▪
「うーん」
「……」
「うーーん」
「……」
「うーーーん」
「…………何を唸ってんだ、チョッパー」
精神統一、精神統一、と心掛けていたが、小さな船医が唸りながら甲板を左右に転がっているのを見たらもうダメだった。傷のない右眼を開けて「しまった! 声が出てた!」と慌てて無言になるチョッパーを片手で持ち上げる。
顔の真正面に持ってきて、どうやら精神統一の真似をしようとしていたらしいと気付く。一生懸命口を蹄で抑えて目を強く瞑っている。
「なってねェな」
「ぷはっ。ダメかぁ……おれもゾロみたいに精神統一したらいい案が思いつくかと思ったのに……」
「何をそんなに悩んでんだ」
胡座をかいた太ももの上にチョッパーを下ろす。小さな肩は沈んでしまっている。
船医が悩むことは職業上少なくはない。そして、自覚があるかないかは別としてゾロは悩ませる側である。
「それがさぁ、ゾロ」
サンジの手の傷が治らねェんだ。
「コックの?」
うん、と悲しげに頷くチョッパーに、あの男でも治らない傷があるのかと驚いた。
基本的にサンジの体はタフである。頑丈である。少々の骨折では大人しくならないし、出血過多でフラフラになっていても走り回るような男だ。戦いの後で気絶するように眠ることはあれど、大抵ゾロが気付いた時にはキッチンに立っている。自分の両腕を伸ばしても覆えないほどの大きな寸胴鍋にこれでもかと食材を入れて、傷つき、疲れた仲間のために料理を振る舞う。
更に言えば治りも早い方だ。チョッパーからすれば不満があるかもしれないが、包帯も湿布もさっさと外してしまう。身軽じゃないと気持ち悪ィんだよ、と小さくなってチョッパーに言い訳をしていたところに遭遇して、鼻で笑ったのはいつだったか。
「あ、でもな、ゾロ。傷って言っても大きい怪我とかそんなんじゃないんだ。元々あったあかぎれが一気に悪化したみたいで」
「あかぎれか」
指先や指の関節、手の甲がぱっくりと裂けてしまうあれだ。
あんな小さい傷が治らないとは修行が足りねェな、と小馬鹿にしたところで、そういえばあの男は人一倍――いや、人十倍の水仕事をしてるんだったと思い出す。ある意味、職業病の一種だろう。
「いつもはおれが調合した軟膏ですぐに治るんだけど今回は、」
「治んねェのか」
「うん」
サンジの手を診察して、肌質なども考慮して、しっかりと薬草を選んだはずなのに効いてない。寧ろいっそう酷くなっている気がする。もうこれ以上の組み合わせが思いつかなくて、行き詰まって、――そんな時に精神統一しているゾロが目に入った。
「アイツが塗るのを忘れてるっつうことはないのか」
「それはないよ! こまめに塗り直してくれてるみたいで薬草の匂いもするんだ」
「そうか」
ならば今はただ免疫力が落ちているだけではないか、と聞けばそれも答えはノーだった。料理人の体は現在進行形で健康体らしい。
「他の怪我は治ってる。手だけ、一番程度が軽いはずのあかぎれだけ治らない」
天候は秋。涼しくなってきたが、やたらと乾燥するような海域ではない。
これだという決定的な要因が見つからず、ゾロもチョッパーと一緒に「うーん」と唸ることとなった。
▪
「ど、どうした、お前ら」
するするする、と淀みなくじゃがいもの皮を剥いていた手が、目の前の光景に驚き、ピタリと止まった。
「悩み事だ」
頭の上にチョッパーを乗せたゾロがしれっと返せば、今度は左目をこれでもかと丸くして包丁を落としそうになっている。
「ハァ⁉ マリモが⁉ 熱でもあんじゃねェか……? おいチョッパー診てやれよ」
「おれじゃねェ! チョッパーの悩みだ」
「あぁ、なんだ」
どうしたドクター、と急に声色が優しくなるのはなんだか気に入らない。
「うーん、おれ、おれもう考えてもわかんねぇんだ……」
「本当にどうしたんだ? ホットココア淹れてやるからマリモと一緒に座ってろ」
「うん」
「酒」
「昼間っから酒飲もうとすんな、クソ剣士! てめェは茶ァ一択だ!」
「チッ」
あまり執拗に酒を要求したら、夜食のつまみごとなくなってしまう可能性があるので、ゾロは舌打ちひとつで引くことにした。未だうんうんと唸って落ち込んでいるチョッパーを下ろして椅子に座らせ、自分も隣に座る。
何気なく、ただボーッとサンジの背中を目で追った。
皮剥きをしていたじゃがいもをキッチンの端に寄せ、手を洗ってからお湯を沸かし始める。冷蔵庫とキッチンを行き来して、あっという間にココアの甘い香りが広がっていく。好きな香りに青い鼻がひくつく。
「ほらチョッパー。これも食っていいぞ」
「ん! いい匂いだぁ〜」
ホットココアの隣に置かれたのはラスクだった。ご丁寧にチョコレートでコーティングされている。
「お前はこっちな」
そしてゾロの目の前には煎餅が置かれる。そういえば午前中にやたらと香ばしい匂いがしていた。これだったのか、と気付けば腹が鳴る。
二人が「いただきます」と手を合わせる頃には熱い緑茶も配膳されて、サンジはテーブルを挟んだ向こう側へと座った。
「サンジ! おれこれ好きだ!」
「おー、そうかそうか。頭を使った後は甘いもん食わないとな。でももう少しでおやつだからおかわりはなしだぞ」
「うんっ」
えへへへ、と頬を緩ませてラスクを味わう隣で、煎餅を大口で齧る。ボロボロと欠片が落ちて目敏いサンジに怒られた。なにやってんだ、と煙草の煙を吐き出しながら布巾でテーブルを拭く手は確かにチョッパーの言う通りで、――ゾロの想像よりもひどいものだった。
「なぁそれ、」
「あ?」
「サンジ〜〜〜〜! 腹減った〜〜〜〜!」
布巾をシンクに持って行こうとしているサンジの背中に声を掛けたが、ダイニングの扉が大きな音とともに開き、掻き消されてしまう。乱入してきた我らが船長は「あ! おまえらずりィぞ!」と早速大口で牙を剥く。
「サンジ! おれも! おれも食う!」
「ばーか。おやつにゃまだ早ェよ」
「チョッパーとゾロだけずりィ! ゾロ! 一口くれ!」
「もう食った」
「じゃあチョッパー!」
「んぐ、もが、んぐぐ」
「あー! 全部食った! サンジぃいい!」
どたばた、どたばた。ルフィがテーブルの周りを暴れるせいでしっかり味わう前に口に入れないといけなくなった二人は不服顔である。それでも船長はめげない。だってラスクも煎餅もとても美味しそうなのだ。跳ね回る度に麦わら帽子が揺れる。
「サンジぃい!」
ひょい、と狭い空間を器用に飛んで、布巾を洗うサンジの背中に纏わりついた。こうなったら何か口に入れるまで引かないだろう。
「あと三十分くらい待てねェのか」
「ムリだ! おれは腹が減った!」
「てめェが巨大プリンをリクエストしたんだろうが。ちゃんと出来上がりまで待て」
「巨大プリンは絶対に食う! でもチョッパーとゾロが食ってたやつも食いたい!」
「ラスクと煎餅くらいちゃんと言え」
「じゃあそれ!」
「おまえなぁ……」
綺麗になった布巾を固く絞って広げて干して、手を洗う。サンジは背中にルフィを背負ったままキッチンをウロウロ歩いていて、それから諦めたように溜息をつく。ついでに短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
(ルフィの勝ちだな)
ゾロは緑茶を啜りながら二人のやりとりを横目で見ている。
そもそも、あの料理人に「腹が減った」と言った時点で何も出ないわけがない。息をするように喧嘩をする自分にすら、酒のつまみやらトレーニングの合間の軽食やらドリンクやらと差し入れてくれるのだから。
「お、なんだ、この袋の中全部食っていいのか⁉」
「さっきまでウソップと釣りしてただろ。持っていって一緒に食ってこい」
チョッパーは、これでもうホットココアは取られないと悟って満足げだ。短い足がぴょこぴょこと揺れる。
「言っとくけどな、ラスクはこれで終いだぞ。絶対におかわりは聞かねェからな!」
「おう! ありがとな、サンジ〜〜!」
しししっ、と笑って袋に入った大量のラスクを抱えた嵐は去っていく。
袋いっぱいのラスクを食べても、三十分後にはまた巨大プリンに目を輝かせているのだろう。想像しただけで口の中が甘ったるくなって緑茶を飲み干した。緑茶は、不思議なくらい最後まで好みの温度だった。
「悪いな、チョッパー。急いで食わせちまった」
「本当はもっと味わいたかったけど、でも美味しかったからいいんだ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか」
じゃあこれはナイショな。
悪戯に笑う料理人は、まるで魔法のようにチョッパーの空のお皿にラスクを置く。しかもさっきよりチョコがたっぷりと絡まっていて、チョッパーの瞳が輝く。
「うおおっ!」
「あとでちゃんとプリンも食えよ?」
「食う! 全部食うぞ! ありがとう、サンジ」
「チョッパーにはいつも世話になってるからな」
使い込んだ帽子ごとチョッパーの頭を撫でる手は優しくて、持ち上がった口角は本当に嬉しそうで。
なんだか、なんだか。
(……?)
――なんだ?
腹の底から湧き上がってきた言葉の続きが見当たらなくて、取り敢えず自分も空のお皿を差し出してみた。
「おれも急いで食った」
そんなこともないのだけれど。
でも、
「……ンだよ、それ」
予想外のおかわりに少し目を丸くして、その後で同じように笑ってくれたから。ゾロは心底納得して追加の煎餅を齧った。
「そんなに煎餅が気に入ったのかよ」
「……」
ただ、そんな風に言われてしまったらどうにもうんと頷けなくて、黙り込む。
サンジはスルーされることくらい気にもしてないのだろう。次の煙草に火をつけてキッチンに戻っていく。ネクタイを肩に引っ掛けて手を洗い、中途半端に置いたままのじゃがいもに手を伸ばした。
ルフィにラスクをありったけ取られた後だというのに、包丁が動く音に加えて彼の鼻歌が聞こえる。
少し調子外れで、でも機嫌が良さそうな音。引っ張られるようにしてふと脳裏に記憶が蘇る。煎餅を齧る口を止めた。
「――……なぁ、チョッパー」
一部始終を眺めていたゾロは、幸せそうにラスクを頬張るチョッパーを呼ぶ。
「あかぎれが治らねェ理由になるかどうか、わかんねェが」
話題の方向性が自分だと気付いたのだろう。サンジも顔を上げてゾロの言葉を待つ。
「あのよ、」
手洗い用の洗剤が合わないなんてことあるか?
▪
――ひとつ前の島での話だ。
船番という名のお昼寝をしっかり満喫していたゾロの腹の上に、容赦なく落ちてくる黒い足。なにしやがる、と臨戦態勢で起きれば、珍しく年齢より幼く見える笑顔を浮かべた料理人が目の前にいた。キラキラとわかりやすく目が輝いている。
『ゾロ! 寝てるだけで暇なら荷物持て。ここの市場掘り出しもんが多いんだ』
大抵の量ならばひとりで持って帰ってくるサンジが身振り手振りでこの島の市場がどれだけ凄いかを伝えてきては、荷物持ちをお願いしてくる。
有無を言わせずに胸ぐら掴んで引き摺っていかないところをみると、よほど興奮しているのだろう。分かってくれなくてもこの感動を喋りたくてしかたないと、口がよく回る回る。
『そうだ、いい酒もあるぞ。辛味の強い地酒はちょっと舐めてきたが美味かった。あれは絶対にてめェ好みだ』
『おれ好みか』
『あァ! おれが言うんだから間違いねェよ』
だから、
『つまみも期待していいぜ。おれがクソうめェもん食わせてやる』
太陽の光を乱反射させた海の色の瞳が随分と眩しくて、すっかり眠気が吹き飛んでしまった。
『酒があるなら仕方ねェな』
と、重いふりをする腰をあげた。
しかし船を無人にするわけにもいくまい、と考えていればちょうど入れ違いにウソップが帰ってくる。どうやら既にサンジに船番を頼まれていたらしい。大した事情も聞かずに『気を付けてな〜』と手を振ってくれた。
『さぁて、何から買うか……おっ!』
料理人が気に入った市場は確かに活気があり、そこにいるだけで気分が高揚するようなところだった。人通りも多く、迷子防止と言って容赦なく服を引っ張られていく。
『なぁこのフルーツは一際甘くていい匂いがするが実も甘いのか? 素敵なレディたちにデザートを作るならどうすればいい?』
『お! お兄さんいい目をしてるねぇ。それは今朝採ってきたばかりだ。綺麗な赤だろう? 今日明日にでも食べるならそのままで、明後日以降にゆっくり食べたいならまず皮ごと切って種を取った後で――――』
気になるものは片っ端から手に取って、調理の方法を聞くのを忘れない。
メモをとっているわけでもないのに、それを船の上ですぐに実践できるのは凄いことなのだろうなと漠然と考える。人の刀の振り方を、一目見れば見切れるというのと似た理屈なのかもしれない。
『あ、ゾロ! あれがさっき言ってた酒だ!』
サンジは袋に入りきらないほどの赤い果実をゾロに押し付けるように渡して、鼻歌を歌いながら当然のように腕を掴んで大股で歩く。木造建の酒屋に入ったと思えば店主と話をして、ゾロも一口試飲することとなった。
『!』
飲み前からわかる香りの良さ。舌に残る辛味。一口では物足りなくて唇についた一滴まで美味しく味わう。
ゾロの表情だけでサンジは気に入ったことを悟ったのだろう。それでも言葉を欲しそうにうずうずと体を揺らして待っている。それをスルー出来るほど非道にはなれなくて、彼が望んでいる言葉を口にする。
『こりゃあいい』
『っ、だろ! うまいだろ⁉』
おれもこんな上物には久しぶりに出会ったんだよ、と煙草のない口元は緩みっぱなしで、つられるようにしてゾロも笑った。辛味が強い酒はゾロ以外のクルーは飲まないだろうに、元気よく手を挙げて樽ごと買うと言い切ったサンジにいっそうつまみが楽しみになる。
それに、気を利かせた店主が『この酒に合う味は……』と言いかけるとサンジは慌てて手で制止し、
『悪ィな。こいつのつまみはおれが考えたいんだ』
と言い切ったので、どうやら料理人の本気が拝めるらしいのだ。
ただ、男らしく言い切った後でこちらを見てはハッとし、一瞬情けない顔になったのがよく分からずに首を傾げたが。
そのあとも買い出しを続け、ゾロの重力を無視した荷物持ちにも限界が来た頃。赤い果実を売っていた店の店主が声をかけてきた。
『お兄さんがあんなにうちのフルーツを気に入ってくれたのが嬉しくてね。よかったら旅のお供に持っていってよ』
そう言って手渡されたのが、赤い果実の成分を配合して作ったというハンドソープだった。島の特産物にできないかと、色々試行錯誤して作ったものらしい。
サンジは礼を言って受け取り、船に持って帰ってきてナミやロビンにも分けた。匂いがいいと二人が喜んでいたのをゾロも覚えている。
ただ自分の手から甘い匂いがするのはあまり好きではなくて、ゾロはすぐに使わなくなった。
「――……洗剤か」
確かに洗剤に負けて手が荒れるのはない話じゃない。すっかり船医の顔になっているチョッパーが真剣にゾロの話を聞き入っている。
「おれ、その果物とハンドソープの成分を調べてみるよ。果物単体なら大丈夫でも他の成分と混ざったらアレルギーを起こすってこともあるから」
「じゃあこれもう使わねぇほうがいいのか?」
「うん。取り敢えず一旦使用中止にしよう。今は少しでも可能性があるものを潰していくほうがいいから」
そうか、と少し残念そうにサンジがハンドソープの容器ごとチョッパーに渡した。匂いを気に入っていたのか、それともナミやロビンと同じ香りになれないことを悔やんでいるのか。表情だけではわからなかったけれど、きっと後者だろうと結論づけてゾロは心の中でケッと悪態をついた。
「おれ、新しいハンドソープとってくるよ!」
「悪ィな」
走っていくチョッパーを見送った後で、サンジと目が合う。
「なんだ」
煎餅の最後の一口を堪能しながら聞けば、
「いや、……あのハンドソープのことよく覚えてたなぁって、マリモのくせに」
「最後は余計だろうが」
「感心してんだって」
「嘘つけ」
チョッパーが残していった皿と自分の皿を持ってシンクに置いた。置いといてくれていいと言われたが、彼の手をみれば流石にそれは出来なくて、久しぶりに皿洗いをした。天候はまだ秋だというのに想像以上に水が冷たくて、まだまだ修行が足りねぇなと鼻息を荒くする。
「別に、ずっと覚えてたわけじゃねぇ。なんなら今の今まで忘れてた」
「ふーん」
濡れた手をタオルで拭いて、
「おれが覚えてんのは、あの後食ったつまみが美味かったことくらいだ」
素直にそう言えば、ゴトン、とサンジの手からじゃがいもが落ちた。
なにやってんだ、とゾロが言うより先にサンジがじゃがいもを捕まえる。途中で切れて歪な形をした皮は珍しいなと思った。
「まだ酒残ってんだろ? 樽で買ったのも思い出したから隠しても無駄だぞ。あれ、また作れよ。なんか長ったらしい名前のつまみ」
「………………おう」
随分と声が小さかったが、皮剥きに集中しているのだと勝手に結論づけて外に出る。邪魔が入ってしまったので精神統一はまた今度だ。少し寝ってから鍛錬をするか、と適当に座り込んで目を閉じる。
新品のハンドソープを取ってチョッパーが帰ってきたのだろう。キッチンの中の気配が少しだけ賑やかになる。熱でもあるのか、なんてチョッパーの慌てた声が聞こえた気がしたが、すぐに睡魔がやってきて深く考えることはできなかった。
▪
――次の日の昼である。
「うおおぉぉおん、ゾロぉおおおっ!!」
「ぐえ」
甲板で大口を開けて昼寝をしていた剣士の腹に小さな船医が飛び込んできた。
「おっ、おれ、おれは医者失格だぁあああ!!」
次いで泣きながら叫んだ言葉に眠気も吹き飛び目を剥いた。一体何の話をしているのかと丸い背中を撫でて、ついでに頭も撫でる。
「おい、泣いてるだけじゃわかんねェぞ」
「っ、だ、だって、サンジ、サンジが……っ」
えぐ、えぐ、と大泣きしながらチョッパーは必死で言葉を紡ぐ。患者を救う手で自分の涙を拭って、うおぉん、とまた声を上げた。
「コックがどうした……!」
状況がわからないゾロの心臓がぞわりと震えた。
まさかなにかあったのだろうか。ただのあかぎれと思っていたあれは実はそうではなかったのか。一秒の間に最悪の想定をいくつもした。
しかし。
「おれ、ダメだって言ってんのに、せめて薬塗った後三十分は料理せずに安静にしてろって言ってんのに、……サンジがすげー美味いおやつ作ってくれるんだ! 全然じっとしててくれねぇよぉぉおおお!」
腹の底からの船医の叫びに、ゾロは頭が痛くなった。
泣き喚くチョッパーをブルックとウソップに預け、ゾロは大股でキッチンへと向かった。バァン、と壊れる勢いで扉を開けてもいつもの怒声は聞こえてこない。当然である。その怒声を吐き出す本人はテーブルに頭を預けて随分と落ち込んでいたのだから。代わりに嗅ぎ慣れない薬の匂いが強くした。
「……なにやってんだ、アホ」
「…………」
頭だけをテーブルに預けて、薬がたっぷりと塗られた両手はだらりと下に垂れている。煙草を吸う気にもならないのか、煙草すら触るなと言われているのか、サンジの周りに煙がない。
撫で肩気味の肩はもっと下がっていて、じめじめと鬱陶しい空気である。ここまで分かりやすく落ち込んでいる男に、追い討ちはかけられそうになかった。
「アホコック」
テーブルを挟んだ目の前には座る。軽口に答えもしない。
「三十分くらいじっとしてろ、ぐる眉。治るもんも治らねェだろうが、エロガッパ」
「……言いたい放題言いやがって……! それが出来りゃあ苦労しねぇんだよ。寝てるだけのてめェと違っておれはやること多いんだ。一日三回もじっとしてらんねェ」
「だからってチョッパーが泣くまでやらなくてもいいだろうが」
「だって、……アイツが腹鳴らすから……」
「あのなぁ」
腹が鳴ったところで今すぐに何か口にしないと死ぬわけではない。料理人として見過ごせず思わずおやつを用意しようとしたのだろうが、それによって患者に無理をさせてしまった医者は大泣きしているのだ。
「目先の欲に負けたチョッパーが悪い」
「ちが、おれが……!」
弾かれたようにサンジの頭が持ち上がる。まぁ待て、とゾロは右手ひとつで制する。
「でもチョッパーの気持ちを汲んでやらないお前も悪い。あとでちゃんと謝ってこい」
「…………てめェに言われなくても謝る」
「謝罪すんのになんも与えんじゃねぇぞ。言葉だけでいい」
「……」
それが原因で泣いたのだから。
無言は肯定と見做したゾロは頬杖を突き、反対の手でサンジの手を指差した。
「それ」
「なんだよ」
「洗剤変えて、ちゃんと言いつけを守ってればマシになってんのか」
「た、ぶん、……まだ、良くわかんねぇけど」
言葉に詰まったところを見るに、昨日から碌にいいつけを守れていないらしい。
ならば、
「おれがてめェを監視する」
「は?」
「要はてめェをじっとさせてりゃ勝ちだろ」
これが最善だろう、と答えを出した。女に甘く、かと言って野郎も簡単に切り捨てるほど冷たくなれないこの男の監視役など、自分以外に思い付かない。
「おれ相手ならあのアホみてぇな給仕はやらねぇだろ」
「アホみてぇとはなんだこのクソマリモ」
「アホにアホって言って何が悪い、このアホコック」
お前がチョッパー泣かせたからだろうが、と揶揄うように言ってやれば、うぐ、と反論が止まる。しかしそれでも反論しようと必死に頭を回転させているのだろう。段々と変な顔になっていくのが面白くて鼻で笑ってやる。
「あのな、」
「だからちゃんと謝るっつってんだろうが」
「聞け」
「……んだよ」
すっかり不貞腐れてしまって、そこでようやっと煙草の火を点けた。ふぅ、と吐き出される紫煙。煙が天井まで昇っていくのを見送って、ゾロは言葉を続けた。
「――……てめェの手だから早く治したいんだろ」
「は…………?」
手は料理人の命なのだと、サンジから聞いたのはいつだったか。
初めて会ったときか、酒に酔った時か、戦闘中か、どうしようもない小競り合いの中か、それとも普段の何気ない会話の中か。なんにせよ、この船に乗っている者は当たり前のように知っている。
料理をするための手だから大事にする。仲間に飯を食わせていくための手だからそれで攻撃することはない。そのための、鍛え上げ、磨き上げられた足技だと。
(いつの間にか)
それはゾロの中でも当たり前になっている。
一介の料理人の手など、この男に出会うまで気にもしたことがなかったのに。大事にするものなのだと目の前の男に念入りに刷り込まれてしまった。
「他の誰でもない、てめェの手だから必死になってんだよ」
知っているからこそ、命を、誇りを、一緒に守っていきたいのだ。
「だからさっさと治せ」
――敵襲が過ぎ去ったあとの甲板で、静かに自分の手を見ていたのが記憶に残っている。戦闘で怪我もせず、指は思う通りに動き、感覚がある手を、まるで宝物を愛でるように眺めて微笑んでいたのを覚えている。
あのときサンジはなにも喋っていなかった。けれど、ゾロには聞こえた気がした。
『さぁ、アイツらにメシ作るか』
今日は何を作ろうか。いっそみんなの好物を作ろうか。いやでも野菜も摂ってもらわないと困るなぁ。なににしよう。なににしよう。
たった一瞬の出来事だったけれど、今でも簡単に思い出せるほど。
汗と海水で濡れた金髪が風に吹かれてキラキラと輝いていたことも、噎せ返るような血の匂いも、風に乗って薄くなっていく火薬の匂いも、――太陽の熱の痛さですら覚えている。
「切り傷だろうとあかぎれだろうとなんだって関係ねぇんだよ。てめェの好きなように、思ってる通りに料理が出来るようにしてやりたいだけだ」
特に、あの心優しい船医は。
「わかったら、――……?」
と、ここまで淀みなく言い切って、――……ゾロはようやっとサンジが硬直していることに気付いた。
「……」
目を丸くして、口を開いて。煙草なんて辛うじて唇に引っ掛かっているだけだ。間抜けにも見えるその顔は出会った頃のような幼さを滲ませていて、次第に顔が真っ赤に染まっていく。
何故かゾロも二の次を告げなくなった。
「……」
「……」
何とも言えない空気に呑まれる。なんでサンジはこんなにも顔を赤くして硬直しているのかと、考えたところで分からなかった。
暫くして、
「…………い、」
サンジの口から零れた単音は引き攣り、ひっくり返っていて、ゴホンと咳をひとつ。殆ど吸ってない煙草は灰皿に押し付けられた。
「今のは、全部チョッパーの話だな……?」
「あ?」
そりゃそうだろう、と言いかけて今度はゾロが固まった。
――そういえば、
(おれは、誰の話をしていた……?)
ギシリ、と体と心臓が嫌な音を立てた。じっとりと背中に汗をかく。
戦闘の後でこの男が手を見つめていたのは自分の記憶だ。大した腕もない相手側のクルーを切り伏せて、刀を鞘に収めた後でそれを見た。あの時チョッパーはいなかった。確かロビンが怪我をして救護に当たっていた。
だから忘れられない記憶は、あの時に感じた感情は、ゾロ自身のもの。
(いつからおれはおれの話をしてたんだ)
怪我を治してやりたいのは?
好きなように料理をさせてやりたいのは?
――この男の誇りを、命を、守りたいのは……?
(だれだ)
サンジを目の前にして、ゾロは自分に問いかける。ずうっとチョッパーの話をしていると思っていた。でもいつの間にかそうじゃなくて、そうじゃなくて――……。
「いや、悪い。変なこと言った」
大切なものに気付けた気がした瞬間、サンジの声で現実に戻される。
「勘違いした。悪い、忘れろ。……あれだ、監視はやらなくていいしちゃんと大人する。すぐに治す」
ふい、と横を向かれてしまって赤らんだ頬は長い前髪に消えていく。あぁ勿体ない、と歯痒い。立ち上がってキッチンに逃げ込んだサンジを追いかけて手首を掴んだのは、殆ど無意識のものだ。そのままシンクに押し付けるようにして退路を断つ。
「おい、なんだよ……ッ!」
条件反射のようにサンジが睨みつけてくる。眉を寄せて奥歯を食いしばる。それでも動かないゾロを蹴り飛ばそうと足が動いたのが視界の端で見えて、何を考えるより先にぐっと顔を寄せた。
「――勘違いって、なんだ」
「ッ!」
僅かに浮いた足が止まる。息も言葉も詰まる。
「てめェは何を勘違いしたんだ」
「そっ、それ、は……」
カッと顔が赤らんでいく。顔を背けようにも背けられない、逃げ出そうにも逃げられない。そんな距離でこの男の動揺が見られたことに随分と気分が高揚した。自分よりも強い敵と対峙した時とはまた違う高揚は、ゾロの心を満たしながらもすぐに飢えていく。心の渇きは腹が減った時の感覚に似ている。
(もっと見たい)
見せろ、もっと、もっとだ。
女に見せるだらしない顔でも、男どもに見せる頼り甲斐のある顔でもすかした顔でもなんでもない。もしかしたら自分以外見たことがない顔なんじゃないかと思った時には、グル、と喉が鳴った。
とうとう額がくっついて、海の色をした瞳の輪郭が歪んでいくのが見えた。
(泣くか……?)
じわ、と水分量が増えていくそこを眺めながら、しかしここで引くわけにはいかない。理由を問われれば困ってしまうのだけれど、でもここでこの男を解放すれば二度とこんな距離には戻れないと確信めいた勘があった。
「コック」
ビク、と大袈裟なほどサンジの肩が跳ねる。
「なぁ、おい」
追い討ちをかけるように言葉を重ねれば、とうとう観念して目だけが逸された。
そして。
「…………おれは、」
――てめェが、おれの心配をしてくれたのかと勘違いしただけだ。
「悪ィって、……言っただろうが」
消え入りそうな、頼りのない声色。うまく力が入らないのか、力を入れれば泣いてしまうのか。声は随分と掠れていて、耳に入るたびに腹の底が熱くなる。ドクリ、ドクリ、と心臓の音が速くなっていく。
「お前が、おれの心配なんざするわけねェのに、分かってんだよそれくらい……」
分かっている、と言いながらひどく落ち込んでいるようにしか見えない。
ゾロは、掴んだ手首はそのままに反対の手でサンジの顎を撫でる。自分にはない顎髭の感触を指先で感じてから、そうっと下唇に触れる。一瞬唇が震えたが、それ以上の拒否はない。
寧ろ、
「……なんだよ」
続きを願うように、強請るように、逸されたままの瞳がゾロの元へと返ってくる。
「勘違いじゃねェ」
その瞳を真っ直ぐに見つめて、ハッキリと言い切った。
「……」
「おれの話だ。……いろいろ自覚した」
「今かよ」
親指で下唇を撫でる。ついさっきまで煙草を咥えていたそこは少し乾燥していた。
「嫌がんねェのか」
「ッ、るせ!」
「――抵抗しないならおれがしたいようにやるぞ」
最後通告だ、と言うように声を低くする。目の前の男にだけ届けばいいと、囁くように、吹き込むように。
「いいのか?」
あと数センチ、どちらかが動けば唇が触れ合う距離。
「こ、ういうときは、黙ってするもんなんだよ、童貞剣士……ッ!」
「していいってことだな」
こんな状況でも自然と喧嘩腰になっていく男の唇は自分のそれで塞いで、何度か味わった後で下唇を甘く噛んだ。
「腹が減った」
「それ、初めてキスしたあとにいう言葉かよ……」
「仕方ねぇだろ」
てめェといると腹が減る、と続ければ、おやつまで我慢しろよと昨日のルフィに言うように言うものだから面白くない。自覚できるほどにムスッと唇を歪める。
「ちげぇ」
例え船長相手でも、同じように扱われるのは我慢ならない。
何も理解できていないサンジにもう一度キスをする。逃げられないように顎を掴んで、ゾロを呼ぼうとして開いた口に容赦なく舌を捻じ込んだ。煙草の味がする口腔内を余るとこなく舐め取って、引っ込んだ舌は絡みとる。
(にがい)
でも苦味こそが、この男とキスしているのだと実感できて。
(まぁいいか)
多少の苦味は許してやろうと勝手に上から目線になる。
「ッ、ん、てめ、も、しつけぇ……!」
掴んだままの手が、こちらの服を掴む。息が上がり、文句を言う声はどこか甘い。
(それは抵抗にははいんねぇだろうがよ、エロコック)
角度を変えてまた味わって。口端から溢れる唾液は勿体無くて舐めとった。それでもまだ足りないと、空腹感に背中を押されて欲望のままにキスを続ける。
「んん、んっ、はぁ……っ」
とうとうサンジの体が崩れていって、追いかけるようにゾロもしゃがみ込む。サンジのテリトリーであるキッチンで隠れてお互いに触れ合うのはひどく背徳的で、ゾクゾクと背中が震えた。
このままもう一度、と顔を寄せようとすれば流石に肩を押されてストップがかかる。
「ハァ、っ、くそ、この、ばかマリモ! 酸欠になるだろうが!」
「だから、腹減ったって言ってんだろうが」
「アァ⁉」
「いいからもっと食わせろ」
「っ、お、おまえ、ばか、それは、腹減ってんじゃなくて……ッ」
欲求不満だ、と叫ぶように言われて妙に納得した。
「あぁ、だからか。だからお前といると腹が減るのか」
「……おれのこと、食いてぇのかよ」
「食いたい」
「他の奴らは? レディも、」
「別にいらねぇ」
想像して、うげぇ、と頬をひくつかせればサンジは満足げに笑った。
「おれだけか」
「そうだな」
なら仕方ねぇな、と額がくっついた。抵抗していた両手がするりと首に回って、ちゅう、と可愛らしい音がするキスがひとつ。
「おれは、」
首に絡まった腕に力が入って距離が縮まる。擦り寄ってくるサンジの髪の毛が耳や頬に触れて擽ったい。
「おれはもうずっと自覚してんだよ。てめェが呑気に大口開けて寝てる時からな」
「いつだ」
「いつもだろ」
丸くなった背中に手を添えて、同じように頬や耳に擦り寄ってやる。擽ったいのだろう。くふくふと笑って、そのあとでぐずっと鼻を鳴らしている。
「泣いてんのか」
「泣くか、アホ。調子に乗ってんじゃねぇよ」
でも。
「ちょっとまだ夢見心地だから、そのままジッとしてろ」
「おう」
言われた通り大人しくしていれば、少し間を置いた後でサンジが堪え切れないと吹き出すように笑った。魔獣じゃなくて忠犬かよ、と揶揄うように言われてしまっては途端に居心地が悪くなる。顔が熱くなっていく。
「うるせぇぞ、ぐる眉コック!」
「ふはっ、はは! やめろ、耳を噛むんじゃねぇよ」
ずっと赤くなったままの耳をがぶがぶと噛んで、ついでに無防備な首筋にも唇を寄せた。するとすぐに大人しくなって、ビク、と体を震わすものだからいっそう腹が減ってくる。このまま無理矢理にでも食べてやってもいいのだが、もうすぐおやつの時間と言っていた。ルフィたちが容赦なく入ってきたら大惨事だろう。
「なぁゾロ」
「……なんだ」
「あのよ、」
サンジの声が小さい。内緒話をしているようで、そっと耳を澄ます。
「夜も、薬塗って三十分はじっとしとかなきゃなんねぇんだよ」
だから。
「塗った後でまたこうやってしてくれよ。お礼につまみも作ってやるから」
強請る、というよりもお願いされてしまって、そっと体を離した。真正面から顔を覗きこんで、小さな不安が見え隠れしている眦にキスをする。
「理由を作ろうとすんじゃねェ」
「っ」
「何もなくたって、おれはてめェを食いにくるぞ」
覚悟しとけ。
あぁこれだけは言っておかないと、と遠慮なく言い放つ。最初に釘を刺しておかないと、この男は勝手に我慢して無意識に一線を引いて、毎度言い訳を作って近寄ってくるに違いない。頭は悪くないくせに、機転は効くくせに、そういうところがてんでダメなのはよく知っている。
「まぁでも、三十分大人しいてめェを堪能できるのはいいな。楽しみだ」
常に動き回っている男が、自分の腕の中だと静かに大人しくなるのはちょっとした優越感。サンジは目を丸くした後で、力が抜けたようにだらしなく頬を緩めた。
「これから大変だなぁ、おれ」
「そうだな。逃げられると思うなよ」
遠くでルフィがサンジを呼ぶ声がする。どうやら彼も腹を空かせているらしい。
「またあとで来る」
「おう」
名残惜しそうに最後のキスを落として、夜まで手を離すことにした。
「サンジ〜〜〜! おやつ〜〜〜〜!」
勢いよく入ってきたルフィと入れ違いに外に出てチョッパーを探す。ウソップとブルックに慰められている小さな背中を芝生の上で見つけた。
「チョッパー」
「ゾロぉ!」
「まだ泣いてんのか」
「な、ないてねぇぞ!」
本当に溶けてしまいそうなぐずぐずの大きな目を乱暴に拭って、それから「もう心配すんな」と口角を持ち上げた。
「あれはすぐ治る。大人しくさせるいい方法があるからな」
「本当か⁉」
見上げてくるチョッパーに、ゾロは自信満々に頷いた。
「まぁ見てろ」
宣言通り、二日も経てばあかぎれは綺麗に治った。痛みもなく快適に料理をするサンジの背中を見て、二人は目を合わせて安心したように笑う。
――だが、どうやってサンジを大人しくさせたのか、今後の対策の参考にしたいとチョッパーに興味津々に聞かれてしまってゾロは暫く困ることとなる。