本日の隠し味は大人のラム酒を少々。味をみてシナモンパウダーを足す。
「うーん」
夕飯から時間が経っているので小腹も空いているだろうか。たっぷり十秒考えて、おからのクッキーをいくつか小皿に並べた。これなら深夜でも罪悪感なく食べられるだろう。
ダイニングテーブルにセッティングして、その足で医療室に向かう。ノックは控えめに。本から顔を上げたロビンと小窓越しに目が合ってから扉を開けた。
「ロビンちゃん、そろそろ代わるよ」
「もう片付けは終わったの?」
「うん。あ、ホットミルク置いてるから飲んでね。ロビンちゃんも少し休憩したほうがいい。今日は疲れただろ?」
「ありがとう。いただくわ」
医療室の照明は最小限に絞られていて、その明かりの下で本を読むロビンの影が濃い。顔を上げて、長い髪を耳にかけて、そうっと微笑む。ちょっとだけ疲れが見えるのは、きっと見間違いではない。
「今は落ち着いてるわ」
大丈夫。大丈夫よ。
「チョッパーもサンジのおかげだってずっと言ってたわ」
「いや、おれは別に……」
「でもあなたがナイフを持って帰ってきてくれなきゃすぐに毒の成分がわからなかった」
「……」
「ありがとう。私からもお礼を言わせて」
閉じた本は脇に抱えて、空いた手でサンジの頭を撫でた。
いつもなら喜んで尻尾を振るのに、今はどうしたってそれが出来なくてへらりと薄く笑うしかない。きっと歪な笑顔だっただろう。深く踏み込んでこない大人の距離感に、今夜はどこまでも助けられる。
「美味しそうな匂い。冷めちゃう前にいただくわ」
「うん」
ロビンはそれ以上何も言わず、医療室を出て行った。
優しく閉められる扉。小窓の向こうの明るいダイニングとキッチン。それに引き換え影の多い医療室。静かで、ちょっと寒く思う。
椅子を引き寄せてベッドのすぐ横を陣取った。
「……全部お前のせいだからな、クソマリモ」
うまく笑えないのも。ここが寒く思えるのも。
清潔な医療室のベッドの上。小さな船医が丁寧に巻いた包帯に包まれて眠るゾロの顔は、ロビンが言うように数時間前と比べて随分と穏やかになった。とはいえ、まだ唇が乾いているし、指先まで熱いので熱は下がりきってはいない。
さっき、チョッパーが仮眠の後は徹夜で看ると意気込んでいた。ここからもう一山あるのだ。まだ油断はできない。
どうか、と瞼を閉じて項垂れる。
神に祈らない男の代わりに、何度だって祈ってやる。
「クソマリモ、迷子剣士、サボテン野郎」
悪口を重ねても、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。
クソコックでも素敵眉毛でも、なんでもいいから言い返してこいよなんて。沈んだ頭をくしゃりと掻き混ぜた。
ベッドに立てかけてある刀すらどこか寂しそうで「静かだよなぁ」と声をかけた。
かたり、と頷くように鍔が鳴った気がして下手くそに笑う。
返事があるだけで、今は救いになる。
▪︎
異様なほどに霧が濃いこの無人島で、他の海賊船と出会してしまったのは昼前だった。
「てっ、てて、敵襲〜〜〜〜っ!」
視界が悪い中、突如目の前に現れたサニー号より遥かに大きいガレオン船。半分泣きながら大声を出す狙撃手の視線の先には、頭数だけは一丁前に揃えている大柄な船長。早々に腰を抜かしたウソップはチョッパーと手を取り合っている。
「サンジィ!」
対照的に、久しぶりの戦闘に目を輝かせているのは我らが船長。隣にはすでに刀を抜いたゾロがいる。
「なんだ、キャプテン」
「終わったらメシ! とにかくメシだからな!」
「分かってるよ。つうかもう出来てんだ。さっさと潰してこい」
「帰ってきたらすぐ食うからなぁ〜!」
ひらりと手を振って、敵船へと一直線に手を伸ばしたルフィを見送る。てっきりゾロもそれについて行くと思ったのだが、騒がしくなり始めた甲板で、じいっとこちらを見てくる。
首を傾げれば、バンダナの下で右眼がぎらりと煌めいた。
「おれァ酒がいい」
目を煌めかせて言うことか。
思わずいつもの調子で蹴り飛ばしそうになって、しかし遊んでいる場合ではないと溜め息と共に煙草の煙を吐き出した。コツ、とわざとらしく音を立てて、今度は自分がゾロの隣へ。
「まだ昼間だぞ。飲んだくれ剣士」
「ルフィのメシはいいんだろうが」
「別にリクエスト聞いてるわけじゃねェんだよ。今はランチタイム。アルコールの提供はディナーからだ」
「ケチくせェな」
「ンだと、コラ」
言い合いの最中にサニー号がわずかに揺れた。フランキーが錨を下ろし終えたらしい。
ぐるりと周囲を見渡せば、島へと飛び移るのも可能な位置。となれば、戦場は島内と船上の二箇所になりそうだ。
自分はここに残ろう、と考えた瞬間にゾロが一歩踏み出す。
前を見据えて睨みつける相手はゾロを指名している。腰には大剣。下品な顔をして余裕綽々といった体で笑っている。それなりに手練ではあるのだろう。
フンッと、ゾロが鼻を鳴らす音が聞こえた。こちらもスイッチが入ったらしい。
あぁそうだ、と振り向かない背中に言葉を投げる。
「リクエストは聞いてやらねェが、ご褒美だったらあるぜ」
しかもお前専用。とびっきりの特別なやつ。
「——……言ったな」
出会った頃より随分と逞しくなった背中に気迫が籠る。
「あぁ、言った。“約束”だったからな」
いっそう色濃い敵意を剥き出しにしてサニー号を飛び出していく背中に堪らず笑って、空を蹴る。火を纏わせないまま飛び掛かってくる有象無象を軽く蹴散らし、空中で体勢を整えて飛んできた砲撃をあちらの船へとお返ししてやる。
船首に着地して、さて自分も気合を入れるか、と口角を持ち上げた。
視界が悪いと大きな的である船を狙ってくる輩が多い。ここを潰されるわけにはいかないと、甲板で容赦なくビームを撃つフランキーが声を上げる。分かっているさ、とサンジは少々の傷は見て見ぬ振りをして、全速力で走り回っては強靭な足を振り下ろす。
こちらの甲板に侵入しようとする敵を粗方蹴散らした後は島に降り立ち、サニー号の番人が如く前線に立つ。
濃い霧の向こう側から飛んできた銃弾が頬を掠り、一拍遅れて血が垂れる。
「痛ェなァ」
続けて放たれる銃弾は躱しながら即座に距離を詰めてこめかみを蹴り飛ばす。体を捻って地面に手をつき、慌てて銃を構えていた別の男の顎下に足の裏をめり込ませた。ゴッ、と顎が砕ける鈍い音が響く。
「ったく、ふざけたことしてくれやがって」
もうすぐ楽しい楽しいランチタイムだったのだ。
霧が濃くなってきたせいで寒いからと、野菜をたっぷり入れた熱々のポトフはいい具合に味が染みていた。
こういう日のために惜しみなく使う予定だった特製ウインナーを、ルフィの盗み食いから一体何日守ったと思っている。
「せめてランチが終わってから来いってんだ!! クソ野郎ども!!」
「そーだそーだ! 腹が減ってんだぞ、こっちは!」
「いい匂いしてたんだぞ! チクショー!」
炎の足で目の前の敵を一掃し、背後から襲ってくる敵はチョッパーに乗ったウソップの援護射撃が命中する。ぐわりと大きな口を開けて人を食う植物の姿に、そんなもん食ったら腹壊すぞと煙草の煙を吐き出した。
「ヨホホホ! 確かにお腹が空きました。サンジさん、わたしあちらの船に悪戯しても?」
「おー。盛大にやってきてくれ」
「ついでにお宝もお願いね! 根こそぎ取ってきてちょうだい、ブルック!!」
「お任せあれ」
耳を劈く雷撃と霧に隠れてブルックはその軽身で飛び上がる。追いかけるようにチョッパーとウソップも駆けて行ったので、あちらは任せていいだろう。
戦いが終わった後、ナミが目をベリーに変えて飛び跳ねながら喜ぶことを願って残党の気配を数えた。
「ランチの邪魔しやがったこと、心の底から後悔させてやる……!」
それなりの怪我をこさえながらもルフィがあちらの船長を沈めれば、蜘蛛の子を散らすように敵は去っていった。今からが忙しい船医は「全員怪我の具合を見せてくれ!」と医務室から大量の包帯や傷薬を持ってきては右へ左へ。
「——おい、ルフィ!」
最初に、緑の頭が見えないことに声を上げたのはサンジだ。
「ゾロはどうした! 一緒に森に入っていかなかったか!?」
深い霧の中で目を凝らせどゾロの姿が見えない。耳をすましても剣戟の音がしないのであちらも勝負がついているはずなのだが。
あの男が負けるわけがなく、ただ迷っているだけだろうと分かっている。
けれど、見聞色でうまく拾い上げられない気配の薄さに心臓がざわつく。ざわついて、つい声が大きくなる。
「それがよォ、途中で見かけたけどすぐ散り散りになっちまって……」
やっぱゾロのやつ戻ってきてねェよなァ。
ファンタジスタな迷子っぷりをいやというほど分かっているルフィは、苦く笑いながら頬を掻いた。
探しに行ってくると踵を返したルフィを止めたのはチョッパーとサンジである。チョッパーは船医として、そしてサンジはすっかり定着してしまった迷子回収係として。
「ダメだ、ルフィ。先に治療をさせてくれ」
「おれがすぐに連れて帰ってくるから、お前はチョッパーと先戻ってろ」
麦わら帽子の上から労を労い、キッチンにポトフとたんまり肉を置いていることを教えてやる。ぐうぅ、と素直になる腹が可愛らしい。
「言っとくが、お前がずっと食いたいって狙ってたウインナーが入ったポトフだぞ」
「! 食う!!」
「おう」
途端に目を輝かせ、涎を垂らしながら文字通り飛んでいったので怪我の心配はそこまでしなくて良さそうだ。
煙草を咥えて火をつけて、溜め息を隠すように煙を吐き出した。
「さて、と」
探しに行きますか。
島の大半を覆い尽くす森林。こりゃあ骨が折れるな、と視界がほとんどゼロに近い森の中を進んでいく。
濃い霧より足場の悪さより、なにより虫が恐ろしかったが、有難いことに目につくほどの虫は少ない。獣の声も微々たるものなので、ルフィとゾロの戦いの音に怯えてもっと深くへと逃げているのだろう。
「迷子マリモめ。どこまで奥に入っていきやがった。いい加減アイツの腹巻に電伝虫でも突っ込んどくか。……いや、縫い付けたほうがいいか?」
あまり遠くにいかれてしまうと意味がないかもしれないが、それでも打つ手はひとつでも多いほうがいい。
敵船から奪った宝を売れば臨時収入も得られるので、本気で迷子対策を考え始めたサンジの耳に、かたり、と音が届く。
「……ん?」
走っていた足を止めて、気配を辿る。
見聞色を使えるとはいえ、乱暴に精度を高めてしまうとありとあらゆる情報に脳が混乱してしまう。だから今聞いた音を追いかけるように集中する。
細い糸を手繰っていくように。
靄となって消えて行く音を掴むように。
——……かたり。
「こっちか」
来た道を戻ってすぐに東に曲がる。
深い霧の向こうには、確かに剣撃の跡が残っていた。霧のせいで見落とすところだったと舌打ちをひとつ。木々の根が張り出した凹凸のある地面を蹴って音が鳴る方へ。
あの音には聞き覚えがある。
バラティエにいる頃には馴染みがなかった音。でも、メリー号、そしてサニー号と時間を共にしてすっかり耳に馴染んだ音。もうすっかり、鍔が鳴るだけでどの刀かも判別できるようになった。
(和道一文字)
白鞘の美しい刀。ゾロがいっとう特別に思っているそれ。
けれど、先ほどから鳴く声はどこか弱ってないだろうか。本来ならばもっと凛とした声なのに。ざわついたままの心臓がやけに痛む。
(まさか傷ついてるなんてことは……)
森の奥へと進めば進むほどに霧が濃い。伸ばした自分の足先すら見失いそうだ。
だから頼む、もう一度居場所を教えてくれ、と。
左眼から赤い閃光を散らしながらサンジは進んでいく。
きっともうすぐそこなのだ。確信はあった。なにせ戦いの痕跡が酷くなっている。それに、————嫌な思い出が蘇ってくるほどの血の匂いが……。
——かたり。
血の匂いに触発されて、二年前に引き摺り込まれそうな頭の中に入ってくる音。
ハッと沈みかけた顔を持ち上げる。感傷に浸っている場合ではないと、背中を叩かれ叱咤された気分だ。気合を入れ直して音を思い出す。
和道一文字より重く、低く、洗練されているのにどこか荒々しい音。
(秋水だな。ったく、あとでちゃんと手入れしてやれよクソ剣士! ことと場合によっちゃあお前一生刀に頭上がんねェぞ!)
奥歯を噛み締めて、不自然に切り倒された大木を左に曲がる。
ゾロが相手にしていたはずの戦闘員が白目をむいて倒れていたが目もくれずに飛び越えて、森の中にしては随分と開けた場所に出た。
いや、ここにも元々木々が生えていたのだろう。切り倒し、吹き飛ばしたのはゾロとその相手。
「……大暴れしやがって」
足を止めて、ハーッと大きく息を吐く。流れてきた汗を手の甲で拭って、逸る心臓を必死に宥めた。
「やっぱ、ちゃんと礼言えよ、お前」
いっとう太く逞しい木の幹に背中を預けて座り込んでいるゾロが、正面に見える。
辛うじて外して手で持っているバンダナも、閉じた目も、べっとりと赤い血で濡れている。腕や足など至る所に傷はあるが、左の脇腹にこさえた傷が一番大きそうだ。深い緑の外套や腹巻は、もう着られそうにないほどに色が変わっていた。
一歩近づくたびに、咽せ返るような鉄の匂い。
どうしたってスリラーバークでの彼の姿を思い出して、足が竦みそうになる。
「……おい」
息を、鼓動を、確認することを躊躇してしまう。
だって力なく倒れていく体も、その重みも寸分違わず思い出せるのだ。
「おい、ゾロ」
もしも、と想像するだけで逃げ出したくなる。
返事がないことがいっそう堪えた。
——あぁ、と煙草を噛み締める。
今日じゃなくたって、今じゃなくたっていいじゃないか。
「だいじょうぶだ」
固まりそうになる足と、——そして、主人を守るように地面に突き立てられた刀に言い聞かす。
主人の手から離れていると言うのに、その刀は敵意を剥き出しにしている。そこに在るだけで腕の一本くらいなら持っていかれそうだ。
纏う空気は怪しく、キイィと耳鳴りのような音が来るもの全てを襲う。
「大丈夫、おれが連れて帰るよ。大丈夫、なぁ、」
——鬼徹。
コイツ妖刀なんだとよ、とニヒルに口角を持ち上げて鬼徹を眺めていたゾロの横顔は今だって覚えている。
あの時は確か「なにニヤニヤしてんだ、気持ち悪ィ」とか言って夜中に大喧嘩したんだったか。懐かしい、メリー号での夜。
その時に初めて鬼徹の鍔鳴りを耳にした。
何に似ているとも言えないほどに綺麗な音。いつまでも耳に残る美しい鍔鳴り。
なるほどこれは確かに妖刀だと納得した。人を惑わし、誘い、力もなく柄に触れた者の命を奪う。例え何があっても、この刀だけは易々と触れるべきではないとあの時直感した。
(……でも、今はそうも言ってられねェな)
例え呪われようと、命を奪われようと、——……お前も一緒に帰るのだ。
「鬼徹」
あの夜からは考えられないほど血で汚れた柄を躊躇なく握る。途端におとなしくなった気配に礼を言って、ズッ、と音を立てて地面から引き抜いた。
柄は汚れてしまっているが、刃毀れひとつない。ゾロの実力もさることながら、それを差し引いてもいい刀なのだろう。
「悪いな。もう少し我慢してくれ」
右で刀を持ったまま、ゾロの前に膝をつく。そうっと手のひらを口元に当てて、弱々しくとも息があることに心底安堵した。
ツンと痛む鼻を誤魔化すように首を振って、彼の腰へと手を伸ばす。鬼徹を鞘に収めなければ、流石にこのままではゾロを担げない。
そう考えて鞘を取ったのだが、深く沈んだ意識の中でそれでも刀を奪われることを拒んだのだろう。
ゾロの右腕が不自然にビクリと大きく跳ねて、しかし全身を襲う痛みにぐうと唸る。
「ッ、ゾロ……!」
慌ててサンジは顔を擦り寄せた。鞘を借りようとした手で血で濡れた頭を抱え込み、名前を呼ぶ。
ゴポリ、と嫌な音を立てて血を吐き出した。きつく目を閉じて、いっそう強く抱き抱える。彼の血でスーツが汚れようと、今はどうだっていい。
深呼吸をして、静かに、ゆっくりと。
「ゾロ」
サニー号へ帰ろう。
暖かな火が灯った、騒がしくも愛おしいあの船へ。
「ゾロ、なぁ」
みんなが待ってるんだ。
迷子のお前の手はおれが引いてやるから。
だから、
「——……一緒に帰ろう」
ヒュッ、と喉が震えたのが分かった。
途端にゾロの体が重くなり、余分な力がようやっと抜けたのだと全身で感じた。時間がないと分かっていても、その頭に顔を擦り寄せる。
こんなところで死ぬなよ、と嗜めるように言うつもりが、溢れたのは祈り。
「……」
もう一度鞘に手を伸ばす。今度は拒絶されない。
帯から赤い鞘を引き抜いて立ち上がり、軽い音を立てて血振いを一度。刀身を傷付けないようにゆっくりと、自分の腰に当てた鞘に収めていく。
(こんなところで役に立つとはなァ)
人生何があるかわからない。あれほど苦手だった剣術の教えが生かされる日が来るとは。
キン、と音を立てて鞘に収まった鬼徹の柄をもう一度撫でる。居場所を教えてくれた和道一文字と秋水も撫でた。もしも刀が何か食べられるのならなんだって作ってやるのだけれど。
「ありがとう。助かった」
今はお礼を言うことしかできない。
「あとはおれに任せてくれ」
鬼徹をゾロに返して、刀ごと肩に担ぐ。
ゾロの血で濡れた地面の上には相手のものと思われる短刀が落ちていて、サンジは迷うことなくそれを拾った。
変わらず深い霧の中で、それでもサンジは一直線にサニー号へと帰る。
一刻も早く、船の中へとゾロを戻してやりたかった。
「……お前が言ったんだろうが、クソマリモ」
そうだ。お前が言ったんだ。
次の島に着いたらお前の気持ちを聞かせろ、なんて。
「おれの返事を聞く前に死にかけてんじゃねェよ、バァカ」
▪︎
深く落ちていた思考回路に、うう、と唸った声が聞こえてサンジは慌ててゾロの顔を覗き込んだ。
「っ、ハァ……」
眉間に皺が寄り、乾燥した唇が歪む。引き攣った薄い皮が切れて、じわりと血が滲む。
途端に息が荒くなってきたので、医療室の時計を見てゾロが薬を飲んだ時間を思い出す。鎮痛剤の効果が切れてきたようだ。席を立ってダイニングへと顔を出す。
「ロビンちゃん。ごめん、チョッパー起こしてきてくれないかな?」
「分かったわ」
マグカップを置いたロビンはすぐにチョッパーのもとへと向ってくれた。薬を飲ませることならできるのだけれど、注射となると扱えるのはチョッパーだけだ。
疲れているところを起こしてしまうのは申し訳ないが、呼ばないほうがもっと怒る。
「目、覚せよ」
今はまだなにもしてあげられない両手。意識が戻らなければ食べさせることができない。
何もできない自分が嫌で、濡らした手拭いで汗を拭う。忙しく上下する胸に軽く手を当てて名前を呼ぶ。
「ゾロ」
短刀に塗られていた毒はゾロと相性が悪そうだと船医が顔を顰めていた。この島に対抗できうる薬草があったのがせめてもの救い。
けれど。
『もしかしたら、……体のどこかに、麻痺が、』
そこから先は聞かなくても分かった。
刀を守るために不自然に跳ねた腕。あれは本当に必死の抵抗だったのだ。
「なぁ、返事聞いてくれんだろ?」
あと何度祈れば、気持ちに答えることができるのだろう。
あと何度祈れば、愛を囁くことが許されるのだろう。
「——……ゾロ」
返事は、ない。
◾︎
二年も離れることになるとは思わなかった、と渋い顔で頭を掻いたのは確かゾロのほうだった。
「なんだよ。寂しかったんでちゅか〜? この甘えん坊剣士め」
「よし、叩っ斬る」
「やれるもんならやってみろ。返り討ちにしてジューシーに炙ってやる」
サンジはケラケラと揶揄うように笑って、煙草の煙を吹きかけた。
眼下には、夢にまで見た夢のような魚人島。人魚の楽園。男の浪漫。それに泣く泣く別れを告げた帰り道に、自分は何をやっているのだか。
甲板の手摺にもたれかかって、すぐ隣で険しい顔をしている男の名前を呼ぶ。
「なぁなぁ、寂しかったんだろ」
「うるせぇ。てめェはどうなんだ」
「おれァそんな悠長なこと考えている暇なんざなかった」
自分が飛ばされたのは、色んな意味で身の危険を感じた島だった。思い出しただけでも背筋が凍る、とサンジは大袈裟に体を震わせた。
「おれだってそうだ」
「そうかい」
不毛な言い争いをこれ以上続けるつもりはない。
二年間、互いに何をしていたか全てを知っているわけではないが、ゾロの左眼が離れていた日々の重さを物語っている。命があって、またこうしてくだらない言い合いが出来るだけ御の字である。
「おい、クソコック」
「なんだよ、クソ剣士」
魚人島は遥か遠く。もう肉眼では見えない。
ルフィたちはいまだに騒いでいるが、サニー号が海上へと戻ったらすぐに次の島へと興味が移るのだろう。
深海魚がサニー号の周りを泳いで、ゴゴゴ、と波の音が大きくなる。おお、と感嘆をあげてそれを見上げた。巨大な深海魚の腹を真下から見上げる。あれは天ぷらにしたら美味そうだ。
波の音と、料理に傾きかけた思考回路のせいでクルーの声が遠くなる。
だから、ゾロが一歩近寄ってきたことに気付くのが一瞬遅れた。ふたりがもうずっと曖昧に引いている境界線を踏み越えてくる足。
驚きつつも、ゆったりと目を細めた。
「お前、意味わかってやってんのか」
ゾロの視線が煙草へと落ちる。
苦い匂いと共に煙が揺蕩っているそれをサンジは口元へ。すう、と煙を吸い込んでもう一度ゾロへと吹きかけた。
「これか?」
「……わざとやってんな、てめェ」
額に青筋を浮かべて眉をピクリと動かすゾロに、サンジはまた軽く笑った。
意味がわかっているのかも何も、この煙を意味を教えたのはサンジである。こっちこそ教えてやったことを覚えていたのか、と聞きたい。
「わざとに決まってんだろ」
もう一歩、境界線を越える。今度はサンジから。
十九の頃よりも逞しく、大きくなった体にどんなものを食わせてやろうかと料理人の心が疼く。次いで、これをいっそう強くするための料理を早く作ってやりたいと気が逸る。
楽しいなァ、と勝手に口が緩んだ。
「次の島に着いたら、おれのことどう思ってんのか聞かせろ」
「なんだよ。今じゃなくていいのか?」
「あぁ」
「強がっちゃって」
「強がってねェよ」
ただ。
「あとちょっとだけ、中途半端なところからてめェを眺めてんのもいい」
「……そうかよ」
今すぐにでも食ってやろうか、みたいな瞳でなに余裕ぶっているのだか。
鼻を鳴らして顔を背け、あぁでも確かに悪くないと頷いた。
二年という時間を越えて久しぶりに喧嘩することも、笑うことも、共に闘うことも。なにもかもが悪くなかった。ちょっとはしゃぎ過ぎていた自覚だってある。でもそれはこの男だって同じ。
気恥ずかしくも頬を掻いて鼻を啜り、誤魔化すように声を大きくする。
「いいぜ、分かった。どうせ越えちまったらてめェは離しちゃくんないだろうしなァ」
「なんだ、よく分かってんじゃねェか」
「……ア?」
深く考えずに喋ったはずの言葉が、自分に重くのしかかる。ずしん、どしん、と。重みのせいで浮き足立っていた足が地に着く。
今とんでもないことを認めなかったかと目を丸くしても、優しい視線に頬を撫でられるだけ。
「え、」
「コック」
腹に響くような波の音と、気泡が登っていく軽やかな音。騒ぎの中心地からは離れているとはいえ、近くに感じるクルーの気配。
賑やかで、騒がしく、問題児だらけの愛しい母船。
二人が境界線を超えたことに、一体何人が気付いているだろう。
「次の島に着いたら、ちゃんと聞かせろ」
ロロノア・ゾロは狡い男だ。
きっとずっと、出会った時からこれだけは変わらない。
勝手に人の心の中を掻き乱して、嫌と言うほどに存在感を残して、——それなのに多くは語らない。いつだってこっちが振り回されて、痛いくらいに跳ね回る心臓を悟られないように必死になるしかない。
「……上等だ、コラ」
精一杯の強がりで睨みつけて、すぐ近くにあるゾロの足を軽く蹴った。
すると、ゾロの右手がこちらに伸びる。殴られるのかと思ったが、無骨な指先が触れたのは短くなっていく煙草。するりと掠め取られて、何気なく煙の行方を追う。
そして。
「————約束だ」
煙草の穴を埋めるように迫ってくるゾロの顔。
目は逸らさずに、まっすぐにこちらを見てくる琥珀色はいつもより色が深く感じた。あ、と意識せずとも声が漏れて目を閉じる、——が、唇は触れ合うことなく離れ、煙草が戻ってくる。
「…………は……?」
パチパチと音がしそうなほどに大きな瞬き。一拍置いてこれ以上ないほどに熱くなる体。離れていく顔は左目が潰れていると言うのに、器用に眦を眇めて笑う。
「〜〜〜〜っ、てめェ!」
「ははっ!」
たっぷり三秒固まって、ようやっと揶揄われたのだと気付いたサンジはゾロに飛びかかる。容赦なく蹴りを繰り出して、腹立たしくも簡単に躱したゾロを追いかける。
再び境界線の外側に出て、いつも通りに喧嘩する二人。こっそり眺めていたルフィがあははと笑ったことを、誰も知らない。
——かたり、とすぐ近くで刀の鍔が鳴る。
その音で目が覚めたサンジは、寝ぼけ眼で腕の中に抱えた和道一文字を撫でた。
(……ゆめ、か……)
ここは深海ではなく、鬱々とした霧に包まれた無人島。
いつもの喧嘩相手は静かにベッドの上。
「おはよう」
口の中で和道一文字に呟いて、もぞもぞと動いて冷たい空気にブランケットを握る。
チョッパーの徹夜の看病に付き合っていたつもりが、知らず眠っていたらしい。医療室の端っこで、寂しそうな刀を三本抱えたことは覚えているが、そこまでだ。
目が覚めてしまえば寒さが体に沁みる。ふるりと頭から足の先まで震えた。
刀も寒いとか感じるのだろうかと、ブランケットの中で鬼徹と秋水の鞘を撫でた。血で汚れたままの柄にそうっと頬を擦り寄せる。
その音でゾロの様子を診ていたチョッパーが振り返った。
「あれ、サンジもう起きたのか?」
「あぁ。悪ィな、寝ちまってた」
「いいよ。寝てたって言ってもちょっとだし、サンジも疲れてるんだから」
狭い医務室で、ルフィやウソップ、ブルックまでもが雑魚寝をしている。サンジが眠ってしまう前まではナミもロビンもいたのだが、今はあの二人が番をしてくれているのだろう。野生動物の鳴き声に混じる木槌の音。こっちはフランキーだ。
「チョッパー。マリモは?」
「……」
まだ、と首を横に振る。
「そうか」
眠気の余韻が残る目を擦って、サンジはゆっくり立ち上がる。刀三本はゾロの元へと戻して、チョッパーに「なにか温かいものでも飲むか?」と声をかけた。まだ少し早い時間だが、このまま起きて朝食の用意もしてしまおう。
「……サンジぃ」
頭を撫でた手を小さな蹄が掴んでくる。見上げてくる大きな瞳はいつもより水分量が多い。
「大丈夫だ。コイツが寝てんのなんていつものことだろ?」
「でも、」
不安で縋ってくる蹄を握る。幾度となく繰り返している祈りを今日も口にする。
大丈夫、大丈夫だ。
だって約束したから。この男が、約束だと言ったから。
不安になるようなことなどひとつもない。
「もうすぐ目を覚ますさ」
上手く笑えているといいと、心の底から願う。
▪︎
毒に侵されていたゾロの体から熱が下がったのは、三日目のこと。
もう大丈夫、と目の下に隈をこさえた船医の言葉に思わず包丁を握りしめる手に力が入る。
「あとは目が覚めるのを待つだけだぁ……」
言いながらへろへろとダイニングの床に崩れ落ちていくチョッパーを、いち早くロビンが抱えて膝の上に乗せた。それでもまだテーブルの上に頭を預けてぐったりしている。
「さっきも口が動いてたし、ちょっとだけど反応があったからすぐ目が覚めるよ」
「お疲れ様、チョッパー。こんなになるまで頑張ってくれて、本当に頼もしくなったわね」
「っ、おっ、おれは医者だからな! これくらいどうってことないさ!」
褒められて張り切った声を出しているが、いつもほどの元気はない。チョッパー同様どこか草臥れている帽子ごと頭を撫でているロビンの顔はどこまでも優しい。
その様子を横目で見守りながら、二人分のスペシャルドリンクを用意する。チョッパーにはとっておきの、他のクルーには内緒のアイスも添えてやる。ロビンにはスライスしたオレンジを。
「お疲れさん、チョッパー」
「こっ、これ! いいのか!?」
「いいに決まってんだろ。マリモが落ち着いたのもお前のおかげだ、ドクター。ルフィたちが出掛けてる間に食っちまえ」
ぱあっと輝く両目にもっとおやつを与えたくなるけれど、後にしよう。このドリンクを飲み終わったら一度しっかり睡眠をとったほうがいい。なにせ今の今まで細かな仮眠しか取らずにゾロに付きっきりだったのだ。
「でもそれを言うならサンジのおかげだぞ」
「だから、おれは何もやってねェって」
自分は迷子回収係としての役目を果たしただけで。
ついでに落ちていた短刀をたまたま拾っておいただけで。
サンジの言葉に、チョッパーはやっぱり首を横に振る。
「たまたまでも偶然でもなんでも、それでゾロは助かったんだ」
「助けたのはお前だよ、ドクター」
「でも、でもな、サンジ、」
「チョッパー。アイスが溶けちゃいそうだわ」
チョッパーが口を開いたと同時にテーブルの上に美しい手が咲く。手はスプーンを奪ってアイスを救い、チョッパーの口へと放り込んだ。驚きつつもちゃんと味わったチョッパーは「うま!」と再び目を輝かせてスペシャルドリンクに飛びついた。
「……」
その間にサンジはキッチンへと戻り、夕飯の仕込みを続ける。
もうすぐ狩りに出掛けたルフィたちも帰ってくるだろう。それまでに仕込みは終わらせておくほうがいい。けれどどうしたってよそ事を考えてしまって何度も手が止まる。ダメだ、と頭を横に振っても効果はない。
「サンジ、ごちそうさま!」
「グラスはそこに置いといてくれ。他にも洗うもんあるから」
「おう! ありがとう!」
「美味しかったわ、サンジ」
「ロビンちゃんのためならいつでも作るよぉ〜〜♡」
スープの様子を見ながら、時々振り返り、背中を向けたままで二人の会話を聞く。
「ねぇチョッパー、ルフィたちが帰ってくるまで一緒にお昼寝しましょう。一度たっぷり寝たほうがいいわ」
ロビンのお誘いに、灰汁を取る手が止まる。
でもゾロが、と渋っていたのでサンジが慌てて振り返って手を挙げた。「仕込みのついでにここで看てるさ」と咄嗟に思いついた言い訳は変じゃなかっただろうか。
「んー、……じゃあなにかあったらすぐに起こしてくれよ、サンジ」
「あ、あぁ、すぐに知らせる」
ならばと納得したチョッパーにひらりと手を振って、二人分のグラスを回収した。ロビンはチョッパーを抱えて微笑んだ。
「行きましょう」
「うん!」
小さな足音は遠くなって、そのうち聞こえなくなる。
サンジは洗ったグラスを丁寧に拭いて、戸棚にしまう。そのままキッチンに隠れるようにしゃがみ込んで、今日一番の溜息をついた。
(ごめんね、ロビンちゃん……)
気を遣われてしまった。物凄く。
二人きりにしてくれたのだ。自分とゾロを。
「もしかして顔に出てたか……?」
常に鏡を持っているわけではないので自分の顔は分からない。マッサージをするように頬を摘んで指圧して、コンロの火を消した。仕込みは完璧とまでは言えないが、粗方終わらせたので問題はないだろう。
肩に引っ掛けていたネクタイを戻して煙草を咥える。
火はつけないまま、静かに医療室の扉を開けた。
「……」
この三日間、足繁く通った医療室。
輸血パックが無くなり、点滴が無くなり、包帯や湿布も気持ちばかり減ったが、それでもゾロは眠ったまま。静かなここはまだ寒く思えてしまって仕方ない。
サンジが近寄っても、音を立てて椅子を引っ張ってきて隣を陣取ってもゾロは微動だにしない。
「……てめェの寝顔ばっかりもう見飽きたんだよ、アホ」
鼾もかかずにお上品に寝やがって。
「もう十分寝ただろ」
背中を丸めてゾロの腕に顔を擦り寄せた。
チョッパーが汗をかく体を何度も清めてくれていたからか、この男の匂いが薄い。代わりに消毒薬や包帯の匂いばかりして嫌になる。
確か、スリラーバークを出る時やシャボンディ諸島に初めて降り立った時もこの男の匂いはこうだった。
こんなんじゃねェよな、とゾロに擦り寄ったままで刀に手を伸ばした。
ゾロの目覚めを待っているのは刀も同じである。
なんだかすっかりおとなしく小さくなってしまっている気がして、昨日も三本纏めて抱えて眠った。おれじゃあ役不足だろうけれど、と抱き締めたらかたりと鍔が鳴る。優しい音に許された気分になって、目に入るたびこうやって手を伸ばしてしまう。
(ごめんな)
刀を心配して抱き締めているくせに、そこに残るゾロの気配を求めている。ゾロの夢を見てしまうほどに色濃い気配を。
浅はかな自分の思考回路なんて全部見透かされているだろう。見透かした上で、この三本の刀は許してくれているのだ。頭が上がらないのはゾロだけではない。
(参ったね、こりゃあ)
二年離れていた時でもこんなに駄目にならなかった。
大丈夫だと祈る声は日毎に頼りなくなってしまって、刀と夢に縋って、とうとうレディに気を遣われて。
「——なぁ、もういい加減起きろよ」
たかだか毒のひとつやふたつで起きられなくなるような、そんな柔な体じゃないだろう?
「いつまで寝てんだ、寝腐れマリモ。てめェがその気ならもう返事してやんねェぞ」
火がついていない煙草は指に挟んで、顔を上げた。
やっぱり綺麗な顔で眠ったまま。規則正しく上下する胸すら人工的に思えて、ズキズキと頭が痛んだ。迫り上がってくる感情と熱が、熱い吐息となる。
「いいのかよ。なぁ、」
ゾロ、と。
たった二文字すら声が上擦ってうまく呼べない。
胸に手を当てて、心臓の動きを手のひらで感じながら穏やかな寝顔に顔を寄せる。
(起きてくれよ、頼むから)
————……遠い昔。
ひとりぼっちで読んだ絵本の中で、王子様はいつだってこうしていた。
愛を込めて口付けて、目を覚ましたお姫様の手を取り、恭しく片膝をついてプロポーズ。小人や森の動物に囲まれて拍手喝采。
この上なく幸せなファンファーレが鳴り響く。
(お前はすっげー嫌な顔すんだろうなァ)
甘ったれた御伽話に則った儀式など。
しかも今の立場で言えばこの男が姫役である。勝手な妄想は秘密にしておかなければ鬼の形相で地の果てまで追いかけられそうだ。
でも、誰も文句がつけられないほどのハッピーエンド。どうしたって今はそれが欲しい。
熱の余韻でかさついた薄い唇に、そうっと自分のそれを押し当てた。一度、二度、と繰り返して、名前を呼ぶ。
「ゾロ」
途端にゾロの眉がピクリと動くものだから、泣きながらでも笑うしかない。
「起きるの遅ェんだよ」
ゆったりと持ち上がっていく右の瞼。まだ虚な琥珀色は無防備で、焦点が定まらないのがゆらゆらと揺れる。
おれはここだ、とゾロの頬に手を添えた。じっくりと時間をかけてサンジを捉える。
「ちゃんと勝ったぞ。刀もある。船もみんなも無事だ」
微睡む脳を声で刺激して、刀を見せてやろうと手を伸ばす。
けれど、先にゾロの唇が動いた。
「っ、」
喉が張り付いてうまく声が出せていない。呼吸の音も掠れている。先に水分を与えなければ、と分かっていても懸命に動く唇に耳を寄せてしまう。
久しぶりに聞きたかったのだ、この男の声を。
誰よりも先に、自分が。
けれど、
「…………泣く、な」
お前はやっぱり狡い男だ、と顔を歪めた。
ヒグ、と喉が引き攣って鼻の奥がツンと痛くなる。眼窩が熱くなる。手が震えて、とうとうゾロの頬や首筋に擦り寄るように顔を落とした。
「——ッ、こ、の、クソ野郎……ッ」
我慢したのに。
泣かずに笑って、安心させてやろうと思ったのに。台無しだ、大馬鹿野郎。
悔しいが、込み上げてくる涙はしばらく止まりそうにない。
(大丈夫だって分かってた)
約束だと言ったから。
こんなところで死ぬわけがないと信じているから。
(でも、)
それでもどうしようもなく、————怖かった。
「ゾロ、っ、……ゾロ……」
ひくり、ひくり、とつっかえる喉が煩わしい。それでも呼びたかった。この男の名前を。
だって、やっと返事が返ってくるのだ。
「コック」
ううう、と噛み締めた歯の隙間から情けない声が出る。指に挟んでいた煙草はいつの間にか床に落ちてしまっていて、けれど気づける余裕も、拾う余裕もない。
眠り続けていたせいで軋んでいる腕がそろそろと持ち上がる。着地点はサンジの頭の上。まだ辿々しく、不器用に、しかし随分と優しく撫でてくれる。
「泣くな」
お前が泣くのは、結構堪えんだよ。
掠れた声が紡いでいく知らなかった事実に、そのままもっと堪えてろ、と意地悪に返す。優しくなんてしてもらえると思うな。この三日間どんな気持ちで過ごしたと思っているのだ。
それでもこの男が願う通りに涙を堪えて、無理にだっていっとう悪い顔を作ってやる。
「いいかゾロ。お前覚悟しろよ。うちの奴らは病み上がりだって容赦しねェんだ」
「な、に、がだ……?」
ぐず、と鼻を啜って顔を上げる。
下唇を噛み締めて強引にシャツの袖で涙を拭った。きっと真っ赤になっているだろうけれど、もういい。
——目が覚めたばかりのゾロはまだ気付いていない。
静かな医療室の向こう側。狩りから帰ってきたクルーたちの騒がしい声に。
眉を寄せて怪訝な顔をするゾロに、サンジはふはっと笑って見せた。
「うるさくなるぜ」
きっと寝起きには辛いくらい。
まだ傷が綺麗に塞がっていない腹が痛むくらい。
(なぁ、本当にうるさくなるぜ)
今度はそばにある刀に声をかける。お前らも覚悟したほうがいい、と忠告をひとつ。
チョッパーは怒り狂うだろうが、その身ひとつで受け止め切れないほどの心配と安堵とお説教と、それから愛を思い知るがいい。
サンジは医療室を飛び出して甲板に顔を出す。
手摺に手をつき、思いっきり息を吸い込んで腹に力を込めた。
「クソ野郎ども! ゾロが目を覚ましたぞ————ッ!!」
鬱々とした霧が吹き飛ぶほどの声量で、それがスタートの合図になる。
わっと上がった島が揺れるほどの歓声はゾロの元にも届いているだろう。もしかしたらこれからの事態を予測して逃げ出そうとしているかもしれない。
けれどそれは許されない。
「ゾォーーーーーーーーローーーーーーーーーッ!!!!」
勢いよく伸びたゴムの腕が医療室へと一直線。次いで飛んでいく体と麦わら帽子。感極まってわんわん泣き喚くウソップとブルックも一拍遅れて地を蹴った。
「おいおい、お前ら船を壊すなよ」
年長者の顔をして諭すフランキーのサングラスの奥だって、安堵した優しい瞳が隠れている。
「ゾローッ! おっ、おまえ、お前なぁ……ッ!!」
「ッ、ま、待て! 待てルフィ!! そこはまだ痛ェんだよ、アホ!! 巻きつくんじゃねェ!!」
船が壊れそうなほどに響く船長の声に、見舞いとは到底思えない騒音の数々。聞こえてくる悲鳴は、間違いなく数分前まで意識不明だった患者のもの。
「コラー!! 何やってんだ、ルフィ! 血が滲んでんじゃねェかバッキャロー!!」
ロビンと昼寝をしていてスタートが遅れた船医が人型に変形してやっぱり怒り狂っている。それでも泣き笑う船長は止まらない。ブルックなんてもう早速演奏し始めて、肩を組んだウソップとルフィが暴れ回る。
「まったく、大騒ぎしちゃって。……でも、今回はちょっと静かに寝過ぎよね」
遅れて階段を登ってくるナミの声が震えていたことは、きっと触れないほうがいいだろう。
「サンジくん」
オレンジの長い髪が肌寒い風に揺れる。出会った頃のような少女の顔で笑った彼女は、サンジの眦をチラリと見上げて「よかったね」と胸を叩いた。
「うん」
じわ、と頬が熱くなるけれど、それでも素直に頷いた。
よかった。よかったのだ、本当に。
「ふふ、今日は素直なのね」
けれど、朗らかに急所をついてくるロビンの言葉にギシリと体が軋む。
「ロ、ロビンちゃん……今日はって、」
「だってずっと意地を張ってたから」
「う」
見事に言葉に詰まったサンジの横でナミが手を挙げる。
「あ、わたしもそれ思ってた。サンジくんって昔っからゾロのこととなると顔に出やすいわよねぇ。心配だからずーっとそばにいたいって言えばいいのに。言ってくれればわたしたちだって邪魔しないのよ?」
「えっ!? いや、おれ、おれは……っ!」
「おれは、なに?」
「っ、ぜ、全然、心配とか、……おれ、べつに……っ」
あとからやって来たロビンも医療室の中を覗いて、それからサンジの隣へ。
ふわりと吹く風は可愛らしい花の匂い。反対からは爽やかな柑橘類の香り。両サイドからこの上ない幸せの香りに包まれていると言うのに、話題が話題なせいで心が落ち着かない。
わたわたと腕を振って慌てふためいて、——逃げられないと悟って肩を落とした。
「…………そ、そんなに……?」
「えぇ」
「うん。そりゃあもう」
ちっとも変わってないわね、二年前から。
「え、えええぇ……」
「ゾロが起きた時に一緒にいられてよかったね、サンジくん」
「かっ、勘弁してよ、ナミさぁん……」
「チョッパー連れ出しておいてよかったわ」
「ロビンちゃんまでぇ……」
美女の微笑みにバッサリと切り捨てられて、力が抜けた体は手摺に全部預けてしまう。
全部てめェのせいだぞ、とこっそり振り返ってゾロを睨みつける。当の本人はまたルフィに飛びつかれて、腹の傷が痛いと喚いてそれどころではなさそうだ。
ナミとロビンは、萎れたサンジの頭上でくすくすと顔を見合わせて笑う。
そして。
「——……あ、ねぇ二人とも見て」
航海士の指先が、空を指差す。
「霧が晴れてく」
強い風が吹いたわけでも、気温が変わったわけでもないのにくっきりとしていく視界。
ゾロを閉じ込めていた深い森は、存外動物の声が多く、賑やかなもの。まるで幻でも見ていたのかと思えるほどに印象が変わる。
不思議ね、とロビンの声に頷いた。
導かれるように見上げた空はどこまでも高い。寒いとばかり思っていたけれど、夏島のような空模様。橙色の夕日が少しずつ姿を現して、サニー号を暖かな光で包んでいく。
「うん。明日はいい天気になりそう。そろそろ出航かな」
冷え切った体に夕日が温かくて、知らずゆったりと微笑んでいた。
扉が開け放たれたままの医療室にも、柔らかな陽が差し込む。
——一緒に帰ろう、とあの日の自分の言葉が脳裏を過ぎる。
帰ろう。ゾロ。
暖かな火が灯った、騒がしくも愛おしいあの船へ。
夕日に背を向けるようにして、まだ騒がしい医療室を眺める。目は逸らさずに煙草を咥えて火をつける。煙草が美味いと感じたのは三日ぶり。
(これで、やっと本当に連れて帰ってこられた)
かた、かたり、……かたり、と音がする。
なんだか感謝されているようで擽ったくなって、頭を掻いてそっぽを向く。
もう祈りは必要ない。
代わりに、おかえりと言ってやればあの男はどんな顔をするのだろう。
想像したら、じんわりと胸が熱くなった。
✴︎
——ガチャ、と扉が開く音でサンジは顔を上げた。
料理に集中していて気づかなかった気配に目を丸くして、呆けたように口が開く。
けれど、重い足音は迷うことなく一直線にこちらにやってきたと思ったら背中にくっついてくる。剣ダコだらけ、傷だらけの両手を腰に回してしっかりと抱き締められる。
「……おい。何しに来たんだよ、クソ剣士」
まだこの距離感になれない頬が熱くなって、作りかけのサンドイッチを置く。
「お前出航準備手伝いに行っただろ? 戻ってくんの早くねェか」
「病み上がりはじっとしてろって言われたんだよ、フランキーに」
それにもう終わるってよ。
「だから戻ってきた」
「……あっそ」
「おう」
うっかり死にかけて目が覚めたゾロは、何故かくっつき虫になっていた。
どこかの偉人が書いた物語じゃあるまいし、と笑おうにも兎にも角にもサンジのそばを離れない。
あれだけ曖昧に引いていた境界線を遵守していたというのに、今では簡単に踏み越える。それどころか足の裏で乱雑に消しているようにも思う。
今だって、サンジの首筋に鼻を擦り寄せ、そうかと思えば甘く噛んでくる。まるで大型の獣に懐かれた気分だ。
「ンなとこ噛んでんじゃねェよ」
しかもまるで躾がなっていない。
注意したってどこ吹く風で、サンジは仕方なくパンの耳を与えてやる。本当なら油で揚げて、砂糖やシナモンパウダーでコーティングしたいところなのだが、ゾロのせいで動けないのだ。
焼いてもいない柔らかなパンの耳。口元に持っていけば、ばくりと大きく噛みついてくる。
「次」
「早ェよ。もっとしっかり噛め」
「腹減ってんだよ」
あ、と大きく開いた口。仕方ないなぁとパンの耳を突っ込んだ。量だけは大量にあるのだが、このままではサンドイッチが完成するまでに無くなってしまうだろう。
(まぁ食欲があるのはいいことか)
意識を取り戻してからというもの、ルフィと張り合う勢いでよく食べる。
最初はチョッパーも「少しずつにしたほうがいいよ、胃がビックリしちゃうから!」と慌てていたが、あまりの食欲に早々に匙を投げた。食べていなかった分を、失ってしまった体力や血液を、兎にも角にも補おうとしているのだろうと都合よく結論づけた。
つまり「もうお好きにしてください」状態である。
そのおかげか、元々のポテンシャルなのか。驚くほど回復が早く、目が覚めた次の朝には鍛錬をしようとしていたのでチョッパーの華麗な飛び蹴りが後頭部に直撃していた。
流石に酒は解禁になっていないし、ゾロもそれなりに我慢しているらしいが、たぶんあと数時間だろうとサンジは踏んでいる。
この男がとくに好きなラベルは奥底に隠しているが、気付けばその手に持っているのだろう。
「おれァ忙しいから、あとは自分で食え」
「ん」
パンの耳をまとめて入れている袋を腰に回された手に持たせる。
作業を再開すれば、大人しく自分で食べている。ポロポロと肩にパン屑を落とされるのはたいへん不服だが、病み上がりということで今日だけは許してやろう。
「チキンの切れ端も食うか?」
「食う」
「サンドイッチ残したらオロすぞ」
「それも全部食う。おい、食っていいのはこれか?」
「あぁ」
まな板の端っこに残っていたチキンの切れ端をゾロの指が掠め取っていく。
「……」
たったそれだけで、何度だって安堵する。
心配していた毒の後遺症は体のどこにも残らなかった。奇跡に近いとチョッパーは目を丸くして、ルフィは麻痺がないと聞いた途端に腰が抜けたように座り込み「よかったぁ……」と麦わら帽子で顔を隠していた。
他のみんなも、同じ気持ちだっただろうと思う。
腹の傷が塞がって、本来の調子を取り戻したら。
そうしたらこの男はまた高みに向かって走っていける。
世界一の大剣豪になるその日まで、また走っていけるのだ。
それが、どんなに————……。
「おい、コック」
手が止まってんぞ、と後ろから声がする。
いつも通りに「うるせぇ、わかってる」と答えたはずなのに、言葉が詰まってしまってどうしようもない。
「コック」
「な、んでも、ねぇ」
ぐず、と鼻を啜ってサンドイッチをバスケットの中に詰めた。
「終わりか?」
「……」
まだ言葉に詰まりそうで、うん、と小さく頷いた。
持っていた菜箸は取り上げられて、くるりと反転させられる体。あっという間に二本の腕に包み込まれて、今度はサンジがゾロの肩口に顔を埋めることとなる。
そろそろと腕を持ち上げて外套を掴む。
あの時のようにもう血で濡れてはいない。頭を抱え込んでも血でスーツが汚れることもない。死の匂いは遠ざかって、不自然に体が跳ね上がることもない。
「ゾロ」
——……くっつき虫になったのは、本当は自分のほうだ。
足元にまとわりついてくる黒い不安をいつまでも蹴り飛ばせずにいる自分のほう。
「なぁ、ゾロ」
分かっていて、この男は必要以上に隣に来てくれる。
他のクルーからの生暖かい目も知るかと吐き捨てて、サンジの天邪鬼には目を瞑って、自分が甘えているような顔をして甘やかしてくれている。
「なんだ」
返事が返ってくる。たったそれだけで指先が震えてしまう、情けないこと。
精一杯甘えて肩口に埋めた額を痛いくらいに擦り寄せてやれば、かたり、と音が聞こえた。あっと顔を上げて、すっかり定位置に戻った刀を覗き込む。
今の音は和道一文字だろう。
すっかり元通りになった、凛とした心地の良い音。
「手入れしたんだな」
「あ? あぁ、今朝一番にな。……分かるのか?」
「そりゃあ、まぁな」
なにせ一緒に寝た仲である。
つい先日のことなのにもう懐かしく思えてしまってポロリと素直に零せば、
「アァ!?」
随分と不機嫌な声が振ってくる。
「一緒に寝ただと……!? コイツらとか!?」
「え? あ、うん、悪ィ、勝手なことして……」
ぐわり、と開いた口に思わず素直に謝った。
そりゃあまぁそうか、と眉を下げる。ゾロからすれば意識不明だったとはいえ刀は自分の所有物。それを勝手に持ち出されて好きに扱われてはいい気はしないだろう。
「チッ」
ゴォ、と不機嫌な影がゾロに落ちる。
でもなにもそこまで怒らなくてもいいじゃねェか、と唇を尖らせたが言う勇気はない。だって完全にこちらに非があるのだから。
「わ、悪かったって……」
かたり、かたり、と秋水と鬼徹からも鍔鳴りの音。まるで腹を抱えて笑っているような、そんな愉快な音に聞こえたのは気のせいだろうか。
とうとう刀にまで見放されたかもしれないと肩を落とせば、包み込まれる両頬。固定され、視界いっぱいがゾロで埋め尽くされる。
今度は、あ、と声を上げる暇すらない。噛み付くような口付け。息すら許してくれないほど深く、肉厚な舌に簡単に侵入を許してしまう。
「ん、う」
逃げようにも頭を掴まれて、ついでのように耳を軽く塞いでくる手のひら。おかげで生々しい水音が頭の中に響き渡って下腹部がビリビリと痺れる。
「んん、ん、っ」
外套を引っ張っても許してくれず、それどころか上顎をべろりと舐められて太腿が震える。
もう駄目だと膝を折ってしゃがみ込んだ。それでもまだ食べられて、離れる頃にはすっかり体に熱が籠っていた。
「な、んなんだよ、急に……」
余韻に体を震わせつつも、ゾロの太い首に腕を回す。
答えてくれない代わりにもう一度口付けられて、離れたと思えば頬やら首やら好き勝手に噛まれてしまって痛い。
そして。
「あのなァ、クソコック」
一瞬だけ俯いた顔はすぐに持ち上がって、これ以上ないほどに拗ねた顔。
「おれだってまだてめェと寝たことねェんだぞ」
ふざけんなよ。
なんで刀に先越されなきゃなんねェんだ。
「————……は?」
ぽかん、と開いた口が塞がらない。
下唇を突き出して、眉を寄せ、至って真剣な声で何を言っているのだ、この男は。
「褒美も貰ってねェ」
ちゃんと待ってんだぞ、おれァ。
「そもそもおかしいと思ったんだよ。クソッ。コイツらてめェといる時だけ浮き足立ちやがって……!」
どっちが上か分からせてやる必要があるな、なんて物騒な言葉は耳に入っても右から左。
そんなことよりもっと大事なことがある。
「い、いや、いやいや、待て待て!」
「だから待ってるっつってんだろうが」
「そうじゃなくて!」
「じゃあなんだよ」
「おっ、お前、自分で何言ってんのか分かってんのか!?」
「アァ?」
ゾロが首を傾げてピアスが揺れる。
そんな些細な仕草にすら「クッソ好きだ、馬鹿野郎!」と心臓が跳ねて暴れるのでやってられない。暴れる心臓はスーツの上から握り締めて押さえつけて、だからそれはつまり、と言葉を続ける。
「か、刀に、ヤキモチ妬いてんのかよ、お前……」
「そりゃそうだろ」
男らしくあっさり認めるくせに、少しだけ赤い耳の先。
気付いてしまったらこっちの方が真っ赤になってしまって、大量の鼻血を吹いたあとのように目の前が眩む。
なのに、
「惚れた奴を奪われんのはいい気しねェだろ」
容赦のないオーバーキル。
「〜〜〜〜っ、クッソォ!」
キャパオーバーになった頭ではもう何も言い返せなくて、ゾロに飛び付いて全身を預けることにする。ゼェハァと息を荒くして、胡座をかいたゾロの足の上へ座り込む。
今は、ルフィにご飯を催促されても動けないかもしれない。腰が抜けてしまっている気分なのだ。
「お前の心臓うるせェな。持ち主に似んのか」
「てめェのせいだろうが、クソ野郎……」
「もっと早くなんのか?」
「これ以上は死活問題だ」
ふはっ、と呑気に笑う男の髪を容赦なく引っ張って、今度はサンジからキスをする。
「あれだけ踏み込んでこなかったくせに」
「もう止めだ。今回で懲りた」
「お前でも懲りることあんだな」
「あるに決まってんだろ。おれをなんだと思ってんだ、お前」
この男を起こした軽いキスを繰り返せば、焦ったいと鼻息荒く食べられる。離れる頃には脳に酸素が足りなくて、痺れた舌では碌にゾロの名前すら呼べやしない。
「……で? てめェが言ってた褒美はなんだったんだよ」
「…………」
「黙秘権はねェぞ」
「おっ。マリモのくせにそんな難しい言葉知ってんのか」
「はぐらかすな」
「うあっ、いてぇ!」
容赦なく噛まれた鼻先が痛くて文句を言いながら手で覆う。
それでも許してくれそうにない琥珀の瞳が、言うまで逃さないと煌めいた。サンジは鼻先だけでなく顔を覆って、しかし指の隙間からチラリとゾロを見る。
期待値が上がっていく中で、そんないいもんじゃねェぞと必死にハードルを下げようとする。けれどそんな小才な技術はゾロには通用しない。
早く言え、と無言の圧力。
唸りながらも降参して、最後の抵抗として指の隙間は綺麗に閉じた。
「ご、……ご褒美は…………おれ、とか、言おうかな、って…………」
だんだんと尻すぼみになっていく声を、それでもゾロには届いているのだろう。
居た堪れなくなって逃げようとすれば、先に捕まる両手。あっという間に床に押し倒されて、後頭部を打ち付ける。
見上げた先には獣の瞳。瞳孔が開いているせいで色味が濃くなった目に見下ろされると、一ミリだって動けなくなる。
——グル、と喉が鳴ったのはどっちだったか。
「じゃあ貰うぞ」
毒すらものともしない両手がシャツを左右に引っ張って、ブチッと千切れて飛んでいく釦。その音で流石に我に返ったサンジは慌ててゾロに蹴りを喰らわせて破れたシャツを手繰り寄せる。
「バッ、バカだろ! 今は準備してねェし、てめェも激しい運動はダメなんだろうが! あとそもそももう出航なんだよ!!」
わっと叫べば蹴り飛ばされた顎をさすりながら、それでもゾロは覆い被さってくる。
そして。
「準備してたのか、お前」
「アァ!? だから今は、…………あ、」
繰り返された言葉に乗せられて、自分の失言に気づいた時にはもう遅い。
口を塞いだところで、覆水盆に返らず。
「してたんだな、あの日」
「〜〜〜っ! うるせェ! タイミング悪く死にかけるてめェが悪いんだからな!!」
あと厳密に言えば準備をする気満々だった、である。
こうなったら自棄だと喚きながら認めて、持ち上げた両手で胸ぐらを掴む。躾のなっていない獣を引き寄せて、鼻先に噛み付いた。
「ザマァミロ!」
勝手に死にかけるからご褒美を食いっぱぐれるのだ。
「欲しけりゃ賢くしてろってんだ」
「今夜食うから準備しとけよ」
「聞けよ!」
「チョッパーに激しい運動がどこまでいけるか聞いてくるか」
「聞くな!!」
そうか、お前やっぱり激しいほうがいいか、なんて。
顎に手を当てて呑気に考え耽るゾロをもう一度蹴り飛ばして、やっぱりってなんだと声を荒げた。
そもそも激しいのが好きそうなのはゾロのほうである。だから好き勝手されてもいいように、あれやこれやと事前に準備をして挑もうと思って、————ふと、意地の悪い視線が刺さることに気付いてハッと顔を上げる。
ニンマリと、この上なくご満悦で意地悪な顔をしたゾロと目が合った。ヒクリと頬が引き攣る。
「エロい顔してんぞ、エロコック」
「お前あとで三枚にオロしてやるからな」
「夜、片付けが全部終わったら上に来いよ。待ってるからな」
「…………もー、聞けって、だから」
腹の傷に響いても知らないからな、と息を吐いた時点でこちらの負けである。
体を起こして、それでもまだ覆い被さってきているゾロの首に腕を回す。夜までまだ長い。いつまでも名残惜しく頬を擦り寄せて、しかし甲板から聞こえる船長の声に離れる他ない。
「出航だな」
「あァ。行こうぜ」
思いがけず長居してしまったこの島ともお別れだ。
最後に外を眺めておこうと立ち上がって、——しかし一番大事なことを忘れているとこに気付いてあっと声を上げた。
「ゾロ」
先を行く男の腕を取る。
歩みを止めるように引っ張っては、ピアスが揺れるその耳へと手を添えて唇を寄せる。
「好きだぜ」
ずっと伝えたかった言葉を囁いて、大きく丸くなった右の瞳に満足気に目を細めた。
「——やっぱり今から食っていいか」
「バァカ。賢くしてろって言っただろ」
かたり、かたりと鍔が鳴る。
甘ったれた御伽話からは程遠い、なんとも物騒なファンファーレ。
それでもおれはこれがいい、と愛しい男からの口付けを享受する。
絵本の中の王子様になれずとも、野望のために刀を抜き、咆哮を上げて立ち向かうこの男の隣がいい。