SODA

「酒はダメだぞ」
「……」
 キッチンの主は背中を向けたままで一言。林檎の皮を剥く手は澱みなく動き続け、ゾロは不服だと舌打ちをした。
「酒じゃねェよ」
「あ? どうした、珍しい」
 具合でも悪いか、熱でもあるのか、なんてどこまでも失礼な男である。
 それでもようやっと作業の手を止めてこちらを振り返ったことに少しだけ満足して、ゾロは距離を詰めていく。彼がいなければ用のないキッチンに侵入して、ほとんど同じ背丈の体を後ろから抱き締める。
 ええ、と上がった声は驚き。
「な、なに、なんだよ、おまえ」
「別にいいだろ」
「…………本当に熱でもあるんじゃねェだろうな」
「黙って林檎剥いてろ、アホエロコック」
 背中を丸めてサンジの肩に顎を置き、擽ってェよと文句を言うものだからもっと頭を擦り寄せてやった。すると、短い髪が頬やら耳やらに刺さるのだろう。今度は痛いと文句を言うので「ワガママな奴め」と息を吐く。
「それ、何になるんだ」
「ロビンちゃんがさ、林檎食べたいって言ってたから。だからこれはそのまま食べる用」
「丸ごと齧りゃあいいだろ、林檎くらい」
「レディにそんなことさせられっかよ」
「おれァ芯まで噛めるぞ。種もいける」
「なんの自慢だ、そりゃあ」
 綺麗に切り整えられた林檎は塩水が入ったボウルの中へ。サンジの手が次の林檎へと伸びる。終わったと思ったのにそうじゃないらしい。
「まだ切るのかよ」
「こっちはルフィたちの分。おやつは別にあるからちょっとだけな」
 渡しておかねェとロビンちゃんの分まで食っちまう。
「しょうがねェキャプテンだよ、まったく」
 言いながらも火が点いていない煙草はぴょこぴょこと揺れる。それを見てしまったゾロは、ム、と分かりやすく唇を尖らせた。
 その横顔はさっきも見たのだ。甲板で。
 ロビンのリクエストに耳聡く反応したルフィに飛びつかれて、同じような顔をしていた。仕方ねぇなという声は随分と弾んでいた。
昼寝から起きた右の目で、しっかりと見たのだから間違いない。
「……」
「なんだよ。お前もいるか? 林檎」
「……いる」
 だからなんだというのだ。
 この男は骨の髄まで呆れるくらいに料理人だから、求められると喜ぶし、全力で応えようとする。毎日のことで、毎食のことで、いまさら気に留めるほどのことでもない。
 ——……分かっていても、こうして彼を追ってここまで来てしまっているのだが。
「……ん? んん? ゾロ? ゾロくーん。お前なんか腕の力が、いて、いててて! 加減しろよ、バカマリモ!」
「うるせ。早く剥け」
「てめェの腕が邪魔してんだよ!」
 ぐえぇ、と悲鳴を上げながらも蹴りが確実に脛を狙ってくる。今度はゾロが唸る番である。色気も可愛げもない戯れ合いにだってゾロは納得いっていない。
こんなつもりではなかったのだ。本当に。
「ったく! 邪魔するならそっちのカウンターに座ってろ!」
「……」
 せっかく特別な名前がついた関係だというのに、これじゃあ船長や考古学者よりお粗末な扱いである。
 それでも、これ以上怒らせるわけにはいかないと、大人しくカウンターへと腰を下ろす。流れるように提供される炭酸水を一気に半分まで飲んだ。
邪魔者がいなくなったその間にサンジは作業のスピード上げて、切った林檎を皿の上へと盛り付ける。ゾロのグラスの隣にも、うさぎの形の林檎が二つ並んだ。
「ロビンちゃんたちに林檎渡してくるから、てめェはそこで大人しく食ってろ」
「あぁ」
 自分が思っている以上に不貞腐れた声が出て、誤魔化すように林檎を頬張った。
うさぎの形を堪能することも眺めることもなく、頑丈な顎と歯で噛み砕いてやる。やれやれ、と呆れた声は聞こえないふり。
「なに不貞腐れてんだよ、お前は」
 うまくいかないコミュニケーションの連続に、さっさと食べて昼寝の続きをしようと心に決める。

 ——ヤキモチなんて、滅多と湧かない感情に振り回されるからこうなるのだ。

「ゾロ」
 二つ目の林檎を口に放り込もうとして、止まる。目だけでサンジを捉えれば、困ったように眉を下げているくせに、煙草は機嫌よく揺れている。
「ゆっくり食えよ」
 すぐに帰ってくるから。ここに戻ってくるから。
 だから、
「ゆっくり食って、待ってろよ」
 キッチンに戻ってくる理由にさせろ、と言うものだから右の目が大きく開く。
 気が抜けた顔になっていたのだろうか。ふはっと吹き出すようにサンジが笑って、つられるように口角が持ち上がる。
 耳元で鳴るピアスの音など聞き慣れているのに、この男の言葉で浮上した機嫌ではなんだか心地よく思えるものだから不思議だ。
「なに笑ってやがる」
「お前だって笑ってんだろ。なぁゾロ、あとでちゅーしようぜ」
「昼間っから盛ったら怒るくせによく言うぜ」
「軽いやつに決まってんだろ、エロマリモ」
「わかった、わかった」
 だから早く行けと手で追い払う。
 追い払って、
「さっさと戻ってこい」
 言葉でこの先に続きを、二人の時間を要求する。
「迷子になるなよ」
「おうおう。誰が誰に言ってやがる」
 可愛げなど欠片もない睨みを効かせてサンジはもう一度「ちゃんと待ってろよ」と釘を刺してくる。そんなにいてほしいか、なんて。開き直ってしまえばいっそう軽くなる心。
(……単純だな)
 知らなかった。恋とはこんなものなのか。
 扉を開けて甲板へと向かう背中を見送って、ゾロは林檎に手を伸ばした。
 残りひとつのうさぎ。少し迷ってから半分に割った。小さい方を口へと放り込んで、頑丈なはずの顎と歯でじわじわと噛んでいく。
果汁が口の中に広がって、風味を楽しむようにゆっくりと飲み込む。
 林檎の味が残るそこに今度は炭酸水を流し込んだ。しゅわしゅわと小気味のいい音が弾けて、ぷはっと吐き出した息混じる甘ったるい感情。
「美味い」
 ようやっと、これが美味いと思えるほどに素直になれた。すると、甲板から聞こえてくる声も気にならなくなる。それどころか、どうせアイツはここに帰ってくるんだと踏ん反り返って鼻で鳴らす。
 グラスをくるりと回して揺すって、気泡が弾ける音を堪能する。大人しく待つのも悪くないと、頬杖をついた。

 爽やかな音の向こう。
 あの男の足音が早く聞こえないかと、期待して目を閉じる。


>> list <<