夜のあとで

「なぁ、それ触ってもいいか」
 すっかり寝てしまったのだと思っていた男の声が、冬の空気に混じって鼓膜を揺する。


 メリー号の甲板の上には先ほどからチラチラと雪が降り出した。
 そのせいか、ほとんどのクルーが酒で潰れているせいか。夜の海は随分と静かだった。
 ゾロはキッチンから勝手に酒を一本拝借して、甲板の隅で満月をご満悦に見上げた。ぐびり、と酒を一口。同時に聞こえてきたのが、近くで潰れていた料理人の声だ。
 眠気のせいでいつもより瞼は重い。それに酒もまだ残っているのだろう。雪が降ってきたと言うのに頬は赤かった。
「……どれだ」
 折角、静かに酒が飲めると思っていたのに。
 でもまぁ、キッチンの主であるこの男の了承も無く酒を取ってきてしまったので、少しくらいは付き合ってやってもいいかと妥協する。どうせあと数分で眠るだろう。
 しかし、
「かたな」
「駄目だ」
 サンジの興味の対象が刀と知って即座に首を横に振った。
 知らず、声が低くなる。
「だめか」
「当たり前だ」
「……そっか」
 普段の態度が嘘のようにしおらしく、ついうっかり許してしまいそうになるが駄目なものは駄目だ。これは遊びの道具ではない。簡単に振り回していい代物ではない。
 ゾロとしては意地悪のつもりで言っているのでも、サンジが嫌で断っているわけでもない。ただ、彼が包丁を大事にしているように、ゾロも刀を大事にしている。それだけの話。
 それに、似合わないだろう、とも思う。人の命を繋いでいく料理を作る彼に手に、人の命を奪う刀はきっと不釣り合いだ。
 だから、
「駄目だぞ」
 じい、と強請るような視線を振り切るようにもう一度首を振った。
「——……なんで急に触りたくなったんだよ」
 普段はカケラも興味を示さないくせに。
 どうせ答えは酔っ払いの気まぐれなのだろう。だから適当に会話して寝てくれればいいと考えた。しかし思惑は外れて、サンジはのろのろと体を起こして胡座をかく。チ、と舌打ちしそうになるのをどうにか堪えた。
「……ちょっと夢見が悪かっただけだ」
「夢だァ?」
「あぁ。たぶん、雪が降ってきたからだな」
 空気が似てるんだよ、と言葉が続いても、何に似ているのかゾロには分からない。そのまま後ろに倒れて眠ればいいのにとそればかりである。
「だったら中に入って寝ろ」
「……そうだな」
 重たい瞼の下。昼間と違って暗い色の瞳が僅かに揺れた。揺れて、息が詰まって、——それから何もかもを飲み込むように笑ってみせた。薄い、偽物の皮を一枚付けているような笑い方だった。
「……」
 随分と、誤魔化すことに慣れているらしい。
 きっとゾロも二人きりでなければ、静かな夜でなければ、サンジが言葉を飲み込んだことに気付かなかっただろう。
 そして、この男は二度と刀を触りたいとは言わない。極力視線をやることもなく、素通りし、そうして本当に無かったこととなる。
「レディ、……はもう部屋に帰ってるか。じゃあルフィたち運んでくる。おれは片付けもあるからこのまま見張り任せていいか?」
 というよりも、現在進行形で無かったことになっていっている。なんだかそれは、——面白くない。
「一本だけだ」
 なぜそう思ったのか自分にも分からない。
 ただ、自分との会話が、時間が、出来事が、この男の中から消滅するのは気に食わなかった。サンジの思い通りになるのを阻止したかった、というのもあるかもしれない。
「え、」
「気が変わる前にさっさとしろ。いいか、一本だけだ。選べ」
「……や、でも、いいよ、いやだろ?」
「うるせェ。さっさとしろ」
 触りたいと言ったくせに、一度諦めようとしたからか随分と躊躇している。ゾロは酒を一口飲んで、ほとんど強制のように背中を押してやった。
 ゾロのすぐ横に立てかけられた三本の刀。和道一文字。三代鬼徹。そして、雪走。それらは大人しくサンジに触れられるのを待っている。さぁどれを選ぶのだろうか、と。流石に気になって、四つん這いでおずおずと近寄ってくるサンジの手の行方を見守る。
「これ、」
「あぁ」
 和道一文字に伸びかけた手は止まって、雪走へと進路を変更した。三代鬼徹には何かを感じ取っているのだろうか。選択肢にも無かったようだ。
 指先が黒い鞘に触れる前にサンジはもう一度こちらを見た。本当にいいのか、と隠れていない方の目が訴えてくる。
「いい」
「……あり、がとう」
 やたらと素直な言葉に酒を吹きそうになった。これは明日の海は大荒れだなと直感した。
 サンジの指がようやっと鞘に触れる。主人以外の指に怯えないように指先で撫でて馴染ませて、それからしっかりと掴む。
「おもいな」
 ちょっと持ち上げた感想がそれだ。
「当たり前だ」
「うん、……ふ、はは、やっぱりおもいなぁ」
 ゾロのすぐ近くに座り込み、何が面白いのか笑っている。そのくせ、今にも泣きそうな口元をしているから器用で、不器用な男だと思う。
 ——いったいどんな夢を見たら、こうしたくなるのか。
「抜いてもいいか?」
「気を付けろよ」
 切れ味は本物だ。
「知ってるさ。いつも見てる」
 サンジが、悪ィな、と静かに謝罪した先は雪走。そして、今は立つと危ないからと座ったままで刀を腰に据える。
「——……」
 こいつ、とゾロが目を僅かに見開いたときには、サンジは鯉口を切り、すらりと刀身を抜いて見せた。刀の重みを感じるように。鞘から抜けていく感触を味わうように。
 まるで、——懐かしむように。
「……いい刀だな」
 おれでも分かるよ、綺麗だ。
 抜いた刀は満月に照らされて淡く光る。血に塗れたことなどない、清廉潔白だとでも言いたそうな色合いだ。持つ人間が違うだけで、こんなにも刀の表情が変わるのか。
「あぁでも、ほんものは、おもいな」
 だが、気取ったように表情を変えているだけで中身は変わらない。ゾロが斬った人間の血を吸い、命を奪ってきた刀だ。そしてゾロの覚悟が切っ先にまで流れている刀。重すぎるくらいでちょうどいい。
「どこで習った」
「……」
 分かっていたが、言う気はないらしい。
 掲げた雪走に向いていた顔がゆったりとゾロへと向けられる。鬱陶しいくらいに眩しい金色の髪も、世にも珍しい巻いた眉毛も、少し思い瞼の下の瞳も全部がゾロが知っているサンジの顔。だけど、全く違う男にも見えた。
「お前は、」
 誰だ、と問おうとしてやめた。
 聞いたところでこのいけ好かない男は義足の料理人の元で育った男で、うちの船のコックである。それ以上でもそれ以下でもない。
「やっぱさぁ、剣術習うならお前にも師匠とかいんの?」
 ゾロの言葉を遮るように明るい声が冬の空に響く。どこまでも話す気がないサンジから目を逸らして、ゾロはほんの少しだけ当たり障りのない昔話をする。
「……村に道場があった。そこに通って、先生がいた」
「厳しかったか?」
「優しい顔で笑う人だ」
「へぇ。表情筋の使い方は教えてもらわなかったのか」
「斬るぞ、てめェ」
 そろそろ返せ、と言えばサンジは大人しく刀身を鞘に収めようとして、手を止めた。
「納めるのは得意じゃねェんだ。傷つけたら悪ィからな」
 思えば、これだけがサンジが語った夢の欠片。
 鞘と共にゾロに渡して、ゆらりと立ち上がる。今度こそルフィたちを男部屋に運ぶらしい。
「腹に余裕はあるか? なんかつまみ作ってやるよ」
「いい。寝ろ」
「今夜はもう寝られそうにないから気にすんな」
「……」
「さっき深く寝過ぎたんだよ。酒飲むといつもこうだ」
 おかげですっかり目が覚めちまった、なんて。分かりやすい嘘をどうしてつくのだろう。少し突けば倒れそうなくせに。
「何が食いたい?」
「おれが食いたいもんなんざ、てめェが考えろ」
「アァ?」
 ヒュ、と刀を振って鞘に収める。サンジに触れられても大人しくしていてくれた雪走に感謝するように鞘を撫でた。
 そして、
「お前はうちのコックだろ」
 この船のコックで、海の一流コックなのだろう?
「早くしないと酒がなくなる」
 酒瓶に口をつけて、呆けている男を急かす。
「っ、わ、がまま、言いやがって、このマリモ野郎は……っ」
 むずむずと口元が歪んで、ようやっといつもの彼の表情に戻った気がした。顔に血が通り、瞳の水分量が増えていく。
「おれが、おれが最高に美味いつまみを作ってやる。それもお前が今食いたいやつ!」
「そうか、楽しみだ」
「〜〜〜〜っ!」
 ポロリと溢れるような吐き出した本心はサンジの顔を真っ赤にさせた。怒っているように眉を持ち上げているくせに、ニヤけそうになるのを必死で堪えている。なんともおかしな表情にゾロは、ふはっ、と吹き出した。
 やっと夢から帰ってきたか、クソコック。
 それは口に出さず、乱雑にルフィとウソップを抱え、大股で歩き出した背中を見送って満月を見上げた。


 彼がいなくなった静かな甲板で雪走が鳴く。
「……あぁ、そうだな」
 酒を飲もうとして、手を止めた。飲みきってしまうのは勿体無い。どうせなら彼が作る美味いつまみと共に飲みたい。
「あれは、違うな」
 雪走の主張を全面的に肯定する。
「ちがう」
 きっと彼はどこかで包丁以外の刃物を扱うことを習っている。けれどそれは刀ではなく、——剣だ。それなりの基礎的な所作は身につけているようだが、刀と剣では扱いが違う。だから剣とは違って反った刀身を納める自信はなかったのだろう。
 その違和感を雪走は訴えてきている。
 そしてゾロも気付いている。
「……」
 気付いているならいい、と。そのまま雪走は黙ってしまった。ゾロはもう一度鞘を撫でて、そのあとで他の二本と同じように立てかけた。


 見張り台に登れば、いい匂いがし始めた。鼻を鳴らして、腹を空かせて彼を待つ。
 最高のつまみを作った彼の顔が、いつも通りであればいいと心底思った。

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