これを知ってるのはおれだけか。
▪︎
眠っている耳に入ってくる声が騒がしくなって、ゾロは仕方なく瞼を持ち上げた。
そのまま空を見上げればまだ日は暮れておらず、どこからともなく甘い匂いもする。夕飯の匂いではなさそうだ。ならば、そろそろおやつの時間か。
そう感じ取ると途端にぐうと腹が鳴って、飼い慣らされた自分の体にひとつ苦笑いして立ち上がった。
「——ねぇサンジくん本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよナミさん。あぁこんなにもおれのことを心配してくれるなんて! ナミさん心優しき女神だ……!」
「はいはい、大丈夫そうね」
「素っ気ないきみの横顔も素敵だぁああ〜〜!」
「腹減ったぁあああ!」
「うるせェぞ、クソゴム! 今日はナミさんからの大事なリクエストなんだから黙って待ってろ!」
騒がしさの元を辿ればやっぱりキッチンに行き着いた。どうやらおやつの時間は始まっていたらしく、全員が席に着いている。
「何の話してんだ、外までうるせェぞ」
「ゾロ! ゾロも匂いに釣られてきたのか? 今日はクレープパーティなんだぞ! ナミのリクエストなんだ!」
「クレ……? なんだそれ」
「くるくる巻くからクレープなんだ! おれ近くで見たいなぁ」
「?」
興奮気味なチョッパーの言葉に首を傾げながらゾロは自分の席に座った。
なんにせよ、チョッパーが目を輝かせているということは甘いものなのだろうと察する。ならば自分はそれよりも酒のほうが、と考えたところで「クソ剣士! てめェにゃあ抹茶アイス用意してるからそこでジッとしてやがれ!」とキッチンから怒鳴り声が飛んできたので大人しく「おう」とだけ返した。
「おや。今日は言い返さないんですね、ゾロさん」
「あ? そりゃそうだろ」
「ヨホホ! 流石に寝起き早々の喧嘩は避けますか」
「寝起き関係あるか?」
ブルックは呑気に紅茶が入ったカップに口をつけている。
いやいや寝起きであろうとなかろうと今のアイツに口答えは得策じゃねェだろ、とゾロは眉を顰めるも伝わらない。
「クレープ!」
「クレープ! おっいしいクレープ!」
「サンジぃ! おれクレープに綿飴いれたい!」
ルフィとウソップ、それからチョッパーは目を輝かせてテーブルを叩く。
マナーがなってねェとサンジが注意して、わたしがリクエストしたんだからねとナミは呆れて。毎日楽しそうじゃな、とジンベエが朗らかに笑う。
つられるようにロビンとブルックも笑って、フランキーはクレープのために新設した調理器具の調整に忙しい。
よくもまぁおやつひとつでここまで騒がしく出来るな、と頬杖をついた。
ワノ国を出港して数週間。つい先日までの命のやりとりが嘘のように平和な日々が続いていて退屈だったというのもあるのだろう。気持ちはわからなくもないが、ゾロとしては別のことが気がかりで仕方ない。意識せずともキッチンの中にいる背中を目で追いかける。
「なぁサンジ! 作ってるところ見てていいか!?」
「おう。でもウソップ、本当に見るだけだぞ。手は出すな」
「ヤッター! 分かってるってサンジくーん」
「おれも! おれも見る!」
とうとうルフィとウソップが我慢ならずに席を立って、チョッパーもそれに続く。
「フランキー! もう使ってもいいか?」
「アウ! ベストタイミングだぜ!」
「よしきた!」
丸い形をした平らなプレートにサンジがお玉一杯分の生地を流し込む。それを素早く均等の厚さに伸ばし、ひっくり返す。手で持つと一瞬で破れてしまいそうなほどに薄い生地。なのに、火が通るだけで甘い匂いが一段と濃くなった。
「わあ、これだけでもいい匂いね」
「えぇ、とても」
ナミがうっとりと目を閉じている。隣のロビンも口角を緩めたままで頷き、随分と楽しそうだ。
「そうか?」
甘いものが好きではないゾロが素直に返事をすれば、テーブルの下で足を思いっきり踏まれた。「いってェ!」と思い切り顔を歪めるとブルックのツボに入ったらしい。ヨホホ、とまた笑い声が響く。
そうこうしている間にクレープの第一弾が出来上がったようだ。
「ナミさん、ロビンちゃんお待たせ〜〜♡」
キッチンに群がる野郎どもを華麗にくぐり抜けたサンジがクレープを二人に手渡し、恭しく胸に手を当てて一礼。
「心を込めた愛の特製クレープ、どうぞ召し上がれ」
「あら、ありがと」
「いただくわ」
「ずりーぞ! ナミ! ロビン!」
「てめェら分も順番に作るから手ェ出すんじゃねぇぞ、ルフィ!」
ナミのクレープを狙って伸びた手をサンジが足蹴にして、怒鳴りながらキッチンへ戻っていく。
さっきの丸い生地を、どうすれば手に持てるような形になるのだろうかと不思議である。それにクレープの皮に器用に包まれた生クリームも、落ちないベストバランスを保っているフルーツやその他の飾りも、ゾロからすれば未知の領域だ。
しかも乗っかっている苺に関してはご丁寧にもハートになっている。
(理解したところで作れやしねェが)
そもそも作る機会など一生来ないだろう。あの金色の丸い後ろ頭がキッチンでぴょこぴょこと動き回る限りは。
「ん〜〜! 美味しい! やっぱりサンジくんに作ってもらうのが一番ね」
「そうね。この前島で食べたのとは全然違うわ」
「あれ酷かったもんね。ほんっとに今からでもお金返してほしいわ」
高かったのに、とナミの恨み節が止まらない。どうやら前に立ち寄った島でのクレープが気に入らず、サンジに最高のクレープを強請ったらしい。
女性陣の反応に、一番興味津々なのはジンベエだ。そんなにも美味いのか、しかしわしには食べにくいだろうか、などと随分と可愛らしい顔でソワソワしているのが元七武海だということを忘れてしまいそうだ。
「おかわりもあるからね、ナミさーん♡」
「嬉しいけど流石に二つも食べたらカロリーが、……ねぇ? ロビン」
カロリーを気にしているくせに、その目は二つ目を欲している。ロビンもそれに気付いたのだろう。半分ずつしましょう、と大人の微笑み。
「いいの?」
「もちろん。わたしもおかわりが欲しかったの。だって、サンジがビターチョコクリームも用意してるなんて言うから」
「確かにチョコクリームも捨て難いわ」
「んナミさ〜ん! 恋のほろ苦ティラミス風クレープも作れるよぉ〜!」
「やだ選択肢が増えちゃった!」
「ナミィ、おめーがリクエストしたんだからスーパーに全部食っちまえよ!」
「も、もうちょっと猶予をちょうだい! 悩むから!」
ナミが真剣に迷っている間にもサンジはクレープを作り上げていく。
チョッパーたちにはこれでもかと生クリームを絞り、星や動物の形をしたクッキー、バナナなどのフルーツをたっぷり使う。
しかし、そうかと思えば冷蔵庫に走ってチーズやら作り置きのハンバーグを取り出している。新たに焼き上がった生地には、それらをデミグラスソースや葉野菜とともに重ねていく。ルフィの目がキラキラと輝いた。どぱっと涎が溢れている。
「サ、サンジ! それ! おれそれがいい!」
「だと思ったぜ、キャプテン」
「うひょー! うまそ〜〜〜〜!」
おやつのはずが、夕食にしてもおかしくないような組み合わせ。甘そうなクレープの皮に合うのかと眉を寄せたが、そこは心配ないらしい。
「ルフィ! ハンバーグクレープ一口くれよ!」
「いやだね〜〜!」
甘いものを所望したウソップですら匂いに釣られ、涎を垂らして手を伸ばしている。目を輝かせたままのルフィは一目散に外に逃げていく。反対の手にはもちろんおやつに相応しい甘いクレープも握っている。
開け放たれたままの扉の向こうから「うんめェ〜〜〜!」と大絶賛。そこでようやっとサンジの口角が持ち上がったのが見えた。つられるように、安心するように、自分の口元も緩みそうになって慌てて手で隠した。
「ほんと騒がしいんだから」
「楽しいのはいいことよ」
ルフィとウソップ、それからチョッパーが外に出ただけで一気に音が少なくなる。
料理人は今のうちだと作業のスピードを上げる。そして、ナミとロビンには先程よりうんと小さいクレープのおかわりがやって来た。二つ合わせても先ほどのクレープよりサイズも厚みもないだろう。
「クレープの半分こは食べにくいかなって、……これくらいなら大丈夫?」
「ありがとう、サンジくん! ちょうどこれくらいが欲しかったの」
「夕飯はヘルシーなものにするからね」
ナミの、屈託のない年相応の笑顔にサンジの顔も体も蕩けていく。そのくせキッチンに戻れば料理人の顔になるから飽きない。
「フランキー、ちょっとプレートの熱を下げちゃくれねぇか」
「おうよ」
機械のことはフランキーに指示を飛ばして任せる。
ブルック、ゾロの手にも「待たせたな。潰さないように気ィ付けろよ」とクレープが渡され、ジンベエにはケーキが配膳される。
「ジンベエはこっちのほうが食いやすいだろ?」
クレープの生地とクリームが何層にも重なったミルクレープケーキ。粉糖とミントでお化粧されたケーキの周りにはちゃんと飾り切りをされた苺やオレンジが並んでいる。これならば、太い指でクレープを潰してしまう心配はない。
「これを、今作ったのか?」
「最初に作って冷蔵庫で冷やしておいたんだ。熱々の生地を使うと中のクリームが全部解けちまうからな」
「ほお」
「あ、クレープのほうが良かったか? なら今から、」
「いやいや、違う。凄いなと感心しておった。ありがとう、いただきます」
「おう」
新たに加入したクルーからの、新鮮な賛辞は耳に心地いい。
それに、プレートの熱で熱くなったダイニングで食べる抹茶アイスの美味しいこと。クレープの皮も匂いほど甘くはなく、もち、と歯に当たる感触が面白い。
大口で食べ進めたらアイスのすぐ横にはわらび餅が入っていた。まぶされたきな粉の甘みはゾロ好み。
(……うめェ)
少し溶けた抹茶アイスときな粉が混ざると、また味が変わって美味しい。わらび餅単体もいいが、これも気に入った。こうなると、ルフィのチーズハンバーグクレープも食べてみたいものだ。あれも美味いに違いない。
これで全員に行き届き、おかわり用のストックも焼き上がったのでクレープ屋さんは一旦お終いなのだろう。フランキーがプレートのスイッチを切り、サンジはどの部分が水洗いできるのかと尋ねている。話ながらも手元はコーヒーの準備をしている。
あぁちょうどいい、とゾロは大人しくサンジが近くにやってくるのを待つ。
「ほらよ、ゾロ。てめェにはちと甘かっただろ。コーヒーはブラックな」
なんて話すサンジの手首を掴んだ。
勿論、コーヒーを溢すと怒られるのでそこは気をつけて。
そして、
「————で、てめェはさっきからなにを怒ってんだ?」
片方しか見えない目を見上げて、さも当然のようにゾロは聞く。
しかしダイニングは一気に静まって「……あ?」と気が抜けた声が出た。
次いで、キョロキョロと周りを見れば全員クレープやケーキを食べる手を止めて、目が点になっている。なにかおかしいことを言っただろうか。ゾロとしては何気ない質問だったのだが、実は本日の暗黙の了解として触れてはいけないものだったのか。
「……あら」
静かになったダイニングで、最初に声を発したのはロビンだ。
「サンジ、何か怒ってるの?」
その一言にまた気が抜けた声が出た。
触れなかったのではなく、気付いていなかったのかとようやっと知った。
「え、いや、おれは怒ってなんか、」
「何言ってんだ。さっきからずっと不機嫌だろうが」
「っ、おい」
意味がわからない、とでも言うようにゾロが言葉を重ねるとサンジの声が上擦る。そらみろ、やっぱりだ。焦っていると言うことはピンポイントで嫌なところを突かれている証拠。
「サンジくん、もしかしてクレープ面倒だったとか?」
「ちが……! コルァ! クソ剣士! てめェ適当なこと言うんじゃねェよ!」
「アァ!? 適当じゃねェよ! それにてめェだって核心をつかれてるから声荒げてんだろうが!」
「うるせぇ!」
とにかくおれは怒ってねェからな、と嘘を重ねる意味が分からない。
フランキーは「怒ってんのなんざ気付かなかったなァ」とコーラを一気飲みしているし、ブルックは「だから大人しかったんですか」とゾロに感心している。ジンベエに至ってはことの成り行きを見守ろうと静かにケーキを一口。
「ナ、ナミさん、おれ、本当に面倒とか思ってないからね? この人語を理解できない藻が勝手に言ってることだからね?」
ゾロに手首を掴まれたままサンジはナミへの言い訳が止まらない。オロオロと狼狽えては眉を下げて必死である。
すると、
「じゃあもしかして体調が良くないのかしら?」
ほら、昨日から寝てないでしょう?
「寝てない、だと……?」
ロビンの言葉に思わず低い声が出た。
掴んだままの手がビクリと動いて、ナミの方を見たままの横顔には「しまった」と思い切り書かれている。ゾロの声が低くなるような原因を、よく理解しているからこその反応。
嘘に嘘を重ねて不機嫌を隠していた理由は、それかと納得した。
「なんで寝てねェんだ、てめェは」
「……」
「そういえばあの時ゾロさん寝てましたから、知らないんですね」
「サンジったら昨日ルフィが釣り上げた魚をちゃんと図鑑で調べる前に食べちゃったのよ。そうしたら、その魚の身に眠れなくなる微量の毒が入ってたみたいなの」
毒と言っても命に別状はないんだけど。
「ロ、ロビンちゃん……!」
「ほお」
「……ぁ、えっと、おれ、片付けが……」
「待て、このアホコック」
全てロビンにバラされて、居心地が悪そうなサンジが即座に逃げようとするので遠慮なく捕まえた。眠れなくなっている男の体を肩に担いで、同時に立ち上がる。ぎゃあ、と叫んで暴れようとするが力に物を言わせればいい。
「は、離せ! このマリモ! おれは片付けがあんだよ!」
「ちょっと寝かしつけてくる。片付けはあとでコイツがやる」
「寝かし……!? ガキ扱いすんじゃねぇ!」
「うるせぇ! これに関してはガキみてぇなもんだろうが!」
往生際が悪いサンジにゾロは声を荒げる。それほど、寝不足のサンジがどういうものかを知っているからだ。尚も反論しようとするサンジの言葉を奪うように「てめェは、」とさらに腕に力を込めた。
「朝方まで寝かさなかったら次の日眠ィって機嫌悪くなんだろうが! 機嫌最悪のお前に全力で蹴られるこっちの身にもなりやがれ!」
遠慮なく蹴り上げようとする足を押さえつけながら叫ぶように言えば、肩に抱えたサンジの体が熱くなったのを感じた。こちらを振り返ってくる顔はまさに茹でた蛸のようになっている。ぼふっと湯気が出る。
「バッ、お、おま、おまえ……!」
「あ? なんだよ」
何か変なこと言ったか、と首を傾げたがどうにも言葉にならない様子だ。
「ヨホホッ! サンジさんはちゃんと睡眠を取らないとダメなタイプなんですね。それはそれは、お二人にとって夜は短いでしょう」
「ブ、ブルック……! ちが……!」
「そうだ。ある程度は寝る時間を確保しとかねェと今みたいに機嫌悪くなるからな。駄々捏ねて動かねェんだよ、コイツ」
「おいっ」
「じゃあゾロはいつもちゃんと加減をしてるのね」
「あぁ、してる」
「ロビ、ッ、〜〜〜クソマリモ! テメ、もう黙れって……!」
「えらいわね」
「だーっはっは! こりゃあいい! ちゃんと気遣いが出来る優しい男が相手で良かったなァ、サンジ!」
「ッ、フランキー! どこがだ! オロスぞてめェ!」
「褒められてんのか?」
「褒めてるぜ、おめーはイイ漢だ」
「…………これ、わたしはどこからどう突っ込むべき?」
「わ、わしが聞いてもいい話だったか……?」
それぞれの反応をよそに、気付けばサンジはゾロの肩で溶けたようになっている。
骨のない軟体生物のようにべしょりと項垂れていて、小さくしくしく泣く声が聞こえるが、寝かしつけようとしているゾロにはちょうどいい。
よいしょ、と簡単に抱え直す。
「ルフィたちに男部屋には来るなって言っといてくれ」
「スーパー任せとけ」
フランキーの頼もしい応えに感謝を込めて手を上げて、ゾロは大股で男部屋へと向かった。
▪︎
「おれはもうおわりだぁ…………」
「あーもう、うるせぇ」
男部屋に着く頃にはスライムのように溶けてしまった男をボンクに放り込んで薄っぺらな毛布をかぶせた。しかし昼寝の習慣がついていないせいか、魚の毒のせいなのか、めそめそと泣くだけで寝ようとしない。
「いいから一回寝ろ。機嫌直せ、アホ」
「今機嫌が悪ィのはてめェのせいだよ、クソ剣士! あぁ、ナミさんとロビンちゃんに知られた……ジンベエにも……。おれはこの先、生温かい目で見守られるんだ……。ううう、こいつ全然優しくねぇし気遣いもできねぇよぉ……」
「別におれとてめェがナニしてるかなんざ全員知ってんだろうが」
「知られててもあんな風にオープンにされんのは嫌なんだよッ! こっそりしてたいの! おれは! このデリカシーゼロ男め!」
「へぇへぇ、そうかい」
面倒くせェ、と顔に出ていたのだろう。サンジの両手が伸びてきて、両頬を掴まれて左右に引っ張られる。
「いてぇいてぇ」
「もっと痛がれ! アホ!」
「おれはルフィじゃねぇからこれ以上は伸びねェよ」
「千切れろ!」
「鍛えてるから千切れねェ」
眠れない、ではなく、寝ようともしないサンジの目の上に手を置いて、強制的に視界を閉じた。手のひらに当たる睫毛の感触が擽ったい。
「いいから寝ろ」
「だから、寝られねェんだって。……おれだって昨日寝ようとしたんだよ。でもダメだった」
「じゃあなんでおれのところに来なかったんだ」
「……そもそもなんでお前、おれを寝かしつける自信あんだよ」
相手は毒だぞ、毒。
二人きりになったせいか、目の前が暗いせいか。サンジの声が静かになっていく。
こういうちょっとした、普段とは違う空気感をゾロは気に入っている。ボンクの中に収まっているサンジを覗き込むように見下ろして、小さく笑う。
「だって寝るだろ」
「だから、」
「いつも寝てんじゃねぇか」
「……」
「最初は寝なかったくせになァ」
「い、いつの話してんだよ……っ」
「さァな」
じわ、と手のひらに伝わる温度が上がる。
いつの話かなんて聞かなくても自分で分かっているだろう。
関係を持ってすぐは、てめェが寝るまでおれは寝ねェ、なんて言ってこの男はいつも乱れたベッドを抜け出していた。少し離れたところで煙草を吸って、ゾロが寝息を立てると戻ってくる。鬱陶しいくらいに寝たかどうかを確認して、それからようやっと隣で寝始めるのだ。
こっそりと目を覚まして寝顔を覗き込めば、あまりにも幸せそうに頬を緩めてくっついてきているものだから、——だったら初めから一緒に寝ればいいだろうが、と何度取っ組み合いの喧嘩をしたことか。
「……なぁゾロ」
「なんだ」
「そっちがいい」
「あ?」
まだ眠らないサンジの右手がボンクの外を指差す。
それ以上は何も言わなかったが、ゾロはサンジから手を離した。黙って、少し顔を俯けたサンジがボンクから出る。ゾロが壁に背を預けてしゃがみ込むと、毛布を引き摺りながら足の間に入り込んでくる。
てっきり膝枕でもご所望しているのかと思ったが、どうやら寝不足の頭が「不機嫌モード」から「甘えん坊モード」に切り替わったらしい。
「それ、おれのだろうが」
「うるせ」
いつも臭いだなんだと文句を言うくせに、迷わずゾロの毛布を掴んで持ってくるからつい意地悪を言いたくなる。的確に加虐心を煽ってくる男だ。これで自覚がないからタチが悪い。
体に引っ掛けるだけだった毛布でサンジの身体を包む。さらにその上から自分の腕と足で囲った。せまい、あちぃ、かたい、と文句を言うくせに擦り寄ってくるのでこれで正解なのだろう。
(ちっせぇ)
相変わらず、小さく丸くなるのが得意な男だ。
背丈はゾロと変わらず、華奢でも貧相でもない。けれど、体の柔らかさと筋肉のつき方が圧倒的に自分とは違うのだと、こういうときに思い知る。
もしくは、——小さく丸くなって眠ることが昔から多かったのだろうか。
「ゾロ」
他所ごとを考えていたことを悟られたのかと思うタイミングで名前を呼ばれる。心臓が僅かに跳ねた。
首筋に擦り寄ったままのサンジの顔が僅かに上を向く。
「眠くなってきたか?」
「いや、」
もご、と口元が動いて言葉が滲んでいく。
何かを言いたそうにしていて、ゾロは短く声を上げた。
「コック」
長い前髪を優しく払う。
露わになった額に唇を寄せて、うっすらと赤いままの耳を親指で撫でる。ふ、と吐き出された息が存外熱くて引きずられそうになったけれどぐっと堪えた。ここで襲ってしまっては本末転倒である。
「ちゃんと起こしてやるからメシの心配はすんな」
「うん」
海の匂いと、煙草の匂い。うっすらと残る甘さはおやつの時間の余韻だろうか。
顔を擦り寄せれば、サンジに下唇を噛まれた。油断してんなよ、と悪戯に笑う顔は少し眠そうだ。お返しに鼻先に噛みついて、その後で唇もちゃんといただいた。
「……あ、」
キスの後で、ふと気付く。
「ん?」
自分の薄っぺらな毛布に包まれた海と煙草と、ほんのりと甘い匂いがする男。
(……クレープ)
ついさっき食べたばかりのおやつを思い出したといえば、サンジは笑うだろうか。
「なんだよ」
「なんでもねぇよ」
コックはもっと綺麗に巻いていたな、と気になって毛布の形を微調整して、納得したあとで鼻をフンッと鳴らした。初心者にして上出来だろう。何もわかっていないサンジは首を傾げているが、あやすようにポンポンと体を叩いて誤魔化した。
そのうちサンジの体の力が抜けて、ちくしょう、と吐き出した声に芯がなくなる。
「眠いのか」
「くそっ」
「いいからちょっと寝ろ」
まだ一日は長いのだから。
「毒にも勝つのかよ、てめーは」
「おれは強いからな」
抱える腕に力を込める。いっそう密着度が増して、このままゾロも眠れそうだ。
「……」
「……」
男部屋の向こう側で、クルーの声がする。
賑やかで、楽しそうで、それぞれがひとつの船の上で自由に生きていて。そんな声は聞いていて心地がいい。走り回る足音も、穏やかな波の音も、嫌いじゃない。
そうか、今は仲間全員がこの船の上にいるのか、とふと思った。
乗り越えてきた戦場を思い返せばそれは奇跡のような出来事で、知らず、クルーの呼吸を確認するように気配を追う。
あぁやっぱり全員いる。意識がそちらに集中して、口元が緩んだ。
けれど、
「——すきだぜ」
甘え下手な男が、不意に全てを預けるように甘えた声を出すものだから。
「ッ、」
全神経が腕の中に集中して、眠気なんてものが一気に飛んでいってしまう。そのくせ、目が覚めた自分を放っていくようにサンジは眠ってしまっているのだ。
「…………てめェ、覚えてろよ」
毒には勝ったのに、恋人には完敗である。
これはルフィにすら言えない大敗だと、壁に後頭部を軽く打ち付けた。
たった四文字で踊らされた心ではもう昼寝はできない。弄ばれたままで寝顔を見守っていなければいけない。
けれど、そういうところが堪らなく好きで、欲しくなるのだと、奥歯を噛んで渋い顔をした。
「————……ゾロ」
ふわ、と床に花が咲く。
綺麗に手入れされた手のひらには口があり、それが自分の名前を呼んだのだ。
「サンジは眠れたかしら」
「あぁ」
「そう、よかった。……でも、」
「分かってる。起こす」
「お願いね」
手のひらにあるのが、眼ではなく口だけで良かったと心の底から思う。
ロビンの気配が消えた後で腕の中で眠るサンジの顔を覗き込む。ゾロが動いたことで、んん、と唸っているがすぐに穏やかな寝息に戻る。
相変わらず幸せそうな、だらしなく、油断しきった寝顔。
「……」
遠慮なく言い合って、刀を抜いて喧嘩して。
蹴られて、殴って、噛みついて、また言い合って、抱き合って、——……そうやって二人の日々を重ねてようやっと手に入れた寝顔。
これも戻ってきたのだな、と実感するともうだめだった。
「おい、コック」
一言呼べば、サンジの瞼がピクリと揺れる。
ゆっくりと瞼が開いて、微睡の中にいる海の色をした瞳と目が合った。
「ぞろ」
へらりと、ゾロに包み込まれたままの寝惚けた男が笑う。まだ眠そうな瞳が影の奥でゆらゆら揺れる。
決して弱くなく、機転が効き、きっとひとりでだって生きていく術を持つうんと優しい男が、それでもこうやって自分の腕の中を選んで笑っている。
誰にも見せたことがないだろう顔で、笑っている。
——そうか。
これを知ってるのはおれだけか。
意識のない体を預けることを、お互いがお互いに許している。だからこそ眠れない日もあっただろうと思うと、心の奥底がギジリと軋んだ。
「ここにいろ」
愛だの恋だの、そんな可愛らしい言葉では言い表せないほどの欲を、余すことなくサンジに押し付ける。一寸だって落としてくれるなとしっかりと。
まだ正常に機能していない頭でそれを受け取り、——しかしすぐに真意に気づいた男が意地悪に口角を持ち上げる。
「……んだよ、それ。珍しい」
お前、寝惚けてんの?
「寝てねぇよ、てめェのせいでな」
「へぇ、そうかい。そりゃあ知らなかった」
「わざとだろうが」
「何のことだか」
茶化すように言うくせに、首に腕を回してキスをひとつ。ふふん、と笑う声は子どものよう。
すっかりと機嫌が治った両手で、遠慮なく髪を混ぜるように撫でられた。
「よく眠れたか」
「おう。おはよう、クソマリモ」
▪︎
「さっぱり分かんない」
「……なにがだ」
眠れなくなる毒があった魚はきっちりと火を通され、煮付けとしてゾロのつまみになっている。図鑑を広げて説明されてもよく分からなかったのだが、とにかく背鰭に一本黄色の線が入っているかどうかで魚の名前が変わるらしい。そして火を通せば毒は消えるらしい。
箸で触れればふんわりとほぐれる身は、毒があったとは思えないほどに美味しい。鼻から抜ける生姜の香りに酒が進んだ。
「サンジくんよ。昼間と今じゃ何が違うって言うのよ」
「蒸し返すのかよ、それ」
「だって気になるし」
ナミがグラスを持ち上げて、ウイスキーを揺らす。氷がグラスに当たって涼やかな音が響いた。そのグラスの隣にはナミ専用のつまみが置かれている。今夜は、味噌漬けにしたサーモンを炙ったものがクラッカーの上に乗っていた。仄かにチーズの匂いもして、これも美味そうだ。
ダイニングにはナミとゾロしかいない。キッチンの主であるサンジは、今夜の船番であるウソップのところに行っている。昼間にどうしても食べたいと言っていたチーズハンバーグクレープを持って。
「あれは本当にただ眠かっただけだ。クレープがどうとか関係ねェよ」
きっとナミは気にしているのだろう。口にしないだけで、本当はクレープが面倒だったのではないかと。存外そういう細かいところを気にするのだ。だからこそゾロは分かりやすく答えを提示してやる。
けれど。
「それはわかってるわよ」
「アァ?」
そんな話はしてないわよ、と冷たく一刀両断である。
「例えサンジくんが四十度の熱があって怪我して骨が折れててもわたしがお願いしたことに嫌な顔するわけないじゃない」
「……」
これだけを聞くと高飛車な嫌な女に思えるのに、相手がサンジであるというだけでついうっかり納得してしまうほどの説得力。満身創痍の青白い顔で、しかし元気にクレープ用意しようとしてチョッパーに本気で怒られているところまで想像ができる。箸を止めて、ゾロは左手で頭を抱えた。
「…………アイツ、アホだな」
「想像で暴言吐かないの。流石に可哀想だから」
ウイスキーを一口飲んで、——でも、だからよ、と言葉が続く。
「少しくらい片鱗を感じ取れたら、気付いてあげられたらって思うじゃない」
「……」
自分が知らないサンジの顔を、お菓子だらけの島で見てきたのだろうなと想像がついた。大まかなことは聞いてはいるが、所詮ゾロの想像でしかない。その時その場での現実を知っているのは船内でも一握り。何もかもを知っているのは船長だけだ。
不貞腐れるようにテーブルに突っ伏したナミの旋毛を見下ろして、煮付けを食らう。
「無理だな」
「っ、うるさいわね。どうせ気が利かない女よ」
「んなことは言ってねェだろうが。ただ、アイツ相手にゃ無理だって言ってんだ。自分のキャパを超えてぶっ倒れねェ限り隠すからな」
「でもあんたは気付くんでしょ?」
「そりゃあ、まぁ……」
「え、愛の力とか言うの? ゾロが? ちょっと待って、トーンダイアル持ってくるから。録音してロビンに聞かせなきゃ」
「どこに食いついてんだ、お前は」
それに誰が言うか、そんなこと。
言ってもいないのに勝手に妄想されてしまっては気恥ずかしい。背中が痒いような、なんとも居心地が悪い気分になって酒を煽った。グラスの中は空っぽになって酒瓶を傾ける。早いものでこれが最後の一杯になりそうだ。
「おもしろくなーい。じゃあ何よ」
「あー、…………年季だ」
「年季ぃ?」
考えて絞り出した答えにナミは不満げな表情を浮かべる。
サンジと出会ってからの年季で言えば二人はほとんど変わらない。ナミが正式に船に乗ったのは確かにサンジのあとだが、初対面は海上レストランバラティエ≠ネのだから。
「不満かよ」
「うん、不満」
もう一声、と元気いっぱいの人差し指が飛んでくる。
そうかい、と適当に流してしまってもよかったのだが、——昼間、恋人に甘えてもらえたおかげで今夜は気分がいい。もう少し付き合ってやっても構わない。
「……たぶん、おれはお前の故郷の村からだ」
どう話そうかと逡巡して、ココヤシ村の名前を出した。
きょとん、と目を丸くしたナミが小首を傾げる。
「? なんの話よ」
「おれがアイツを見てるって話だ」
「…………うそ」
「嘘は言わねェ。まぁ自覚したのはもうちょい後だが、たいして変わんねェだろ」
だから。
「――だから言っただろ、年季が違うんだよ。今更他の奴らにあっさり気付かれて持っていかれちゃあ面白くねェ」
あれは、おれのだ。
最後の言葉に力を込めて、ちょっとだって目を逸らさない。
まるで宣戦布告をするように言えば、ナミの目が見開いて、それから呆れたように半眼になる。そのくせうっすらと頬が赤いので、身内の恋愛話に少し照れはじめたのだろう。無闇矢鱈と首を突っ込んでくるからだ、と鼻で笑ってやる。
「あんたって、本当にサンジくん好きなのね」
「うるせ」
「あーあ、胸焼けしそう」
「ウイスキーでか?」
「惚気話でよ、バカ」
——……でもちょっと安心したわ。
出会った頃よりずっと艶っぽくなった唇が綺麗に弧を描く。
「安心?」
「ほら、ゾロってそういうことは口にしなさそうだし、ムードとか関係なさそうだし、剣のことしか頭にないし、寝てばっかだし、すぐ迷子になるし」
「おい」
「サンジくんはサンジくんで女の人に目がなくて、……というより、そこしか分からなくてあんたとのレンアイってやつがうまく結びつかないのよ。そうでなくても普段は喧嘩ばっかりだし。――……上手くやってんのかしらって思う時だってあるの」
「余計なお世話だ。心配いらねェよ」
「そうみたい」
ウイスキーの最後の一口を流し込む。
タイミングを見計らったようにダイニングの扉が開いてサンジが戻ってきた。
「うあー、寒い寒い。夜になったら急に冷えてきやがる」
ひゅう、と入ってきた外の空気が冷たくて、惚気話とやらで茹っていた頭がクリアになっていく。よくよく考えてみれば恥ずかしいことを言ってしまったが、まぁいい。気分がいいのは変わらない。
「雪降ってる?」
「そこまでは冷え込んでないよ。でも寝る時は暖かくしてね、ナミさん」
「ありがと」
ナミが立ち上がれば、もう寝ちゃうの、とサンジの眉が下がる。
あわよくば一緒に飲もうと思っていたのだろう。さみしい、と分かりやすく顔に書いている。しかしそれをナミは一蹴してお終い。
「残念でした。もうお腹も胸もいっぱいなのよ。ご馳走様」
「えっ、胸!?」
「バカ」
「くっだらねェとこに反応してんじゃねェよ、エロコック」
「ナミさんの胸はくだらなくないだろうが!」
「そこじゃねェよ!」
「はいはい、夜中に喧嘩しない。みんな寝てるんだから。お酒飲むのもいいけど、サンジくんも今日は早く寝なさいよ」
「はぁい、ナミさん」
空になったお皿とグラスは元気なお返事とともにサンジが回収していく。
ゾロの前には、まだ気持ち程度の酒とつまみが残っている。二人で飲む約束をしていたのか、ただゾロが忠犬の如く待っていただけなのか。それはナミにはわからない。
けれど、返事のわりに早く眠ることはないのだろうと分かってしまって、困ったように笑う。
「ゾロ、サンジくん」
ダイニングを出ていく手前。
顔だけで振り返って、ヒラリと手を振った。
「ごちそうさま」
きっと寒い夜に二人で同じ毛布に包まるのはさぞ暖かいのだろうな、と。
ちょっとだけ人肌恋しくなった腕を摩って、ロビンが眠るベッドへと急いだ。