ナラタージュ

 ——拝啓、カヤ。

 元気にしてるか? そっちは寒くないか?出来れば元気で笑っていてくれたらと願うばかりだ。
 こっちは毎日季節が変わるような海の上で、それでも元気にやってるぜ。気の良い仲間たちも全員揃って船の上にいる。今日も今日とて騒がしくていけねぇや。
 でもよォ。
「おい、ウソップ」
 ちょうど今目の前に地獄を統べる王みたいな顔した奴がいるもんで。
「今の話もうちょっと詳しく聞かせろ」


 この窮地を乗り越えてまた強い男になれたなら、夢に出てきて褒めてくれやしないか?



 ▼



 ことの発端は二年の年月を遡る。

 あれは、ドラム王国で船医が増え、数時間だけ立ち寄った小さな小さな島でのこと。
「あまり治安は良くなさそうね」
「えぇ」
 溜息と共にナミの口から出た言葉に、ビビが頷き、ルフィは極端に落ち込んだ。残念ながら冒険はできそうにないのだ。
 船をつけた港にいる人間はみな顔つきも目つきも悪く、もれなく全員が賞金稼ぎのような印象。其処彼処に武器があり、喧嘩ならいつでも買ってくれそうだ。何故か同じように交戦的な姿勢になる剣士と料理人を懸命に宥めて、ナミが「必要最低限の物資補給だけするわよ」と手を叩いた。
 食材、薬、包帯。あれば、船を直すための木材や鉄も。それらを短時間で買い込み、終われば即座に帰船する。
 揉め事は起こさない。喧嘩は買わない。何にも首を突っ込まない、刀を抜かない、ナンパしない。なにかあれば即出航。それがナミが提示した船を降りる条件。
「だったらおれは昼寝でもしてる。用事もねェしな」
「そうしてちょうだい。サンジくん、食材の買い出しならどれくらいで戻ってこられる?」
「市場の品揃えにもよるが、一時間あればどうにか」
「よし、じゃあそれで。ルフィ! 私とチョッパーの買い出しに付き合って! ウソップはサンジくんの手伝い! ビビとカルーはゾロと一緒に船にいて」
 アラバスタはもうすぐそこ。こんなところで有象無象に絡まれてビビになにかあっては困る。その意図を汲んだのだろう。ビビは二つ返事で頷いた。
「いーい!? 全員絶対に揉め事は禁止!」
 はぁーい、と元気のいいお返事がまだ冬島の空気を残す空に響いた。



 ————しかし、そのたった二十分後。名前も知らない男に銃口を眉間に押し当てられ、白目を剥いて失神するなど思ってもみなかった。
 しかも意識を取り戻した時には後手に縄で縛られ、やたらと埃っぽい倉庫のような部屋に転がされていたのだ。埃のせいで鼻がムズムズして、くしゃみで目が覚めた。コンクリート打ちっぱなしだからかよく響く。
「おう、起きたか」
 どうにか頭だけを持ち上げて辺りを見渡せば、直ぐ隣にサンジがいた。胡座をかき、喚くことも慌てることもなく相変わらずのスカした顔。自分が言うのもなんだが、捕まっている自覚はあるのだろうか。
 けれど、それは別として聞き慣れた声がするだけでひどく安心して涙が溢れた。
「サンジぃ!」
「シッ! 大きい声出すんじゃねェよ、バカ」
「うぐ」
 目を凝らしていれば段々と暗がりにも慣れてきて、転がっている自分の顔を踏んづけてきたのは彼の足だと分かる。サンジも後手に縛られているだけだ。
 ホッと胸を撫で下ろした。よかった。この男の手を縛っても意味がないと言うことを、自分達を連れ去った男どもは知らないのだ。
「なぁ、サンジ。アイツら一体なんなんだ? おれらを見た瞬間に銃向けてきやがって」
「この辺一体を縄張りにしてる山賊だとよ。おれたちが入ったあの店がそいつら御用達の店だったんだ」
 つまり山賊からすれば「悪い海賊が食い物を奪いにきた」と。あまりにも勝手な言い分にウソップは目を剥く。
「誰でも入っていい普通の店だったろ!? 言いがかりじゃねぇか!」
「だな。でもまぁナミさんたちは捕まってないらしい。あの店に入ったおれたちだけがここにいる」
「そうか。じゃあ良かった。……いやよくねェけどな!? 助けてくれよぉ!」
「だから黙ってろ!」
 自分たちだけが捕まっているのであれば、ここをこっそりと抜け出し合流すれば話は丸く収まる。問題はどうやって合流するかだ。この長年使われていないような、薄暗い部屋から抜け出す手立ては——……。
「逃げ道ならあるから安心しろ。窓もあるし、荷物で見えねェだろうが裏口もあった。鍵は扉ごと壊しゃいい」
 必死に頭を回転させていたことはすっかりお見通しらしい。
 ならば、今が脱出のチャンスなのではないだろうか。監視役はおらず、ウソップの目も覚めたのだ。縄は後でどうにかすればいい。立てさえすれば走れる。
「そ、そうか。じゃあ誰もいないうちにコッソリと、」
「ダメだ。リーダーの野郎が戻ってくんだよ」
「えっ」
「足音がもうこっちに向いてるな」
「そ、そんな、じゃあもう蹴り飛ばしちまえよ!」
「ナミさんから揉め事は禁止だって言われてんだろ。それに流石に数が多すぎる。縄は千切れてもお前と買い出しの荷物を抱えて走るには分が悪ィ」
「買った食材は諦めろよ! まだ少ししか買ってなかっただろ!?」
「それは無理だ」
 やっぱり表情のひとつも変えずにサンジは続ける。
 曰く。もうすぐナミと約束した一時間が来る。出来ればことを荒立てず、ひっそりこっそりと山賊の縄張りから抜け出し、時間内に船に辿り着きたい。
「無茶言うなよぉ……」
 えぐ、と涙と鼻水と恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
 これが自分ではなくルフィやゾロなら正面突破するのだろう。ナミやビビならサンジと一緒に上手く敵を欺くのだろう。チョッパーならきっと誰にも追いつけない速度で走るのだ。
 自分は、そのどれも出来そうにない。
「——いいか、ウソップ」
 ゴツ、ゴツン、ゴツ。
 重たいブーツの音が確かにこっちに来ている。恐怖からか、普段よりも耳がよく思えた。そのせいで、少し切羽詰まったような、——躊躇しているようなサンジの声色も感じ取れてしまった。
「サンジ……?」
 ぞわり、と心臓の裏側を虫が這っているような心地。
「お前は気絶してるふりしてろ。目を閉じて、声を出すな。できれば余所事でも考えていてくれ」
 どうして、なんて聞く暇はなかった。サンジが「いいな?」と言ったと同時に、不快な金属音を立てながら扉が開いたのだ。カンテラを持って入ってきた男がこちらに視線を向ける前に、ウソップは目を閉じて気絶したふりに徹する。
「お前が言った通り、邪魔者は外に出してやったぞ」
 カンテラがゆらゆらと揺れる音。随分古いものを使っているのだろう。錆びた音が混じっている。
「そんなにおれと二人になりたかったのかよ。案外可愛いとこあんじゃねェか」
「誘ったのはお前だ」
「違ェねえ」
 自分の身を守るように丸まって転がっているせいか、男の声が随分と上から降ってくるように感じた。一歩一歩を踏み締める音も重い。自分やサンジとは比べ物にならないほど、恰幅がいい男のようだ。
 古いカンテラを木箱の上に置き、男がサンジに近付いていく。橙色の暖かみがある光は、三人の影を大きく伸ばした。
 サンジは一体どうするつもりなのかと、オーバーワーク気味の心臓が悲鳴をあげている。この音が聞こえてるんじゃないかと気が気じゃない。
(サシで勝負でもするつもりか……!?)
 彼の強靭な足ならば、男を蹴り飛ばすくらいわけないだろう。しかしそれでは外にいるであろう部下が突入してきて騒動になるから意味がない。そもそもやっぱり、何事もなくここから抜け出すなど不可能なのだ。
 再び頭が沸騰しそうなほどにぐるぐると考えて、——しかし、
「敵地のど真ん中でおれを誘うとはいい度胸をしている」
 サンジの目の前に膝をついた男が随分と色のある声を出すものだから、思わず目を開けてしまった。男はサンジのことしか見ておらず助かった。今度は注意深く、薄く薄く瞼を持ち上げる。
「好奇心旺盛なんでね」
 あの中ならあんたが一番ヨさそうだったからな。
「ハッハッハ! いい眼をしてる。海でコックやってるからか? 確かにおれが一番いいモノ持ってるぜ」
「ハッタリだったらオロすぞ」
「おー、怖ェ。嘘は言わねェよ。まァじっくり味わわせてやる」
「お手柔らかに頼むぜ? ずっと船の上だったからな、……ご無沙汰なんだ」
 けらけらと軽薄に笑いながら、囁くように言葉を交わして、この二人は一体何の話をしているのか。サンジの頬に手を添えて、男が今から何をしようとしているのか。
(ぇ、う、うそ、うそだろ、サンジ……ッ!?)
 普段、ナミやビビに鼻の下を伸ばしてハートを撒き散らしてくるくる回っている男と同一人物とは思えなかった。ただただ静かに言葉を重ねていく。男の欲を掻き立てるように、興奮を煽るように。
「この金髪は地毛か?」
「自分の目で確かめりゃいい」
「……場所移すか? そろそろお仲間さんの目も覚めるだろうからな。邪魔はされたくねェ。おれの部屋に来いよ」
 ハッ、とサンジが鼻で笑う。
 カンテラの光で輪郭が淡くぼやけた金色の頭を、自ら男の顔に寄せている。女のように紅をひいているわけでもない薄い唇が、小汚い山賊の耳元へ。
「腑抜けたこと言ってんじゃねェよ。おれは、」
 ここであんたとヤるほうがスリルがあって興奮する。
「恥ずかしいとこ見られんの、好き」
「——いい趣味してるなァ、気に入った」
 サンジの言葉は、まるで自分の耳元で囁かれたかのように頭に入ってくる。少し掠れた低い声が、心の敏感な部分を悪戯にくすぐっていく。ドッ、と深い音を立てた心臓の音は今までの恐怖のそれとは違う気がした。
 知ってはいけない部分を知ってしまった後ろめたさから、ウソップは硬く瞼を閉じる。
 男の中のスイッチも、今の言葉で完全に切り替わったらしい。ドサッと音がしたと思えば「手がいてぇよ」とサンジの苦い声がしたので押し倒されたのだろう。
(え、ちょっと、待て、お前どこまでヤるつもりだよ……!?)
 なんだか開けてはいけない扉をついうっかりノックしてしまいそうなので、そろそろどうにかして欲しい。というよりこのまま最後まで致すのだけはやめてほしい。
 だが、ウソップの嘆きをよそに男は好き勝手サンジの体に触れているのだろう。生々しい衣擦れの音が埃っぽいだけの部屋に響く。時々サンジの乱れた呼吸が聞こえてくるともうダメだった。今すぐに床に頭を打ち付けて気を失ってしまいたくなる。
「いい体だ。海賊ってのはもっと小汚いかと思ってたぜ」
 男は随分とご満悦なのだろう。重そうなコートを脱ぎ捨てて、身軽になった体でサンジの上に覆いかぶさっている。
「ちゃんとお世辞も言えるところは褒めてやるよ」
「世辞じゃねェよ。このまま海賊にしておくには勿体無い」
「なんだよ、言いたいことはハッキリ言うほうがモテるぜ?」
「ハッキリ言うのは、お前と繋がってからにしようじゃないか。そのほうがイイに決まってる」
「はは……! 山賊ってのはもっと野蛮なクソ野郎かと思ってたよ。あんたみたいなロマンチストもいるんだな」
 満更でもないと言うようにご機嫌に、そして甘ったるくサンジが男の体に自由な足を絡めた。
「——……もっと、こっち来てくれよ」
 二人の距離を無くすように男を引き寄せて、強請って、腰を揺する。
「いい足だ」
 スーツがよく似合う、スラリとしたボディライン。堪能するように太ももを男が撫でる。
「そうだろ?」
 ニィ、とサンジの口角が上がったのが、見てなくてもわかった。
 そして。
「自慢の足なんだ」
 甘く絡めていたはずの足が、一瞬でこれ以上ない武器になる。ずっと邪魔だった重いコートを剥いだ、薄いシャツ一枚の体を一気に締め上げる。
「————ッガ、ァ、!」
 一ミリの遠慮もない締め技は男の呼吸を奪って血管を圧迫し、酸欠状態になった体の骨を軋ませる。ミシ、ギシ、ゴキン、と重い音がするだけでウソップは身体中が痛くなる心地だ。それでも足の力は抜かない。いっそ強くなっていっているのだろう。どうにか抵抗しようとサンジの顔を殴っている拳は、もう力が入っていないようだ。
 そのうち男はガクガクと痙攣した後で全身を弛緩させて、泡を吹いて白目を剥いた。
「重てェんだよ、クソ野郎」
 伸し掛かるように倒れてきた男を足蹴にして、サンジはさっさと立ち上がる。ブチ、と重い音がしたと思えば、自由になった両手で早速煙草に火をつけている。そしてウソップの顔の前にしゃがみ込み、スーツのジャケットごと袖を捲った。
「見ろ、ウソップ。すげー鳥肌」
「いやお前、全部演技かよ!」
「演技に決まってんだろうがオロすぞクソッ鼻ァ!」
 があ、と大口を開けて怒鳴る料理人は見慣れた顔に戻っている。
(だ、だまされる! あれは騙される……!)
 悪い男がいたもんだ、と戦慄いた。
 野郎相手に心が靡いたことがない自分でも、うっかり新しい扉をノックしかけたのだ。すっかりサンジを手篭めにできると思っていたのに泡を吹いて失神する羽目になった山賊のリーダーに心の中で合掌して、どうにか立ち上がる。サンジは部屋の荷物を豪快に投げては捨て、隠れていた裏口の扉を蹴り飛ばした。
 そしてウソップの縄を解き、部屋の隅に投げ捨てられていた食材を拾って紙袋に詰め直す。
「よし! ウソップ走るぞ、急げ!」
「おれのことも抱えてサンジくぅーん!」
「気持ち悪ィ声出してんじゃねェよ! おれが抱えるのはレディだけだ!」
 チョッパーに及ばずとも、逃げることに関しては自信がある足でひたすら山道を下っていく。道なき道。獣道。邪魔な木の枝は二人の服と肌を傷つける。それでも足を止めることは許されない。
「誰も追ってきてなさそうだな」
 リーダーがやられて逃げられていると言うのに、部下の一人も追いかけてこない。いや、気づいていないのだろうか。
「あー、アイツに人払いするように言ったからなぁ」
 長い前髪の奥で、サンジが苦く笑っている。
 自分が呑気に気を失っている間に、サンジは腹を括っていたのだ。ナミのいいつけを守り、ウソップを守り、買った食材を無駄にしないために。目が覚めてからずっと表情を崩さない隣の男が頼もしくもあり、——ちょっとだけ寂しくもなった。
「……なぁサンジ」
「あ? なんだよ前見て走れよ」
 助けてくれ、なんて目覚めて早々に情けないことを言っておきながら、胸の奥にモヤモヤとしたものが残る。これはきっと自分のどうしようもない我儘で、取るに足りない程度の矜持。
「ありがとよ。正直助かった。でも、もう二度とあんなことすんなよ」
 一歩間違えば、命を失うよりも屈辱的なことになっていたのだ。
 それなのに。
「そうなっても、別に大したことじゃねェって」
 困ったように眉を下げて笑う顔に、平坦なままの声色に、どうしようもなく心臓が痛くなって泣きたくなった。
「大したことだろ!? こ、今度、こんどは、おっ、おれも一緒に、そうだ援護なら、」
「あっ」
 援護なら任せろ、と格好良くポーズまで決めるつもりだったのに。
 決め台詞と、太い木の枝に顔面がめり込むのが同時になってしまった。げふっと情けない悲鳴と共にバランスを失った体が山道を転げていく。それはもう命の終わりを感じるスピードで。遠心力で涙度鼻水が飛んでいき、体が悲鳴を追い越していく。そうして山道終わりの壁に激突するまで転がり続けた。
「おい大丈夫か、ウソップ……!」
「お、おおう、なんとか、な…………」
 山賊にすら殴られなかったのに顔面血まみれ、満身創痍である。骨折しなかっただけ御の字だ。
「——はっ、ははっ! おまえ、すげー顔して、ふ、ははっ!!」
 ひくひくと体を震わせるウソップに、サンジが堪えきれないといった風に笑う。ケタケタと。腹を抱えて、大口を開けて。それはもうすっかり麦わらの一味のコックの顔。生意気な十九歳の笑い顔。
「……」
 カンテラとは比べ物にならないほどに強烈な太陽の光が降り注ぐ。それを受けて煌めく金色の眩しいこと。あぁこの男は太陽がよく似合うなぁと満身創痍で呑気に見上げた。太陽と海と風と、そういうのがよく似合う。あんな薄暗い部屋で静かに笑うのは勿体無い。
「あーあ。ったく、仕方ねェなァ」
 一頻り笑って満足したサンジは、簡単にウソップの体を持ち上げる。右手には買い込んだ食材、左肩にはウソップ。
「捕まってろよ」
 その体勢でいられるだけでも凄いのに、まるで重みを感じない足取りで走り出す。チラリと見えた紙袋の中に入った林檎は、揺れることなく涼しげな顔で鎮座していた。
(——……ほぉら見ろ。結局お前はおれを担ぐんだ)
 レディのために、レディだけ、と言いながら野郎にも甘いことなどウソップは知りはじめている。本当に優しくない男があんなに美味い料理を生み出せるものか。
 どんな料理にも愛情は必要、とキッチンに立つ母親の横顔をうっすらとだが覚えている。あの頃はまだ元気で、どんな料理でも美味しかった。大好きだった。この料理人が作る一皿も似通った味がして、すごく驚いた。
「三人目だよ」
「……んあ?」
 海の香りが強くなってきた。もうすぐ、もうすぐメリー号が見えてくる。
「あんなことすんなっておれを怒った野郎は、お前で三人目だよ」
 山奥から人が降りてくる気配はない。あぁ凄いなぁと感心する。本当にあの無茶を全部叶えやがった。
「三回も怒られてんのかよ。常習犯め」
「ははっ、上手かっただろ?」
「あのなぁちゃんと反省しろよ」
「あぁ、悪ィ悪ィ。大ごとにせずに話を終わらせんのにちょうどいいんだよ。だから、つい」
 内緒にしててくれよ、なんて。
 まぁたアイツに怒られちまう、なんて。
 怒られているのにサンジはどこ吹く風で、それどころか嬉しそうな声色。困った男だ、と大人しく担がれたままで溜息を吐く。自分の身を削ってやった行為を怒ってもらえて喜ぶなんざ、子どもが嘘や悪戯で大人の気をひくよりも厄介だ。
(そんなことしなくたって、)
 おれはお前が間違えたら怒ってやるし、蹴られるの覚悟で殴ってやるのに。
(……ん? でもおれが三人目?)
 サンジを怒った二人目は誰だろうか。一人目はきっと海上レストランのオーナーだろう。深い事情は知らないが、幼いサンジの親代わりだったと聞いている。そして三人目はウソップ。
(二人目、……ルフィとか?)
 もしくはレストランのスタッフだろうか?
 でもきっと前科があるからオーナーが目を光らせていただろうし、海に出てからのような気もする。
「なぁサンジ、」
 なんだかちょっと気になってしまってサンジに声をかけたが、それをかき消すくらいの音量のチョッパーの声が聞こえてそれどころでなくなってしまった。気付けばメリー号が目の前だった。
「——サンジィ!! お前、まだ背骨は経過観察中なんだぞ!! なんでウソップ抱えてんだよ!! なにやってんだ!!」
 新しく仲間になったばかりの船員が一瞬で人型になってメリー号から飛び降りてくる。チョッパーの言葉にウソップも背骨の件を思い出して青褪めた。
「わ、悪ィ! すっかり背骨のこと忘れてた!」
 サンジの足が止まるより先に自ら肩から飛び降りて、満身創痍に拍車をかけることを選ぶ。
「だーいじょうぶだって、ドクター」
「大丈夫じゃねェんだよ!! 背骨だぞ!? いい加減分かれよ!!」
「お、そうだ、チョッパー。お前が好きそうなお菓子があったんだ、やるよ」
「えっなんだこれー! うまそー! って騙されねェからな!!」
「だめか」
「ウソップ! ウソップの怪我も次に見るからちゃんと来てくれよ」
「おーう。頼むぜドクター」
 困った顔をしたサンジは人型のチョッパーに抱えられて船に戻っていく。上からナミが怒る声が降ってくる。自分もあの声にあとで怒られるのだろう。
 すれ違うように降りてきたゾロが、買い出しに行っただけで満身創痍になっているウソップを見て視線が鋭くなった。
「……なんかあったか」
「いや、なんでもねェよ。これはあれだ、山道から転げ落ちただけだ」
「なんで市場に行って山道で転げてんだよ。迷ったか?」
「おいおいゾロくーん? こんな小さい島で迷わねぇからな?  ……ちょっと美味そうな林檎があったもんで、寄り道をな」
 甚だ遺憾である、とウソップはきっちり訂正して嘘をつき、鼻血を啜る。
「まぁあれだ。おれはサンジにとって忘れられない男になれたってだけだ。名誉の負傷と思ってくれていい」
 三人目の男で、そして最後の男であればいいと。あの男が二度と自分を売るような真似をしなければいいと、心の底から願うのだ。
 
 
 ————……そういえば、
「アァ!? ウソップ、てめェ今何つった……!?」
「エ゛ッ!?」
 あの時も修羅の顔をしたゾロに詰め寄られたなぁ、と思い出しては身震いした。
 
 
 
 ▼
 
 
 
 修羅から地獄を統べる王へと大出世したゾロは、ウソップの話を聞いて今にも血管が切れそうだ。ゾロの怒りに同調しているのか、怖がるウソップを揶揄っているのか、三本中二本の刀がガタガタと音を立てているのがいっそう恐ろしさを助長させている。
(サ、サンジくん……早く帰ってきて……たすけて…………)
 こんなことなら調子に乗ってがばがばと酒を飲むんじゃなかった。酔ったせいで口が滑ったのだ。
(だってゾロがこんな顔すると思わねぇじゃんかぁ……! こんなのちょっとした思い出話だろ!?)
 あの頃はメリー号だった船は、今はもうサニー号になっていて。仲間が増えて、うちの船長には大きな肩書きが増えた。それほど長く旅をしても、ゾロが本気で怒っている顔には慣れやしない。怖いものは怖い。
 ウソップはガタガタ震える手でジョッキを握り、二人きりのダイニングから出て行きたくて仕方ない。
 しかし、
「あんのクソコック……! やんなっつったのに約束のひとつも守れねェのか……!」
 低く唸るように吐き出したゾロの言葉に、はたと顔を上げる。
 もしかして、
「サンジの二人目の男ってお前か?」
「その言い方やめろ」
「マジかよ……」
 やめろと言うだけで否定はしない。
 てっきりルフィなんだと思って深く考えることはなかったのだが、——そうか、ゾロだったのか。
「言っとくがおれァ最初の男だぞ」
「……ん? ゾロくん? なんの話をしてらっしゃいます?」
 得意げに鼻息を荒くしているが、そんな話はしていないのだ。
 そもそもゾロが最初の男であると言うことはなんとなくみんな気付いていた。この二人、結構わかりやすい。けれど、拍車をかけて分かりやすくなったのはサンジがいなくなって、帰ってきてからのこと。仲間の前ではどこか一線を引くような距離感だったくせに、そんなものは初めからなかったように隙あらばくっついている。
 嬉しいのだろうと思う。浮かれているのだろうと思う。それはいい。
 ルフィたちがサンジの元へと向かったその後で、不意に肩を落としている背中を見かけたことがあるウソップはそれ以上何も言わずに酒を煽った。
 そのタイミングでダイニングの扉が開き、お待ちかねのサンジが帰ってきた。
「おー、まだ飲んでんのか」
 なんか追加のつまみいるか? と何も知らずに呑気な顔をしているサンジをゾロが無言で手招く。
「? なんだよ」
 空いている隣の椅子を叩いて、座れと言う。ウソップはギギギを嫌な音を立てて首を後ろへと向けた。いっそう状況がわからないのだろう。吐き出される煙草の煙がクエスチョンマークになっている。
「クソコック」
「なんだよクソ剣士」
「てめェ、おれに謝ることあるだろうが」
「ハァ!? なんでおれがてめェに謝んねェといけねェんだ!」
「裏は取れてんだ」
 ぐい、とゾロの親指がウソップの背中を指差した。
「はぁ?」
 それでも分かっていない様子のサンジに、ウソップはそろそろと振り返る。何も言わずに「ごめんね」と手を合わせた。ついでにぺろっと舌も出して可愛さを盛ってみる。暫くウソップとゾロを交互に見て、——そうしてサンジは勢いよく立ち上がった。思い出したのだ。二年前の、山奥での秘密を。
「てっ、てめ、てめェ! もしかしなくても言いやがったな! このクソッ鼻ァ!!」
「だってまさかゾロが二人目だとは思わねぇし、おれも酔っちまってたんだよ、ごめぇーん!!」
「許すわけねェだろ!」
「おいウソップ、おれァ最初の男だって言ってんだろ」
「今その話してねェんだよ、黙ってろクソ剣士!」
 心外だ、と酒を煽るゾロをサンジが怒鳴り、しかし「お前そんなこと言っていいのか?」の一言で驚くほど静かに小さくなって椅子に座り込んだ。
「ち、ちがう、ゾロ、あれはもう時効だ」
「約束に時効もクソもねェ」
 意味もなくわたわたと手を動かして言い訳してもゾロには通用しない。この二人が喧嘩をしていて、どちらかが完全に押され気味なのは珍しくてこっそり酒が進む。
「やるなっつったろ」
「う、……でもあの時はああするしか、」
「でも、やるなって、言ったんだ、おれは!」
 聞き分けのない幼子に言い聞かせるようにわざと言葉を区切っている。それが気に入らないとサンジは眉根を寄せて、しかしそれでも悔しそうに唸るだけだ。
 流石に当事者の一人として黙っていられなくて口を挟む。
「まぁまぁゾロ。っていうかあん時はおれもこいつに頼りっぱなしで何も出来なかったのが悪ィんだ」
「ウソップぅ……」
「開口一番で助けてくれ、どうにかしてくれって言っちまったからなぁ。そりゃサンジだって気負っちまうよな。おれだってもう二度とあんなことやってほしくねェけど、確かにあの時は助かったんだ」
「ウソップぅぅう……!」
 テーブルに肘をついて身を乗り出して感動しているサンジに、若干の気まずさが残る。だってこの状況は自分が口を滑らせたせいなのだから。でもこれが助け舟になればいいと願いながらそうっとゾロを見て——泡を吹いて倒れそうになる。
「…………」
 地獄の王のご機嫌は奈落の果てまで落ちたらしい。
 気に食わない。ふざけんな。なァんでお前の株が上がってんだ。おれのコックだぞ。そんな言葉が顔に浮かんでは不機嫌を極めていく。喋らなくても醸し出す雰囲気が饒舌で、勘弁してくれよと泣きたくなる。
(おれが助け舟を出したら出したでヤキモチ妬くのかよ!)
 面倒くさいことこの上ない男、——いや男たちである。
「あのなぁ、ウソップ」
「へ、へい……」
「最悪、——本当に最悪だが、コイツが演技で男引っ掛けんのはまぁいい」
「へ? いい、のか?」
「あぁ」
 けれど。
「おれとの約束を破ったのが問題なんだよ」
 サンジは約束したのだ。もう二度とするな、いつか痛い目を見るぞ、と怒り狂うゾロに「あぁ分かったよ、もうしない」と。背中を向けてひらりと手を振って。
 たとえ本当に守る気のない、軽く頷いただけの返事だったとしてもゾロにとってはもう二人の約束なのだ。きっと約束さえしていなければ、アイツはまたそんなことやってんのか、と腹を立てていただけ。
「知らねェところで約束を破られて、しかも第三者から聞かされたとなればコイツとの信用問題に関わる」
 コイツ、と指を指されたサンジはもっと小さくなって顔を歪めて下唇を噛む。それからふいっと顔を背けた。
 ウソップも信用問題なんてワードを出されてしまっては何も言い返せない。サンジが約束を破ったことは事実で、取り消せないのだから。
(えええぇぇ……)
 想像していたより重たい返事が返ってきて、しかも正論で、冷や汗は吹き出す一方だ。
 この話の延長で、別れるだなんだと言い出されたらどう責任を取っていいかわからない。いっそ他の奴らに助けを求めるか、と考えていればサンジの声がポツリとダイニングに落ちる。
「——……おれは、あれ以来一回もやってねェよ」
 お前が信じるかどうかは、知らねェけど。
「ウソップが見た、あの日が最後だ」
「聞こえねェな」
「ッ!」
「おい、ゾロ」
 あっさりと斬り捨てるような言葉。顔を背けていたサンジは反射でゾロのことを睨みつける。怒鳴ろうと大きく口を開き、——しかし言葉が出ないとでもいうように戦慄いて終わる。
 項垂れて、猫背気味の背中はいっそう丸くなる。ゾロからは旋毛しか見えていないだろうが、ウソップからはじわじわと水分量が増えていく瞳がはっきりと見えるのだ。泣くまいと、下唇を噛んで瞬きをせずにいる横顔に心臓が締め付けられた。
 このままサンジの手を取って、呑気に酒を煽る男の元から駆け落ちしてもカヤは許してくれるだろうか。——……なんて、笑えない冗談が頭に浮かんでしまってどうしようもない。
 数秒間が数時間にも感じる冷戦の最中、ゾロがジョッキを置く。ゴト、と重い音にサンジの肩が跳ねた。
「コック」
 ゾロはサンジのほうへと体を向ける。テーブルに肘をつき、頬杖をつく。俯いたままの金色の頭をまっすぐ見つめる。
「——……てめェ、おれに謝ることあるだろうが」
 それはゾロの最初の言葉。
「おい、顔上げろ」
 そろそろとサンジの顔が持ち上がって、ようやっと二人の視線が絡まった。きっとそれだけで通ずるものが二人にはあるのだろう。途端にサンジの喉が引き攣るような音を鳴らす。固く結んでいた唇が震えながらも開いて、——そして。
「や、くそく、やぶって、……わるかった」
「よし」
 震えた声の、絞り出すような謝罪にゾロは朗らかに笑う。
 腕に巻き付けた黒いバンダナを解いて、とうとう溢れてしまったサンジの涙を隠すように顔ごと揉みくちゃにして拭いてやる。泣いてんじゃねェよ、と揶揄う声がどこまでも優しくてウソップは腰が抜けた気分だ。
「う、うぐ、つよい、っつうか、くせぇよ、アホ」
「うるせェ、好きだろ」
「…………」
 本当に好きなのかよ、と無粋なツッコミはしないでおく。
 なんだか強敵と戦うよりも体力を使ってしまって、へろへろになった体は全部テーブルに預けた。
「怒ってないならそう言えよ、ゾロ。おれァもうお前らが別れるのかとヒヤヒヤしたぜ……」
「あ? 怒ってるに決まってんだろ。だから謝れって言ってんだよ」
「う、うう」
「おら鼻水出てんぞ。本当に世話焼けるコックだな、てめェは」
「いて! やめろ、だから力強いんだよ!」
 涙やら鼻水やらで汚れたバンダナはサンジが奪い取ってスラックスのポケットに仕舞われた。あれはあとでサンジの手によって綺麗に洗われるのだろう。可哀想なくらい真っ赤になっている鼻を啜って、サンジも冷たいテーブルに項垂れた。
「……本当にあれ以来やってねェからな」
「あぁ、わかった」
「信じるのかよ」
「今のお前には必要ねェだろうからな」
 ——それに出来やしねェだろ。
 意地悪く、含みを持たせるように笑ったゾロの顔と、じんわりと赤くなってしまったサンジの耳と指先は見なかったことにする。ここを突けば痛い目見るのはきっと自分なのだ。
「うるせェよ、クソ剣士……」
 酒もつまみもまだあるというのに、ゾロはもうずっとサンジを見つめているままだ。約束を破ったどうしようもなく馬鹿な男を、それでも好きなのだと琥珀色の瞳がゆったりと細まる。
(おれもいつかこんな風に、)
 ウソップさん、と窓辺でこちらに身を乗り出してくるカヤが恋しくなった。
 あの頃はまだ幼くて、こんな風に感情をあらわにした瞳で見つめることはできなかったから。だからこそ今のゾロがそれが出来ることが羨ましくて、——でもそれ以上にこの関係性が続いてくれればいいと思うのだ。
 羨ましいからこそ、憧れているからこそ、どうかずっと。
「……」
 逢いたいなぁ、と心の中でボヤく。
 穏やかな自然の中でいっとう綺麗に笑う彼女にこれまでのとんでもない冒険を聴いてもらいたい。自分のことも、出会った人の話も、愛しくて誇らしくて手間がかかる仲間たちの話を。
 嘘よりもずっと嘘っぽく、浪漫と愛に溢れた海の上での話を。
「——よし! じゃあそろそろお邪魔虫は退散ってことで」
 残っていたつまみをぺろっと平らげ、ウソップはいそいそと立ちあがる。空のジョッキとお皿はシンクに置いて「そのままでいいぞ」と声を掛けてくれたサンジに甘えることにした。
「じゃあな、おやすみ〜」
「おう」
「おやすみ、ウソップ」
 これからの時間を堪能するであろう二人にさっさと背を向け、歯磨きもそこそこにボンクに入り込む。男部屋はもうすでに鼾で煩く、寝られねェよ、と思いながらもすぐに夢の中へと落ちていく。
 ふわりと体が浮くような感覚と眠気。ゆらゆらと揺れる自然の揺籠。
 
 そうして辿り着いた懐かしの故郷の空気をめいっぱい吸って、夢の中だと知りながらも通い慣れたあの屋敷まで一直線に走るのだ。


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