際限のない幸福をあげよう

「————コック」
 深く寝入った意識の中に聞き慣れた声が落ちてきた。次いで、ぺちぺちと軽く頬を叩かれる。痛くはないが絶妙に睡眠を邪魔してくる力加減。おかげで、夢の中で素敵なレディとお茶をしていたというのにカップの中身が紅茶から仏頂面のマリモに早変わり。ここは狭いと言わんばかりにぴょんぴょん跳ねるから思わず鷲掴みにしてしまった。
「おい。コック」
 男部屋に上下に並んだボンクの一番下。間抜けな形に開いていた口をむにゃむにゃと動かして、サンジはようやっと声の主——ゾロに返事を返した。
「あんだよぉ…………」 
 芯のない声を出しながら目を擦る。体内時計ではまだ朝は程遠い。見張りの時間だって来ていないはず。
「いいから起きろ」
「あぁ……?」
 ゾロも声からは危機感を感じない。それどころか他のボンクで眠っているクルーを起こさないような声量。だからこそサンジはなかなか微睡から抜け出せずにいる。少しばかり甘えているのだ。
 うううん、とまた唸って反対側の目も擦ればゾロは痺れを切らしたのだろう。目を擦る手を奪って、頬や耳に遠慮なく甘噛みをしてきた。がぶがぶ。がじがじ。それはもう遠慮なんてものはなく、痛くて擽ったいったらありゃしない。
「んっ、こら、やめろ、おいっ」
「起きたか」
「ふはっ! ははっ、起こし方もっとあんだろ。くすぐってぇよ、ばか」
 背中を丸めてボンクの中に入り込んでくる顔を力無い手で押し退けて、しかしそのまま若草色の髪の毛を掻き混ぜるようにして撫でた。
「なんだよ、ゾロ。おれァさっき寝たばっかなんだよ。それに、」
 今日はえっちしねェって約束だろ?
「寝込み襲ってんじゃねェぞ、エロマリモ」
「起きて早々それか、エロコック。おれァ一言もそんな話はしてねェぞ」
 他のクルーはぐっすり眠っているとはいえ、後半はぐっと声を潜めて。目の前の獣にだけ伝わるようにひっそりと。
「いいから起きろ」
「あ。もしかしてもう交代の時間か?」
「違ェ」
 ゾロに手を引かれて体を起こして、毛布がなくなると寒いからとちょっとだけ抱きついた。夜の空気の匂いを纏ったゾロの肌も、いつもよりひんやりとしている。
「外寒ィのか?」
「かなり冷え込んできやがった。さっきナミが起きてきて海は心配ねェっつってんだが、ウソップが寒さにやられてんだよ」
「そういうことは早く言えよ!」
 こんなにも呑気にくっついてる場合じゃないではないか。サンジは目を丸くさせて怒鳴る。
「だからさっさと起きろっつってんだろ」
「用件を先に言えってこった! すぐ見張り変わる。ヤベェならチョッパーも起こすか?」
「いや、そういうんじゃねェ。温かいもんでも飲めば落ち着くだろうからなんか作れ」
「あ? あぁ、なんだそういうことか。用意してたホットコーヒーじゃ足りなかったか」
「あれは美味かったから見張りの番が来る前に飲み干したんだとよ」
「あンの長ッ鼻ァ……!」
 ということは、夜食用にと作っていたホットサンドもきっちり食べ切っているのだろう。寒さにやられていてもこれは別腹とでもいうように。長く短い見張りの夜を乗り切るためのものだというのに、まったく。
 ——けれど美味かったから飲み干してしまったなんて、などと言われてしまっては悪い気はしない。ついつい緩んでしまう口元ではうまく怒れなくて「仕方ねェなァ」と寝の足りない体でボンクを出る。
 まだ眠いというのに、と不貞腐れた態度で後頭部を掻いてみたが、ゾロはすべてお見通しだと言わんばかりに鼻を鳴らす。それが気に入らなくて腰のあたりを蹴ってやった。
「なぁゾロ、」
「見張りはおれがやる。ひとりで十分だ。寒ィ以外の問題はねェからな」
「おう。頼んだ」
「ウソップの次はてめェだろ」
「あぁ」
「時間は気にしなくていい」
「ん」
 ならば、少し甘えてウソップの気分が戻るまで一緒にいてやろう。出来ればボンクまで送り届けるのがいいだろう。温かい食事に気が緩んで、うっかり倒れでもしたら大変である。
 何を作ってやろうかと頭の中で今ある食材を思い出していれば、手を引っ張られてくるりと半回転。
「なんだよ」
「着てろ」
 薄いシャツの上に羽織らされた厚手の青のアウターは、つい先日新調したものだ。しかしそれだけでは飽き足らず、アウターに腕を通している間に手袋まで装着。口を挟む暇も与えられずにもこもことした暖かな素材のフードまで被ることになってしまって顔がほとんどが埋もれた。ファスナーも一番上まできっちり閉められて苦しいくらい。
「よし」
「やり過ぎだろ」
 過剰なまでの防寒に、目の前の男はなにやら満足気に右の口角を持ち上げる。
「おれァ今からメシ作るんだぞ」
「だからどうした」
「もこもこして動きにくいんだよ」
「でも外は寒ィ」
「寝る前までそんなに寒くなかったんだから平気だって」
「だめだ」
 いいから着てろと念を押してゾロはさっさと甲板へと出る。サンジも慌ててその背中を追いかけて、——そうして、痛いくらいの寒さに身を震わせた。
「——さっ、寒ィ! つうか痛ェ! なんだよこれ!」
 つい数時間前までの気候とは大違い。こんなに寒いだなんて聞いてない。ひいい、と情けない声をあげるもとびきり冷たい海風に全部攫われて遥か遠くへと消えていく。
「だから言っただろうが」
「なんで平気な顔してんだよ、クソマリモ! つうかてめェのアウターはどうした!」
「ウソップにやった」
「っ、ならさっさと上に戻れ! てめェが風邪ひいたら元も子もねェだろうが!」
「ひくか。おれァ寒くねェ。こんなもん気の持ちようだろ」
「ふっざけんな! 見てるこっちが寒ィんだよ!」
 サンジが叫んだと同時にまた強い風が吹いた。途端にぐんと気温が下がって、耳が痛いどころか千切れそうな寒さに肩を竦めて身を縮こませる。低い音とともに吹き荒ぶ風はゾロにとっても少しは堪えるものだったのだろう。鼻の頭も耳の先も、頬だって瞬く間に真っ赤に染めて、そそくさと展望室へと走っていった。
 ちゃんとウソップの元へと向かった背中を見送ってキッチンへと向かう。風がない分外より幾分がマシに思えるが、それでも寒い。きっと自分もゾロのように鼻先や頬が赤くなっているのだろう。冷やされた肌がジンジンと痒い。
(確かにこりゃあ、暖まるまでアウターは必須だな)
 手袋だけは取っ払って、静かなキッチンに灯を灯した。手の平を擦り合わせる。水にもまだ触っていないというのにもう悴みそうだ。
(とりあえず手っ取り早く体温を上げてやんねェと)
 直にウソップがやって来るだろう。サンジは煙草を咥えて、さっさと野菜やきのこを選んで小鍋に水を注ぐ。すっかり眠気が飛んだ体で包丁を巧みに操って、鼻水を垂らして真っ青な顔をしたウソップがゾロに連れられてきた頃にはすり下ろした生姜たっぷりのスープの出来上がり。
 スープの匂いを嗅いだ瞬間に、ウソップは顔をくしゃくしゃに歪めて泣く。それはもう目が溶けそうな勢いで泣くので、サンジは声をあげて笑った。
「さ、さんじぃ……っ! これ……!」
「ハハッ、泣くんじゃねェよ。いいからさっさと食え」
 いっとう寒い夜にはとびきりのスープを。
 遥か遠くまで航海しても忘れることがない思い出の味を。
「冷めちまうぞ」
「そりゃあ勿体ねェ! おかわり!」
「食ってから言え、バーカ」
 ウソップがスープに飛びついた頃にはゾロはもういない。ウソップに気を遣わせないためか、珍しく扉も静かに閉めたようだ。
(もうちょっと暖まっていきゃあいいものを)
 ひとり、ひっそりと極寒の夜の中へと戻った男のためにもう一品作ることにしよう。今日は特別に追加の酒も持っていこう。あの男の故郷の味ではないけれど、それでもうんと美味しい生姜入りのスープもたっぷりと。
 小振りのフライパンを取ってあの男が好きな食材ばかりを抱え込む。海獣肉は奮発して少し大きなものを選んだ。
「それ食ったら温まったうちにちゃんと寝ろよ」
「おう!」
 すっかり元気になった返事に、サンジは安心したように口元の煙草をぴょこりと揺らした。
 
 
 
 ◾︎
 
 
 
 寒い寒い甲板を走り抜けて展望室に顔を出す。
 すると、狭いそこは熱気が篭っていて、仁王立ちしている男はなぜか上半身裸である。
「なんでだよ!」
 堪らずわっと叫んだ。
 この寒い中。自分は鼻先も耳も頬も赤くして震えているというのに。アウターを着ろと言ったのに。なぜ着ていたものが減っているのか。
「言っただろ。気の持ちようだ」
「体から湯気出るまで筋トレやってただけだろうが、筋肉マリモ。見てるだけで寒いっつってんだろ」
 持ってきていたバスケットは一旦置いて、サンジは展望室の隅っこに乱雑に置かれていたコートを手に取った。なんて勿体無いことを、と埃を払う。
 サンジのものとは違ってもこもこと可愛らしく温かい素材はくっついていないけれど、生地はしっかりと厚く柔らかく、上等な物なのだ。ロング丈で足元までしっかり防寒してくれるというのに、この男が手に取ったせいでなんの役目を果たせていない。
「すぐに体冷えちまうから羽織るだけでも羽織っとけ」
「いらねェ。それよりウソップはどうした」
「だめだ、着ろ。……ウソップなら今頃夢の中だ。スープ三杯飲んでパンまで食ったからな。ありゃあ明日の朝は大寝坊だな」
 先ほどのゾロと同じようにぴしゃりと突っぱねて、仕方がないので汗が滲む肩へと引っ掛けてやる。腕を通せと言っても言うことは聞いてくれないだろうからこのままでいい。暑いとでも言うように顔を歪ませているが、風邪をひかせるわけにもいかない。
 こうなれば奥の手だ、とコートを剥ぎ取ろうとするゾロの手を掴む。
「そういや、お前ワノ国でも着物を肩に引っ掛けてただろ」
「だからどうした」
「おれ、あれ結構好き」
「……」
 ゾロ十郎だった時の装いとはまた違うけれど。でも羽織った外套が風に揺れているのを後ろから見るのは、いい。いつも以上に背中が大きく見えて、自分は、——自分だけはそこに好きに触れられるのだと優越感が膨れ上がる。
「調子のいいこと言いやがって」
「嘘じゃねェし」
「チッ」
 文句は言いたげに。しかし大人しく肩にコートを羽織ったままで床に座ったので頭を撫でて褒めてやりたい気分。けれどそれより夜食である。早く食べないと温めたスープも海獣肉の串焼きも凍ってしまいそうな寒さなのだ。
「いただきます」
「おー」
 礼儀正しい挨拶の後は、今夜も豪快な食いっぷりである。大口で噛みちぎられていく串焼きはあっという間に無くなって、スープだって一滴も残らない。食べるスピードはウソップよりずっと早い。
 口の端や頬にソースが付いているのはお世辞にも行儀がいいとは言えないが、それでも料理人の心は十二分に満たされていく。さっきのウソップの反応も堪らなかったなぁ、と反芻しては煙草を揺らす。
「食うの早ェよ。ちゃんと噛め」
「噛んでる。おいこの肉のやつまた作れ」
「へいへい」
 笑いながら口元を拭ってやって、にんまりと笑って眺めていたらすぐに食事は終わってしまう。あーあもう終わっちまった、とサンジは残念に思いながら簡単に片付けて、用が終わったバスケットを隅へと追いやる。吸っていた煙草は携帯灰皿へと押し潰して、チラリとゾロを見遣った後でのそのそと近付いていく。
「あー、あったけぇ」
 寒かったからちょうどいいぜ。
 言い訳のようにぽそぽそと呟いて、胡座をかくゾロの太腿の上にお邪魔する。真正面からしっかり抱き着いて足だって絡める。
「これくらいの寒さにやられてどうすんだ。軟弱コックめ」
 鼻を鳴らして揶揄ってくるくせに、体温を分け与えるように抱き締めてくる二本の腕は今夜も優しい。
「てめェそれウソップにも言ってみやがれ」
「アイツも修行が足りねェ」
「なら明日一緒に修行でもしてやれよ」
「お。いいな、それ。寒中水泳でもするか」
「やめろ、本気で泣くぞ」
 ゾロ曰く。ウソップは見張りとしてこの展望室にやってきた瞬間からずっと寒い寒い時震えていたらしい。そこまで寒さを感じなかったゾロは首を傾げるばかりで、自分のアウターを渡してみたが状況は一向に良くならない。口数が減ってきたところで、早々にサンジを起こすことに決めたようだ。
「おれを起こすのは別にいいけどよぉ、……お前だって湯くらい沸かせんだろ? やべェ時は勝手になんでも使えよ?」
 例えばどこかの島に降り立った時。サンジがサニー号から離れている間に誰かが料理をした形跡が残っている時がある。それはナミだったり、ウソップだったり。たまにロビンだったり、フランキーだったり。
 数は少ないとはいえ、ゾロだってキッチンを使ったことはある。急に刺身が食いたくなったと、仕込みをするサンジの隣で魚を捌くことだってある。食材の在処だって大まかではあるが把握しているはずだ。
「キッチンを爆破でもしねェ限り勝手に触っても怒らねェからな。急いでんならスープじゃなくて白湯だって、」
 なにもかもを好きにしていい、とは言えない。加減を知らない男たちばかりだから。
 でも、緊急時ですら触ってはいけない場所なのだと思われるのは嫌だった。我が城とはいえ、キッチンは命を繋げていく場所だ。誰にとってもそうであってほしい。
「知ってる。わかってる」
 ゾロは迷いなくひとつ頷いた。
「わかっててお前を起こしたんだよ。言っただろ。そこまでやべェ状況じゃねェって」
 本当に急を要するならまずチョッパーを起こす、と言われてそれもそうかと頷いた。
 サンジの背中をゆったりと撫でる手はアウター越しでも温かく、忘れていた眠気が遠慮なく襲ってくる。サンジは大人しく体のすべてをゾロに預けて、逞しい首筋へと顔を埋める。ほう、と息を吐けば、落ち着いた耳に流れ込んでくる低い声。
「ああいう時は、お前が作ったもんがいいんだよ」
 もうすっかり体に馴染んだ、海の一流コックの味。どんな時でも惜しみなく愛情を注ぎ込んでくれて、尚且つ何も言わなくたって欲しい一品を出してくれる。
「急拵えの白湯を飲むくらいなら、うちの奴らはてめェが起きるのを待つ」
 どうしようもなく腹が減っていても、寒くても、あと少し我慢する。
「例えおれがお前と同じようにスープを作っても、ウソップは泣いて飛びつくことはなかっただろうぜ」
 ゾロは、自分を蔑んで言っているわけじゃない。勿論、意味もなくサンジを持ち上げることだってしない。これ以上でもこれ以下でもない事実を口にしているだけである。
 それがわかっているからこそむず痒くて、擽ったくて。サンジはいっそうゾロの肩口に身を隠す。ぐりぐりと顔をすり寄せて、赤くなっていく耳の先がバレないように手で覆った。
「おれァ寒がってんのがウソップじゃなくてもてめェを起こしたし、おれ以外の奴らも同じことをしたはずだ。わかるだろ?」
 ——……なぁなぁサンジ、とボンクで眠っている自分を起こしてくるクルーの顔はすぐに想像できた。ちょっと困った顔で、申し訳なさそうな顔で。それでもみんなが「あたたかい料理を作ってほしい」と強請ってくる。ひどく寒い夜だから。悪い夢を見てしまうくらい風の音が怖いから。だから、おねがい、と強請ってくる。
 自分は顔をボンクの中から見上げる。寝ぼけ眼のままで、なんて幸せなんだろう、とだらしのない顔で笑うのだ。
「……そ、うかよ」
 想像するのは簡単だからこそいっそう気恥ずかしくなった。うずうずと口元が緩んでしまって、耳の先はいっそう熱くなる。気を抜けば腑抜けた声でへらへらと笑ってしまいそう。
 声ごと全部隠れたつもりだったが、もうとっくにバレてしまっている。くつくつと低く笑う声は鼓膜に優しくない。
「なっ、なんだよ、笑ってんじゃねェぞ……! クソッ!」
「声ひっくり返ってんぞ」
「うるせぇ!」
 てめェが妙なことばかりベラベラ喋るからだろうが、と叫んでみてもゾロには通用しない。寧ろ、ご機嫌に笑うものだからその頬に噛みついてやった。
「なんなんだよ、本当に。寒さにやられたか? マリモのくせに」
「別に。妙でもなんでもねェだろ、こんなもん。——ただ、てめェが作ったもんを喜んで食ってんのを見るのが気に入ってんのは、てめェだけじゃねェってこった」
「あん? どういう意味だよ」
「お。てめェこそ寒さで頭固まってんじゃねェのか、エロコック。……四位」
「ッ、最後のは聞き捨てならねェぞ、コラ!」
 噛みついたばかりの頬をまた抓って引っ張って、怒っているのに合間にキスをして。いつも通りの言い合いと、恋人の温度を混ぜ合わせる。そうすれば寒さなんて何処かへ行ってしまって、二人して顔が火照るほどに温かい。
 互いの手が素肌に触れることを微塵も嫌と思わない。それどころか、どっちが先にその気にさせるかと勝負が始まる。今夜はえっちはしない、なんて約束はとっくに忘れてしまっているようだ。
 ——しかし、
「あら、お邪魔だったかしら?」
 不意にサンジの肩に咲いた花のような手と、手のひらの中心には美しい唇。
「うわあっ!」
 予想だにしなかった声が展望室に混じってサンジはゾロの体の上で飛び跳ねる。バランスを崩してひっくり返りそうになったところを逞しい腕に支えられて、驚きの抜けない体で咄嗟にしがみ付いた。不本意に横抱きになったって構っていられないくらい心臓が大音量で跳ね回っている。
「ごめんなさい。驚かせるつもりも、邪魔するつもりもなかったの」
 肩に咲いた手はすぐに消えて、展望室の床に咲き直す。顔全体は見えないのににっこりと微笑んでいることがそこだけでわかる。
「なら二時間後にまた声かけろ。今からいいとこだ」
「バ……ッ! 馬鹿野郎! てめ、ロビンちゃんになんつうこと言ってんだ!!」
「ゾロ、二時間は長いわ。ちょっと頑張れないかも」
「なに、ロビンちゃん。もしかして、なにかあった……?」
「緊急事態ってわけではないんだけど、」
 ゾロの体を手と足で押しのけて、床に咲いた手のひらへと四つん這いで近付いた。
「少し前からいい匂いがしてて、気になったらすっかり目が覚めて、お腹が空いちゃって」
 ナミと一緒にキッチンまで来ちゃったの。
「私とナミが見張り番交代するから、…………だめ?」
 見えないはずなのに、ロビンが首を傾けて甘えてくるのが想像できた。背後でゾロが渋い顔をしたのにも気付かずに、サンジは意気揚々と手を挙げて鼻息荒く頷いた。
「だめじゃないよ! すぐ作るから! 温かいスープと、あっ、もちろんカロリーも塩分も控えめにするし、それとも二人ともなにかリクエストはあるかい?」
「おれァ酒がいい」
「ばか、黙ってろ! 美容の観点からしてもこんな時間にレディが飲むわけねェだろうが!」
「たまにはお酒もいいわね。今夜はとびきり寒かったから」
「うん! おれもお酒飲むのいいと思ってたよ、さっすがロビンちゃん!」
「おい、クソバカエロコック」
 目にも止まらぬ手のひら返しにゾロが呆れるも、サンジの耳には届かない。それどころかさっさとバスケットを回収して降りる準備は万端である。
「すぐに行くから待っててね、ロビンちゃんっ、ナミさんっ!」
「助かるわ。これ以上寝ぼけて冷蔵庫を漁ろうとするルフィを引き留めておくのは難しかったから」
「〜〜〜〜ッ、あンのクソゴム!! いつの間に目覚めやがった!!」
 ロビンの一言ですっかりスイッチが入ってしまったサンジは展望室から飛び出した。外は相変わらず寒かったがそうは言っていられない。寝ぼけているルフィを止めてくれているロビンに加勢して、それから温かな料理を作らなければ。そうこうしている間に、匂いにつられた他のクルーも起きてくるだろう。
 甲板に降り立ったサンジは一直線にキッチンへと向かおうとして、——しかし、展望室へと逆戻り。空のバスケットは頭の上に乗せたままでひょこりと顔を出す。一人残っていたゾロは、まさかサンジが戻ってくるとは思わなかったのだろう。すっかり油断していた両肩がわずかに跳ねたのを見逃さない。
「なにボーッとしてやがる、クソ剣士」
 さっさと行くぞ、と手招きする。
「酒、飲むんだろ」
「……いいのか?」
「言っとくが、ちょっとだけだぞ!? あとルフィを捕まえるのも手伝え」
 何度もひとりで寒い思いをさせるかよ、とは心の中でだけ呟いた。
 きっとこの男はそんなこと微塵も気にしないだろうから言葉にする必要はない。ただ、自分が連れ出したいだけなのだ。暖かな火が灯るキッチンへと。
 大人しく立ち上がって刀を手に取ったゾロにひっそりと笑って、二人揃って展望室を後にする。寒い、寒くないとケンカをしながらキッチンへと向かう。
 扉を開ければすっかり目が覚めた船長が、大きなたんこぶをこさえてナミに叱られていた。どうにかして冷蔵庫を開けようとするルフィにナミの堪忍袋の尾が切れたらしい。
「ルフィ! あとちょっと大人しくしてろ。暇ならマリモに構ってもらえ」
「ナミ、代わる」
 ルフィの首根っこを掴んでゾロへと放り、ナミとロビンには優雅にリクエストの聞き取り。実は夜中にウソップが寒さでやられて、なんて話をしながら大鍋を取り出して水を注いでコンロに火をつけた。

 リズミカルな包丁の音と、お肉の香ばしい匂い。暖かなキッチンには段々と人が増えて、誰もが外の寒さを忘れていく。
 いつもより早く始まった一日は、今日も騒がしくなりそうだ。
「さぁ、召し上がれ」
 手早く作られたスープを口へと運べば、誰もが皆ホッと息をつく。しかし大人しいのは一瞬で、すぐに肉の取り合いが始まっては料理人に叱られる。
 予想通りに寝坊した狙撃手は朝の挨拶よりも先に「ずりぃぞ、お前ら!」と叫んでは、しかし真夜中のスープの件を突かれて大人しく口を閉じた。
「やっぱ寒い時はサンジのスープが一番だなぁ」
 シシシ、と笑う船長に誰もが頷き、料理人はまた煙草をぴょこりと揺らした。
 その様子を横目で伺っていたゾロは、いっとう美味い酒を遠慮なく煽って、満足気に口元を手の甲で拭った。

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