睡眠時間が足りない体が「寝かせろ」と主張してきているのに、今日はどうにも周囲がそれを許してくれないらしい。
先ほどから代わる代わる誰かがそうっと近寄ってきては、花をひとつ飾っていく。目を開けなくても十二分に伝わる甘い匂い。それは頭の上であったり、腰帯であったり、腹巻であったり、靴の上であったり。兎にも角にも全身が甘ったるい。
いい加減目を開けてチョッパーあたりを捕まえてみてもいいが、花を置いたあとに「ヤッター! おれも成功したぞ、ウソップ!」と喜んで走り回られたらそれも出来ない。
(暇なのか、お前らは……)
深く溜め息を吐きたいけれど、今度は地面に咲く手に邪魔される。ロビンの手も他のみんなと同じように花を飾っていく。
次いで、どこかひんやりとした風が吹いたのでブルックが高速で近寄っては花を置いたのだろう。やっぱり船首のほうで賑やかな声がする。
(おれを起こしたやつが負けってとこか)
そもそも最初からずっと起きているのだが。
あぁ眠いな、と欠伸が我慢できなくなったところで、ガチャン、と静かに扉が開く音。そうして大よそゾロの真上から船中に響く料理人の号令。
「おーい! ナミさん、ロビンちゃーん! それからついでに野郎ども、おやつだぞー!」
「おやつ!」
「おやつだ!」
「あっ! ルフィ、チョッパー! お前ら先に手ェ洗え!」
料理人の号令は何よりもクルーによく効く。あれだけゾロで遊んでいたにも関わらず、即座に興味が移り変わってはさっさとキッチンへと飛んでいくのだ。
サンジは女性陣にそこへ持って行こうかと問いかけていたが、どうやら今日は全員がダイニングで食べるらしい。今度は落ち着いた足音がゾロの横を通り過ぎていく。
「サンジくん、今日のおやつはなぁに?」
「今日はウソップのリクエストでケーキだよ。プチフールにしたから好きなの選んでてくれるかな? おれはちょっと寝坊助マリモを回収してくるよ」
「うん、わかった」
甲板へと出てきたサンジとすれ違うようにナミもダイニングへ行き、すぐにわあっと歓声を上げている。本日のおやつも会心の出来らしい。サンジは飲み物もすぐに用意するよ、と言いながら目を閉じている自分の前にしゃがみ込む。
ふ、と小さく笑ったのは気のせいじゃないだろう。
「あーらら。随分と可愛くされてんじゃねェか」
こりゃあロビンちゃんの花壇の花だな、と独り言は続く。
「……お前は花飾ったまま寝てろ」
すり、と甘い匂いがする手の甲が頬を撫でてくる。ダイニングにいるクルーに聞こえない程度の静かな声は、程よく鼓膜を揺する。
「その代わり、みんなのおやつが終わったらキッチンに来いよ」
この男だけは自分が起きていることを分かっているのだ。だから、誘われたまま素直に頷き、彼の手の甲に頬を擦り寄せた。
閉じたままの唇にサンジのそれが触れて、あっという間に煙草の匂いが遠ざかっていく。
遠くで「あれ? ゾロはどうした?」とウソップの声がしたが、まだ寝てるだの何だの言い訳をしてくれているだろう。おやつの時間は無事に続行されている。
「……」
ふーっと大きく息を吐いて、呼吸を整えた。
ようやっと静かになった甲板で、ゾロは浅い眠りに就く。
▪︎
「——……おいコック、これどうすればいい」
「ん? ふっ、はは! お前花をくっつけたまま来たのか」
「笑うな。……どうすりゃいいんだ」
全員のおやつが終わり、再び甲板が騒がしくなったところでゾロはパッと目を覚ました。
とっくにおやつ終わったわよ、と呆れたように見下ろしてくるナミには適当に返事をして約束通りにキッチンへと向かう。
扉を開ければ甘い匂いが微かに残っていたが、耐えられないほどではない。小さく音がしているのでサンジが換気扇を回してくれていたのだろう。
「テーブルの上に置いといてくれ。あとで押し花にするからな」
「わかった」
クルーに好き勝手に飾られた花をひとつひとつ回収していく。
赤だったり、オレンジだったり。青だったり、黄色だったり。基本的にどれも小さい花なので、いろいろ組み合わせて押し花にすれば綺麗だろう。
「なんなんだ、この花」
「ロビンちゃんの花壇で育った花だよ。おれもさっき貰ってドライフラワーにしようと思って吊るしたところだ」
「どら……? 食いもんか?」
「食用の花じゃねぇから食ってもなぁ。毒じゃあねェが、」
ならいい、とカウンター席に座れば即座に目の前に置かれたコーヒーゼリー。おやつはケーキじゃなかったか、と確認のためにサンジを見れば「おまえはこっちのほうが好きだろ」とでも言いたそうに首を傾げられた。
確かに、今はこの男が作った甘くないケーキでも食べられそうにない。文句は言わずスプーンを手に取った。
「いただきます」
「はいどうぞ」
甘さがないコーヒーゼリーはつるりと舌触りが良く、喉越しもいい。途中でミルクを足すかと聞かれたが、今はこのままがいい。あっという間に食べ終わって、少し悩んでからおかわりを要求した。今度はミルク付き。これも美味い。
「ちったァ寝られたか?」
「あー……まぁ、ちょっとだけな」
正直言えばまだ眠い。コーヒーゼリーのカフェインではこの眠気も飛びそうにない。
調理台に寄り掛かっているサンジは煙草を吸いながら時計を取り出した。チラチラ、と冷蔵庫と時計を何度か見比べた後で「もう少し寝るか?」と聞いてくる。
「ディナーの準備はほとんど終わってるし、ルフィにはホールケーキ三個食わせたからしばらく腹減らねェだろうし。たぶん一時間か、一時間半くらいは平気だぞ」
「寝る」
「おう」
珍しいこともあるもんだ、と口から出そうになって必死にコーヒーゼリーと一緒に飲み込んだ。ここで喧嘩をすれば今の話はまるっとなかったことにされるだろう。
ゾロはミルクと一緒に最後の一口を胃へと流し込んで両手を合わせた。ガラスの器をサンジがさっと洗って、ソファの方へと移動する。サンジはキッチンから本と灰皿を持ってきていたので、ゾロと一緒に寝るわけではないらしい。
「料理の本か? それ」
彼が持っている本の表紙はどうにもただの料理の本とは言えない重厚感があって、それを覗き込みながら刀はソファに立てかける。
「あぁ。ロビンちゃんが本屋で見つけてくれてさ。古い民族料理の本だって」
「民族料理」
「そ。知らねェ香辛料が多いから完全再現は無理だろうけど、似たものは作れるぜ。今度これのフルコース作ってみてェんだよ」
「へぇ」
古い民族料理、では何のことやらピンとこないが、この男の手にかかればそれはもう美味いものが出来上がるのだろう。
香辛料を使うということは辛めの、大人向けのものだろうか。今まで食べたことがない、新たな味覚が開拓されると思ったら途端に楽しみになる。
「酒も」
「料理とお前の口に合うやつ探すさ」
「よし」
「美味すぎて泣くなよ」
「誰が泣くか」
ごろりとソファに転がって、本とともに座ったサンジの太腿に当然のように頭を乗せる。すると、これまた当然のように頭を撫でられて、先ほどと同じように頬を撫でられる。
今日は随分甘やかしてくるな、と大きく息を吐いた。
(ねみぃ……)
これならよく眠れそうだ、と落ち着かなかった心臓が安堵していくのがわかる。
少し冷たい手と、嗅ぎ慣れた煙草の匂い。適度に満たされた腹と、潤った喉。それだけでも充分なのに、子守唄の代わりのように名前を呼ばれるともうダメだった。唇がぱかりと開いて、眠りに落ちるための呼吸に変わる。
両目の上に覆い被さってくる手のひらは、もう甘い匂いはしない。
「——おやすみ、ゾロ」
夢の底まで一瞬で転がり落ちて、返事を返すことは叶わなかった。
▪︎
ドタドタ、と近寄ってくる足音にサンジは本を読んでいた顔を上げる。
そして、
「うおぉーい! サ、」
「シーッ! 静かにしろ!」
扉が開いた瞬間に、それ以上騒ぐなと牽制する。
入ってきたのがウソップで良かった。彼はサンジの言葉に即座に反応してぴたりと口を噤み、全身を固まらせた。こういうことに関して抜群の反射神経を持っているから助かる。
一拍置いてから、自分の膝の上を指差した。
「マリモが冬眠してんだよ」
「悪い悪い」
扉を開けた時の百分の一くらいの声量になったウソップは足音を立てずに摺り足でサンジの近くまで来て、飲み物がほしいです、と手を挙げた。
「冷蔵庫の一番デカいピッチャーのやつなら飲んでいい。どうせルフィたちもいるだろうから、用意してるグラスごと持っていけ」
「さっすがサンジくん。準備いい〜!」
「グラスの形が違うのはナミさんとロビンちゃんのやつだからな! 間違っても使うんじゃねェぞ!」
「わかってるわかってる」
冷蔵庫からピッチャーを取り出したウソップは、ご丁寧にトレーの上に用意されたグラスとストローに、にんまりと口角を持ち上げている。
なんだよ、とサンジが眉を寄せればいっそう顔が崩れていく。
「いやぁ? 本当に準備がいいなぁって思っただけだって」
「……なにが言いたい」
「ゾロのためだろぉ」
「うるっせェよ! 用が済んだらさっさと行け、クソッ鼻ァ!」
にんまりとしたその表情が気に入らなくて、というよりも想像以上に恥ずかしくなってしまって。ついつい怒鳴ってしまったのだが、太腿の上のゾロは微塵も起きそうにない。ぐが、と穏やかな鼾である。
グラスやらピッチャーやらを載せたトレーは一旦テーブルに置いて、ウソップがゾロの顔を覗き込む。
相変わらずよく寝てらァ、と感心するウソップに、
「……昨日から寝てねェんだよ、コイツ」
と、小さく溢した。
「え、そうなのか?」
「夜中に、ギリギリ目視できる距離を海賊船が通ってな。大人しく通り過ぎてくれりゃあそれで良かったんだが、妙に周りをウロウロしてやがるもんだからコイツがずっと見張ってたんだよ」
見張っていた、というよりは、ちょっとでも近付こうものならお前たちの船を斬ると睨みを効かせていたというほうが正解だ。
結局何時間も膠着状態が続き、太陽が昇る前にはいなくなっていた。きっと少しでもゾロの気が逸れようものなら攻撃してやろうと企んでいたのだろう。
一睡もせずにゾロは朝を迎え、早めに起きてきたサンジが交代するから眠るようにいったのだが、そういう時に限って他のクルーも早くに目を覚まし、遊びに巻き込まれ、昼寝をしようと思えば花を飾られ、なんだかんだと眠れないままに夕方が来てしまったのだ。
「じゃあさっきは寝る邪魔しちまってたのか」
「どうせ興奮状態で碌に昼寝も出来なかっただろうから気にすんな」
大人しく花を飾られてるマリモが見られておれは面白かったぜ、と思い出して笑う。
「その代わり、今夜の見張りは慎重に頼む」
まだ近くにいるかもしれない。また狙ってくるかもしれない。
だから頼んだぜ、と。真っ直ぐにウソップを見つめて言えば、真剣な顔で頷いてくれた。
「ナミさんたちにも言っといてくれ」
「おう!」
頼もしい拳を持ち上げて、それからウソップはトレーを持って甲板へと向かう。
夜の件を話すついでに、今ゾロが眠っていることも話してくれているだろう。多めに見積もって一時間半、と思っていたがもう少し寝かせてやれそうだ。
(大したことでもねェのに話すな、って怒られちまうかもなァ)
たまにはいいじゃねェか、と想像の中のゾロの肩を叩く。いつだって誰もが気付いていないところで睨みを効かせて船を守って、何でもない顔で黙っているばかりなのだから。
本をもう一度手に取る前に、煙草を咥えて火を点ける。
肺腑いっぱいに苦い煙を吸い込んで、それから左手でゾロの頬に触れた。無防備に預けられた体にどうにも笑ってしまって仕方ない。
「——……ゾロ」
耳のピアスも、喉仏も、胸の傷も。
触ったところで少しも起きる気配がない。
「ゾーロ」
ぺたり、と手のひらを心臓の上に押し当てる。
規則正しく鼓動を刻むそこは随分と穏やかで。これ以上嬉しいことはないと、泣きたくなる。眠っているお前は知らないだろうけれど、と気を抜けば震えそうになる唇は、煙草と手のひらで隠した。
(……甘やかしたくも、なるだろ)
他の誰でもない。自分の前ではこんなにも無防備に眠ってくれるのだから。
(これも惚れた弱みってやつだ)
甘やかして、頭を撫でて、キスをして、なんだって許してやりたくもなる。この時間を確保するために、仕込みを全て前倒ししても苦にならないし、喧嘩だって今日はお預けだ。
ただただ今は、愛しい男の労を労いたい。それだけ。
「お疲れさん」
最後にもう一度頭を撫でて、長くなった灰を灰皿へと落とす。そうしてまた本を読み始めるのだ。
頭の中で本の料理を作っては、ゾロが好みそうな酒をジョッキに注いでやる。
口いっぱいに自分が作った料理を詰め込み、頬を膨らませて美味いと笑う男の顔を想像して、自然と笑みが溢れた。