夜に贈ることば

「浮気ってどこからだと思う?」
「……今その話をすんのか」
 性格悪ィぞ、と口端をひくりと震わせた。
 話を逸らすように、わざと酒瓶をドンと音を立てて甲板に置いたところでロビンはビクともしない。
 フォアマストに備え付けられたベンチ。そこにゆったりと座り、あまつさえゾロに見せつけるように手を動かした。
「可愛いわね」
 能力で咲かせた手ではなく、本体の手であるということがこれまた攻撃力の高い嫌がらせである。
 今のゾロは負け犬の遠吠えの如く、ぐうう、と唸ることしか出来ない。
 ベンチに座るロビンの太腿の上。呑気に寝息を立てている金色の頭がひとつ。頬や耳は可哀想なくらいに真っ赤に染まっており、寝息からは強いアルコールの匂い。
 麦わらの一味の胃袋を支える料理人は、酒豪の剣士の手によって泥酔していた。泥酔し、深く眠ってしまっていた。
「ふふ。意外と髪は柔らかいのね」
 知らなかった、と微笑む考古学者の機嫌が良いこと。
 普段ならばその笑顔にハートを撒き散らしてこれでもかと賞賛を並べるサンジは、頭を撫でられて「んん……?」とむず痒がるだけ。
(起きやがれ! このアホコック!)
 起きないのは完全に自分のせいなのだが、そんなことはとうに棚に上げている。
 こんなことになるなら酒の飲み比べなんて結果が分かりきっている勝負など受けなければよかった。煽ってくる酔っ払いに腹を立てて、度数の高い米酒の酒瓶を口に突っ込まなければよかった。
(そもそも米酒がだめなら先に言え、アホ)
 普段からワインやウイスキーを好んで飲んでいるが、それ以外だと悪酔いするだなんて初めて知った。きっと、米酒だろうとワインだとうとがばがば飲み干すゾロにはずっと言いづらかったのだろう。てめェが飲めるもんをおれが飲めねェとかイヤだ、負けたくねェもん、とか思っていたに決まっている。全くもってアホらしい。
 しかし、潰れてベンチに寝転がったと思えば一瞬で眠ってしまったサンジをロビンに呆気なく奪われてしまったのはもっとアホらしい。サンジに勝って満足気に祝杯を上げる前にさっさと男部屋に放り込めばよかった。
「で、ゾロはどこからだと思うの?」
「なにがだ」
「浮気の話」
「知るか、そんなもん」
 こっちは酒に酔った恋人を奪われて御立腹なのだ。
 なんだったら今まさに目の前に浮気現場があるようなものだ。
「膝枕、それから頭を撫でること。これは大丈夫?」
「大丈夫じゃねェ」
「そう。残念ね」
 名残惜しそうに最後に一度長い前髪を梳くように撫でてから手を離した。けれどそれ以上は一向に動くことはなく膝枕は続行されている。
「おい」
「だってぐっすり寝てるから。可哀想よ」
「……」
「ふふ。意外と許容範囲が狭いのね。ゾロってこういうのはあっさりしてるのかと思ってたわ」
「うるせェ」
 いいから早く下ろせと、無言で睨みつければサンジが唸り始めた。ゾロとロビンの声が耳に入ってきて気になるのだろう。眠いのに夢から覚めてしまいそうで、不機嫌になっている声色だ。
「う、んん……」
 仰向けに眠っていた体が横を向いて、ロビンのお腹に頭を擦り寄せる。薄手のシャツ一枚のお腹に柔らかな毛がくすぐったい。けれど、サンジからすれば体温を感じやすい服ということで心地いいのだろう。唸り声がだんだんと小さくなっていく。
「ん……」
 小さく丸くなるように曲げられた膝。だらりと垂れていただけの手はそっとロビンの服を掴んだ。こっそりと起きたのかと思ったが、——もしも起きたのならばそろそろこの辺り一体鼻血の海になっているだろう。
 そのうち、太腿の上の頭が重みを増して、寝息が落ち着く。
「……」
「……」
 反射的に黙り込んで固まった二人は、そうっと視線だけを交錯させる。おいどうすんだ、どうしたらいいかしら。そんな無言のやり取りの最中に、ふるりと震えたサンジの体。確かに寒くなってきたわね、とロビンも自分の腕を摩った。
「男部屋に放り込んでくる」
「そのほうが良さそうね」
 残念、とロビンが肩を落とすと同時にふわりと上から落ちてくる骸骨が一体。
「ヨホ!」
 軽さ故、音もなく着地したと思えば優雅にブランケットをサンジの体の上へと被せた。もちろん、二枚目のブランケットはロビンの肩へ。
「なにやら微笑ましい光景が見えまして、ブランケットをお持ちしました」
「ありがとう、ブルック」
「余計なことすんな、ブルック」
「ヨホホ! ゾロさんったら手厳しい!」
 せっかくサンジを奪い返す絶好の機会だったというのに、これでは振り出しに戻ってしまった。隻眼でギロリと睨みつけても、ブルックはカタカタと骨を鳴らして愉快に笑うだけである。
「それにしても、眠っている時は鼻血出ないんですね」
「そうみたい」
 とってもおとなしいの、とロビンが頭を撫でた。
「あっ」
 またやりやがったな、とゾロは目敏い。
「あら、ごめんなさい。つい撫でたくなっちゃうのよ、サンジの頭って」
「分かります。なんかこうちょうどいい丸みですよね。大きさも、ほら」
「ブルックてめェ、なに便乗してんだ……!」
「ほーらほら、もっと撫でちゃいますよ。起きてる時はさせてもらえませんからねぇ」
「ずるい。わたしも」
「てめェら……! あとで覚えとけ!」
 額に青筋を浮かべながらも大きい声が出せないのは、結局サンジを起こしたくないという気持ちが強いから。
「いやでもほんとうに、ちっとも起きませんねぇ。珍しい」
「疲れてるのよ」
 なにせ今朝はルフィが起きたと思えば「天気がいいから外でメシ食いてェ!」と言い出して、ならばとフランキーが腕によりをかけてテーブルを新調し、即席船上レストランが開店。どうせやるなら完璧に、とサンジは献立を考え直し、テーブルを飾り付け、ウソップと協力してお品書きまで作る始末。
 コックコートはないけれど、新品のスーツとシャツをわざわざおろしていたので彼も労力以上に楽しかったのだろう。
 最終的な料理のセッティング中は全員ダイニングで待機して、出来上がればとサンジがノックをして恭しく一礼。
『お待たせ致しました。素敵なレディたち。ついでにクソ野郎ども』
 そして。
『入店する際には、それぞれお名前と夢をひとつ仰っていただく決まりとなっております』
 なんて、煙草がない口元に悪戯に添えられた指先。にんまりと持ち上がる口角に、クルーは顔を見合わせてから目を輝かせる。
 もちろん、先陣を切って我らが船長が高らかに宣言した。
「サンジさん朝からずっと準備に料理に給仕に、と走り回っていましたから」
「でも楽しかったわ、とても」
「えぇ。夢や確固たる目標を改めて口に出すと、身が引き締まる思いです。ま、私引き締まる身がないんですけど! ヨホホ!」
 其処彼処にまだ船上レストランの余韻が残っている。テーブルやチェアはフランキーが、それ以外はサンジが率先して片付けるのだろう。そして、ウソップやチョッパーも片付けに参戦して昨日は楽しかった、またやりたい、また食べたいと両手をあげて跳ねるように笑うのだ。
『仕方ねェなぁ。じゃあまた手伝えよ、お前ら』
 煙草をぴょこぴょこと動かして、機嫌よく笑う男の顔まで簡単に想像できた。
(……まぁ、確かにアレはよかった)
 夢を伝えた後のサンジの反応を思い返して酒を飲む。
 未来の大剣豪様のお席はこちらです、と真摯な口調であの男に呼ばれると何故だか背筋が伸びた。食べた料理はいつもと変わらず美味しいのに、特別なものに思えて酒よりも食が進んだ。

 ——お前たちの夢は叶うさ、大丈夫。

 一口ごとに愛を注ぎ込まれて、優しく囁かれている気分だった。腹の底から自信が湧き上がって、末端まで行き届いて熱くなる。

 ——いつだってお前たちを見守ってる。あいしてるよ。

 料理人の愛情に背中を押されて、どこまでも遠くまで走っていけそうな、飛んでいけそうな。そんな風な未来への跳躍も、心の底からの安寧も、生死を分ける一撃に抵抗するための未練も。すべてが一皿に詰まっている。
『ほら、ゆっくり食えよ。まだたくさんあるから、な?』
 実際は自分が斬り開いていかなければいけない道なのだが、この男の料理がそう思わせるのだと思うとひどく感心する。
『サンジ』
 ルフィが肉を食べる手をとめ、給仕をするサンジを雁字搦めに捕まえたと思えば『やっぱサンジがいなきゃダメだ』なんて言い出したので、彼も似たようなものを感じ取ったのだろう。
『そうかい』
 長い前髪の奥で、幸せそうに微笑んだのをクルー全員が目撃している。
 思い出したと同時に左胸のあたりになんとも言い得ぬ感情が湧き上がって、それを酒で飲み下した。船長相手に嫉妬するなど情けない。
(おれも、)
 きっとルフィと寸分違わず同じ意見なのだ。
 だからこそ、真正面から素直に言えてしまう船長に嫉妬をする。そして、こんな情けない部分を知られたくないと思いながらも気付いてほしいとも思ってしまうのだ。こっちを見ろ。いつものように喧嘩腰でもいい。海の色に輝くその瞳を一瞬だけ独占させろ。
(……流石に甘えすぎだ)
 己を叱咤するように酒を一気に煽って、軽くなった酒瓶の飲み口を齧る。
 勝手にサンジと触れ合っている二人はまだ飽きていないらしい。丸っこい頭を愛でて、——しかしロビンが小さく欠伸をしたことが解散の合図となった。
 ゾロは酒瓶を床に転がして腰を上げる。
「いい加減返してもらうぞ」
「次はある?」
「ねェよ」
「そう。じゃあ名残惜しいけど、」
 おやすみなさい、サンジ。
「今日はありがとう、とっても美味しかったわ」
 背中を丸めて、ロビンが優しく耳に吹き込んだ。眠っている彼の夢の中まで届けばいいと、願いを込めて。
 すると。
「ん、」
 本能的に離れがたいと察したのか、ロビンの服を掴む手に力が籠る。
「おやおや」
 甘えるように擦り寄って、いやいやと首を横に振る。
 それがロビンの中のなにかを刺激したようだ。きゅうっと唇を巻き込むように噛み締めたあとで、隠すように口元に手を当てている。眦と頬が赤く染まっているのは寒さのせいではないだろう。
「サンジさん随分甘えて、……あっ」
「……」
「ヨホッ! ゾロさんの顔が怖くて横が見られません」
 ブルックの茶化す声には軽い蹴りを入れて、もう起きてもいいから奪い取ってしまえとゾロが手を伸ばした。
 ——瞬間。
「……お、か、さん」
 夜の海にポツリと落とされた幼い声。
「おかあさん」
 離れたくないと甘える手と、嬉しそうに緩む唇。
 思わず、ピタリと伸びた手が止まる。
(そう言えば、)
 養父の話はそれなりに聞かされたが、母親の話は聞いたことがなかった。この男にも母親はいるのかと、至極当然のことを考える。夢の中で母親となにを話しているのだろうか。はく、と動いた口元は楽しそうだ。
「……ヨホホ」
 ブルックの笑い声が幾分が優しいものになったのは、年の功ゆえか。
「ゾ、ゾロ、ブルック」
 どうしたらいい? と珍しい顔をしたロビンが二人を見上げる。
「こういうの、だめ、わたし、わからないわ」
 小動物を愛でるように頭を撫でていた手が宙で止まって、真っ赤になった顔でふるふると震えている。ついさっきまで浮気だなんだと男女の色恋を匂わそうとしてきた女と同一人物だとは思えなくて可笑しくなった。ゾロが吹き出すように笑えば、ロビンの顔がさらに赤くなる。目が潤んでいて、随分と幼く見えた。
「だって……! な、慣れて、いないのよ」
 常に冷静で博識な女の、とても柔らかい部分に立ち会ってしまった男二人は目を合わせてからしゃがみ込む。
「どうすればいいの……?」
 対応がわからないのならば、ゾロに放り投げてもいいものを。それでもロビンは懸命に愛でようとしているのだ。彼が望むように、彼の夢を守るように。
「こういう時こそ優しく撫でてあげるんですよ。手のひらで、大きく」
 ゆったりと、子守唄を歌うように。
「……こう、かしら」
「そうそう。いい感じですよロビンさん」
 さっきよりもゆったりと、ゾロに対する意地悪も好奇心もなにもなく、純粋に頭を撫でていく。
(浮気、ねェ)
 前言撤回。これが浮気だなんだとは言えそうにない。
「名前を呼んであげてください」
「サ、サンジ……」
「もっと肩の力を抜いて」
 柔らかな部分が曝け出されてしまったからだろうか。その手や声にはなんの余裕もない。ただ一生懸命に。頑張って背伸びをしている姉のような表情で、いっ時だけこの男の母になる。
「おい」
 仕方ないなぁ、とゾロはひとつ息を吐く。
 自分だってサンジのこういう表情には甘いのだ。意地っ張りで、すぐに自分の感情を飲み込む男の穏やかな眦に、唇を落としたくなる。
「とっておきを教えてやる」
 他の奴らには内緒にしろ。あと普段から使うなよ。
「いい子だって、言ってやれ」
 ゾロが教えたとっておきを、ロビンの唇がなぞる。
 
「——いい子ね、サンジ」
 
 たくさん眠って、明日も美味しいご飯を作ってね。
 楽しみにしてるわ。
 あなたが作るもの、すべて大好きよ。
 
「いい子ね、あいしているわ」
 
 きっとあなたの夢も叶う。大丈夫。

「サンジ」

 わたしの、わたしたちの。
 大事な、大切な、誰よりもやさしいコックさん。
 
 
 
 ▼



 波の音で目が覚める。
「起きたか」
 次いで、耳に落ちてきたのは低い声。もう随分と聞き慣れてしまった二人きりのときの、穏やかな声。
「……なんじ」
「四時を過ぎたばかりだ。まだ寝てていい」
「ん」
 今朝はやたらと重たい瞼をうっすらと持ち上げてみれば、海に囲まれていた。沈んでるのか、なんて寝ぼけた頭で驚いた後でアクアリウムバーだということを理解する。
「おれ、きのう、」
「おれが飲んでた酒奪って飲んでぶっ倒れて寝た」
「……そうだっけか?」
「そうだ」
 なんだか記憶と少し違う気がするけれど、今はゾロのほうが意識がしっかりしているので、そうなのだろう。
「わるい」
「…………いや、」
 珍しく歯切れが悪いのも気にしないでおこう。
 だんだんと目が覚めてきた体を起こそうとすれば、ゾロの手が伸びてきて持ち上げられた。鍛えられた太腿の上に頭をお邪魔させていたのだが、今度は体全体をお邪魔する。しっかりと太腿の上に座って、遠慮なくゾロに全身を預ける。
 照明で煌めくピアスを鼻先で揺らして、肩口に顔を埋めた。
「寝るか?」
「ん」
 背中に回される腕が、耳に吹き込まれる声が気持ちいい。このまま夢うつつに微睡んでずっとここにいたい。
 けれど。
「……んだよ、朝からぁ……」
 背中を撫でてくる手がだんだんと熱を帯びてきて、背骨のひとつひとつを愛でられると擽ったくていけない。ただでさえ回っていない頭がもっと鈍くなっていく。
「寝るかって聞いたのお前だろ……?」
「返事がなかったから好きにしていいってことかと」
「んんん」
 ちげぇよバカ、と言いたいけれど尻たぶを遠慮なく掴まれて唸るだけで終わった。何が面白いのだか、そのままゾロは感触を楽しむように揉んでいる。レディとは違うそこは固いだけだろうに。
「ヤんの?」
「何もねェから無理だろ」
「ん」
 体はべったりとくっつけたまま。下肢は好きにしろと明け渡すことにした。
 ゾロが言う通りアクアリウムバーにローションなんてものはないし、準備だってしていない。やるとすればお互いのペニスを擦り合わせるくらいなのだが、そんなことをすれば止まれる自信がない。五時になればシャワーを浴びて、キッチンへと向かわなくてはいけないのだ。
「……昨日は、」
「あん?」
 ボソリ、と呟いた声が途切れてサンジは少しだけ体を離す。言いづらそうにしている顔を覗き込んだ。
「なんだよ」
「いや、……あれだ、いい夢見えたのか?」
「はぁ? なんだよそれ」
 おれなんか変な寝言でも言ってたか?
「言って、ない」
「本当かよ」
「……」
 ぐ、と押し黙ったゾロに、なんか言ってしまったのだなと悟る。この男が言い淀むような、心配させてしまうような寝言を。マズった、と頭を掻く。
(酒飲んでたからなぁ……)
 残念ながら夢のかけらはサンジの記憶には残っていない。手刀でもされて気絶したのかと思うほどぐっすり眠ってしまっていたのだ。
 ——あぁでも。
「……夢は覚えてねェけど、いい匂いがしてた気がするな」
 例えば、果ての見えない色とりどりの花畑を独り占めして眠っているような。とても贅沢をしている気分だった。
「……花の、いい匂いがした」
 瞬きをするごとに花の種類が変わって、色が変わって、花びらが頬を撫でていく。そして囁かれるのだ。いい子ね、愛しているわ、と。
 夢のかけらが頭の中に降り積もっていって、少しずつ光景が色鮮やかに、線が濃くなっていく。
「うん。そうだな、……いい夢を見たよ」
 サンジ、と懐かしい声に呼ばれた気がした。

 ——こっちへいらっしゃい。わたしにも見せて、今日はどんなお花を摘んできたの?

 金色の髪が穏やかな風に揺れて、大好きな両手がこちらに伸びてくる。膝の上に乗って「乗っても重くない?」と聞けば優しく頭を撫でてくれた。いつだって柔らかく微笑んでくれる唇が好きだった。
 お母さん、と小さな自分が彼女を呼ぶ。
「……」
 数少ない、穏やかな幼い頃の夢のような思い出に浸れば、目の前の男の顔が不服そうに歪む。下唇を突き出して分かりやすく拗ねている。
「……な、なんだよ」
 さっきから質問に答えているだけなのに。
「なんでもねェよ」
 拗ねた魔獣ががぶがぶと首筋を噛んでくる。尻を楽しんでいた手はしっかりと腰に回され、戯れ合うようにソファへと押し倒された。
「なんでもなくねェだろ、絶対」
 そもそもいい夢見たかなんて言う時点で何かがおかしいのだ。引き剥がそうと服を引っ張ったところで大型で筋肉質な魔獣はビクともしない。いや、これは二日酔いのせいで本調子じゃないからだと言っておく。
「クソ、やっぱちょっと好きにさせろ」
 言うや否や目の前でゾロの口が開く。綺麗に整った歯列が、肉厚の舌が、サンジの口を噛むようにキスをする。まだしっかりと残るアルコールの匂いに、コイツついさっきまで飲んでやがったな、と軽い蹴りを胴に入れた。
「まだ食わせろ」
「あ、こら、痕はつけんなよ……!」
 忠告をしたそばから噛みつかれたので、もう一発蹴りを入れた。
 それでも構うことなくシャツを左右に開かれて、あっという間に飛んでいく真新しい釦がひとつ、ふたつ、みっつ。あれをあとでこの男が小さくなって拾うのだと思えば、少しだけ可笑しくなる。
「昨日は我慢したからな、今日はもう無理だ」
「っ、おれ、昨日風呂入ってねェんだって!」
「おれもだ」
「てめェはいつもだろうが! つうか最後に入ったのいつだてめェ!」
「知るか、お前が数えろ」
「なんでだ!!」
 汗も流していない皮膚をべろりと舐められて、いやだと言っても吸い付いてくる。
「っ、ん、くそ……」
「ん、石鹸臭ェよりいいな」
「そもそも、っ、石鹸はくさくねェんだよ、この獣が……!」
 戦闘後の、血と砂埃に塗れた体を弄られるのとはまた違う。こっちのほうが生々しくて、なんだかいけないことをさせてしまっている気になる。
「ダメだって、ゾロ! なぁいやだ、おれ本当に汚ェから」
 だから遠慮なく若草色の短い髪を引っ張って“待て”と魔獣に合図を送る。
「……」
 グルル、と喉を鳴らして大人しくなるところは本当に獣だ。
「ゾロ、ゾロ。だめだ。今は、……な?」
「……」
「拗ねんなって。おれだってヤりてェよ」
「なら、」
「でもさっきも言ったろ? 準備もしてねェし、おれはもうすぐ朝飯作りに行く」
 シャワーも浴びたい、と付け加えるとゾロの隻眼が煌めいたので「一緒には入らねェ」と先手を打っておく。一緒に入ったらそれこそ風呂場から出られない事態が発生するだろう。
「夜まで待てよ。夜になったら、ゆっくりしようぜ」
 今日の間に仕込みをしっかり終わらせて、少しくらい寝坊しても大丈夫なようにしておくから。
「今慌ててヤッて物足りねェより、そっちがいい」
「おれは両方がいい」
「ばか。お前ちったァ譲歩しろ」
 やっぱり不貞腐れている魔獣の頬にキスをひとつ。
 すると、不服そうに唸りながら重い体が落ちてくる。ソファと背中の隙間に腕が入り込んできて、一分の隙もないくらいに抱きしめられる。
「————……譲歩なら、昨日散々やった」
「んあ?」
 何の話だ、と背中に手を回して大きな子どもを抱きしめる。
「一生分ガマンしたんだよ、おれァ」
 ぐりぐりと擦り寄ってくる頭が痛いくらいだ。
 それでもゾロの声に出会って間もない頃のような幼さが入り混じっていて文句の一つも言えないくらいに心臓がきゅうんと締め付けられる。あの頃からもうすでに、この男の声には弱かった自覚はある。
「が、がまん、したのか……? お前が?」
「いっぱいした」
「う」
 声だけでなく言葉選びまで幼くなってしまって、サンジの心臓は壊れてしまったのかと思うほどの音を立てる。甘やかしたい。愛たい。離れ難いどころの騒ぎじゃない感情が心臓の奥で爆発して無意識のうちに彼の名前を呼ぶ。
(だ、だめだ、風呂、それに、朝飯も……)
 分かっていても、男を掻き抱く手が止められない。
 熱い顔を若草色の頭に擦り寄せる。硬い髪やこめかみ、眦、眼を塞ぐ傷跡、とたくさんキスをする。ちゅう、ちゅう、と音を立てて何度も何度も。
 海賊狩りだの、魔獣だのと恐れられている男が、自分が知らぬところで懸命に我慢していることを想像しただけで愛おしい。こんな風に思うのはお前だけだよ、と心を込めて唇を寄せる。
「ゾロ、ゾーロ。かわいいなぁ、お前」
「うるせ」
「照れてんじゃねェよ、かわいいなぁ」
「やめろ、それ」
 鼻の頭を軽く齧って、頬を擦り合わせるようにまた掻き抱く。
 何を我慢したかは口を割らないだろうからサンジが知ることではない。——……ただ、昨日の船上レストランの最中に、一瞬だけ不貞腐れた琥珀色の瞳が視線を逸らしたのを覚えている。あの時は「今日一日放ったらかしにしたもんなぁ」と呑気に考えては絡みつくルフィを席に戻していたのだが、もっと構ってやるべきだったか。
(しかも二人で酒飲もうとしたらおれが早々に潰れちまったしな)
 確かに悪いことをした。
「ゾロ」
「……んだよ」
 サンジの肩口に顔を埋め、やっぱりかぶかぶと噛んでくる男のくぐもった声は拗ねている。ふは、と吹き出すように笑う。だめだ、もう何をされてもこの獣が愛しくて仕方ない。
 だから。
「——好きだぜ」
 たった一人に渡すためだけの愛情を耳に吹き込んでやる。
 ゾロだけが知るいっとう特別な愛情を。
「好き、好きだ」
 ゾロの腕に触れて、手を掴む。
「やっぱ今じゃなくて夜にヤろうぜ」
 愛を吹き込んだ耳に、小さくキスをする。
「たっぷり時間かけて、おれの腹ン中にてめェのクソでけェもん挿れて、」
 掴んだ手は下腹部へと誘う。言いながら、ゾロの手のひらが当たる部分が疼いて仕方ない。
「おれの一番奥で、ゾロのこといっぱいイかせてやりてェ」
 この男のものでマーキングされることを想像したら、口腔内に唾液が溢れた。へらりと笑って見せた頬が熱っぽくて、自分で自分の首を絞めている気分だ。
「だからいい子にしてろよ、ゾロ」
 夜になったら愛し合おう。それまでおれも一緒に我慢するさ。
「————覚悟しろよ、コック」
 先ほどまでの幼さが嘘のように凶暴さが増す声色。これも堪らないと背中をゾクゾクと震わせた。
「なぁ、ゾロ、ゾロぉ。キスしてぇ」
「ダメだ。我慢するって言ったばっかだろうが」
「う、キスもダメなのかよ」
「あぁ。キスどころかもう離れるからな」
「えぇ!」
 もう五時が来るだろ、と言われてしまっては引き下がるしかない。でも、どうしたって少しずつ離れていく体温が寂しくて、大人しくできない悪い指先でゾロの腰帯を引く。
 すると。
「お前もちゃんと夜まで待てたら、褒美をくれてやる」
「……なんだよ」
 自分は何をされるのだろうかと妄想して、期待で胸が膨らんでいく。
「ちゃんと褒めてやるよ」
 おれのを一番深いところまで突っ込んで、息ができなくなるほどキスをして。それから、——何回だって褒めてやる。
「ッ、」
 ドッ、と深く深く心臓が脈打って、いつかの夜を思い出す。
「……ぇ、あ、それ、は……」
 滅多と自分を褒めることがないこの男にどろどろになるまで甘やかされて、いい子だなんだと頭を撫でられたあの夜を。それはもう凄かったのだ。自分が何を言っているかもわからないほどに頭がバカになって、それでもゾロに褒められるたびに達して。
「うぅ……」
 思い出しただけでイッてしまいそう。頭のてっぺんから足の先まで甘やかな電流が心地よく流れていく。
「想像だけでンな顔してんじゃねェよ、エロコック」
「っ、く、そぉ……!」
「お前今日は本気で覚悟しろよ。てめェが得意な妄想よりずっとすげェもん見せてやる」
「〜〜〜っ、も、やめろよ、ぉ……!」
 見下ろしてくる琥珀色が煌めいて、もう心臓が止まってしまいそうだ。
 せっかくマウントを取ったと思ったのに歴史的大逆転負けである。情けなく眦に涙を引っ掛けて、敗走兵の如く転がるようにしてゾロから距離を取る。床の冷たさでも体の熱は引いてくれそうにない。
 サンジは釦のないシャツを手で掴んで引き寄せ、反対の手でゾロに向かって指を指す。
「てっ、てめェこそ覚えてろよ! この、エロエロマリモ!」
 わっと叫んでアクアリウムバーを慌ただしく出ていく。背後からゾロの笑い声が聞こえたので悔し紛れに「クソッ!」と吐き捨てつつ、咥えた煙草をぴょこぴょこと上下に揺らした。


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