「ほら、ゾロってよく見ると顔はいいじゃない?」
なんてナミが言うものだから、サンジは今日一番の嫌な顔をして見せた。
「えええぇ……」
もう何の話をしていたかすらどこかへ飛んでいってしまった。女神とのティータイムにそぐわない顔だと分かっていても戻せそうにない。
溢れる声は大凡ナミに聞かせていいものではないが、しかし、ナミはこれっぽっちも気にしていないようだ。空になったグラスをこちらに差し出してオレンジティーのおかわりを要求する。
この話はまだ続くらしい。
「あら。同性からすればそうでもないって感じ?」
「おれが異性でもアイツはごめんだよ、ナミさん」
「ふーん。あれで結構モテるのよ? 島に降りて何回女の人に捕まってるの見たことか」
「ハァ!? アイツ……! マリモのくせに……!」
「女なんかに興味ありませーん、どうでもいいでーす、みたいな奴の方がモテるのよ」
それでいて強引に手を引いてくるとかいいじゃない。
「ナ、ナミさん……もしかして…………」
ついついグラスを持つ手が強張って、パラソルの下でも十二分に暑い夏島の気候で溶けた氷がカランと音を立てる。
サンジの引き攣った声にナミは意味が分からないと首を傾げて、——そして、一拍置いてから慌てて弁明するように手を振った。
「ない! ないないないない!」
ブンブンと音がするほどに手も顔も横に振り、オレンジの髪の毛が揺れては夏の香りがする。
ショックを受けながらも優秀な鼻は彼女の些細な変化にも気付くのだ。
「おれも強引になったほうがいい?」
「やめてよ、もう! 怒るわよ!」
「怒ってても可愛いよ、ナミさん」
「あ! もう怒った! 本当に怒ったから!」
ぷくりと膨れた頬と、つり上がった眉。けれど、サンジ特製のマフィンは諦めきれない素直な左手。
「これ食べたら部屋に戻るからね!」
と宣言するナミに、ちゃんと食べてくれるんだなぁと頬を緩める。あぁやっぱり可愛いと心の中で呟いて、おかわりもあることを告げた。
▪️
さて、その日の夜である。
「やっぱり無くなってんなァ」
酒瓶が並んだラックを覗き込んで、サンジは顎髭を撫でた。視線を遣るは扉の向こう。
「分かりやすい奴め」
そこに置いていた酒瓶が無くなることは想定内。ちょっとだって驚きなどしない。なぜなら、あれはあの男が好きな酒。ラベルが見えるように置いてやれば手に取るだろう踏んでいた。
予想が当たれば、あとは準備の第二段階に入るだけ。
「よし。作るか」
サンジは迷うことなく一番小さなフライパンを取り出し、それで海獣肉を焼き始めた。
醤油を焦がしたような香ばしい匂いと共に甲板へと出た。随分と夜が深くなっているが、まだ寝るには少し早い。キッチンの明かりは落とさずに足音は消して、男の背中に近付いた。
「よう、酒泥棒」
「……」
気配を消して近付くな、と言いたそうな顔である。
「ルフィたちはもう寝てんだ。うるさく出来ねェだろ」
「ならてめェもさっさと寝ろ」
「あ? いいのか、そんな口聞いて」
まさかこれに気付いてないわけねェよな?
「海獣肉の照り焼きとおにぎりだぞ。食いたいだろ。その酒にも合うぜ。ほれ、ほぉーれ」
ゾロの隣を陣取って、空いた手でパタパタを煽いで匂いを送り込む。空いた腹に酒を流し込むような時間帯に意地悪なほどのいい匂い。ぐう、とすっかりサンジに飼い慣らされた腹が鳴って、悔しそうに目くじらを立てるゾロの顔はどこまでも面白い。
「さっさと寄越せ!」
「食べさせてください、だろうが」
「てめェなぁ……!」
素直にならない男のために、もっと皿を近付けて手で煽いでやる。けれど、悔しそうな顔をしていたのも束の間で、ゾロはすぐに右の口角を持ち上げて意地悪に笑うのだ。
そして。
「おいクソコック。腹減った」
尊大に、太々しく、しかし的確にサンジに響く言葉選び。
「……」
おれ、コイツのこういうところが嫌い。
べえっと舌を出しては眉を顰める。
「ケッ。残したらタダじゃおかねェからな」
はぁーあ、とわざとらしく溜息を吐いて、カトラリーとともに皿を押し付けた。途端にゾロは満足気に鼻を鳴らして手を合わせる。
「いただきます」
「おー」
残すなよ、なんて言葉は本当は必要ない。
大きく開いた口と、そこにこれでもかと詰め込まれる大きな海獣肉。普段は表情筋が死んだ顔ばかりしているくせに、膨らんだ頬はゴムのように柔らかそうだ。
「……あんだよ」
一口、二口と食べ進めながら、ゾロはサンジからの熱心な視線に訝しむ。なんでもないからさっさと食え、と手を振って、誤魔化すように目を逸らした。
(あぶねぇあぶねぇ)
ついつい、企みが態度に出てしまっていたらしい。この男に逃げられたらわざわざその酒を握らせた意味がなくなってしまう。また気取られないように煙草を吸っては表情も視線も隠し、ゾロが食べ終わるまで大人しく待つ。
そうして、やっとこの時がやってきた。
「よしよし、食ったな」
ソースの一滴すら残っていない皿は、料理人をどこまでも幸せにさせる。けれど、今ばかりはそれだけで微笑んでいるわけではない。
「全部食ったし、酒の飲み切ったな」
「……ニヤニヤしてんじゃねェよ。気持ち悪ィな」
なんだなんだ、とゾロが頬をひくつかせる。でももう遅い。
鳥肌が立つとでも言いたそうに腕を摩るゾロから皿もカトラリーも奪って、逃げないように彼の太腿の上へとお邪魔した。
「あ……?」
ポカンとしては間抜けな声を出すゾロのことはスルーである。胡座をかいたその足を跨ぐようにして膝立ちになり、その分だけ高い位置からゾロを見下ろす。さらりと流れ落ちる金色の前髪の先で、琥珀色が随分と小さく真ん丸になっていく。
そして、
「おいクソ剣士。てめェ見知らぬお姉様方から随分とモテてるらしいじゃねェか。ちぃと面ァ貸しやがれ」
勝手に持っていった上に全部飲んだ酒の分だけ大人しくしてろ。
「————は?」
ソースがついたままの唇が更に大きく開く。なんだ、こんな所に残してんじゃねェよ、とサンジはソースを親指で拭い、特に深く考えずに舐めとった。
瞬間、ゾロの体がぎしりと音を立てて軋んだが、今のサンジにとってはどうでもいいことだ。
「ほーん? なるほどな。クッソ腹立つほどに綺麗な二重なんだな、お前」
「……」
「あ、なんだよ、別に手入れもしてねェくせになんで唇すら切れてねェんだ、腹立つな」
「…………」
むに、むに、……ぐい、むに。
存外、サンジが強引に頬を掴んで肌の感触を確かめて、ありとあらゆる方向へと顔を動かせてもゾロは大人しいままだった。
時々精神統一をしている時のように大きく息を吐いているが、その口で「やめろ」と言うことはない。ゾロが何を考えて大人しくしているか皆目見当もつかないが、都合がいいと言わんばかりにサンジは顔の造形を確認していく。
「マリモのくせにしっかり睫毛までありやがる。……あぁ、正面より横から見た方が鼻の高さが分かるな」
野菜の鮮度を確認する時のように。
魚の毒針の位置を確認する時のように。
そうやってゾロの顔をまじまじと眺めては、レディが声をかけたくなるのも分かると肩を落とす。じっくりと見れば見るほど綺麗な造形をしているのだ。心底腹立たしいのだけれど。
「……この位置のままで、ちょっと上向け」
閉じていた薄い瞼が持ち上がって、呆れた琥珀色がサンジを捉える。けれどやっぱり何も言わず、溜め息をついた後で顎を持ち上げる。
「フーン」
すっと通った鼻梁から唇へ。そして、不機嫌そうに下げられた口角など気にもならないくらい美しい顎から耳にかけてのライン。男らしく骨ばった、それでいてしっかりと鍛えられているからこそ浮き上がった首筋の陰影が目を惹く。
耳元まで視線を流せば、夜風でピアスが揺れるのもまた小憎たらしい演出だ。涼し気な音がほんのりと心臓を刺激する。
——ほら、ゾロってよく見ると顔はいいじゃない?
これは、確かに。
サンジの中でロロノア・ゾロという男は、昼間っから酒を飲んでは口の端から溢しているクソ剣士であり、目を離すと一瞬で迷子になれるある種天才的な迷子マリモとしか認識していなかった。勿論、こと戦闘となるとそれだけではないということは理解していたが、この顔の造形には気付いていなかった。
「こっちも、」
顎を掴んで反対側へと向かせる。
凛々しく持ち上がった眉の下で、僅かに伏せた瞼と意志の強い琥珀色。一瞬の間を置いて、ゆったりとこちらを捉える。
「……」
目が合うと、顎を掴む指がピクリと跳ねた。
(——コイツ、本当に、)
昼間のナミの言葉が何度もサンジの脳裏でリフレインする。
顔がいい、と認識してしまえばいっそうそう思えて、きっと意味もなく薄く開いた唇にさえ目が奪われる。
(……あ、あれ……?)
慌てて視線を外そうとしても琥珀色に捕まったまま、今度は動けなくなる。横顔を観察しようとしていたはずなのに、いつの間にかゾロは真正面を向いていて。
「お前は、……どうしようもないほどにアホだな」
何か言いたそうな低い声。彼の頬や顎を好き勝手に触っていた手はゾロの手に捕まっている。
「え、」
なんだか声が掠れてしまって、ゾロに掴まれている手が熱を帯びる。いや、ゾロの体温がこちらへと流れ込んでいるのだろう。そうだ、そうに違いない。この男は自分よりも体温が高いから。だから手だけでなく耳や背中まで熱いのだ。
「コック」
なんだ、もういいのか。
「終わりか?」
揶揄うような言葉が、しかしどこか自分と同じように掠れていて。聞いたことのない深みを孕んでいて。
——それでいて強引に手を引いてくるとかいいじゃない。
(あれ……?)
あ、と声を上げる暇もないほど一瞬で強制的に目に映るもの全てが流れていく。
ナミの麗しい声をもう一度反芻する暇はない。打ちつけた背中の痛みに文句を言う余裕もない。波の音が遠くなって、そのくせやけにピアスが揺れる音が大きく聞こえる。
今度はほんのりとなんて呑気なことを言ってられない。心臓が痛いほどに深い鼓動がひとつ、ふたつ。
「コック」
散らばる髪を避けるように床についた手。逆の手は、——なぜか自分の頬に当てがわれている。頬に触れてくる手は柔らかさなど欠片も無く、動くと何かが引っ掛かるように思えるのは剣だこだろうか。
(ゾロの手だ)
確かめるように触れたことはあまりないけれど、力強いこの手はきっと間違えない。
(あちぃ)
手を掴まれた時よりいっそう。
その熱が顔へと流れ込んでくるものだから堪ったものじゃない。
「今度はおれに触らせろ」
お前がおれにしたように、好きにしていいんだろ。
「おれが満足するまで動くんじゃねェぞ」
頬に触れていた親指がゆったりと動いて、眦を撫でていく。
「っ、ち……」
違う、違う。
おれが好き勝手に触ったのはお前が酒を泥棒したからで、レディが気に入る顔を確かめたかっただけで、——そう叫びたいのに唇は音もなく僅かな開閉を繰り返すだけ。
「コック」
見下ろしながら、もしくは同じ視線から観察していた顔も整っていたけれど、
「……コック」
ここから見上げる男はいっそう目が離せなくて、グル、ともギュル、ともいえない音を立てて喉が鳴る。
それがどうやら可笑しかったらしい。真上にいるゾロが、ふは、と笑う。
——こんな時に、気を許した顔で笑うのは卑怯だ。
「ぞ、そろ……っ」
「あ? なんだ、怒ってんのか?」
なんだこれ、とグルグル考えている間に深みに嵌っていく音がする。こんなつもりではなかったのに。こんなつもりで近付いて、触れたわけではないのに。
「……いや、怒ってねェな、お前」
それでもサンジはこの場所から動けない。
頬に触れる手がするりと降りて、顎髭を擽り、そうして唇を撫でられても、鍛え上げた足技を披露することはない。
「流されやすいなら他の奴にはやるんじゃねェぞ。分かってんのか」
野郎相手に誰が許すか、こんなこと。
「おれだけにしろ。鈍感コックめ」
怒鳴りたかったけれど結局口を噤んだ。文字通り目と鼻の先にある顔に夢中で、それどころではなかったのだ。
「触るぞ」
あぁ本当に腹立たしい。
そう思うのに近付いてくる顔に触れたくなって、触れられてみたくなって、——……ほんの少しだけ後頭部を浮かせた。