴る。
あれ?
これじゃまるで・・・・

一瞬頭に浮かんだ可能性を頭から追い出す。

そんな、一目惚れなんてする柄じゃない。
気のせいだ、気のせい。


ブンブン、と頭を降ってから、もう一度視線をあげたタイミングで、雪兎さんが矢をもった右手を 引いた。

「え?」
「どうした?」

桃矢さんが、私に問いかける。

「あ、いえ、見間違いです。」
一瞬、雪兎さんの姿に、誰かが重なって見えた気がした。

日本人らしくない服装の・・誰か。

いや、やっぱりこれも気のせいだ。
そんな人にやっぱり心当たりはない。

「わー!!!」

歓声が上がる。
雪兎さんの放った矢は綺麗に的の真ん中を射抜いていた。

盛り上がるギャラリーを背に、雪兎さんはこちらへと向かってくる。

「さくらちゃん
 おはよ、とーや」
「すてきでした!」

さくらちゃんがすかさず感想を伝える。
私は、何も言えずにただじっと雪兎さんの顔を見つめた。

「?」
私の視線に気づき、雪兎さんの視線がこちらへと向く。

「黒羽さん・・・」
「おはよう・・ございます」

き・・・きまずい。
届いたかどうかも怪しいボリュームの声。

「おはよう。」

雪兎さんも、困ったように笑った。

何か、何か言わなきゃ
と頭を巡らせた

そのときだった



ゴォォォォォッ、と突然の風が通りすぎる。

視界の端で桃矢さんがさくらちゃんを抱え込む。
咄嗟に守るあたりがお兄ちゃんだなぁ
なんて、呑気な頭で考えていると
さらに大きな風がこちらに向かってきているのに気付いた。

あ、やばい、倒れる。

そう思いぎゅっと目を瞑る直前
「遊威!」
雪兎さんが射場から飛び降りてくるのが見えた。

尻もちでもつくかと覚悟したのに
倒れたときに感じるはずの衝撃がこない。

「大丈夫?」

頭上から聞こえた声にゆっくりと目を開けると
真っ白な弓道着が視界に飛び込んだ。

「・・・!!!!!」

支えてくれていた腕から身を離す。
私は!また!性懲りもなく!!

慌てたせいか、心臓の音がうるさい。

雪兎さんは気にも留めていない様子で
さくらちゃんの方に身体を向けた。

「だいじょうぶ?さくらちゃん」
「は、はい!」

さくらちゃんの視界には入っていなかったようだ。
よかった、とほっと胸をなでおろす。

「雪兎さん、あ、ありがとうございました!
 私は、これで・・・!」

逃げるように雪兎さんに背中を向ける。
謝るために会いたかったのに、これじゃ・・・

校舎へ向かおうとする私に
「黒羽さん!」
後ろから声がかかった。

「昼休み!話せるかな」

振り返り、うなづく。
「よかった。じゃぁ、またあとでね。」

ペコリとお辞儀をし
再び、逃げるようにその場を去る。

び・・・っくりしたぁ。

まさか、向こうから時間を作ってくれるなんて思わなかったから。

木之本兄妹といい、雪兎さんといい
どうしてこうもここの人たちは優しい人ばかりなんだろう。

優しいというか、もうなんというか・・・。

止まって振り返ると、雪兎さんの死角でさくらちゃんが桃矢さんに飛び蹴りをくらわせているのが見えた。

胸の動悸は、まだ収まりそうにない。







***あとがき***
今回の話を書くにあたり、フライのこのエピソードの前日は知世ちゃんがおうちにきていたという事実が発覚。笑
原作沿いと言いながら沿えてなかったですが・・・
書き直してもいいんですけど・・・
まぁいっか、て諦めてみる。



2019.05.01



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