心中、夜空へばら撒く

 麦わらの一味の料理人はキスがお好きである。

 これは彼が酔った時限定の話なのだが、この船の中ではちょっとした常識。
 こんな酒癖は迷惑以外の何物でもないのだろうけれど、存外、彼から酒を奪うクルーはいない。普段とは違うどこか幼い笑い顔をナミとロビンが気に入っているからだ。——だからといって唇を許したことはないし、間違ってもサンジが飛びついてこようものなら雷が落ちて無数の手で遥か遠くへ転がされていくのだが。
 それに、サンジがキスを求めるほど深く酔っ払うことは滅多とない。普段は給仕に徹しているので酒を飲んでも最初の一杯くらい。戦いの後で宴をする時だって、ルフィの胃袋を満足させる頃にはもうお開きの時間が近い。飲もうにも酒はゾロとナミが飲み尽くしているし、ちょっと座って休憩しているかと思えば大量の洗い物に立ち向かっている。
 なので「深く酔えるほどサンジくんが大人しく出来る時くらい、好きにさせてあげましょ」というのが女性陣が出した結論である。一番嫌がりそうな女性陣がそこまで言うのなら、とゾロを除く男性陣も納得している。
(勝手なことばっか言いやがって)
 酒の匂いが強い息を間近に感じながら、ゾロはひっそりと心の中で嘆息をひとつ。
(てめェらは人に全部押し付けてるから好き勝手言えんだろうが!)
 賑やかな甲板から船尾へと移動した途端に始まったキスの嵐は、今夜はいつ収まるのだろうか。
「ぞろ、ぞぉーろ」
「……」
 ちゅう、ちゅ、と何度も押し当てられる唇に、ゾロは反撃も抵抗もしない。ただただサンジが納得するのを待つのみである。
(そもそもおれァ一回だっていいとは言ってねェからな……!?)
 ——いつの頃からか、サンジのキスに対する欲求を受け止める係はゾロに一任されている。例え別々の場所で飲んでいようとナミやロビンが酔ったサンジを連れてやってくるのだ。
 今夜もそうだ。
 ジンベエと気分よく飲んでいれば、ナミがサンジの首根っこを掴んでやって来ては「あとはよろしく♡」と去っていった。乱雑にゾロのもとへと放り込まれたサンジはすっかり首や耳まで真っ赤になっていた。
 受身など碌に取れる状態でもなかっただろうに痛がりもせずに起き上がり、顔を上げた先に居たジンベエをロックオンしたところでゾロが大慌てで船尾へと連れて来たのだ。
「んー、んんっ」
 サンジの尖った唇が、何度も何度も自分のそれに押し当てられる。そうして顔が離れたと思えば、世にも珍しい巻いた眉をへにゃりと下げては笑う。へらへらと、ふにゃふにゃと。
 時々、何がおかしいのかケラケラと笑っては「ぞろだぁ」と間抜けな声を出すので、ゾロの顔は一層渋くなる。
(勘弁してくれ……)
 ワノ国で、鬼ヶ島のライブフロアで。自分の隣で戦っていた雄々しい姿など微塵もない。
 これはただの酔っ払いで、傍迷惑なキス魔である。
(……勘弁してくれ)
 無邪気に笑ったサンジにまたキスをされて、心の中で何度も同じ言葉を繰り返す。どこにも持っていけない両手を握りしめて、サンジが甘えるように擦り寄ってくれば奥歯を噛み締める。名前を呼ばれても返事をせず、強請るよな視線は見て見ぬふり。
「……ぞろ、」
 時折彼が漏らす切なげな声に、額に血管が浮き出るほど息が詰まる。それに気付かないサンジはキスをやめず、再びやんわりと押し付けられる唇。
 
 ——最初は空の上にある島だった。
 その次は新しい船に移って少ししてから。
 二年離れていたこともあって回数はそう多くない。だからか、ゾロはその全部を覚えている。
 
(コイツくらい酔えりゃあおれも気が楽なんだがな)
 残念ながらこの船で一二を争うほどに強靭な肝臓を持ち合わせているため、酔いに任せて記憶を無くすことすらできない。いっそ頭でも打てば、とも思ったが頭まで頑丈なのだ。もうどうしようもない。
「ぞろ、ぞろぉ」
 もしも。
 もしもの話だ。
 本当は、なんだと、どうしたんだと、返事をしてやりたいのだと言えばこの男はどんな顔をするだろう。
 顔を上げた先にいたとはいえ、自分ではなくジンベエを選びそうになったことが気に食わなかったと言えば、どんな顔をするだろう。
「……なぁ、ぞろ」
 もっと、と強請る唇に噛み付いて、酒が染み込んだ舌で口腔内を暴いて、溢れる唾液を一滴残らず舐め取ってやればどんな顔をするだろう。握り締めた拳を開いて抱き締めて、その首筋に吸い付けば。緩んだネクタイを抜き取って、ジャケットもシャツも奪い取って押し倒したら。
「ぞろ」
 こちらの、肥大化する欲望をサンジは知りもしない。
 ただただ酔ってキスしたくなったからしているだけ。ナミが、ゾロにならしていいと言ったから選んだだけ。そこに深い意味も、淡い感情もありはしない。
(勘弁、してくれ……)
 あの鬱蒼とした島での、文字通り血反吐を吐くほどに厳しかった修行のほうがまだ耐えられた。
 
 酔っ払いのキスはまだ終わりそうにない。
 碌に手入れなどしていない刀の切先で心臓を抉られていくような、そんな夜はまだ続くのだ。

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