それがこの面倒くさい男の合図である。
じゃあ船番よろしくね、とナミの明るい声を聞きながら、ゾロはゆっくりと右の瞼を持ち上げる。サニー号の中の気配が一つになったことを確認して、展望室から降りた。
芝生の甲板はいつもより静かで広く、波の音は変わらないのにどこか寂しい。出航は三日後だったか、と聞いたばかりの予定を思い出しながら欠伸をひとつ。
頭を掻いて、それからキッチンへと向かう。
「お、やっと起きたか。寝坊助マリモ」
「起きてた」
「そうかよ」
もうみんな船降りて行っちまったぜ。
知ってるとか、あぁとか。適当に返事をしながらカウンター席に座り、当たり前に出されたコップに口をつける。昼間だと汗をかく程度には暑いこの海域で、冷えた水が体に染み渡る。おれは喉が渇いていたのか、なんて、この男の気遣いで知るのだ。
「なぁ、ちょっとくらいなら飯食えたりするか?」
サンジの問いかけにすぐに頷いた。最初からそのつもりで此処に来ている。
「食えるから寄越せ」
いつも使っている寸胴鍋ではなく、小さな鍋で作るコンソメスープ。
それは黄金色に輝いている。一点の曇りもなく、皿の底が見えるほどに透き通っている。それでいて、口に入れるとホッと息がつけるような安心感を与えるスープだ。
「いい匂いだな」
「だろ」
もうすっかり見慣れた背中。頬杖をついては見守って、ふっと小さく笑う。
——時々さぁ、作りたくなるんだよ。ジジイがおれに初めて作ってくれたスープ。
微睡んだ口が溢した思い出話を聞いていた頃。まだ二つの目でこの男をまっすぐ見つめていた。好き勝手に跳ねた金色の髪はシーツの上でまた乱れて、それでも構わずにくっついてきては体温を分け合いながらくふくふ笑って、啼いて、真っ赤に腫れた眦は普段よりも重く垂れている。
そして、こんな時しか話さないことを、こっそりとゾロの耳へと吹き込む。子どもが悪戯をするように、厳かな内緒話をするように。
——今度、食ってくれよ。
妙に艶っぽく強請るような声色にゾロは迷うことなく頷いて、それから時折サンジの思い出の料理とやらに舌鼓を打つ。
「よし、出来た」
メニューは至ってシンプルだ。出来上がったばかりのコンソメスープと、ほかほかに温められたロールパンが二つ。サンジがいつもクルーのために振る舞っているメニューよりも随分と簡素で、ロールパンに添えられているはずのマーガリンやジャムすらない。
それが、義足の料理人がこの男に初めて与えた料理。
「ほらよ。お待ちどう」
「いただきます」
「おれも。いただきます」
二人で並んで両手を合わせる。示し合わせなくても同時にスプーンを手に取った。スープを掬って一口。そのあとでロールパンを千切って口の中に放り込む。
「美味い」
「だな」
このシンプルさがいいのだ。
特別な食材もスパイスも使っていない格別な美味さ。料理の腕と愛情だけが全てを左右するようなメニュー。だからこそ、義足の料理人への尊敬が感じられる。
それに。
「……」
長い前髪で隠しきれていない口元が、懐かしむようにスープを飲むのを見るのが堪らない。サンジの反応も含めて、ゾロはこの料理と時間が気に入っていた。
「……んだよ、また見てんのか」
「あぁ」
「見てんじゃねェよ」
「無茶言うな。もっと見せろ」
「いやだ」
他のクルーには出さない思い出の料理。自分だけが見ることを許された口元。スープを飲み干すことで体に染み渡る、義足の料理人へ向けた捻くれた感謝と義理立て。
「美味い」
何度食べても飲み干しても、ゾロへの感情は一ミリだって入っていない。
それでいい。——……いや、それがいい。
自分のことはどこか切り離して考えるこの男の核に触れている心地で、何よりも特別に思える。思い出話をするより雄弁で、他の誰でもなく自分が選ばれたことが誇らしい。
「ごちそうさまでした」
パンッと小気味のいい音を鳴らして手を合わせれば、横から伸びてくる手。
「パン屑ついてんぞ。ガキかよ、てめェは」
口の端を拭う親指の優しさも、義足の料理人譲りなのだろうか。
サンジは何の抵抗もなく指についたパン屑を自分の口へと運び、席を立つ。お皿を洗って、鍋を片付けて、手を拭ったらこちらに戻ってくる。
水で冷えた手を伸ばしてくるので、同じ力で受け止めてやる。
「よし。昼寝でもすっか」
「まだ寝れんの、お前」
「だから起きてたっつったろうが」
「……寝るだけ?」
「今はな」
「夜が怖ェよ、その言い方」
体がピタッとくっついて、腕も足も体に絡みついてくる。ゾロはものともせず立ち上がって、目指すは芝生の上。昼寝をするならあそこが一番気持ちいい。
歩きながら物静かな金色の頭を撫でれば、甘えるように首筋に擦り寄ってくる。
いや、これは正真正銘甘えているのだ。分かりやすくて分かりにくい合図なら島に着く手前で受け取った。
「おら、寝るぞ」
刀を外してから二人してごろんと寝転がる。こちらに背中を向け、長く強靭な足を折り畳んで抱えて小さくなったサンジをゾロはいつものように後ろから抱き締める。
「起きたら何食いてェの」
「起きたら教えてやる」
自分の顔の下にある金色の頭頂部に唇を寄せる。
そうして、静かになったと思えば穏やかな寝息が聞こえてきて、知らず口角が持ち上がる。今日は寝るまでの時間が早い。最短記録である。
(ちったァ慣れてきたかよ)
甘えることに。甘やかされることに。
でも。
(もっとだ)
もっともっと甘えてしまえ。
少しずつゾロに自分の核を曝け出して、共有して、甘えて眠って。気付いたら頃にはもう引き返せないところまで来ていればいい。
(てめェの我儘くらい、)
全部受け止めたって余るほどには惚れ込んでいるのだ。
「コック、」
不意に長い前髪と瞼の奥に隠れた海の色をした瞳が見たくなる。けれど起こさないように小さく呼んで、ゆったりと髪を梳いた。
すると慣れ親しんだクルーの気配を近くに感じて、ひょこりと手摺の向こうから顔を出したのはブルックだ。ゾロは軽く体を起こして、それから左の口角を持ち上げる。人差し指を口元へ。
「シー」
ブルックは了解したと言わんばかりに長い両腕で丸を作り、足音ひとつ立てずに甲板に降り立ち、男部屋へと向かう。どうやら忘れ物をしたらしい。来た時と同じように静かに帰ってきて、ひらりと指の骨を動かしてからピョンと飛んで降りていく。
「……」
腕の中のサンジは、微動だにしていない。
それに満足したゾロは男の体を抱え直し、自分も瞼を下ろした。ぱか、と開いた口で大きく息をする。次は向かい合わせで眠ってくれることが課題だな、と睡魔に襲われている頭の片隅で考えて夢の中へと落ちていく。
途中、眠った声で名前を呼ばれた気がして、返事をするように彼の呼称を呼んだ。