甘えてみせて

 どうしても上手く飲み込めない感情と、振り払っても纏わりついてくる火の粉のような過去の声。
望んでもいないそれらに翻弄されてしまった夜は、背中を借りることにする。


 甲板で月を見上げて酒を飲む背中にそうっと近付く。足音は消しても消さなくてもどちらでもいい。ただ、男の月見酒を邪魔しないようにだけ注意して膝をつく。
「……なんだ」
「べつに」
 冬の空気に低い声がよく響く。
 何度叱ってもやっぱり勝手に酒を持って行く酒泥棒の、いっとう綺麗な背中は温かい。そこに手を当てて額を擦り寄せた。
「……」
 浅かった呼吸が少し深くなる。
 冷え切った脳に男の体温が染み渡る。
「…………」
 途端に鼻の奥がツンと痛くなって、慌てて目を閉じた。
ここで泣けば、きっとゾロは困るだろう。碌に喋らず近寄ってきて、そうかと思えば勝手に背中に凭れかかってきて。挙句の果てに泣き始めるなど、ゾロからすれば鬱陶しい以外の何物でもないはずだ。
(……だめだ)
 頭で分かっていても、うっすらと濡れた眦が空気に触れて冷たい。
 本当はもう少しここにいて、男の体温を分けて欲しかったのだが、——今夜はこれで終いにしたほうが良さそうだ。
(ちょっと触れたから、いい)
 触れた時と同じように、静かに、息を殺して。
穏やかな夜を邪魔しないように離れて行く。
 おやすみ、くらいは言ったほうがいいだろうかと悩みながらも、震える奥歯では話せそうにないなと苦く笑って立ち上がった。踵を返して男部屋に戻ろうとして、——しかし腕を掴まれた。瞬きひとつで腕の中に囲われる。
額や手のひらだけじゃなく、全身を男の体温で包まれて情けなく奥歯が鳴った。
「前から来い」
 あぁ、勝手に背中に触れられたことが気に食わなかったのだろう。
苛立った声に反射的に謝る。すると、いっそう凶暴に不機嫌に、喉を鳴らすものだから困った。サンジは眉を落として口を閉じるしかない。
「……てめェはおれをなんだと思ってんだ」
「っ、だから、悪かったって、」
 珍しく素直に二度も謝ったというのに、今度は深い溜め息である。
涙の味がほろ苦いものに変わってしまって、サンジはゾロの体をやんわりと押し返す。そのまま力任せに涙を拭って、もうしねェよ、と笑ってみせた。
「よく考えてみりゃ筋肉毬藻じゃ癒されねェ。やめて正解だ」
「……お前なぁ」
 もうやめてくれよ、と口の端が震えてしまう。
 今夜は、ゾロの苛立った声も溜息も呆れた顔も受け流せそうにないのだ。喧嘩も、出来れば朝が来てからにしてほしい。今はしたくない。
(やっちまったなァ……)
 甘えたいなどと考えてしまった罰だ。
 いつものようにひとりで夜を越えれば良かったのに、ゾロに絆された体で夢を見たのがいけなかった。腹の中が重く冷たくなって、ゾロの体温があっという間に消えていく。勿体無いなぁと思うけれど、追いかけることも諦めてしまって動けない。
「コック」
 それにゾロは気付いてくれたのだろうか。
再び体温を流し込むように二本の腕で包み込まれて、ほっと息が吐ける。
「てめェは、……本当に、おれをなんだと思ってやがる」
 意地張ってんじゃねェよ、アホ。
「後ろから来られると抱き締めらんねェだろうが」
 いつの間にか、ゾロが好んで選んだ酒瓶は甲板に転がっていて、折角の月は雲に隠れていく。それでも、そんなものはどうでもいいとでも言うようにゾロの腕に力が籠る。
 ぐず、と鼻を啜れば背中を撫でてくる無骨な手。名前を呼べば、なんだと穏やかな返事。
(おこって、ないのか……?)
 離れることを諦めて、垂れ下がったままの両手を持ち上げて腹巻を掴めば、擦り寄ってくる頬とピアスが揺れる軽やかな音。
「——……あと、ちょっとだけ」
「好きなだけいりゃあいいだろうが」
「あ、あんま、甘やかすなよ……」
 すぐに調子に乗ってまた間違えてしまう、なんて言葉は秘密にして首を横に振る。
 それでも、
「甘やかすだろ。甘やかされろ」
 ハッキリ言い切る声はやっぱりよく響く。
「……恋人、なんだろうが」
 照れ臭そうに低く唸る声も、よく響く。
「っ、」
 ドッ、と跳ねた心臓が果たしてどちらのものなのか。ピッタリとくっついたままではわからない。でもきっとそれでよかった。
「そ、そっか」
「おう」
「……そうだった、な」
「おう」
 熱くなっていく体に、先程までより熱い体温が流れ込んできて頭が茹だりそうになる。気付けばゾロの息遣いや心臓の音を追うのに必死で、それ以外は何も聞こえなくなった。
 きっと今ならぐっすり眠れるのだろう。
 でも。
(……でも、あとちょっと、もうちょっと)
 懸命に甘やかしてくれる恋人に凭れかかっていたい。

 冬の空気にどちらかがくしゃみをするまで。
 それまであとちょっと、————もうちょっと、このまま。


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