「いーい? サンジくん。いくら自分が頑丈だからって嫌なことは嫌って言わなきゃダメ」
扉の窓から入る陽の光だけで充分だからと灯りはつけず、ナミは手際良くサンジの腕を消毒しては包帯を巻いていく。
普段ならばチョッパーに任せるか、もしくは働いた分だけ金銭を要求するのだが、——今は特別。
なにせ怒っているのだ。彼の腕に傷をつけた男にも、それをへらへら笑って許している彼にも。
「ほら! ちょっと噛んだってレベルじゃないわよ、これ。アイツ自分の顎がどれだけ強靭か理解してないのかしら。信じられない!」
「あぁ、いや、ナミさん……」
「サンジくん。これで分かったでしょ? アイツは繊細な力加減とかそんなのわっかんないんだから! きっちり躾けて首輪つけるくらいでちょうどいいのよ! 聞いてる!?」
「う、うん、そりゃあご尤もかもしれないんだけど、あのね、ナミさ、いてっ」
「やだ、ごめん……! ちょっと力が入りすぎちゃった。巻き直す?」
「大丈夫。大丈夫だよ、ナミさん」
キュッと結ばれた包帯はお世辞にも完璧とは言えないけれど、それでもサンジはそこに手を当ててはへらりと笑う。
「チョッパーにお願いしたほうがよかったかも」
「あんなに気持ち良さそうな顔で昼寝してたんだ。起こすのも悪ィよ。あとおれはナミさんにやってもらうほうが幸せだぁ〜♡」
「はいはい。もう終わったから袖は自分で直して」
「クールな表情のナミさんも素敵だぁ〜♡」
「呆れてんのよ、バカ」
深く溜め息を吐かれたって何処吹く風である。
言われた通りに捲った袖を直し、まだ唇を尖らせているナミの顔を覗き込んでは頬を掻いた。
「それにさ、チョッパーも昨日はあんまり寝られなかったみたいだし。今は寝かせてやりたいんだ」
「……そうなの?」
「うん。船も揺れてたから余計に」
話しながらもナミは注意深くサンジの体を観察していく。薄いシャツの下。ボタンが開いた襟周り。袖を直したばかりの腕だって。きっと他にも噛み跡があると確信している眼差し。
「……」
観察されているサンジは、ううん、と困ったように唸ることしか出来ない。そして、失敗したなぁと目を逸らして苦く笑う。
ナミに心配をかけるつもりなどなかった。本当に、これっぽっちも。
ただ、サンジ自身も気付いていないゾロの歯形が左の前腕にくっきりついていて、運悪く炎症を起こしていた。見た目ほど痛みはなく、気付いていないから隠すことも出来ず。だからこそドリンクのおかわりを作ろうと腕捲りをした瞬間に、赤黒く変色した肌を見られてしまったのだ。
「ねぇ、本当にもうどこも噛まれてないの?」
「うん。噛まれてないよ」
嘘である。
本当は噛み跡とキスマークだらけで、下肢など見るも無惨な光景だ。夏島が近いこの暑さの中でもラフな格好が出来ず、スーツが手放せないほどに。
けれど、今は言えない。
それほどナミの怒った顔は怖かった。
サンジの腕の噛み跡を見るや否や髪を逆立てて怒り、うっかりゾロが噛んだと口を滑らせてしまったら「信じられない! あのバカ!」と拳を握っていた。
きっと、ゾロはチョッパーを抱えて昼寝していなければ今頃海の藻屑となっていただろう。追い討ちで本物の雷も落とされていたに違いない。
「ねぇサンジくん」
「なんだい、ナミさん」
「本当に、嫌なことは嫌って言わなきゃダメよ」
アンタ、肝心なところで一歩引くんだから。
「言わなきゃ分かんないわよ。ゾロだって頑丈なんだから、蹴り飛ばして踏ん付けて、あとちょっとくらい嫌だのなんだの言ったところで傷つきゃしないわよ」
ナミの手が伸びたと思えば、包帯の上から傷を撫でてくれた。優しくゆったりと、慈しむように手を当てる。じんわりと伝わる体温の心地いいこと。
「ちゃんと、大事にされなさいよ」
きっと、歯形が手首に近い場所にあったから。そしてサンジが料理人としての手を大切にしていることを理解しているから。
だからこそ怒り狂ってくれたのだろう。赤黒く変色したそこに、知らず細菌が入りこんでいて大事になったらどうするのだと。
(……そういや、ナミさんも虫に刺されて高熱が出たんだっけか)
今はもう遥か昔のリトルガーデン。そして高熱に苦しんだ末に辿り着いたドラム王国。普通の風邪で熱を出すより辛かったわ、と身震いしながら溢していたのはいつだったか。
あの体験をしているからこそ、嫌な想像はいくらだってできる。
「ナミさんは、やさしいなぁ」
「……なによ、急に」
女神だ、と溢した言葉に嘘はない。
自分が体験した辛いことを他者も経験しなくていいように。そうやって気遣いができて叱ってくれる女性を、女神と言わずなんと言おう。
「ありがとう。ナミさんに心配してもらえるなんておれァ幸せ者だよ」
でも。
「大丈夫だよ。今回のこれはまぁ、ちょっと加減ができてねェかもしれねェけど」
二人きりの医務室で、しかし他に誰もいないかと確認するようにサンジは辺りを見渡した。そうしてナミを手招きする。
あのね、と声を抑えれば口元に寄せてきてくれる小さな耳。柔らかなオレンジ色の髪がさらり肩から落ちて、ふんわりとみかんの匂いが広がる。
そして。
「——アイツ、結構優しいんだ」
これは内緒。恥ずかしいから誰にも言わないで。
「……たぶんこれもわざとじゃねェと思う」
本当はナミに言うのは憚られることだ。何が悲しくて、大好きなレディにこんな惚気を吐き出さなければいけないのか。
けれど、どうしたってナミの中でゾロの男としての評価が下がっていくことが耐えきれなかった。存外、蹴り飛ばして踏ん付けなくたって、首輪をつけて躾けなくたって、十二分に甘い男である。
「んもう!」
文字通り目と鼻の先で、可愛らしいナミの顔が呆れたものになっていく。
眉を寄せて、唇を尖らせて。拗ねてようにも見えるその顔は、やっぱりなにより可愛らしい。ついついいつもの調子で目をハートにして頬を緩めれば、容赦なく両頬を左右に引っ張られた。
「サンジくんが甘やかし過ぎなのよ!」
本当にそうでもないんだよ、という言葉は頬を抓られているせいで上手く喋れなかった。
▪︎
昼間よりは静かに開いた扉に、サンジは鍋の中を突く手を止めてカウンターから顔を出す。
「酒」
「へえへえ」
顔を出さなくたってこんな要求をしてくるのは一人しかいなかったか、とサンジはお座なりに返事を返した。適当な返事には気も留めず、ゾロは刀を立て掛けてはカウンター席に座る。
「腹も減った」
「もう夜食食うか?」
「あぁ」
「じゃあちょっと待ってろ」
今夜の夜食は随分と早い。
「夜食と一緒に飲むなら酒は、そうだな、……こっちの酒でもいいか?」
「任せる」
一先ず米酒と、金平ごぼうや冷奴といった小鉢を並べて作業のスピードを早めることにする。
「米も食うだろ?」
「食う」
本日の夜食は海獣肉の角煮である。
ゾロの好物でもあるので、きっと匂いに釣られてふらりとやって来たのだろう。それならばいつもより早めの来店にも納得がいく。
もしもこれが正解ならば、
(嬉しいもんだな)
自分の料理を楽しみにしてくれているのは。
何度味わったって、何度噛み締めたって、きっといつまでも新鮮に嬉しいのだろう。一度手放そうとしたものだから、余計に。
ついつい緩んでしまう口元はそのままにおにぎりと握って、深めのお皿に角煮を盛り付けていく。艶々とした煮卵は半分に切って、とろりとした部分を残した黄身が一番美味しく見える角度で添える。用意しておいた白髪葱は崩れないように慎重に乗せて、期待した眼差しを向けるゾロの元へ。
「食っていいぜ」
「まだあるのか?」
「あるからゆっくり食え」
一口も食べていないのにもうおかわりの心配か、なんて。
堪らず吹き出すように笑っては、ゾロのいただきますを見守る。大きな一口とともに、ほんの少しだけ輝く右目が愛おしくて、年甲斐もなく飛び跳ねたくなる。若草色の髪を満足いくまで撫で回して、額や目の傷にだってキスがしたい。
「クソ美味ェだろ」
返事はなくたっていい。
こっちを見なくたっていい。
自分の料理に夢中になって膨らんでいる頬袋だけで、こちらまで満たされていく。
「おかわり」
「ははっ! 早ェよ、バァカ。ちゃんと噛めよ」
早々に要求されたおかわりにもう一度笑ってからお皿に盛り付けて、おにぎりもあと二つ追加した。
このまま隣の席に居座って横顔を眺めていてもいいのだが、如何せん片付けが残っている。名残惜しくも背を向けて、食材の片付けをしてから大物の洗い物に取り掛かる。
(今日は早く終わりそうだな)
明日の仕込みは終わっているし、夜食だってあとは不寝番のウソップに届ければいいだけだ。アクアリウムバーからの注文も聞こえない。となれば、ゾロの食器さえ片付ければお終いである。
洗い終わった鍋を拭きながら少し考え込んで、——サンジは食器棚から桜模様のマグカップを取り出した。
すると。
「今夜は必要ねェよ」
サンジを引き止めたのは、角煮を頬張っていたゾロの声。
「チョッパーならルフィの腕の中に押し込んできた」
「……それはそれで問題あるんじゃねェの?」
「どうにかなるだろ」
気になるならあとでおれが一度覗きにいく、とグラスの酒を飲み干した。
「てめェも今日はさっさと寝ろ」
きっと今夜はチョッパーも悪夢に魘されない。
魘されないから、甘いホットミルクも、明け方近くまで彼の話し相手になる必要もない。揺れる船の中で手を繋いでいなくたっていい。
「そもそも遊びすぎてフラフラになってたからな。ちょっとやそっとじゃ起きねェよ」
「え、なに。お前がずっと遊んでやってたのかよ」
「ルフィとフランキーもいた」
男部屋で散々騒いで、暴れて、遊んで、そうして電池が切れたかのようにパタリと眠ったのだと言う。
「だから今日はさっさと寝ろ。おれが食ったら終わりだろ」
もうすっかりこの男にも自分のルーティンが知られてしまっているのかと。当たり前のようにゾロの脳の中に自分がいるのかと。なんだか気恥ずかしくて、鼻先を軽く掻いてから俯いた。
火のついてない煙草が口元でぴょこりと揺れる。
(————ね、言っただろ、ナミさん)
きっと自分よりもずっとゾロのほうが甘いのだ。
照れくさい足でゾロの隣を陣取って、ご馳走様と手を合わせている男に寄りかかる。
「……美味かったかよ」
「あぁ。次はいつ作るんだ」
「考えとく」
「おう」
「出来るだけ早く作る」
「! おう」
わざと肩に頭を擦り寄せて、めいっぱい押したところでビクともしない。鍛え上げられた筋肉と体幹に、ゾロが鼻で笑うのでなんだか腹が立つ。
「筋肉マリモ」
「エロコック」
でも喧嘩がしたい気分でもない。
暴れていた頭を大人しくして、そうっと手を掴んでみる。大好きなレディの手からは程遠い、無骨で分厚い手のひら。古傷と、真新しい傷が混在する剣士の手。
「……そういや、これなんだ」
朝はなかっただろう、と剣士の手で撫でられたのは件の包帯である。
「ナミさんが巻いてくれたんだよ。いいだろ」
「こんなところ、包丁で切ったか?」
「ンなヘマはしねェよ。お前が噛んだんだろ。ほら一昨日だったか、ヤッたときに」
不寝番だったゾロの元に夜食を届けて、そのまま。
言えば思い出したのだろう。ゾロが「あぁ」と声をあげて、それから納得したように頷いた。
「だからナミのやつ怒ってたのか」
「えっ」
驚いて、思わず顔を上げた。
チョッパーとの昼寝から起きたあと、サンジの知らないところで長々とお説教を喰らっていたらしい。
「悪ィ。そういうのじゃないってナミさんにも説明したんだが」
「いや、いい。おれが噛んだことに変わりはねェだろ。つうか、そんなに酷ェのか」
言いながら、ナミが巻いてくれた包帯を無骨な指が解いていく。そうして、包帯の下から出てきた噛み跡にギシリと体を軋ませた。
「……」
「……あー……ゾロ?」
「……」
きっと想像していた以上だったのだろう。
戯れあいのような噛み跡ではなく、変色した皮膚と抉れた皮膚と肉が痛々しい。見た目ほど痛みはないし、ナミに指摘されるまで気付かなかったのだと声をかけたところで固まっている体は動かない。
そのうち、ぐうと唸って、琥珀色はサンジの様子を伺っている。ソワソワとどこか落ち着きのない視線。何か言おうとしてはすぐに閉じてしまう口。
サンジは軽く息を吐いてから、反対の手でゾロの頬を撫でる。
「だから、気にすんな」
ゾロが噛んでこなくたって、サンジから噛んでと強請ることだってある。ならばもう共犯だろう。
「普段はこんな風になんねェし、本当に痛くねェんだぜ?」
「……わるかった」
「お前が素直に謝ると気持ち悪ィんだよ」
強靭な敵を薙ぎ倒していく体が随分と小さくなってしまったように見えて、サンジは慌ててキスをする。噛み跡のついた腕を離そうとしない手を撫でて、もう一回、もう一回。
ナミには甘やかし過ぎだと頬を抓られたけれど、こればっかりはどうしようもない。
キスをしながら体重をかけて、そうっと凭れかかっていく。それから口を開けて、美味しい味が残る薄い唇をぺろりと舐めた。
「コック……っ」
「なんだよ」
おい、とどこか焦った声にいっそう気分が盛り上がって、男の名前を呼ぶ声に混ざる夜の色。
「さっさと寝ろって言ってんだろうが。眠ィんだろ」
「どっかの誰かさんが気ィ利かせてくれたからいつもより時間に余裕があんだよ」
おれの仕事は夜食運んだらもう終わり。
「寝るにはちと早ェし、今夜はチョッパーも起きてこねェし? なぁゾロ、————」
そこから先に言葉は、少しずつ魔獣の輪郭を取り戻し始めた男の耳元で。
「……どうする?」
太い首に腕を絡めて、顔を覗き込む。
恋人としての時間を過ごすかどうかは、あとは任せると眦を眇めた。
すると。
「煽ったのはてめェだからな、アホコック」
グル、と低く鳴る喉に、全身に残る噛み跡が疼いた気がして背中が震えた。
「ゾロ」
「眠ィだなんだ、文句言うなよ」
「うん」
赤らんだ頬を隠すことなくへらへらと笑って、シャツのボタンを外してはネクタイを緩める。
自由が効くようになった襟を引っ張って、無防備な首筋を差し出す。
「噛んでくれよ」
「お前なぁ」
「おれ、お前に噛まれんの好き」
「……今度はてめェも一緒に説教喰らえよ」
かぱり、と開く愛しい男の口。
殺傷度が高い歯が首筋に触れて、しかし擽ったいくらいの感覚しか襲ってこない。堪らずサンジはもっとと強請って、強くなっていく痛みに満足気に息を吐いた。首筋から口を離した顔を両手で捕まえて、気が済むまで唇を合わせ、舌を絡み合わせる。
「つづきは、あとで、……な?」
するならちゃんとしたい。準備だって済ませたい。
琥珀を煌めかせる男に言い聞かせて、そうだ一緒に風呂入ろうぜと誘った。
「先に行ってる」
「あぁ。ウソップに夜食届けたらすぐに行く」
名残惜しくいつまでも指を絡ませたあとで、ダイニングを出ていくゾロの背中を見送った。なにやら医務室から音がしていたので、きっと風呂上がりには包帯を巻き直してくれるのだろう。
ほとんど汚れのない食器を洗いながら、小さく笑う。
(甘やかされてんなぁ)
擽ったいけれど。
まだ、どこか逃げ出したくなる自分もいるけれど。
(大事にされてるよ、ちゃんと)
——明日、もし晴れたなら。
甲板にパラソルとテーブルとチェアを用意して、うんと美味しいアイスティーを用意しよう。甘さは控えめで。ケーキやパフェもこの時ばかりはいらない。
そうしてナミを誘って、甘ったるい惚気話に付き合ってもらうのだ。
『あ、あの、あのね、ナミさん』
彼女を褒めるのことに関しては優秀な口も、きっと明日は回らない。辿々しくて、拙くて、聞くに耐えないものかもしれない。そもそも何から話せばいいか、今から頭が真っ白である。
『なぁに、サンジくん』
それでも彼女は付き合ってくれるだろう。
ゆっくりでいいわよ、とアイスティーを飲みながら。やっぱりサンジくんは甘い、と時々叱ってくれながら。
もしかしたらロビンも一緒に聞いてくれるかもしれない。それもいい。彼女のためのアイスコーヒーも用意しておこう。
『サンジくんは、ゾロのどこがいいの?』
答えたら笑うだろうか。
『どうしてサンジはゾロを好きになったの? 聞きたいわ』
教えたら、——驚くだろうか。
恥ずかしさに負けて海に飛び込んでしまわないように自分の体を押さえつけ、言葉にならない唸り声を上げる姿は滑稽だろう。想像するだけで情けなくて涙が出そうだ。
それでもきっと話してしまう。
あの男の好きなところを、大事にされている自分のことを。
『心配してくれて、ありがとう』
これは決して自惚れではないのだと、今なら胸を張って言えるから。