テレビという媒体越しに見たその記者会見は、爆豪の中に一つの感情を芽吹かせた。
恋に落ちるにはその状況は、あまりにも危険と隣り合わせ。所謂緊迫した状況。絶体絶命。背水の陣。それでも至極冷静な脳は心臓の底から湧き出てきたマグマのような感情にも理解を示し、思わず笑ってしまったのだ。
「ハッ。言ってくれるな、雄英も先生も…」
幼少時から憧れ続け、目指し続けてきた筋肉隆々のあのヒーローとは似ても似つかぬ男だけれど、しかしやはり彼も憧れるに値するヒーローであり、信頼の置ける担任なのだ。どんどんと笑いが込み上げてくる。釣り合がる口元が抑えきれない。敵が目の前に何人いようと関係ない。勝てる。そんな自信しかない。
何処からともなく追い風が吹いて背中を押された気さえした。
五体満足で会えるか分からないが──……いや必ず五体満足で笑って帰ってやるが、その時には一番に「ただいま」と言ってやろうか。いつもより充血した目がどんな風な色になるか楽しみで仕方ない。
「そういうこった、クソカス連合!」
個性を抹消出来る力を持つあの力強い視線に爆豪は恋をした。信じてくれているその姿勢に恋をした。
あの男が自分の先生で良かったと心底思った。
──…残念ながら笑ってただいまを言えるような状況にはならなかったけれど。
※ ※ ※
オールマイトがどう言おうと、引退への引き金を弾いてしまったことへの罪悪感は拭えない。母親の言う通り、結局は自分が弱いから敵に拉致されてしまった。そしてそれを色んな大人たちに尻拭いさせてしまった。それだけが確固たる事実である。
どれだけ敵連合が悪いのだと諭されても、時間の問題だったからと許されても、頷く事すらできない。過去の自分の言葉を借りるとしたら「したくねーモンは嘘でもしねんだよ俺ァ」なのだ。
文字通りの腐れ縁としか思えない幼馴染はどんどんと成長していく。新たな必殺技を身につけ、仮免に受かって先へと向かって行く。それは周りの人間だって同じこと。近しい人間も、隣のクラスの人間も、自分が認識しきれていないモブ共もゆっくり着実に成長していく。
置いていかれるわけにはいかない。誰よりも強い、ナンバーワンヒーローには自分がなるのだから。
だから、この感情には少しだけ眠ってもらうことにした。
顔を思い出すだけで心拍数が上昇したり、もっと話がしたいと思ったりすることはあるけれど、大前提として迷惑はかけたくない。恋に現を抜かして学生としての本分が疎かになるなんて言語道断。どんな理由があろうと相澤の重荷になるのだけは避けたい。
残念ながらこの聡い頭では忘れることも、なかったことにも出来ないから。せめて雄英を卒業して成人して、自分がやったことは自分が責任取れるようになるまで。あの男に頭を下げてもらわなくても、庇ってもらわなくても、一人で立って歩き笑って立ち向かえる力が持てるまで。
相澤にはいつまでもヒーローであり先生でいて欲しい。冷酷なふりをした優しい目で見守っていて欲しいのだ。
しかし、そうは言ってもまだ十六歳の高校生である。心の奥底に縛り付けておいても時折ひょっこり顔を出す。
日直だから手伝ってくれと言われてクラス全員分のノートを職員室まで運ぶ、放課後の廊下。二人を追い越すようにして他の生徒が帰路につく。
いつもよりゆっくりとした足取り。段々と静かになっていく校舎。
合理的なことを良しとする男がわざと遠回りしていることは教室を出てすぐに気付いた。
「あまり無理をするなよ」
そしてなんの脈略もなく、そう言って頭を撫でられてしまえば唇を噛み締めても緩む口元。
神野事件の後、こんな風に相澤が触れてくるようになった。一ヶ月に一度あるかないかのスパンだが、二人きりになったタイミングで気遣ってくれる。きっと周りに人がいないというのも相澤の気遣いのうちの一つだろう。誰かの目があれば素直に息も吐けない自分に対しての。
何も考えていないように見えても、自分にはまだ追いつけない大人なのだと思い知らされる。
「別に無理なんざしてねぇ」
「そうかい」
申し訳ないとは思う。常日頃から多忙を極めている相澤に対して仕事を追加させてしまっているようで。
俺は大丈夫だからこの非合理的な時間を仮眠にでも充てろと言うのが良いのだろう。でも生まれたての恋心は欲が多い。温度の低い手の平を何度だって受け入れてしまう。ありがとうとも言えずに、擦り寄ることも出来ずに不器用に甘えてしまう。
相澤はそれ以上は何も言わず踏み込んでこず。視線だって交わることはない。
それでもこの一瞬が心地良くて仕方がなかった。適度な距離間で見守ってくれているのだと言う事実がなによりも、爆豪のささくれの多い心を癒してくれた。
2.
入学式からずっと慌ただしかった高校生活も最後が近付いてくると学校で授業を受けるよりもインターンで外に出ているほうが多くなる。勿論、所属先の事務所の都合や学校行事でインターンが休みだったり、怪我やヒーロースーツの修理などの理由で学校に来るものもいる。
爆豪も、今日はインターンだったが明日からは暫く休みである。
どうにも気分が落ち着かずに爆豪はベッドから降りる。疲れは特に感じないが、足の筋肉が少し張っている。確かに今日はよく走った。
前屈をして、ぐうと上へと伸びて。深く呼吸をしてみるも、やはり心臓の奥が暴れたそうに蠢いている。こういう時、あまり動き回るのは得策ではない気がするが喉が渇いた。散歩がてら、一階のキッチンまで行こうか。部屋の電気はつけないまま、何も持たずに部屋を出る。エレベーターではなく階段を使って、暗い共有スペースへと向かう。
雲が少なく、月明かりが心地よく足元を照らしてくれていた。
爆豪は迷子になることなくキッチンへと向かい、──しかし途中で足を止めた。ソファに誰かが座っているのだ。侵入者というようには思えないけれど最小限の警戒心を右の手の平に潜める。
月明かりを寄せ付けず、夜の暗さに溶け込んでいる影を睨みつけるようにして凝視する。凝視して、気付く。
「せんせ?」
ソファの背もたれのヘリに後頭部を預け、目頭を押さえていた影がぬうと動いて漸く目が合った。
「…爆豪か。何をしている、消灯時間とっくに過ぎてるぞ」
「喉が渇いただけだわ。すぐ戻る」
「そうか。お前明日は学校なんだから早く寝ろよ」
「先生だって同じだろ」
「大人はまだ活動時間内なんだよ」
じゃあいつ寝るつもりなんだよ、とは聞けなかった。
きっと朝方まで働いて、仮眠程度の睡眠とゼリーでフル稼働するに違いない。
「……はよ、寝ろよ」
その顔色の悪さは夜の暗さのせいだけではないことを、爆豪は知っている。目の充血が個性を酷使したせいでもないことも、少し痩せたことも。多分これは爆豪だけが気付いているものではないと思う。
──高校生活が最後に近付けばインターンが主となる。授業を受けるものも実技を受けるものも必然的に少なくなる。しかし、それは決して担任の先生の仕事が減るという訳ではない。寧ろ増える。倍増する。
今までは一つの教室、一つの学校で管理統率していたものが、無数のヒーロー事務所に散らばるのだ。担当する地区も様々。日々起こる事件や事故も様々。それら全てを把握し、何かあれば駆けつける。プロヒーローがそばで見守ってくれているとはいえ、やはり何か問題にぶち当たった時、精神的ショックを受けた時、生徒が心から頼りやすいのは三年間世話をしてくれた担任なのだ。時々会うクラスメイトも「相澤先生の姿を見て安心して泣いてしまった」と話をしているのを何度か小耳に挟んだことがある。
かく言う、爆豪がお世話になっている事務所も頻繁にメールでやりとりしている。
「今日はもう少し、な」
「丸顔か」
「こら。麗日だろ」
今日だって何時間か前まで相澤は爆豪の部屋で、所謂メンタルケアの一環として面談を行なっていた。
面談と言っても堅苦しくはない。慣れ親しんだ自分の部屋でリラックスしながら、今日の事故についてポツリポツリと話をするだけだ。
「まだ落ち込んでるんだよ。今はミッドナイトさんが側についてくれてる。個性を使いながらじっくりと寝かしつけるそうだ」
相澤の声を聞きながら昼間の記憶が蠢く心臓から這い上がって来る。
澄み渡った空に似合わない、腹に響く衝突音。横転する車と悲鳴、呻き声、泣き声。
タイヤが灼け、ガソリンが漏れる嫌な臭い。
本日正午ごろ。小さな女の子の命の灯が麗日お茶子の腕の中で潰えた。
大型タンクローリーと、普通自動車三台が絡む大きな事故だった。たまたま近くをパトロールしていた爆豪も現場に向かい、麗日がお世話になっている事務所と共同で救助に当たったのだ。ガソリンが漏れ、個性が使えない爆豪は只管に走った。轟のような強力な氷結系の個性の持ち主がいればもっと早い段階から個性が使えたかもしれないが、そんな偶然は起こらなかった。
潰れた車の中から運び出された救助者を抱えて走ったり、車のドアを外したり持ち上げたり、消防車が到着するまでガソリンに引火するものはないか細心の注意を払ったり。脳も筋肉もフル回転させた。
その背後で、どうやら麗日の救助が間に合わなかったらしい。
少女を救急隊員に渡したあともいつも通りの動きを見せていたが、やはり後悔の念は消えていないようだ。
相澤は麗日からその全てを聞き、受け止め、優しく諭す。大丈夫だよと魔法をかける。それでいて的確に問題点も反省点も抽出して話し合う。最後に武骨で傷だらけの手で体温を分け与える。
それを受け持っている生徒全員に毎日、である。
「だったら」
もうミッドナイトに任せて先生も休めよとは、やはり言えなかった。言ったところでそうはしないのがこの男なのだ。疲れているところでこんな言い合いは合理性に欠ける。どうしたのかと首を捻る相澤に適当に言葉を濁した。
同時に、爆豪の胸の中に釈然としない気持ちが湧いて出る。
相澤は生徒に惜しみなく時間も気持ちも掛けてくれている。寝食を削って、働いて、守って、戦って、そして傷ついた生徒のケアまでしている。
ならば。
(アンタのケアは誰がしてくれんだよ)
月明かりが届かない、疲れた相澤の横顔を思い出す。
辛そうに目頭を押さえて出来た眉間の皺も。爆豪か、と答えた弱い声も。
きっと必要ないと言うだろう。なぜならこれが仕事で、俺はお前たちの担任の先生なんだよ、とも。それは百も承知である。しかし納得いかないものは納得いかないのだ。
「さ、早く寝なさい。あぁ喉が渇いたんだったか? 俺も飲みたいからついでに入れてや……爆豪?」
相澤の声を無視して踵を返す。降りてきたばかりの階段へと向かう。四階まで音を立てずに駆け上って部屋に戻り、目当てのものを引っ張り出して再び階段を駆け下りた。
そして、当然走り出した爆豪にきょとんとしたまま固まっている相澤を尻目にキッチンのシンクへと向かう。部屋から持ってきた、爆豪が持っているタオルの中で一等生地の柔らかいタオルを濡らして絞る。そのまま電子レンジで温めれば即席の蒸しタオルの完成だ。
「さっきみてぇに上向けや」
ほかほかと湯気を立てるタオルを持って命令をする。言葉は乱暴だけれど、やろうとしていることは察したのだろう。相澤は素直にソファの背もたれに体を預け、ヘリに後頭部を乗せた。爆豪が傷んだ長い前髪を払う。そして、適温にまで冷めたタオルを鼻梁から額にかけてのせる。
「熱くねぇかよ」
「あぁ」
「ならそのままジッとしてろ」
「わかったよ」
相澤は大人しく言うことを聞いてくれるらしい。良かった、なんて聞こえないように安堵の息を漏らす。それに呼応するように、深く長い呼吸が相澤の薄い唇から漏れた。腹の底から呼吸ができたようだ。タオルで見えないから、他に誰もいないから、爆豪はひっそりと柔らかく口角を上げる。
「ドライアイは目をあっためるとちったァ楽になんだよ。固まった油分が溶けて循環して目の表面の水分の蒸発を防いでくれるんだ。あと眼精疲労にも良い」
「そうなのか」
初耳だと言う相澤に、ちゃんと調べろやと素っ気なく答える。
すると。
「調べてくれたのか」
なんて言ってくるものだから心臓に悪い。
ドクリと嫌な音を立てる心臓を隠すように服の上から掴んで、
「お、れも瞬きが少ねえから調べただけだわっ」
と返したけれど声が震えていなかったか心配になる。
相澤は爆豪の様子など知りもしないで納得した様子だったのできっとやり過ごせているはずだ。いや、そうでないと困る。押し留めている好きが溢れないように今度は爆豪が深呼吸をする番だった。
タオルが冷えるまで待って、そっと取り外す。よほど心地よかったのか、相澤は無防備にも額をむき出しにしたまま目を閉じている。眠ってはいないがリラックス出来ているようだ。眉間の皺はもうない。
「アンタ、アレルギーとかあるんか」
「ないよ。どうした?」
爆豪は相澤の問いには答えずに、そのままでいろと命じる。いいか絶対動くなよと念を押して、再びタオルを濡らして温める。長年凝り固まった目の筋肉などたった一回の蒸しタオルで改善するわけがない。
「ちょっと待ってろ」
言いながら目元にタオルを乗せ、爆豪は冷蔵庫に向かう。冷凍室から夜食用にと買っておいた冷凍うどんを取り出してレンジで温め、その間に具を決める。砂藤がお菓子作りに使うであろう大量の卵の中から一つを拝借して──明日の朝一番で使用したことを言うつもりである。勿論代金も払う──自由に使っていいとされている貰い物の野菜から白菜としめじと生姜を取り出す。
小鍋でお湯を沸かし、時間帯も考慮して薄めのうどんつゆを作る。切った野菜を入れて火を通し、温めておいたうどんを投入して絡ませて卵でとじる。少し悩んで水溶き片栗粉でとろみをつけた。千切りにした生姜と相まって、体温を上げてくれるに違いない。
お盆に、お茶とうどんと割り箸とお手拭き。ついでに自分の分の飲み物、それらをきちんと並べて振り返った途端に相澤と目があった。蒸しタオル効果なのか、いつもよりも目尻が下がった、実年齢より僅かに幼く見える視線。個性を抹消するほどの恐ろしい力があるなんて到底思えない暖かな視線。
爆豪は気まずさのようなむず痒い感情が溢れて思わず睨んでしまう。
「んだよ」
「いや。手際がいいなと思ってな」
「料理くれぇ誰でも出来るわ。さっさと食えや。どうせゼリーだけしか食ってないんだろうが」
「あぁ。甘えさせてもらう。なんか久しぶりに腹が減った」
「…………あ、そ」
素っ気無く答えて相澤の前にお盆を置いて。しかし目を合わせることなくタオルを奪った。食べている間は洗い物でもしていようと席を外そうとすれば腕を取られる。
「洗い物くらいは俺がする。お前はここで座ってろ」
言われて、勘弁してくれと爆豪は心の中で頭を抱えた。
今の相澤と物理的な距離を取りたかった。いつも誰かを甘やかせてばかりの男に甘えると言われて、身体中の血液が沸騰しそうのだ。歯を食いしばってなければ情けない話腰が抜けそうだ。掴まれた腕から体温の上昇がバレそうで気が気じゃない。離してほしい。でも離してほしくない。どうすればいい。
あぁもう洗い物をしながら心を落ち着かせたかったのに。
ぐぬぬと唸ったが手を離してくれないことと、折角のうどんが伸びてしまうことを懸念して爆豪は大人しく隣に座った。自分の分のグラスに手を伸ばす。
相澤は納得したように小さく頷いて髪の毛を適当に縛り、それからいただきますと手を合わせた。
割り箸が小気味のいい音を立てて割れる。とろんとした黄金のつゆを纏ったうどんを掬えば、ふわんと白い湯気の塊が空へと向かう。人に料理を作ってここまで緊張するのは初めてだ。ごくりと生唾を呑んだ。誤魔化すようにグラスに口をつける。
「うまいな」
一口、二口。黙々と食べ勧めて、長い髪の毛に邪魔されない横顔がゆっくりと微笑みを作る。見計らったように柔らかな月の光がようやっと相澤を照らした。輪郭がうっすらとぼやけて、煌いて、眩しくて目を細めた。
──あぁ、と。
泣きたいくらいに多幸感が溢れてくる。奥底にしまった感情が全身を支配する。歓喜で震える。足の先から髪の毛一本まで、全身が好きだと叫んでいる。
少しは役に立てたのだろうか。喜んでもらえただろうか。安心を与えられただろうか。まだまだ仕事が残っていて、それでも生徒のためならば自分のことなど顧みずにフルスロットルで働き詰めになるこの男の活力に、なれただろうか。
考えたところで分からない。こんなこと聞くことだってできない。それでも爆豪は、そうならばいいと切に思う。
じわじわと競り上がって来る涙に、鼻の奥がツンと痛む。
「当たり前だろうが」
この俺が作ったんだぞ。不味いわけがねぇ。
心情を隠すように言った言葉は嬉しさが滲んでしまっていて、爆豪はソファに凭れて相澤に見られないよう顔を背けて視界から外れた。
だから、爆豪は知らない。
「お前、本当にいい子だよな」
そう言って、何かを耐えるように相澤が瞳を細めたことを。
その瞳の奥で何を考えていたのかを。
「……ありがとね」
その言葉に振り返って目を見て返事をしていれば、少しは分かったかもしれない。
しかし残念ながら今の爆豪に振り返る余裕などなかった。おう、と返事をするのが精一杯だった。
結局目は合わぬまま、相澤の食事は終わる。
美味しいと言ってくれた言葉は本心だったらしく、つゆの一滴すら残さず完食だった。作った甲斐があったというものだ。爆豪は心の中で小さくガッツポーズをした。
ちょうどそのタイミングでミッドナイトから連絡があり、洗い物はしておくからと相澤を見送る。その背中が消えるまで。
「………」
相澤からお盆を受け取るときに、一瞬だけ指が触れた。不自然ではなかっただろうかと、グルグル考え込みながらシンクへと向かう。出来るだけ静かに、迅速に洗い物を終わらせて自室へと戻った。
相澤の体温が残る人差し指を、まるで宝物だと言わんばかりに優しく撫でて、唇を寄せる。おやすみなさいと口元で弧を描く。蠢いていた心臓は、いつの間にか大人しくなっていて。ぐっすりと眠る事が出来た。
雄英で過ごした三年間で、爆豪が明確な下心を持って相澤に触れたのはこの一回きりである。
3.
雄英高校を卒業してからは、毎日があっという間だった。なにと直面しても下を向く暇もない。
インターンのように学校や担任の先生に頼ることは出来ない。教えてもらったこと、教えてもらっていることを最大限活用しながら日々仕事に当たる。幸い大きな怪我をすることなく二十歳までやってこられた。それも一重に今までの訓練の成果と、所属先の代表ヒーローであるベストジーニストのきちんと休みを取ると言う信念のおかげだろう。働き詰め、現場に出ずっぱりは大怪我の元なのだと毎日のように言っている。それを聞くたびに、この信念に逆らうようにして生きているあの元担任は生きているのだろうかと爆豪はふと思う。
今も変わらず雄英で教師をしていると聞いている。
しかし連絡は一回も取ったことがなかった。取る理由も思いつかないからだ。それでも生活の隙間に相澤を思い出しては、たった一度触れた指先を触ってしまうのだから、初恋というのは厄介だ。
(もし次会えたら、その時は)
その時は、想いを伝えようと決めていた。
好機というのは存外早くやって来た。
仕事終わりのロッカールーム。スマートフォンを手に取った瞬間にタイミングよく元A組だけのメンバーで作っているグループトークに通知が入った。芦戸が「みんな集まって同窓会しようよ〜!」と提案してきたのだ。時間をおいて一斉に反応し始めた元クラスメイト。あっという間に決まっていく予定。二十歳という節目に会いたいと思っているのは、皆同じのようだ。
普段の飲み会ならば爆豪は切島に執拗に誘われない限り行かないのだが、芦戸が書いた同窓会というキーワードに食いついた。
二十歳の節目の同窓会。
それならば、もしかして。
『先生も来るんか?』
あ、と思った時には送信してしまっていた。騒いでいたトークルームは一瞬にして静かになり、その後大爆発してみせた。思えば爆豪がこのグループトークに書き込んだのはこれが初めてだった。爆豪だ。爆豪がいる。爆豪が返信してくれた。というよりここ見てたのか。それよりも元気にしてる?先生って相澤先生のことでいいのかしら。二十歳のお祝いだから連絡を取ってみよう。そんな文字が一斉に並び始めて爆豪はアプリを終了させた。
「クソッ!」
同窓会というキーワードにつられて思わず返信してしまった自分が恥ずかしい。しかも誰も先生の話題を出していなかったから、同窓会という体のただの飲み会のノリだったのかもしれない。乱暴にパーツを外してロッカーにしまう。ガン、と音がした事によりベストジーニストに注意されたが、爆豪はうるせぇ!と叫んで事務所をあとにした。勿論小言塗れのメールが届いたがそちらも無視をした。
※ ※ ※
当日は何が何でも仕事を入れてやろうと思っていたのに、同僚の誰かがベストジーニストに同窓会のことを話したらしい。悪気はなかったらしいが、途轍もなく迷惑な話だった。当然のように休みを言い渡されてしまう。
「ちゃんと出席しなさい。所長命令だよ」
とまで言われてしまって、爆豪は敵捕獲に大暴れしてやった。しかし被害は最小限に抑えたものだから「みみっちい」と先輩に笑われて余計に腹が立った。廃墟ビルの一つでも壊してやれば良かった。
何も知らないベストジーニストは呑気に級友と言葉を交わすことも大事だと言ってくるが、問題は級友ではなく恩師のほうである。相澤が来るかどうか怖くてグループトークは見ないまま、渋々切島とともに居酒屋に向かう。途中何度も帰ると踵を返したが、何処からともなく増えた上鳴と瀬呂にまで捕まってしまえばもう無理だった。そうこうしている間に芦戸や葉隠にも遭遇し、爆豪のドタキャンは夢のまた夢をなった。
始まる前からげっそりとした爆豪は店に入るや否や一番奥の一番隅、壁にひっつくくらいに座って静かにしていた。注文は切島が何も言わなくてもやってくれるし、喋らなくても上鳴と瀬呂が上手く盛り上げてくれる。それにほぼ全員のクラスメイトが集合しているのだ。放っておいても店の中で一番煩い。
仕事で遅れて来る者も多いからと、乾杯は近くにいる者だけとした。全員が集まったら飯田が音頭を取るようになっているらしい。そんな段取りは知ったことかと爆豪は勝手に酒を飲んでは、切島に無理矢理乾杯をさせられた。
鬱陶しく騒々しい、それでいて昔の教室を思い出させる同窓会が開始して一時間経ったころ。一際大きな芦戸の声が響いた。相澤先生、という単語に思わずグラスを落としそうになった。
「もー! 先生やっと来た! 遅いー!」
「お前ら、外まで声聞こえてんぞ。迷惑掛かるからもう少し静かにしなさい」
「はーい!」
「だから伸ばすな」
在学中に何度も何度も聞いたそのやり取りに懐かしがってみんなが笑う。テンションが上がって、先生、先生と意味もなく呼んでいる面々に隠れる。二年以上ぶりの、落ち着いた低音が雑音を掻き分けて鼓膜に響く。
(………クソッ…!)
声が聞こえて、切島の影から姿を一瞬見ただけだ。
それなのに心臓は壊れたんじゃないかと思うくらいに過剰に働き、顔も耳も体全体が熱くなっていく。よく鍛えられた体のラインが分かるような薄手のグレーのニットも、上品な印象を与えるジャケットも、シンプルなデザインの腕時計も、相澤が今は先生ではなくただの男なのだと教えてくる。捕縛布がなく、髪の毛を纏めているので、存外太くしっかりとした首筋が色気を更に煽る。
葉隠が相澤の腕を取り、蛙吹や八百万が座ることを勧める会話を聞くだけで頭が割れそうになる。恋に落ちてからというもの、比較的大人しくしていた感情がどうしようもなく暴れ出して、気を抜けば両の手の平から暴発しそうだ。奥歯を噛み締める。あんなメッセージをグループトークに送らなければ、もしかしたらもう少し気楽に目を合わせられたかもしれないのに。後悔したとて遅い。
「ばくごぉー。大丈夫か?」
相澤が来た途端に大人しく黙り込んだ爆豪を気遣うように切島が背中を擦る。きっと酔っ払っていると思っているのだろう。個性が硬化だということを忘れそうなほどに優しい温度が思いがけぬ心地良い。跳ねまわる心音に気付かれないようにこっそりと深呼吸。切島の腕のリズムに合わせる。
「……っるせ。大丈夫だわ、なめんな」
テーブルを挟んだ向かいではしゃいでいた上鳴と瀬呂も心配そうにこちらを見ていた。
「水でも頼もうか?」
「…………いや、ウイスキー、いつものやつ」
「上鳴、それと水も頼んでくれ」
「いらねぇって言ってんだろうがクソ髪」
「爆豪が飲まないなら俺が飲むって。頼むだけ、な?」
「…好きにしろ」
言えば、すぐに上鳴がオーダーしてくれる。近くに座っている飯田や轟がどうしたかと覗き込んでくるのは、瀬呂が適当に対応してくれる。切島はずっと背中を擦ってくれていた。
(やっぱり来なきゃよかった)
学生の間は、学生だからという理由で押し留める事が出来た。迷惑を掛けたくないから黙っておこうと心に決めた。あの人にはあの人が目指すヒーローとして、教師として人生を歩んでほしかったから。
でも今は。
あの頃あんなに望んでいた大人になれて、一人で歩く事が出来る今は。
三年間苦楽を共にしてきたクラスメイトにでさえ激しい嫉妬を覚えるほどに気持ちが抑えられない。こんな状態で告白なんて出来るはずもなかった。してしまえば最後。とんでもなく醜い感情までぶつけてしまいそうだ。大人になれたのか、子どもになってしまったのか分からない。なんとも情けない。
(…別に嫌われるのは、慣れてる)
不特定多数に悪口を投げつけられるのも、酷評されるのも随分と昔から慣れている。だからどうした、俺は俺だと言い返すことだって出来る。聞かなかったふりだって随分と上手くなったものだ。
(でも)
相澤相手に嫌われるのは、嫌だった。
冷たくあしらわれるのも、優しく拒絶されるのも、考えただけで気が滅入る。
だからこのまま、関わることも喋ることもなく。このテーブル三つ分の距離のままそっとしておこう。
十六からどうしようもないほどに好きだけれど。
相澤を困らせることだけは出来ないままなのだ。
4.
極々稀に、あの男を夢に見ることがある。
「ばくごう」
やる気が無さそうな、それでいて安心する温度の声で名前を呼んでくれる。その音がお気に入りだった。三年間ずっと呼ばれる度に宝物にしていたのだ。一つだって聞き逃したことはない。
その宝物を夢の中で使う。大事に掘り起こして呼んでもらうのだ。
「ばくごう」
こちらを見る顔を目に焼き付ける。男は一つだって歳を取らない。当たり前だ。今の顔を知らない。
爆豪は何度も何度もあの月明りが優しい夜を夢の中で反芻する。眩しくても、目を細めて、しっかりと見つめる。
「せんせい」
触れないのだと、これは夢なのだと分かっていても手を伸ばす。一度でいいから触れてみたかった肌を想像する。タオル越しではない体温を想像する。
きっとこれに触れたなら。もしくは伸ばした手を拒絶してくれたら。
自分はあの夜の向こう側へと行けるのだろう。気持ちを昇華して先に進めるのだろう。
今夜も無理だろうなと。諦めを含んだ顔で笑う。
※ ※ ※
「爆豪」
ぴた、と冷たい何かが爆豪の唇に触れた。その感触に目の前で泡が弾けたように覚醒した。ぱちりと大きく瞬きすると滲んだ世界がクリアになって、次第に目の前のものに焦点が合う。
「────…は……?」
視覚の次に嗅覚が戻って来る。自分の部屋の芳香剤や柔軟剤の匂い。次は触覚。背中には慣れ親しんだベッドの柔らかさ、それから唇に当たるゴツゴツとした傷だらけの指の堅さ。
「起きたか。勝手に家に入ってすまない。一応切島に許可は貰ったんだが」
淡々と喋る男の頬に添えられた自分の両手。整えられた髭の感触。指先に当たるのは硬めの髪の毛。それから目の下の古傷の痕。相変わらず充血の酷い目は、文字通り目と鼻の先。
ピシリ、と固まったまま動かなくなった爆豪に男が、相澤が大丈夫かと声を掛けてくる。
爆豪は現実を受け止めた瞬間に、最早言葉になっていない言葉を絶叫しながら相澤の体を全力で押し退けた。叫び声が暗い部屋に木霊する。加減など出来ずに力いっぱい押したものだから相澤は後ろへと倒れ、しかしなりふり構っていられない爆豪は体を起こして後退る。風呂に入ってもいない状態でベッドに入るのなんて普段ならば絶対に嫌だったがそんなことは言っていられない。壁に背中が当たるまで後退る。
「なっ、なん、なん、せっ、なんで…!」
何で先生がここにいるんだ、と言いたいだけなのに口が回らない。聡いはずの脳も考えることを放棄していて使い物にならない。目の前がグルグルと回るような絶望と焦り。
何をした、何を言った。夢と錯覚して自分は相澤に何をしようとしていた。
跳ね上がった心臓は落ち着くどころか余計に暴れ回って全身が火照る。シーツを握る手に汗が滲む。閉じることを忘れてしまった両眼は見る見る間に薄い水分の膜を張る。
「お前覚えてないのか。一次会が終わるより前に酔って倒れただろうが」
「た、おれ、た……?」
相澤に言われて記憶を必死に呼び起こす。相澤がやってきたのは覚えている。嫉妬に狂って、そんな自分が嫌になってウイスキーに手を出した。成人してまだ間もないとはいえ色々な種類を酒を口にすることがあって、その中でも一番強く酔える酒がウイスキーだった。さっさと眠って忘れてしまいたくて、深く考えずに何杯も飲んで、気分が悪くなってしまって、トイレに行こうと部屋を出た時に足の力が抜けた。
「あ」
思い出した。
崩れ落ちる体を支えてくれた腕と、焦ったような声。
「…あれ、先生だったんか……」
「あんまりにもフラフラしてたから気になって追いかけたところだったんだ」
「…わりぃ」
「いや怪我がなくてよかった。あのまま寝かせてやってもいいかと思ったがなんせ騒がしかったからな。連れて帰った方が落ち着くだろうと切島と話して住所を教えてもらった。酔っているとは言え勝手に上がり込んで悪かった」
「アンタなんも悪くねぇだろうが。俺が、勝手に酔い潰れちまった、だけだから」
ありがと、と普段の威勢の千分の一にも満たないような声で感謝すれば、相澤も少し肩の力を抜いたように見えた。ベッドに腰を掛けて、気分はどうだと気遣われる。きっと目覚めた瞬間のインパクトが大きすぎたせいだろう。特に頭が酒に侵されている感覚も、吐き気もない。
「そうか」
そこでようやっと、相澤の眦が下がった。夢の中よりも少しだけ皺の濃くなったそこに、きゅうと心臓が痛くなる。
しかしそれを振り払うように相澤の視線がベッドヘッドに置いているデジタル時計にいく。その一瞬に終わりを悟ってしまった。
もう、帰ってしまうのだろう。当たり前だ。相澤の役目はきちんと家まで送り届けることだったのだから。無事に家に着いて、体調も悪くないのならば相澤が長居する意味などない。もしかしたら明日も仕事なのかもしれない。だったら尚更、帰ってしまう。短時間の滞在では何の気配も残らない。寂しいなと心底思う。
(きっとこれが最後のチャンスだった)
じゃあ帰るよと言われても引き留める術も言い訳も持たない自分にとっては最後の。
「爆豪」
相澤の唇が動くのが怖い。声を聞くのが怖い。この男に貰うさようならはきっと世界で一番恐ろしい。
それでも自分は言わなくてはならない。送ってくれてありがとうと。もう大丈夫だから先生も帰っていいよと。
「ばくごう」
しかし。
「泣かなくていい」
予想していたさようならは別の言葉にすり替わる。二度と触れる事が出来ないと思っていたあの指が伸びてくる。頬に触れて、眦に触れて、何かを弾くような動きを見せる。
「泣くな。お前のそういう顔には昔から弱いんだ」
もう一度ゆっくりと懇願するように響く声に、やっと爆豪は自分が泣いていることに気付いた。涙腺が壊れてしまったかのようにボロボロと大粒の涙が溢れて止まらない。自覚すれば喉が無様な嗚咽を吐き出す。眼窩も鼻の奥も色んな所が痛いくらいに涙が溢れてきて、相澤の指が何度拭ってくれても頬が乾く暇がない。
「…っ、く、…せんせ…っ」
「うん」
困らせたくないのに涙が止まらない。こんな風にみっともなく引き留めたいわけじゃなかっのに。
「せんせ、ぇ、ごめん、ごめ…っ、なんでも、ねぇから……!」
さっさと止めてしまいたくて、自分の両腕で乱暴にゴシゴシと擦る。必死の強がりはどうも上手くいかない。
明日瞼が腫れようと、傷が出来ようと関係ない。兎に角涙を止めたい一心だった。しかしその腕はすぐに奪われる。相澤の体重がしっかりとベッドに圧し掛かって、ギシリと鈍い音が響く。距離が縮む。影が重なる。
それから。
「…泣くなよ」
ぐずぐずに濡れそぼった眦に優しく唇が触れた。微かなリップ音に思考回路が灼ける。
「お前を泣かせたくて二人きりになりたかったわけじゃない」
何年も恋焦がれていた相澤の声なのに少し違う。聞いたことのない初めての声色。なんだ、これは。
「会って話がしたかった。聞きたいことだってある。本当は、……本当は切島が二次会に参加せずに自分の家に連れて帰ると言っていたのを無理に俺が引き取った。どうしても話がしたかった。これが最後のチャンスだと思ったからだ」
相澤の言葉に焼き切れてしまった思考回路では追いつかない。言葉がグルグルと回っていくだけで消化できない。なのに追い詰めるように相澤の口は休むことなく言葉を吐き出す。
「今から俺が聞くのはどうしようもないおっさんの戯言だと思ってくれてもいい。もし違うかったら気持ち悪いと殴ってくれていい。爆破してくれたって構わない。俺は個性を使わないし避けもしないから」
「…せ、」
「なぁ爆豪。お前はまだ」
──俺のことを好きでいてくれているのか。
言われて、ヒュッと息が詰まる。体温が急降下。指先まで一気に冷える。
涙で蕩けた瞳を極限まで大きく見開いて、今度こそ完全に思考回路が死んだ。
「…は、っ……」
何も言い返せず、唇からはなんとも間抜けな声だけが漏れる。
しかしそれを笑って揶揄ってはくれない。一寸もブレずに真っ直ぐに射抜かれる。夜よりも深いその色は、三年間じっと爆豪を見守ってくれていたそれと同じとは思えない。内部に籠っている熱が違うように思う。
それこそ、あの記者会見を見た夜に突如として沸き起こったマグマのような、そんな熱量。
「…っ、な、なん…で…っ」
その瞳を前にはぐらかすなんて、嘘を吐くなんて到底出来なかった。
なんで。どうして。それを。
爆豪の中で大切に仕舞っていたその想いをどうして知っている。
一番知られたくなかった、知られないように細心の注意を払っていたこの男に。
「それくらい分かるさ」
ぐ、と腕を掴んでくる手に力が籠められる。
「そうであってほしいと、ずっと思ってたからな」
眦が眇められ、右の口角が少しだけ上がる。人を助けることを主とする正義のヒーローだとは到底思えないくらいの悪い顔。あぁそれは在学中に何度も見た。爆豪が好きな顔の一つだ。不覚にも喜んで跳ねる心臓を叱咤して睨み付ける。
「……あ、んた、自分が、何言ってるか、わかってんのか」
爆豪が相澤に向ける好きは、決して親愛だとか友愛だとかそんな綺麗なものではない。勿論、尊敬はしているし感謝もしている。そういう綺麗な面でも相澤のことを慕っていたけれど、下心を含んだ愛情の方が占めている。それを分かっていっているのだろうか。
「分かってるに決まってんだろうが。…あぁでも多少浮かれているとは自分でも思ってる。それくらいは許してくれ。何せお前が二十歳になるまでずっと我慢してたんだ。自分の年齢を恨むほどに片想いが長すぎた」
それに、と相澤はまだ続ける。
「どうにかして会えないかと理由を考えてるときに芦戸に言われたんだよ。爆豪が先生に会いたがってるから同窓会に来られないかって。浮かれないほうが無理だ」
きっと思わず返事をしてしまったグループトークのことだ。まさか本人にまで伝えられてるとは思っていなかったので思わず唸る。
「なぁ爆豪。お願いだから聞かせてくれ。聞きたい。お前の口から」
そうしたら俺も言えるから。寝惚けて手を伸ばしてきた続きだって出来るから。
強請るように、懇願するように。しかし的確に逃げ場を無くして。
ウイスキーの匂いが色濃く残る爆豪の息すらも逃さないと言わんばかりに顔が近い。こんな距離で相澤の顔なんて見たことがなかった爆豪の頭の中は恐慌状態である。それでもなんとか、先生、と声を出す。自分でも聞いたことがない震えた弱い声。
「なに」
一方こちらは甘ったるい声だ。爆豪の知らない、ただの男としての相澤の声。
下がっていた体温がじわじわと上昇していく。
「…お、れ……」
言ってもいいのだろうか。十六でひっそりと芽生えて、それからずっと大事に大切に隠しながらも育ててきた想いを。
決して綺麗なものではないけれど、いつか相澤に渡したかった感情を。
「せんせ、に、迷惑はかけたくない」
「うん。お前のことだから、それが最優先なんだろうなとは思ってた」
ありがとね、と額がコツンと当たる。
「お陰様で道を踏み外すこともなく今もまだ教師としてやっていけているし、ヒーローだと名乗ることも出来る」
相澤の言葉に爆豪の顔がくしゃりと歪む。心臓も肺も痛いくらいに締め付けられる。
知らない間に汲み取ってくれていた。全部わかっていて、気付いてて、知らないふりをしてくれていた。迷惑を掛けたくないと言う気持ちを尊重して、一緒に堪えてくれていた。
辛く寂しかったけれど、我慢していた期間は決して無駄ではなかった。
こんなにも嬉しいことがあるだろうか。
「お、れが、大人になるまで、絶対言わねぇって決めてて」
「うん」
「アンタには、っ、ずっと先生で、ヒーロー、で、いて、ほしくて…っ……じゃま、は、したくない、から…っ」
声が、唇が震える。奥歯がカチカチと音を立てる。肩や腕に変に力が入って、呼吸が浅くなる。止まったと思った涙がまた滲んできて、我慢なんて出来ずに流れていく。それに比例するように奥底に仕舞った想いが爆発して溢れてくる。
「きっと、ほんとは、言わない方が絶対良くて、こんな感情忘れちまった方が、良くて……、でも」
捨ててしまえば、忘れてしまえば、違う人と恋をすれば。その方がお互いのためになると言うのに。
やっぱり初恋とは厄介なものだ。誰に後ろ指差されようとこの男が欲しくて堪らない。許されるのなら、隣に立って笑って話をしたい。手を繋いで、抱き締めてほしい。手を伸ばしても拒絶しないでほしい。
ごめんなさい、先生。
ずっと言いたくて聞いてほしかった。俺は、ずっと、ずっと前から。
「先生が好きだ」
瞬間。
相澤の武骨な手に両頬を包まれた。何を思うよりも前に唇が触れ合う。水分量が少なく薄い相澤の唇が、何度も触れてきて。角度を変えて深く深く食べられる。呼吸すら許してくれないキスに相澤の腕を掴む。喘ぐように酸素を求めて、苦しくて。それでも拒否をするという選択肢は頭の中にない。懸命に享受する。
時折当たる短い髭の感触にこれは夢ではないのだと思い知らされる。
そして。
「好きだ、好きだよ、爆豪」
相澤は刻み付けるように唇を触れ合わせたままで、何度も何度も好きだと繰り返す。
「……ふ、ぅ…、うぁ…あ…っ」
今まで見てきたどんな夢よりも幸せな現実に、とうとう爆豪は声を上げて泣いた。
子どものように泣きじゃくって、キスを強請って、逞しい腕の中へと入り込む。ずっと見ているだけだった背中に初めて触れた。
その間も相澤は好きを与え続けてくれていた。このまま死んでしまうのではないかと思うほどに幸せ過ぎて更に泣く。眼球が溶けてしまいそうだ。顔も頭も体も全部が熱くてどうしようもない。
「──……あぁ、やっと言えた」
これ以上泣きたくなかったのに、相澤が心底嬉しそうに安心したように息を吐くものだから。
それから小さく鼻を啜るものだから。
「せんせぇ、すきだ、すき」
そう言って、爆豪は新しい涙を零した。
※ ※ ※
「確信を持ったのは、ほら、一度だけ夜食を作ってくれただろう? あの時だ。あの日以来ずっと爆豪の料理が食べられないかずっと考えてた。また何か作ってくれないか」
「ん、わぁった。…なぁ、それまでは? 気付いてたんか?」
「うっすらと。自信はなかったけどな」
「分かりやすかったんか」
「いや、普段のあの態度じゃ誰も気付かないと思うぞ。俺はずっと見てたからな、お前のこと。それでもあの夜がなけりゃそのまま曖昧なまま見過ごしてたかもしれん。このことは切島たちも知らないんだろう?」
「……たぶん」
言いながらも、今日の同窓会の時の切島の優しい手を思い出して自信を無くす。
高校三年間、きっと一番近くにいてくれた切島ならば気付いているかもしれない。それに自分には初恋以上に厄介な幼馴染もいる。切島が気付いていなくても、緑谷が気付いていそうだ。そう言えば今日爆豪のようすがおかしいことに飯田と轟が反応したが、その隣にいた緑谷からは何の接触もなかった。
やはり分かっていたのだろうと想像して、勝手に苛ついて、心の中でチッと舌打ち。
爆豪の不穏な気持ちを知ってか知らずか、真っ赤になってしまった眦を相澤の指がゆったりと撫でる。
「起きたら腫れてそうだな」
「別にいい。俺も明日休みだし。明後日までに引いてれば問題ねぇ」
結局あれからお風呂にも入らないまま、二人でベッドに寝転がった。シングルベッドに男二人は狭くて、だからと言って爆豪はしっかりとくっ付いた。甘やかすように腕が絡んできて頬が緩む。
潔癖とまではいかないが、きちんと清潔にしておきたいから起きて気分が優れなくても起きてしまえばシーツ類は全部洗うことになるんだけれど、今はもうどうだってよかった。少しだって相澤から離れたくない。ずっと我慢していたのだからこれくらいは許してほしい。
アルコールに混じって相澤の匂いがする。くん、と鼻を鳴らせば、やめなさいと窘められる。そんな会話ですら心地が良い。
「そろそろ一回寝なさい。また明日。ゆっくり話そう」
言って、後頭部をゆったりと撫でられる。
相変わらず体温の低い手の感覚に在学中を思い出す。あぁそうだ、こうやって頭を撫でてくれるのが好きだったのだと、安心できたのだと、それも言いたい。伝えたい。記者会見の言葉だって嬉しかった。ちゃんと届いていたのだと教えたい。
そう言えば、相澤はいつから自分のことを好いてくれていたのだろう。会えなかった二年はどんな風に過ごしていたんだろう。言いたいことも聞きたいことも沢山ある。一日じゃ絶対に足りない。眠ってしまうのが勿体ない。
明日が来るのが待てないなんて、これでは本当に子どもに戻ったみたいだ。
朝になって起きたら、何かご飯を作ろう。
それから今度は二人で一緒に食べよう。きっと美味しい食卓になるに違いない。
考えていたら瞼が重たくなってきた。心臓の鼓動が心地良い。
これから先は、この心音を聞きながら生きていける。
「なぁ先生」
「なに」
「すきだ」
「俺もだよ」
迷いのない返事に背中を押され、夢の中へと潜り込んでいく。
恋人の肩越しに見る朝日は、今までの人生で一番美しく輝いていた。