リベンジ・バレンタイン

 十九のバレンタインは、それはもう悲惨だった。
 
 曲がりなりにも恋人と呼べる男がいたので、直近で立ち寄った島ではお小遣いを叩いてまで高価なチョコレートを買い集め、甘いものが苦手な男でも食べられるものをと試行錯誤を繰り返した。
 そうしてようやっと完成した一品を、恋人は——ロロノア・ゾロは一口も食べなかったのだ。それどころか「チョコより酒くれ」と言ってルフィの口の中にチョコレートを放り込んだ。止める暇さえない一瞬の出来事。
 サンジの気持ちとお小遣いはあっという間にゴムの胃袋の中。ゴクン、と飲み込まれる音に卒倒しそうになったが負けなかった。
『海の一流コックなめんなよ……!』
 こんなこともあろうかと第二弾のチョコを用意していたのだ。
 今度はルフィが食べないリキュール入りのチョコレート。
ゾロに押し付けて「絶対に食えよ!」と言ったはずが、——ちょっと目を離したらナミが食べていた。彼女からの「これ美味しいわね。ありがとう、サンジくん」に涙が出たのは初めてだった。
 それでも負けずに第三弾、第四弾とゾロにチョコ攻撃を仕掛ける。なにせ普段使わないお小遣いを全部叩いたのだ。在庫だけは大量にあった。
 ゾロが起きてから日が沈むまで。それどころかバレンタインが終わるギリギリで粘って、ゾロを追いかけ続けた。
 けれど。
『あのなぁ。食いたくねェもんまで無理矢理食わすのがてめェのプライドか。仕事か』
 なんて溜め息を吐かれたらもう駄目だった。
 恋人との初めてのバレンタインに浮かれていたテンションは地獄の底まで落下して、泣きたくないのに涙も鼻水も止まらない。ゾロだってまさか泣くとは思っていなかったのだろう。あの男にしては珍しく慌てふためいて、なんなんだよ、と文句を言いながらも黒の手拭いで何度もサンジの顔を拭いていた。
『————ッ、べ、別に! プライドでも仕事でもなんでもねェよ、こんなもん!』
 わっと叫ぶように喚いて、ゾロからすれば面倒臭い感情でしかないであろう心のうちを吐露する。一日分の悔し涙が邪魔をして、うまく喋れなかったけれどどうでもいい。
『バレンタインなんだから、食ってほしいって、っ、……だだそれだけなんだよ、このクソ剣士! こ、んな、一口だって、ダメなのかよ……ッ!』
 しょうがないだろ。浮かれるだろ。
 だって”恋人”に特別なチョコレートを渡すのは初めてだったのだから。
 自分のことを好きだと言ってくれる男のために頑張って何が悪い。お前のことばっかり考えて料理して何が悪い。
『それを全部他の奴らにあげやがって! おっ、おれだって、お前が甘いもん嫌いなことくらい知ってんだよ! でも、だけど、』
 分かっていてもちょっとくらい夢見て、可愛らしくラッピングして、お前だけのチョコレートを作ったっていいじゃないか。今度こそ食べてくれるだろうかと必死になっていた自分が心底馬鹿らしい。
 たった一口。一口でいいのだ。
 今日という日に、一口だけ食べてほしかった。
『……でも、もういい。結局浮かれてたおれが悪ィんだ。悪かったな、付き合わせて! もう二度としねェから安心しろ!』
『おい、待て、』
 見られたくなかった泣き顔を晒してわあわあと声を上げ、こちらへ伸びてくる手は足蹴にして拒否する。喧嘩の一歩手前のような攻防戦を制したのはゾロで、いっとう低い声で呼称を呼ばれるとサンジの体は最も簡単に固まった。
あぁもう嫌われた。捨てられる。全部、全部終わりだ。
そんな言葉ばかりが頭の中でぐるぐる回る。
 そして。
『——……ばれんたいん、ってなんだ。なんの話をしてるんだ、お前は』
『…………へ……?』
 嘘みたいに真剣な顔をしたゾロの言葉に、サンジはその日一番の情けない声を出した。


 全てを説明した後の、真っ青になったゾロの顔はきっと一生忘れない。


 ▪



「コック、今日はバレンタインだぞ」
「わかったわかった。もうちょっとで終わるからいい子にしてろ」
「早くしろ。バレンタインが終わっちまう」
「わかったって言ってんだろうが。つうか終わるかよ。日が変わって始まったばかりだぞ」
「だめだ。バレンタインは何が起こるか分からねェからな」
 二年の月日を経て立派に育った大型の獣。
 未だに待て≠ヘ出来ないし、最後の片付けをするサンジから一切離れる気は無く邪魔なのだけれど、悪い気はしない。なぁまだか、まだか、と顔を覗き込んでくる獣に、ついつい口角が緩む。煙草だってぴょこぴょこ揺れる。
 一方、ダイニングテーブルに立て掛けられたまま放って置かれている刀は不満そうにかたりと鍔を鳴らしている。けれど当の主はチョコレートで頭がいっぱいなのだ。
すまねェな、もうちょっと待ってくれ、と皿を拭く手を早くする。
「おら。くっついてたら動けねェだろうが。チョコ取って来てやっから待ってろ」
「おう」
 最後の皿を拭き終わったと同時に肩に担がれる体。
いやそういう意味じゃねェんだが、と訂正するのも面倒になって相変わらず綺麗な背中をぺしりと叩く。ついでに腕を伸ばして煙草は灰皿へ。
「チョコは冷蔵庫だ」
「わかった」
 鍵は開けられないからと冷蔵庫の前で下ろされて、ルフィたちに食べられないように入念に隠しておいた箱を取り出した。冷蔵庫を閉めた途端にまた担がれて、ちょっとの寄り道だって許さないと言わんばかりに長椅子へと直行だ。
「下さねェのかよ」
「どこに行く気だ」
「どこも行かねェよ、アホ」
 風のない夜の海の真ん中でどこへ行こうというのか。
 しかしそれでもゾロは離れることを許してはくれず、食うのに邪魔でも知らないからな、とゾロの太腿の上に腰を下ろす。
真正面から目が合うと、なにを言うより先にキスをひとつ。
「開けろ」
「へぇへぇ」
 緑と青の細いリボンを解いて箱を開ける。一口サイズよりも小さめの、三つだけのチョコレート。
「ルフィたちに作ってたチョコと形が違ェ」
「そりゃそうだろ。お前のには、まぁあれだ、平たく言えば酒が入ってんだ」
「こんな小さいのに入んのか?」
「おれを誰だと思ってんだ」
「エロコック」
「海の一流コックだっつってんだろうが。まだ覚えらんねェのか、てめェは」
 楕円の形をしたチョコレートに、それぞれ着色したチョコレートでラインを一本引いた。白と赤と紫。ゾロはどれから食べるのだろう、と気になって眺めていれば、迷うことなく白を食べた。
 もごもごと動く口に、なんとも言い得ぬ緊張が走る。
こんな緊張は、ゼフに新作を見てもらう時以来だ。
「……どうだよ」
「そんなに甘くねェ」
「ふうん」
 空っぽになった口の中に次のチョコレートを入れてみる。
「さっきと酒の味が違うな」
「お前、酒だけは気付くよなぁ」
「……」
「はいはい。褒めてるからその得意気な顔やめろ」
 きっと同じ酒好きであるナミでも気付かないであろう違いだ。ちょっと得意げに鼻を鳴らす顔まで格好いいのが納得いかず、その鼻先を弾いてやる。
「もう最後だぞ」
「あ」
 一個目は自分で食べたくせに。
「今日はやけに甘えん坊じゃねェか」
「うるせ。早く食わせろ」
当たり前のように口を開けて甘えてくるものだから、サンジも迷うことなくチョコレートを放り込んでやる。
 紫のラインが入ったそれの中に仕込んだ酒は、ゾロが格別気に入っている銘柄だ。
これならチョコレートにも合うはずと、チョコレートの風味と苦味、酒の量にも随分とこだわった。試作した数も段違い。
 言うなれば一番の自信作。
「ん」
「気に入ったかよ」
 琥珀色がきらりと煌めいたのを料理人は見逃さない。素直にうんと頷く頭に、サンジの顔が明るくなる。
逞しい首に腕を回して、リベンジ成功だと右腕を挙げて勝利宣言。
「あーあ、やっと渡せたなぁ。二年もかかっちまった」
 思い出すのは十九の悲惨なバレンタイン。
 客商売で流行やイベントごとに敏感なバラティエで育ったサンジは、まさかシモツキ村にバレンタインという習慣がなかったとは想像もしなかった。
 その上、来年こそは絶対に渡すからなと啖呵を切った途端に離れ離れになったのだ。まさか、チョコレートひとつ渡すのにこんなにも振り回されるとは思いもしなかった。
「おい、コック」
「ん? ……んんっ」
 思い出を強制的に叩っ斬る甘やかなキス。
 チョコレートとお酒の味。あぁやっぱり美味しい。流石おれだな、なんて採点しながら味わって、唾液の一滴だって零さないようにゾロの舌を啜った。
唇が離れてもゾロは擦り寄ってくる。頬や眉間、鼻先、首筋とマーキングされて、おとなしくサンジの体を支えていた手はシャツの下へと潜り込んでくる。
「え、待て待て、ゾロ。ここですんの? 今から?」
「あぁ」
「せめて展望室行こうぜ、ここだと寝呆けたルフィが、」
「余裕ねェから却下だ」
「ひっ……⁉」
 腰をぐっと押し付けられて嫌というほど感じた熱に今年のバレンタインも情けない声を上げることとなった。
「なっ、なん、なんで、急に……!」
「うるせ。浮かれてんだよ、ほっとけ」
 え、と呆けた口から溢れる単音。パチパチ、と大きく瞬きした先の、少しだけ赤く染まった耳の先。見つけてしまった照れ隠し。
「……う、浮かれ、てんの?」
「浮かれてる」
「お前が……?」
「あぁ」
 だって。
「やっと貰えたからな」
 特別なもんなんだろ?
 恋人からのチョコレート。
「うあ、」
 泣いて喚いて、十九の自分がそんなことを口走った気がする。
 ゾロの耳の先よりももっとずっと真っ赤になった顔は隠しようがなくて、こつりと額を合わせて唇を尖らせた。仕方ねェなぁとわざと大きな声を出したが、どうにも上擦っている。自らネクタイを外す手だって、興奮してちょっと震えている。
「お前が、————……お前も、浮かれてんだもんな」
 普段はこんなところでしないけれど、今日くらい。二年越しのバレンタインくらい、浮かれて乱れてしまっても許されるだろう。
 シャツのボタンを外されて、するすると肌を撫でられるとそれだけで息が上がる。
「っ、なぁ、ゾロ、……来月はホワイトデーが、あんだよ」
「ほわいとでー」
「そ。バレンタインの、お返しの日」
「お返しか。なにがいい」
「あっ、んん……っ! ちょっと、待てって、話が、」
「早く言え。何がいいんだ」
 弱いところを体温の高い指先が擽っていく。途端にそこから溶けてしまいそうだ。
「ん、ちが、おれが、また渡してもいいか……?」
「ア? お返しだろ? 今度はおれからお前に」
「そ、う、だけど」
 とうとうベルトも外されて、入り込んでくる手に声が漏れた。
「ひ、ぃ……っ! ゾロ、もうちょっと、ゆっくり……っ」
「ぐちゃぐちゃに濡らしといてよく言うな。ゆっくりされて辛いのはてめェのほうだろ」
 やっぱりエロコックじゃねェか。
 なんて揶揄する言葉を吐く唇には噛み付いて、けれど確かにしとどに濡れている下着ごとペニスを撫でられてしまって嬌声が溢れる。
じわじわと背中に汗が滲んで、頭の中心がぼやけていく。
「ゾロ、ゾロ、ぉ……」
 それでも必死に男の体にしがみついて、ピアスが揺れる耳に唇を寄せる。
「次も、おれが渡したいんだよ、お前に」
 だから、——……また今日みたいに食ってくれ。全部。
「……だめか?」
ゼロ距離の、主語のない誘い文句にゾロの喉が鳴る。
その凶暴な音にすら躾けられた体は反応して、いっそう体温を上げていく。心臓なんて簡単に壊れてしまいそうだ。
「わかった。おれが全部食ってやる」
 一粒も、一滴も、なにも残さずに。ぜんぶ。ぜんぶ。
「楽しみだ」
 獣からのキスは、今夜は特別甘い。
 くっついたままの唇からは、どこまでもご機嫌な声。

 サンジは、おれも、と返事をして、この男に食べてもらうためにかぱりと口を開けた。


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