宛先不明のアイラブユー

天井まで続く大きな扉を開けた先の教室。机と椅子が二十組。入り口から一番遠い窓際の列の前から二番目。そこが自分の定位置だった。


「……なんも変わってねぇな」
誰の席かも分からぬ机に指を這わせて、爆豪は窓の外の景色を見つめる。夕暮れ、というにはもう薄暗くなり始めている校舎に生徒はいない。ただ静かな時間だけが流れている。
「爆豪」
その静寂を裂くように名前を呼ばれて振り返る。開けっ放しにしていた扉から顔を出したのは、相変わらず真っ黒なコスチュームに身を包んでいる相澤だ。年齢を重ねているにも関わらず、見た目はあまり変わっていない。声も姿勢も、合理的なことを好むところも、何も。
だからこそいっそう懐かしくなって、イレイザーヘッドではなく先生と呼んだ。
「……お前でも感傷に浸ることがあるんだな」
相澤は驚いたようにパチパチと瞬きして、それから。
「校長が呼んでるぞ。今日の礼がしたいらしい」
と、続けた。
「礼を言われるようなことはしてねぇよ。ただの仕事の一環だ」
プロヒーローが母校で演習の指導をするなんて、他の事務所でもよくやっていることだ。それに未だ校長の話は長いと聞いた。時間の無駄になるようなことはしたくない。
「そう言うな。生徒たちも随分楽しそうだった。このクラスは性格も個性も攻撃型寄りのやつが多いからな。お前の動きは特にいい勉強になっただろう」
そして。
「アイツらの担任として俺からも礼を言うよ。忙しいなか来てくれてありがとうね、爆豪」
「……フン」
優しく目尻が落とされて、そこは年相応の皺が出来ていた。爆豪の知らない時間が相澤の中でしっかりと流れていることを証明されたような気がして胸が苦しくなった。あぁこういう苦しさは苦手だ。
「礼を言うくらいなら俺の言う事一個聞いてくれよ」
「なんだよ。ジュースでも買ってやろうか?」
「ガキ扱いしてんじゃねぇぞ、コラ」
「冗談だ。……で、なんだ」
「そこ、立って」
首を傾げる相澤に爆豪が教卓を指を指した。この席が爆豪の定位置とするならば、そこが相澤の定位置となる。
「お前、本当にどうした。そんなに懐かしむほど学校好きだったのか」
「うるせぇ。はよ」
急かせば相澤がのそのそと教室に入ってきて教卓に立つ。手に持っていた書類を置いて、こちらを見てくる。爆豪はなにも答えずに席に着いた。自分のものではない机に肘を付いて、掌に頬を預けて、ニコリともせず。相澤をじっと見ている。
「爆豪、何がしたんだ」
「いいから」
定位置のはずなのにどこか落ち着かない様子で相澤は声をかけてくるが、ピシャリと跳ね除ける。頬杖をついたまま瞼を下ろす。
記憶の中のクラスメイトが騒いでいる。騒いで、馬鹿やって、先生が入って来たらピタッと静かになって席に着く。「おはよう」と爽やかな朝に似合わぬ眠そうな声で挨拶されて一日が始まる。
そんな三年間をここで過ごしてきた。三年間ずっとここで、この席で、この角度で。教卓に立って先生をしている相澤を見てきた。
好きだと告白をするには曖昧で、尊敬と言うには下心がある。
そんな取り留めのない感情だったけれど、やっぱりあれは恋だったのだと今日再会して実感した。
昼間に比べて冷たくなった風が窓から入ってカーテンを揺らす。爆豪の半袖を悪戯に引っ張って、剥き出しの腕を撫でる。いつの間にかクラスメイトの声は聞こえなくなっていた。当たり前だ。今はもうみんな散り散りになっている。それぞれ自分の居場所で頑張っている。誰も此処にはいない。
すう、と深く息を吸って。吐き出しながら瞼を持ち上げた。目線の先に相澤がいる。こっちを見て、名前を呼んでくる。
たったそれだけのことが、どれだけ幸せな環境だったか。
(全部が終わってから気付くとか、バカだろ)
雄英に帰ってきても、相澤先生ではなくイレイザーヘッドと呼ばなくてはならない自分。相澤先生と呼んで慕うことが出来る今の教え子たち。先生また明日ね、と笑って手を振れるのは自分ではない。
あぁ寂しいなと、柄にもなく思って笑えた。
だから。
(この教室に置いていこう)
また明日ねともう言えない自分の想いなど、宛先のないラブレターなど、高校時代に置いていこう。
「付き合わせて悪かった。校長のとこに行こうぜ」
結局何も彼に説明はしないまま、すっと立ち上がって教卓の前を通って出口へと向かう。校長に付き合うのが面倒くさいなぁなんて考えていれば、唐突に腕を取られた。
「……ンだよ」
睨むように振り返って目を合わせれば、相澤がわざとらしく深々と溜め息をついてきたので、だからなんだよと声を荒げた。
「お前は本当に昔っからそうやって、あぁもう……」
「なんだよ! 一人で勝手に呆れてんじゃねぇ!」
「先生を試すのもいい加減にしなさい。寂しそうな顔して、……くっそ、相変わらずかわいいな」
「ハァ? 今なんて言ったんだ、ブツブツ言われっと聞こえねぇ」
「今は聞こえてなくていい。あとでちゃんと言ってあげるから」
「なにを? つうか、あとってなんだよ」
顔も思い出したくない幼馴染よろしくブツブツ言っている相澤は一向に腕を離してくれない。グイッと引っ張ってもビクともしない。
「爆豪。お前このあとの予定は?」
「校長の話が終われば直帰」
「明日は?」
「休み」
「よし、ちょうどいいな」
「あん?」
「今夜一緒に飲もう。お前なんか酒とか拘りあるか? なければ適当に店を見繕っとく」
「ないけど」
「分かった。これ仮眠室の鍵だ。そこで待ってなさい。迎えに行く」
「あ? お、おぉ……? ん…?」
本当に分かったか? と念を押すように聞かれて、勢いに負けて素直にうんと頷いた。なんか先生必死な顔してるなと呑気に見上げていれば、そんな顔して見るなと強制的に出口の方へと体の向きを変えられた。背中を押される。どうやら話は終わりらしい。
押されるがままに教室を出ようとして、ようやっと自分がとんでもない約束をしてしまったのではないかと気付く。
(……待て、待て待て、いま、この人、今夜一緒に飲もうって……)
ピシリと心臓が固まって、やっと飲み込めた状況に呼吸困難。
断るべきだと直感して振り返ろうとすれば、それより先に相澤の長い髪の毛が、左の耳と首筋に当たった。
そして。
「もう生徒でも子どもでもないからな。容赦しない。覚悟しとけ」
吹き込まれるようにそう言われて、ゾクリと耳が震えた。爆豪の知らない、聞いたことのない声だった。
「じゃあ俺は仕事を済ませてくるから、ちゃんと校長のところに行けよ」
心臓どころか脳も体もどこもかしこも固まって身動きが取れなくなった爆豪の頭を一撫でして、相澤はさっさと教室を出て行った。振り返ることのない背中は段々と小さくなっていく。
ぺたん、とへたり込んでしまった爆豪に手を差し伸べてくる者はいない。だがそれで良かったと心底思う。敵以上に敵のような顔だと言われている爆心地の欠片もない、こんな情けない顔誰かに見られたら一生外に出られない。
「――う、うそだろ……ッ⁉」
ここまで言われて何も分からないほど子どもではない。そして今夜は酒を飲むだけで終わりだと思えるほど純情でもない。相澤の言う通り、自分はもう高校生ではないのだ。
爆豪は空っぽになった教室をギロリと睨んで、返せと一言唸った。

返せ。置いていくと言ったその恋心を。
やっぱりこんな所に置いておけない。これは今夜、あの人に渡すのだ。

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