あいことば

「消太さん別れようぜ」
『何故だ』
電話の向こうであからさまに機嫌が悪くなる声にクツクツと笑ってしまう。プロヒーローなら少しは隠してみろよ。丸分かりじゃねぇか、ばぁか。
「アンタといるのが嫌になった」
『そうか。わかった』
不機嫌なくせに物分かりはいい。元々、合理的なことを良しとする男なので、こちらが別れたいと言っている所に縋ってくることはしない。別れ話を何十分も繰り返すなんて非合理的。
だから、それ以上の言葉が返ってくることはなく、縋られることはなく、終わった。何の温度もない。あっさりとした幕引き。うん、でも、悪くない。
スマートフォンが手からずり落ちる。カン、と狭い路地裏に響いて、痛む腹を抑えながらそろそろと息を吐く。震える唇に情けねぇと苛ついて噛み付く。痛むのは腹だけじゃない。足も腕も手のひらも頭も色んなところが痛いし、血が止まらない。心臓が最期の悪足掻きだとでも言いたそうに過剰労働している。激しい脈が頭に響く。一度座り込んでしまってから立ち上がれる気がしない。単純に血が足りない。クラクラする。
「くっそだせぇ」
薄汚れた壁に背中を預けて、自嘲。
せっかくのオフだから新品のシャツに身を包んだのに廃棄決定だ。破れた黒のパンツも、バックルが欠けてしまったベルトも二度と使えないだろう。
勿体ないなぁなんて思考を巡らせていれば、砂利を踏む音に邪魔をされる。もう追い付かれたのかと舌打ち。
「最期の挨拶は済んだのか爆心地ィィィ!」
「ハッ! クソが、気でも、遣ったつもりか」
余裕綽々といった様子で見下してくるその敵の手の平から撃ち出される、散弾銃のような水の槍が厄介だった。水圧は自在に操れるらしく、爆豪の汗は何度も流され、体温は強制的に下げられ、思うように爆破で応戦が出来ずに槍に貫かれた。ご丁寧に返しまで付いていたので出血が酷い。
せめてヒーロースーツならば、籠手や手榴弾に溜め込んだニトロでどうにか出来ていたかもしれないが、今更言っても仕方ない。ないものはないのだ。それをとやかく言うのは、やはり非合理的だろう。もう他人になってしまったあの人に怒られてしまう。
「いい面になったじゃねぇか。そっちの方がイイ男だぜ?」
「テ、メーなんぞに、褒められて、も、嬉しかねぇわ、死ね」
「この状況でもそんな言葉が出るっつうのに驚きだぜ。残念ながら死ぬのはお前だよ、爆心地」
ゆっくりと近付いてくる敵は、爆豪を追い詰めたことが楽しくて仕方ないのか上機嫌だ。下品な笑い声が耳障りで仕方ないが、耳を塞ぐ余力はない。
敵はまだ喋っている。声高らかに俺はお前が大嫌いだったとか、その生意気な瞳を貫いてやりたかったとか。どうでもいい話ばかりで聞く価値もない。
「でもまぁそろそろ。応援が来ても面倒だからな。一思いに殺してやるよ」
「すんならさっさとしたほうが、いいぜ」
「ご忠告、ドウモ」
恭しく頭を下げてきて、そして見下してくる瞳が見開かれる。
「お望み通りにしてやるよ…! 死ねェェェェ!」
翳される手の平。膨れ上がる殺意。癇に障る高笑い。
それでも。
「――…あぁ残念だな」
爆豪は血塗れの顔で綺麗に笑う。
「早くしろよってせっかく助言してやったのに」
あの人、本気出したら俺より足が速いんだ。
つい、と視線が上へと向けられる。綺麗な顔で微笑んだまま、愛おしいものでも見るかのように目が細められて。その表情に水の槍は動きを止める。つられて敵も上を見る。
路地裏から見上げる狭い夜空に黒い影。その中で妖しく、そして怒りの感情をすべて凝縮したように紅く煌めく二つの瞳。
「――ッ!?」
背筋が凍るような目線に、本能的にそちらへと槍の照準を合わす、――が。
「な…ッ!」
あの男に「見」られてしまっては個性はもう使えない。
そんな感覚は個性が出現してから味わったことがないのだろう。目を丸くして青褪めているのを、爆豪は鼻で笑った。
敵は慌てて後退るも、それより早く意志を持ったかのような動きを見せる布に絡みつかれる。息が出来ないほどに締め上げられて、逃げられないまま影が音もなく目の前に落ちてくる。
そして声を出す間も無く、的確に殴られた顎から伝わる重い振動。あ、と思うよりも前に敵の体は古びて汚れた壁にめり込んでピクリとも動かなくなった。
空から降ってきた影が爆豪に駆け寄る。
「しょうたさん」
浅い呼吸の隙間で名前を呼べば、電話越しでは感じなかった温度のある声で名前を呼ばれる。
「直に救急車も来る。まだ意識飛ばすなよ」
「ん、わりぃ」
「いい。そのまま俺を見てろ」
「かっこいいな、それ」
出血の止まらない腹部を抑えて応急処置を施していく相澤に、爆豪は力なく笑う。
この人の顔を見たらなんだか気が抜けてしまった。貧血が酷くなって頭に靄がかかる。視界がいっそう狭くて、相澤の顔が薄暗く見える。勿体ないなぁ、もっと見ていたいなぁ、なんて呑気に考えた。
「ったく、やっぱりあの合言葉はダブルで心臓に悪いから止めにしないか」
「だめ」
「お前俺が間に合わなかったらそのまま別れるつもりだろうが」
絶対に許さないと目で訴えられて、うずうずと血の足りない心臓が擽ったい。執着を表に出さない恋人から与えられる独占欲が心地いい。
「でも、しんだら、別れたような、もん、だろ?」
「死んだって離すもんか。あの世でまたお前に美味い飯を作ってもらう。仕事がないから二度寝だって出来るし、最高じゃないか。一緒にずっと怠けていよう」
「そ、ん、なこと、していいんかよ、あの世って」
「知らん。勝手にするさ。この世では雁字搦めにされてるからな。死んだあとくらい好きにお前を愛させてくれ」
これ以上愛されてしまうと、本当に離れられなくなってしまうから嫌だと言いたいけど。冷えてきた口が上手く動かない。
かつき、かつき、と声は聞こえる。
目は、開いているのだろうか。暗くてよく見えない。でも見ていたいから懸命に力を籠める。だって今の相澤の顔は、爆豪が一番大好きなヒーローの顔をしているのだ。一秒だって逃したくない。
「いい子だ。そのままちゃんと見てろよ。あと少しだ」
褒められて、思わず口元が緩む。
相澤の言葉を裏付けるように遠くでサイレンが鳴り響いている。あと少しでここに辿り着くだろう。

――…よかった。俺はまだこの人と生きていける。

折角のデートだからと購入した新品のシャツは血塗れの泥塗れで目も当てられない。この人が気に入っている黒のパンツは破れているし、脱がしにくいと文句を言われるベルトのバックルは欠けてしまった。
セットした髪の毛はぐしゃぐしゃで、顔だって汚れてる。鼻血も出てる。口の中も血の味。甘い雰囲気なんてあったもんじゃない。しかも何ヶ月かぶりのデートもキャンセルして入院待ったなし。これが一番辛い。
それでも。
「あいしてるよ、かつき。だから生きて」
なんて言われてしまったら。
「しょうたさん、わかれるの、うそ、だから」
そうやって無様に縋ってしまうのだ。

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