また、細かな時間も決まっていない。昼休みだったり、放課後だったり、夕食後の自由時間だったり。兎に角教員の手が空いている時に、生徒一人ひとりと話をするのだ。話題は何でもいい。フランクなものから、悩み事や困り事、恋愛相談でも、ランチのリクエストでもいい。親と子が会話するのに理由がいらないように、担任の先生と生徒の距離が少しでも近いものになればいいと校長は明るく笑った。
(簡単に言ってくれる……)
当然ながら雄英高校ヒーロー科A組の担任である相澤消太にもこのメンタルケアの業務が課せられている。業務としての、もしくはヒーローに関する相談や面談はお手の物でも、こういったプライベートに関わるような面談は苦手なのである。教師として与えられた仕事は全うするしかないが気が重い。
特に困ったのは先日の芦戸と葉隠と上鳴である。何でもいいから相談事があれば話せ、と言えば三人とも口を合わせたように人の昔の恋愛を根掘り葉掘り聞いてきた。今後ヒーローと恋愛を両立するための参考にしたいだのなんだの言っていたが、あれは完全にただの興味だろう。しかも大した恋愛はしていないからと話を逸らしていれば、あることないこと想像して笑っていた。あの三人に個人面談するときは事前にアンケートを作成し、記入でもさせておこうかと悩んでいる。
しかし悩んでいても個人面談からは逃げられない。
「爆豪、今ちょっと時間あるか」
今日は爆豪の番。騒がしい昼休みに呼び出して、素直についてくる爆豪をつれて仮眠室へと移動した。戸を閉めただけで廊下の騒がしさが幾分か軽減されて息を吐いた。
ソファに座るよう促せば大人しく腰を下ろす。相澤は向かいのソファに腰を下ろし、何か困ったことや分からないことがあれば聞くから言ってほしいと声を掛ける。その言葉に爆豪はメンタルケアの時間であると察したのだろう。僅かに肩の力を抜いた。
「それって、昨日の演習の話でもいいんか」
聞かれて相澤は躊躇なく頷いた。本当は寮生活のことを中心に聞いたほうがいいのだけれど、この生徒の頭の中の殆どはヒーローになることで占められているし、誰よりも強くなってオールマイトをも超えていく確固たる目標がある。だから彼が優先すべきことを尊重すべきだと考えたのだ。
それに先日件の三人の恋愛話に無理矢理付き合わされたということもあり、真面目な面談が出来ることが有難い。
相澤は爆豪の口から溢れる疑問や問題点一つ一つに一緒に向き合って答えを出していく。元々頭も要領も良いので伝わりが早くて助かる。的外れな考えはしないし、無駄話もない。教師陣が与える苦難の意味と意図を汲み取ってくれている。更に相澤の言葉を咀嚼して理解して、その一つ上の段階の疑問点を持って来るものだから恐れ入る。乱暴で凶悪で暴れるのが好きなだけの強個性の持ち主に見られることが多いが、本質は違うのだ。だから話をしていて面白いと思うことも、感心することも実は多い。
しかし。
「……今、何て言った?」
今日はよくこの言葉を聞く。この短時間で四回目だ。
これは決して爆豪が相澤に対して啖呵を切っているわけでも、煽ってきているわけでもない。純粋に、聞こえなかったからもう一度言ってくれないかと言っているのだ。
「暖房の音が煩いなら切ろうか?」
質問に答える前に天井に設置されている暖房を指差した。古いタイプのものでもないから音は極力小さく会話の邪魔になるものではないのだが、時々空調の音を嫌う生徒もいる。
「いや、いい。ちょっと聞き取りにくかっただけだ。今日寒ィから」
相澤の申し出を断った爆豪は、右耳を一撫でしてから「もう一回言ってくれ」と促してきた。本人が大丈夫だと言っている以上、無理強いは出来ないので相澤は説明を続けることにした。意識してさっきよりは大きめの声を出すように心がけた。
その後、予鈴が鳴るまで話し合いは続き、ひと段落ついたところで教室に戻るように言った。
「もしまだ分からないことや、気になることがあるなら放課後職員室に来なさい。今日はそこで作業してる」
爆豪は素直に頷いて立ち上がり、戸に手をかけた。
「なぁ、爆豪」
そのまま出て行きそうだった爆豪を呼んで、
「困ったことがあればすぐに言えよ」
最後に一言付け加えた。
一瞬口が開いたけれど何も言うことなく出て行ってしまった。まぁ何かあれば放課後に来るだろうと結論付けて、深追いすることはやめた。
結局、放課後に爆豪が訪ねてくることはなかった。
それから一週間程経った頃。爆豪が放課後の職員室にやって来た。他の教師陣には目もくれず、一直線に相澤のところにやってきた爆豪に視線を合わせれば一枚の紙を渡される。
「困ったこと、それ」
渡された紙に目を通せば、聴力検査の診断結果が記されていた。用紙の右上に記入されている名前は目の前の生徒のもので、その他にも担当医とリカバリーガールの名前と印鑑が並んでいる。
何気なく渡されるにしては効力の強いその書類に無言で目を通していく。
掻い摘んで言えば、爆破という個性上、常に近くで爆発音を聞いていて、そのせいで聞き取りづらい周波数があるというものだった。今はまだ特定の周波数だけだが、今後拡大していく恐れはあると。だからサポートアイテムの申請をするようにと。そう書かれている。
「アンタの声の周波数がちょうどその辺りなんだよ」
「俺の声の周波数なんていつ調べ、……心操に手伝ってもらったのか」
心当たりは一つしかなく名前を出せば素直に頷いた。
「俺の声が聞き取りにくいなら最初から言えよ。入学してからどれだけ経ってると思ってるんだ」
「今のところ生活する上で困ることっつうのはあんまりねぇんだよ。ただどうしても周りが騒がしかったり、天気や体調の関係だったりで聞き取りにくい日がある。まぁ聞き取れなかったらそれはそれで口を読めばいいんだけど」
でも、と一旦言葉を区切る。
「アンタに関してはそれが邪魔で見えねぇ時が多い」
そう言って指を指したのは捕縛布だった。長年首元を覆っているこの布の塊に口元を埋めてしまうのは相澤の癖である。マフラーやスヌード、マスクの類で口元が見えないのは季節柄などの一過性のものが多いが、相澤のこれに関しては年中無休。普段は支障なくとも、調子が良くない日には厄介でしかないだろう。
「そうか。すまない」
頷きながら、やっぱり隠れてしまっていた口元は指で捕縛布を引き下げることによって表に出す。
「例え調子が悪くても、周りが静かだったり声が大きかったりすれば聞こえるのか?」
「聞こえる、と思う」
聞こえにくい声の人間に遭遇したことがないからよく分からないのだと続けて言う。
「なら今度から聞こえなかったらすぐに言えよ。折角だから色々と試してみよう」
「ん」
爆豪は素直に頷いて職員室を出て行った。それを見送って、渡された診断書を爆豪の個人情報が詰まっているファイルに仕舞う。残っている仕事と向き合いながらも、頭の片隅では爆豪の耳のことばかりを考えていた。
初めて爆豪に「聞こえなかった」と言われたのは、気温が一気に冷え込んだ日のこと。
朝のホームルームが終わって教室を出て行こうとする相澤を爆豪が呼び止めた。爆豪は右耳を一撫でしてから「さっきの、」とだけポツリと呟いた。あまり人が多いところでこの話をすることにまだ抵抗があるのだろう。相澤は何も言わずに扉の向こうを指差した。
騒がしい教室を二人で抜け出て、比較的静かな廊下に出る。今日の一限目は英語。移動教室ではないので誰も教室から出てこない。
相澤はいつ聞こえなかったと言われても大丈夫なように、リカバリーガールやプレゼント・マイクに相談し、対抗策を幾つか打ち出していた。とりあえず一つずつ試してみて、良かったものを採用する予定なのだ。
「爆豪」
扉をきっちりと閉めてから名前を呼んで捕縛布に指を引っ掛けた。下へと下げて、顔を出す。
それから。
「あっち向いてろ」
反対の手で爆豪の頭を掴んで強制的に左に向かせ、ツンツンと人を威嚇するような髪の毛がほんのりと覆っている耳へと顔を近付けた。口元に右手を添えて、折角の声が零れないようにきちんと鼓膜を震わせる。原始的で簡単で、でも一番効果がありそうな耳打ち。今回はこれを試してみる。
一体どこからどこまでが聞こえなかったかは聞くのを忘れていたので、相澤はホームルームで喋った内容を最初から説明していく。爆豪には関係のない他の生徒宛ての不必要な情報は省いて、掻い摘んで、要点だけを。
「――……というのがさっき喋ったことだ。どうだ? ちゃんと聞こえるか?」
最後まで喋り終えた所で顔を離したが、爆豪の顔も体をピクリとも動かない。
「おい、どうした?」
左を向いたままの顔を覗き込むようにすれば、眼光鋭い瞳は小さく丸くなっていて、今までに見たことがないような顔をしていた。一言で言うなれば呆然。そんな感じだ。
その顔と反応を見て相澤はしまったと頭を抱えた。女生徒ではなく、同性の男同士だから耳打ちはセクハラに該当するかどうかすら考えていなかった。同性と言えどされる側としては堪ったものではないのだろう。如何せん距離が近過ぎる。
(……流石におっさんの耳打ちはアウトか)
いくら担任だとはいえ、爆豪からすれば三十路のいい年をした小汚いおっさんである。風呂にも入っているし、歯磨きだってちゃんとしているけれど、そんなこと関係なく嫌なものは嫌なはず。
特に爆豪は人との接触をあまり好まない性質だ。触ろうとすれば避けるし、掴んだところで怒って逃げていく。理解しているつもりが失念していた。立派な減点対象だ。怒鳴られて爆破されても文句は言えない。
「あー……すまん、次からは筆談にしようか」
申し訳なさから一歩後ろに引いて距離を取り、ガシガシと頭を掻いた。
すると爆豪はそろそろと固まっていた手を持ち上げて、先程まで相澤が耳打ちしていた右耳を手で覆う。徐々に指先や頬が赤らんでいく。併せて、パチパチと大きく何度か瞬き。
「爆豪?」
爆破されても仕方ないと思っていたのに何だか想像と反応が違い、それでもまだしっかりはしていない意識を呼び起こすかのように呼べばようやっと目が合った。
「急に悪かった。次からは筆談にしような」
ゆっくりともう一度言えば、一拍置いてからハッと意識を取り戻して勢いよく頭を横に振った。
「いっ、いい。筆談じゃなくていい」
「いやでもお前こういうのあんまり好きじゃないだろ?」
「す、す、す…………き、じゃねぇけど、よく、聞こえるから」
「無理はしなくていい。何だったらもう少し静かな場所にするか、飯田に頼んでもいい。アイツなら真面目に伝えてくれるだろ」
「ホームルームは担任の仕事だろうが!」
「そうだが、聞こえないなら意味がないだろ」
「だから! さっきのなら聞こえんだよ! 問題ねぇわ!」
「しかし、」
耳打ちでいいと意地を張っているように見える爆豪に相澤が渋れば段々とよく見慣れた表情へと戻っっていく。ガルルル、と今にも噛み付いてきそうな程に必死に提案を打ち砕いてくる。
気を遣ってくれている、ようには見えないけれど爆豪がいいと言うなら仕方ない。
(……まぁコイツは嫌なら嫌だと言うだろうし)
最初の固まって呆然としていた反応が気にはなったが、事前準備もなくただ驚いただけなのだろうと思うことにして相澤は根負けした。じゃあ次からも耳打ちで、と言えば、爆豪は納得したように荒々しく鼻息を吐いて教室へと戻っていく。
「聞こえなかったらすぐに言うんだぞ」
「わぁってる。言ったらちゃんとさっきのしろよ」
「嫌になったらすぐに言えよ」
扉を開ければ、わっと騒がしい音が二人を包む。どうやらまた峰田がセクハラ紛いなことを言ったらしい。顔を赤くして怒っている耳郎のイヤホンジャックが素早く伸びて峰田に刺さっている。
何をやってるんだと呆れた相澤の視線は一瞬そちらに奪われて、その間に爆豪が何かを言ったが上手く聞き取れなかった。
「何か言ったか?」
相澤が聞けば、振り返った爆豪が悪戯に笑って舌を出す。
「アンタこそ検査したほうがいいんじゃねぇの? 何も言ってねぇわ」
それは、今まで聞いたことがないくらい機嫌のいい声だった。
***
授業や演習、ホームルームが終わった後に相澤が爆豪に耳打ちしている光景はあっという間に見慣れたものになっていった。
爆豪自身、最初こそ気恥ずかしそうに耳を差し出していたけれど、三年生に上がるまでにはすっかりと慣れて自発的に差し出してくるようになった。時折、本当に嫌ではないのかと確認を取るけれど、一度だって嫌だと言われたことはない。このほうがよく聞こえると、すんなりと頭に入ってくるから調度いいのだといつだって機嫌よく笑うのだ。
だからそれに応えるように相澤は耳が聞こえにくくなる時の条件を徹底的に覚えた。
例えば気圧が低い日、三日以上雨が続いた時、台風が最接近している時間帯、風邪気味の日など。
細かく分類すればもっとある。それをきっちりとデータとして纏めて毎回インターン先に提出。相澤が知る限り、自分の声の周波数と似たような人物と爆豪が遭遇したことはないが、これから先もっと沢山の顔も個性も知らないヒーローと急遽チームアップすることがあるので情報の共有はとても重要なのだ。
クラスメイト達も耳のことを知ってからは十二分に気にかけてくれている。特に調子が悪い時には積極的に耳郎や障子がサポートに入ってくれる。インターン先は別々でも偶々現場で遭遇した時もサポートに入ってくれたらしく、あの時は助かったのだとひっそり相澤に零したこともある。
それに何処からともなく耳のことを聞きつけたサポート科の女生徒がサポートアイテムを勝手に開発してくれたということも聞いた。パワーローダーの手も借りながら少しずつ改良を加えて、微調整してくれているらしい。それが存外使い心地が良かったそうで、テスト使用の時には必ず付き合うようにしていた。
今はまだ自分が傍に居て、気にかけてあげられる。聞こえなかったら耳打ちをしてあげられる。でもそれは永遠ではない。爆豪が自分の生徒である以上卒業と言うシステムは避けては通れない。
だからどうか巣立っていくまでに、いい方向へと転がっていけるように、耳打ちしなくても聞き取れるようにしないといけない。
けれど。
「なぁ、先生」
右耳を一撫でしながら近寄ってきて耳打ちを求められ、他の生徒よりも一歩近づくこの瞬間が終わりを告げるのが勿体ないなと思ってしまう時がある。
なにせ、相澤が爆豪に耳打ちしている光景は見慣れたものになったが、他の人間が爆豪に耳打ちしているところは誰も見たことがなかった。親切心や悪戯心で耳打ちしようとしてくるのは全部「お前の声は聞こえる」と言って断っているらしい。だからこそ、余計に勿体なく思ってしまうのだろう。
人との接触を好まない生徒が自分だけに許した距離感はいつだって相澤の心臓を優しく擽っては、いつかのように悪戯に笑ってみせるのだ。
***
青く澄んだ空を優雅に泳ぐ雲は汚れひとつなく、穏やかな陽射しが卒業生の頭上に降り注ぐ。
天候は晴れ、気圧は正常、風は穏やか。
翼を広げて世界へと羽ばたくには絶好の一日である。
何年経っても長過ぎる校長の話を乗り越えて、無事に卒業式と最後のホームルームが終われば教室中が心地良い騒がしさに包まれる。男子も女子も関係なく、啜り泣くような声も聞こえている。
いい思い出ばかりではなかっただろう。辛くて、明日が来るのが怖かった日だってあるだろう。それでもこの二十人は乗り越えて、誰も欠けることなく卒業式を終えられた。いいクラスだった、と相澤は柄にもなく考えて小さく微笑んだ。そして何も言わずに教室を出て行こうとすれば呼び止められた。
「なぁ、先生」
滅多と着用しないスーツの袖を引っ張られて、そう声を掛けてきたのは爆豪だ。しかしそれ以上何も言ってこない。じっと見つめてくる石榴色の瞳は少しも悲しみや寂しさに潤んでおらず、ただ真っ直ぐに相澤を映し出している。
「……」
微動だにしない口元は何も語らないので、相澤も特に言葉をかけることなく扉を開けた。
ゆっくりと外に向かって一歩踏み出せば、袖を掴んだままの爆豪がついてくる。どのクラスも卒業の余韻に浸っているのだろう。誰もいない廊下は静かで、温度が低く思えた。そう言えば初めてこの子の右耳に触れたのも、こんな風に冷たい空気に包まれた廊下だった。
「爆豪」
扉をきっちりと閉めて、長い廊下で二人きりになる。
「爆豪」
天候は晴れ、気圧は正常。顔色は良く、捕縛布は職員室に置いてきた。
それでも相澤は爆豪の右耳に顔を寄せる。一言一句零さないように手を添えて、サポートアイテムを装着していない生身の鼓膜へと声を注ぐ。
「卒業おめでとう」
耳打ちする最後の言葉。これ以上この子に与える言葉は何もない。
ただ明日からの自分が居ない世界でどうか健やかに、自由に生きていてくれたらと願うだけ。
名残惜しくも顔を離せば、教室の中から爆豪を探している上鳴の声がする。全員で写真を撮ろうとしているようだ。きっと今すぐにでも廊下に出てきてしまうだろう。相澤は爆豪の背中を押して、行ってきなさいと声を掛けた。見送って、今度こそ職員室に戻ろうと決めた。
しかし。
「先生」
爆豪の手が伸びて相澤の腕を引っ張った。強引に引っ張られて体が爆豪のほうへと傾く。
「先生」
相澤の耳に爆豪の顔が近付いてくる。いつも相澤がしているように手を添えて、髪の毛を纏めているせいで剥き出しになっているそこに声が吹き込まれた。
「この距離で聞くアンタの声が好きだった」
それから。
「三年間、」
初めてきちんと聞いた感謝の言葉は耳元で囁かれても聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。
驚いて爆豪を見れば、今まで以上に近い距離で目が合う。この距離で見て初めて瞳が薄い水の膜で覆われているのが分かった。
悲しいのだろうか、寂しいのだろうか、不安なのだろうか、それとも。
「――じゃあな、先生」
青く澄んだ空よりも、汚れひとつない雲よりも。それから彼らの巣立ちのあとに咲いた満開の桜よりもずっとずっと濃くて、強くて、凛としている石榴色の瞳はいつまでも相澤の網膜に焼き付いて消えてくれなかった。
***
卒業した生徒と会うのは大体が現場である。
逆に言えば現場以外で会うことは滅多とない。わざわざ連絡を取り合うことはないし、ご飯に行くことも、何処かで擦れ違うこともない。一学年が卒業すれば当然のように次の新入生が入ってくるので、いつまでも卒業した生徒に構っていられないというのが本音だ。だから昔を思い返して悲しいとか寂しいとかは思う時間はない。
――時間はないはず、なのに。
最後の耳打ちから一年経とうと二年経とうと天気と気圧が気になって、騒がしいところでは捕縛布を下げて話をしてしまう。それから今はもう別の誰かが居座っている窓際の席に向かって「聞こえなかったなら向こうで話すか?」なんて視線を送りそうになってしまう。
たった一人の生徒にこんなにも長い時間心を乱されるのは初めてで動揺を隠しきれなかった。同時に未練がましい自分を自嘲した。
爆豪と再会できたのは卒業から三年後のこと。警察から個人的に依頼を受けた案件に爆豪が所属している事務所の名前があったので期待を胸に会議に出向けばそこに居た。同じ事務所内の先輩であろう人と一緒に座って、配られた資料に目を通している。コスチュームではなく普段着だったけれど、相澤はすっかり凛々しくなった横顔をチラリと見ては感傷に浸る。すぐに会議が始まったということもあって、声は掛けずに空いた席に座った。
「お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。それでは今回の作戦に関する詳細を――」
狭い会議室の照明が少しだけ落とされてプロジェクターが静かに起動する。進行役の警察官の背後の壁にタイムスケジュールや地図が映し出され、説明が進んでいく。
「――ヴィラン側の個性を全て把握しているわけではありません。なにせ数が多く、中には軽い気持ちでヴィランと手を組んでいる市民もいるそうです。それに関しましては資料の三ページ目に詳しく記載しております」
言われるままに資料を捲りながら声を聞いて、ふと気付く。
「現段階で手を組んでいると確証を得ている市民の名前と顔写真と個性の一覧です」
進行役の警察官の声は自分のものとよく似ていたのだ。気になって顔を上げるとその警察官は風邪でもひいているのかマスクをしていて口元が見えない。更に一昨日発生した台風が近付いているせいで雨が続き、気圧が低い。相澤は視線を爆豪の背中へと滑らせた。
(……やっぱり)
案の定、爆豪の右手は右耳に向かい、そっと撫で始めた。聞こえにくいのだ。ここからでは確認できないが、狭い部屋での会議だからとサポートアイテムも使っていないのだろう。
相澤は迷うことなく爆豪が欲しがりそうな情報を頭の中に叩き込んで、会議が終わると同時に席を立った。会議室から出て行こうとする人の波を最低限の動きで避けて近付いていく。
「ばく、」
爆豪と約三年ぶりに名前を呼ぼうとして、しかしそれは隣にいた同じ事務所の先輩であろう男の声に掻き消されてしまう。
「お前さっきの聞き取れた?」
雰囲気が何処となく瀬呂に似ている男は爆豪の耳のことを当たり前のように知っていて、知っているうえで心配をしている。同じ事務所内なら当然だ。周知していなければ活動に支障をきたすと自分がデータを纏めて提出したのだから。
「や、あんまり」
「だろうと思ったぜ」
それにもう卒業して三年だ。在学していたのと同じだけの時間を離れて過ごしている。それだけの時間が経てば、昔の人間などいなくても新しい人間関係が構築できる。いつまでも誰かの手を借りないと生きていけない子どもではない。
「耳貸せよ。後回しにしたら覚えた情報忘れちまう」
「ハッ。鳥かよ」
「三十歩くらいは覚えてられるから俺の方が鳥より上だな」
「威張ってんじゃねぇ」
三年前は自分にしか許さなかった距離は、今はもう他の誰かとの距離になっているのだ。仕方のないことだ。ヒーロー業なんて遊びでやっているわけじゃない。常に命を張って、一瞬の油断だって許されない。情報の共有が重要で、そこに私情を挟むなど以ての外。
「ほら、爆豪早く。いいか、当日の動きは、」
でも、そこは自分だけの――。
気付けば二人の間を引き裂くように肩を掴んでいた。
「……は、え、えっと、なんッスか……?」
初対面であろう男に目をまん丸にして声を掛けられるまで自分が何をやっているか理解が出来なかった。ハッと意識が正常に戻ったときには爆豪が随分と間抜けな顔で驚いていて、もう一人は驚きから警戒へと感情をシフトチェンジさせている。
普段は何が起こっても変わらない顔が一気に熱くなって、それが体中に伝染していく。二人の肩を掴んでいる指先までジンジンと痺れるほどに熱い。物静かな心臓が破裂しそうだ。それほどまでに動揺してしまって、混乱している口と脳では上手い言い訳が思い付かない。
「あ、いや、すまん、すまない、あの」
これでは見た目そのままの不審者になってしまう。せめて、早々に名乗って爆豪との関係性を説明しなければと、ようやっと思考回路が繋がったときには爆豪に腕を掴まれていた。
そして。
「さっきの、もう大丈夫なんで、俺このまま直帰します」
爆豪が男を真っ直ぐに見つめてそう言い切った。
「でも会議の内容聞き取りにくかったんだろ? 決行日まで時間ねぇし今の間に……」
「大丈夫です」
「そうはいかねぇだろ、お前何考えてんだ」
男の声に怒りが混じり始めても爆豪は相澤の腕を離さない。それどころか逃げるなよとでも言いたげに力が強くなっていく。
「大丈夫です」
「だから、」
しかし流石に空気が悪すぎるからと相澤が口を挟もうとすれば、相澤が聞きたことのない名前を爆豪が口にする。目の前の男が反応した。もう一度その名前を呼んで、きっぱりと言い切る。
「この人がいるんで、大丈夫です」
何も心配いらないと、そう続いた爆豪の言葉に暴れ回っていた心臓が段々と落ち着いていく。昂った感情を宥められている気分だ。あぁいつの間にか在学時と反対になってしまって、情けないなと頭を掻いた。
相澤は爆豪の言葉を裏付けるように名乗り、関係を説明し、頭を下げて非礼を詫びる。男は相澤が教師だということに驚いた後に納得して、警戒していた表情を緩めた。いや、緩めると言うよりはニヤニヤと笑うようになって「じゃあ邪魔者は帰るよ、二人でどうぞごゆっくり」と乱暴に爆豪の頭を撫でて会議室を出て行った。
(……邪魔者扱い、してしまったか)
そんなつもりはなかったけれど、二人の仲を引き剥がすようにしてしまった行為はそうとも取れるだろう。申し訳ないことをしたと再び心の中で謝って、残された爆豪に視線を遣る。爆豪は乱された髪の毛を直すように撫でて、舌打ちしている。アイツ覚えてろよと苦々しく吐き出すくらいにはどうやら仲は良いらしい。
「……あー、その、爆豪」
掴まれていない自由な腕を動かして、手入れなどしていない無精髭だらけの頬を掻いた。
すると爆豪は自分の耳をトントンと指先で叩く。
「俺たちもここ出ようぜ。ちゃんと説明してくれんだろ」
警察署の駐車場に停めてあった相澤の車まで二人で走って乗り込む。濡れてしまった服を適当に払っていれば助手席からハンドタオルが差し出される。ありがとう、と言いながら受け取って使わせてもらい、昔と変わらずこういうところはちゃんとしてるんだなと感心した。
「アンタって車持ってたんだな」
「あぁ、これは学校の公用車だ。ヒーロー事務所や警察署の立地によって電車と使い分けてる」
「相変わらずゴーリテキに生きてんのな」
「まぁね」
どうやら昔と変わらない部分があるのは爆豪だけではないらしい。
話をしながら貰ったばかりの資料を広げて、雨の音に邪魔されないように手を添えて耳打ちしながら聞こえなかった部分の説明をしていく。相澤から見た主観は取り入れずに、警察側が説明してくれていた通りに。爆豪も静かに耳を傾け、説明が終われば理解したと頷いた。
「でも、アンタならここはどうする?」
頷いて、すぐに質問を投げかけてきた箇所は相澤も警察側の準備だけでは不十分だと感じていたところだった。
「此処に配置されているヒーローの個性が霧なら、例えば――……」
説明を聞きながら頭の隅で考えていたことを爆豪に話して、あぁでもないこうでもないと話し合いを深めていく。当日、不測の事態がないように。特にメインで動き回ることになるであろう爆豪は色んなパターンの推測を相澤に投げかけていく。相澤も出来るだけそれに答えられるように思考を巡らせ、今まで培った経験値を発揮する。
話している内容は、在学時よりももっと深く濃密で。仕事への姿勢は立派にプロヒーローとしてのそれだった。学生の頃から何事にも手を抜かず、誰が相手でも油断せず、トップヒーローになれるだけの素質を持っていた子ではあったが、いっそう成長している姿に感銘を受けた。
同時に懐かしさも感じていた。
聞こえなかった部分を耳打ちするという機会は、実は決して多いものではない。天気のいい日が続けば何の支障もなく日常生活を送ることができるし、体調管理をしっかりとしているから滅多と風邪もひかない。学年が上がればインターン期間のほうが長くなる時期もある。だから何か月も間が空くことだってあった。
でも、年に何度かあるこの時間が存外楽しかったのだと思い出す。思い出したら、ずっと欠けていた心の端っこが修復されていく気分。至近距離で覗き込む事が出来る石榴色の瞳も、色素の薄い頬も、人を寄せ付けないように尖っている髪の毛の意外な柔らかさも、息が当たる度にほんのりと色付く耳も、喜怒哀楽の落ち着いた声色も。全部が、優しく満たしてくれる。安心したようにそっと息を吐いた。
この感覚はなんだろう。声の大きな旧友にも、露出したがる先輩にもよく言われるが、自分の感覚を繊細に感じ取るのは得意ではない。感情の機微にも疎い。けれど、これは決して悪いものではないと言い切れる。
「……先生?」
どうしたんだよ、黙り込んで。心配そうに爆豪が顔を覗き込んできた。
随分と二人で話し込んでいたから、爆豪も昔に戻った気分なのだろうか。会議室で見た横顔より幼く見えて、制服の幻が見えた気がした。懐かしい面影にふっと笑って、目を細める。
「な、んだよ……」
すると頬にさっと赤みがさした。動揺したように瞳が揺れて、言葉に力がない。
(……ん?)
その反応に修復されたばかりの心がざわつく。僅かに浮上して、名前が付けられない感覚が全身に広がっていく。なんだ、なんだ、と考えて。一方で顔を赤くしている爆豪が可愛くて、愛でたくて仕方がない欲望が腹の底から沸き上がってくる。
本能的に「これは、だめだ」と察知した相澤は体を引くようにして距離を取り、運転席のシートに凭れる。誤魔化すように捕縛布を撫でた。
「会議終わったのに、事務所に戻らなくていいのか?」
戻るなら送っていくよ、と資料を片付けながら話を逸らしたのに、爆豪に送っていかなくていいと断わられてしまう。
「俺今日は昼で仕事終わってんだよ。寧ろ残業して会議出席してただけだから問題ねぇの。先生は?」
「俺もこれは個人的に依頼受けていたものだからな、学校業務は終わらせてる」
「そっか」
言って、相澤が仕舞おうとした資料に手を伸ばして文字を目で追う。帰るための口実は空振りに終わって、さてどうしたものか。爆豪を見ていれば胸の中が落ち着かなくて、雨が降りしきる窓の外を眺める。
この時間を終わらせたいわけじゃない。二人で居るのが嫌なわけじゃない。寧ろ逆なんだと思う。
まだ一緒に居たくて、話したくて、二人で居たいのだ。
(……ただ、)
形容しがたい感覚と感情が落ち着かなくて。行き場のない両手は、気を抜けば助手席に向かっていきそうで。
「なぁ、先生」
考え事に夢中になっていた相澤を呼ぶ爆豪の声に一拍遅れて返事をして、助手席へと顔を向けた。資料を呼んでいる顔が持ち上がって、ゆっくりとこちらを見てくる。相澤を見てニヤリと口角が上がった顔は、何故か誇らしげに見えた。
「アンタ、三年経っても俺の耳のことちゃんと覚えてたんだな」
言われて、うっと言葉を詰まらせた。生徒の特徴を、特にヒーロー活動において不利になりうる特徴を覚えていることは教師として決して悪いことではない。けれど、この三年間の未練がましい自分の行動を見透かされているような気がして言葉が出なかったのだ。
「ずっと、覚えてくれてたんか?」
その一瞬の隙を爆豪は見逃さない。資料は乱雑にダッシュボードの上に放って、運転席側へと距離を詰めてくる。
「別に、たまたま覚えていただけだ」
「ふうん?」
揶揄うような声色に情けない言い訳をしても通じていなさそうだ。
「じゃあさ、卒業式の日、何を話したかはもう覚えてねぇんか?」
覚えていないわけがない。だってあの日の瞳の色がいつまでも網膜に焼き付いて離れなかったのだ。一ミリにも満たない水膜の意味が知りたくて、季節がどれだけ巡って新しい生徒に出会っても気を抜けば記憶の片隅で声が聞こえた。右耳を撫でて、聞こえなかったと近寄ってくる姿を見た。
「……礼を、言われた」
「覚えてんじゃねぇかよ。……でも、それだけ?」
「……」
「なぁ」
「近くで聞く声が好きだった、だろ」
「やっぱり全部覚えてんじゃねぇか」
クツクツと笑う爆豪に相澤は眉を寄せて、もういいだろうと言った。そうは言っても車のエンジンはかけないし、追い出すわけでもない。抱えきれない不可解な感情を持て余して焦りに変わって、しかし爆豪はまた距離を詰めてくるのだ。甘い匂いがする右手で相澤の左腕を掴んでくる。
そして。
「声も好きだった、今でもずっと覚えてて、アンタがいいって言ったら、どうする」
勝気に弧を描く唇に、息が詰まりそうになった。
狭く、静かな車内に雨の音と一緒に零れたその言葉は相澤の鼓膜をしっかりと震わせる。
「さっき、先輩のことを引き剥がしたのが、嫉妬だったらいいのにって思っちまってんだけど、俺」
珍しく素直な言葉で心情を吐露する爆豪に引き摺られるように、名称不明の感覚が、感情が、一気に色づいて輪郭を強調させていく。三年間の未練に新しい名前が付いて、最初からそこが居場所だったかのように心の真ん中に座り直した。
カチリ、と音を立ててピースが嵌った。心の形が本来のものへと戻っていく。
(――……あぁ、そうか)
形容しがたい感情の謎が解けて、そろそろと両手を伸ばしてみたけれど拒絶されることはない。
引き寄せるように均等の取れた筋肉がついた上半身を抱き締める。たったそれだけのことで、全ての問題に答えが出たようだ。
「せんせぇ」
いつまで経っても忘れられなかったのも、誰かにこの位置を奪われるのが嫌だったのも。
(俺は、知らないうちに、爆豪のことを)
そこまで考えて、相澤は互いの心臓の音を共有できる距離で初めて真正面から耳打ちをした。
形のいい耳に唇を寄せて、名前を呼んだ。
耳に吹き込んだ恋の声色は、爆豪だけが知る。