溢れた涙の安息地

「先生どうしよう、爆豪が泣いた! んでどっか行っちまった!」
さぁ今からテストの採点するか、とゼリーを飲み込んだばかりのお昼休み。大慌てで職員室に入ってきた上鳴が相澤に縋る。顔も首も汗で濡れていて、綺麗にセットしている前髪も雑多に額に張り付いていた。喧嘩でもしたかと考えながら名前を呼べば、上鳴の顔がくしゃりと歪む。
「どうしよう」
泣く一歩手前。ただの揉め事ではなさそうだと判断して、隣の席のプレゼント・マイクに声を掛けた。言われずとも最初から手伝うつもりだったのだろう。プレゼント・マイクはすぐに立ち上がって上鳴の肩を叩く。
「俺も探すからそんな泣きそうな顔すんじゃねぇよ、リスナー」
「う、は、はい……」
「上鳴は俺と一緒に来い。状況を言え。マイク、見つけたらすぐに電話しろ。騒ぎ立てると余計に隠れちまうから個性は絶対に使うなよ」
「オーケー! っていうかあのリスナーは猫かよ!」
場を和ますようにわざとケラケラと笑ってみせるプレゼント・マイクに、猫には似てないぞとだけ返事を返して廊下に出る。
職員室を出てすぐにプレゼント・マイクと別れた。上鳴から事情を聞きながら潜り込めそうな空教室一つ一つを探していく。トイレや準備室、誰もいない教室、どこも爆豪の気配はない。
上鳴からの説明によれば、会話している途中で爆豪が唐突に泣き出したらしい。
「なんの話をしてた」
「それが」
聞けば、ただゲームアプリの話。リズム系のゲームで、なかなかクリアできないことろがあるのだと言えば、初見にもかかわらず爆豪が一発でクリア。
だから、
『なんでもすぐ出来るから凄ぇよなぁ。羨ましいぜ』
と、やっかむわけではなく、純粋に思ったことを言った。
その瞬間に突然ポロリと涙を零したと言う。上鳴が驚いて目を丸くしていれば、その反応を不思議に思った爆豪自身もすぐに涙に気付いた。次の瞬間には青褪めて教室を飛び出してしまった。すぐに後を追ったけど見つからず、校舎を一周してしまったところで職員室に駆け込んだと言う。
「先生、俺が、」
「お前からの話だけじゃ結論は出せん。こういうのは両方の意見を聞いて総合的に考えるべきだ。答えを急ぐな」
「……はい」
 普段の元気さを潜めた顔でこちらを見てくる上鳴の頭を撫でてやる。言った通り答えは急いで出すものではない。それに今は善悪を決めるよりも優先すべきは爆豪の発見。
しかし、時間は有限。走り回っている間に予鈴が鳴って、上鳴を教室に帰すことにした。相澤も付き添い、教室内を確認したけれどやっぱりいない。プレゼント・マイクからも連絡が来たが、見つからなかったらしい。
「そうか、分かった。あとは俺一人で探してみる」
次は授業の受け持ちが無かったので、相澤はそのまま引き続いて捜索に当たる。
寮も問い合わせてみたけれど帰ってきていない。監視カメラを確認したが校外には出ていない。あとは何処を探していないだろうかと外に出る。授業が始まって随分と静かになった中庭を抜けて、薄暗い校舎裏まで歩く。
すると相澤がひっそりと可愛がっていた猫が顔を出して擦り寄って来た。お腹が空いているのか甘えてくるので、しゃがんで頭を撫でる。野良猫だけど毛並みが良く、気持ちいい。
「今は餌を持ってないんだ。すまんな」
なんて謝れば、猫が「いいよ」なんて言うように、にゃあんと鳴いて頭を振る。
ふわりと甘い匂いが広がった。
「なぁ。お前がさっきまで居たところに連れて行ってくれないか?」
その匂いには覚えがあった。香水ともシャンプーとも違う。もっと心を惹き付けられるような深い甘さ。魅惑的な香り。それなりに長い人生の中で初めて、こんなにも人を引き付ける香りがあるのかと驚いたから忘れられない。
相澤の言葉が通じたのか猫が歩き出す。ちゃんとついてきてね、と尻尾が優雅に揺れた。薄暗い校舎裏を突き進み、影が濃くなっていく。陽が当たる中庭よりぐっと温度が下がる。
辿り着いた先は、薄暗い植え込みの陰。そこから鼻を啜る音。相澤はホッと息を吐いた。
「見つけた」
気配に聡い子なのに、珍しく大袈裟な程に肩を揺らしてこちらを見上げる爆豪。まさか相澤が来ると思っていなかったのだろう。いつもは人を威嚇している瞳が、年相応に幼く、丸くなっている。その瞳から涙は止め処なく溢れている。
「せ、んせ」
「授業始まってるぞ」
「……」
「爆豪」
「あと一時間くらいは戻れねぇ」
「なぜだ」
「……」
「黙ってちゃあ分からん」
膝を抱えて丸く小さくなっている爆豪を見下ろすのが嫌で隣に腰を下ろす。距離を詰めても逃げられないことにひっそり安堵する。
相澤を連れてきた猫は、爆豪を慰めるように足元に擦り寄って、可愛らしい声を上げる。
「これ、止まんねぇんだよ。泣きたくなくても」
「よくあるのか」
「……一年に何回か。いつもは週末とか長期の休みの時になんだけど」
「寮生活になったからか」
「ん」
生活スタイルが変わってしまったから周期がズレた、もしくはタイミングが合わなかったんだと思うと続く。
「じゃあ上鳴に言われた言葉が嫌だったわけじゃないのか」
「たぶん。よく分かんねぇ、これ、俺も」
話をしても涙の勢いは収まらない。ポロポロと音がしそうなほどだ。爆豪は擦ることなく、ただ涙を流すだけ。その方が、目が腫れないのをよく知っているのだろう。時々猫の頭を撫でて、鼻を啜る。
「このことを誰かに相談したことは? ご両親には?」
「言ってねぇ。……誰にも言いたくねぇ」
まぁそうだろうなと爆豪の性格上それを納得。
ならば、世界で初めてこのことを知ってしまった自分はどうすべきなのかと、教師の頭で考える。図らずとも、爆豪の最大の秘密に触れてしまった。本人でも分からない涙の理由。
――しかし、相澤の頭の中にはひとつ仮説がある。
「涙が止まらなくなった一番初めのことを覚えているか?」
聞けば、うんうんと悩みだす。そして記憶の箱をひっくり返した爆豪が、あ、と声を上げる。
「ババァに」
「こら」
「……母親に、すげぇ褒められた」
「褒められた?」
「何だったか覚えてねぇけど、すっげぇ褒められて、アンタは凄い、強い、って……?」
言いながら爆豪の頭の周りにクエスチョンマークが飛び交っている。思い出しながら自分で不思議で仕方ないのだろう。
凄いと、強いと、すぐに何でもできると褒められるのは嫌じゃない。寧ろ好きだ。それもいつもは怒ってばかりの母親に手放しで褒められたら喜ぶ以外ありえない。なのにどうしてあの日泣いてしまったんだろう。それが思い出せない。
普段の威勢が嘘のようにたどたどしく、不安げに紡がれていく言葉。
「そうか」
相澤は爆豪の様子を伺いながら、仮説が外れていなかったことを察した。
(最初から甘えるのが下手な奴だとは思っていたが)
甘え下手という前提がそもそも間違いだったようだ。爆豪の頭の中には「甘える」という選択肢自体がない。
凄いから、強いから、何でもできるから。だから、一人で頑張らなくてはならないのだと、甘えてはいけないのだと思い込んでいる。そして幸か不幸か、確かに一人で全てが出来てしまうほどに器用で要領が良くて勤勉で努力家で、そして自信過剰という性質も持って生まれてしまった。
母親に褒められて泣いてしまったのは、もう母親にさえ甘えてはいけないと本能的に察したのだろう。子どもの心は大人が思っている以上に機敏で賢い。
(そうやって誰にも甘えられずに無意識下で飲み込んできた涙が一定の周期で溢れるってとこか)
今回は上鳴に何でも出来るから羨ましいと言われたのがスイッチになってしまったようだ。
これに関しては上鳴が悪いと言うより、タイミングが悪かった。
(さて、どうしたものか)
一朝一夕でどうにかなる問題じゃない。何年も染みついてきた習慣を変えるのは容易いことではないから。
(辛い時に泣けるようになればいいんだろうが、辛いと言う感覚にも鈍いかもしれんぞ、コイツ)
どうしたものかと考えを張り巡らせながら、猫の頭をゆったりと撫でる爆豪を見ている。猫は気持ち良さそうに喉を鳴らして大人しくしている。爆豪の掌に安心して目を細めて。
『あのリスナーは猫かよ』
そう、職員室で笑っていたプレゼント・マイクの言葉が頭を過る。そして、この猫と初めて会った時のことを思い出す。
人慣れしていなかったこの猫に何度も引っ掛かれ、警戒され、距離を取られ、頭を撫でるだけに一ヶ月以上もかかった。餌を手から食べてくれるのには倍ほどの時間を要した。その分、この猫には他の猫以上に愛着が湧いているのだけれど。
(マイクが言っていること、強ち間違いじゃないかもな)
にこの猫と爆豪は似ている。警戒心が強くて、毛を逆立てて、フーッと威嚇している所とか特に。
入学時の自分以外は丸っきり信頼してませんと訴えてくるあの瞳の強さはなかなかのものだった。ただプライドが高い奴なんだろうと軽く考えていたが、この子はそういう風な態度を取ることしか知らないのだろう。
今までどんな大人に出会って、何を言われて、されてきたかは相澤の知るところではないけれど。彼の信頼に値する大人は、飲み込んできた涙の存在を知らせる相手は、いなかった。
(俺もまだまだ信頼されていない側の大人だろうがな)
今回はたまたま居合わせただけで、本来ならこれは相澤にも見せるつもりはなかったのだから。
それに、自分は一度この子を守ることが出来なかった。それが教師として、大人として、ヒーローとして、どれ程罪深いものか理解はしているつもりだ。
だが、今はそんなこと言っていられない。過去の罪に囚われて、今の爆豪を見過ごすなんて愚の骨頂だ。
(辛い時に泣いて甘えて縋るのは悪いことじゃない)
しかし、それをそのまま伝えてしまうと、爆豪は沢山考えて計算して悩んで折れて、甘えたふりをするのだろう。そしてその甘えたふりは一瞥では気付かないほどに精巧なものなのだろう。
それでは駄目だ。一人で泣く回数が増えるだけ。
何か壁にぶち当たったとき、躓いた時、心無い言葉を投げられた時、自分の不甲斐なさを痛感した時。そういう時に、きちんと泣けるように。誰かに頼れるように。
今日が最初の一歩となりますようにと、掌に願いを込める。
「――…先生?」
初めて触った爆豪の髪の毛は思いがけぬ柔らかかった。
くしゃくしゃと混ぜるように撫でて、ポンポンと軽く叩く。きょとんと見てくる目にはやっぱり涙が引っかかっていて、また落ちていく。
「随分と懐いたな、この猫」
「は? ……あぁ、うん」
「コイツは俺以外に懐かなくてな。餌も俺以外からは食わん」
「そ、なんか」
だからなんだと、訝し気な瞳になる。
「でも俺も出張や授業の用意の関係で昼に来てやれないこともあるんだ」
だから。
「時々でいい。手伝ってくれないか」
「手伝う?」
「そうだ。俺が来られないときは餌をやってくれ。餌は用意しておくから」
「……いいんかよ、こんなん生徒にさせて」
「良くないな。だから俺とお前とコイツの秘密にしてくれると助かる」
頭を撫でられていることはもう慣れたのだろうか。少しずつ肩の力が抜けていく。
秘密に触れてしまったから、自分の秘密を明け渡す。出来るだけ立場はフェアにしたかった。
「わかった」
「ありがとう」
それから泣き止むまで爆豪は猫を撫で、相澤は爆豪を撫でる。餌をやっておいてほしい時の合図とか、餌の置き場所とか、そういった決め事の話をする。
(今は秘密を共有している身として、出来るだけ話をしよう)
まだ解決策は見出せていない。とりあえずの最善手として、爆豪の傍に居られるような口実を作っただけだ。理由もなく近寄れば、必要以上に勘繰って離れていくに違いないから。
そして今相澤が判断を間違えると、爆豪はきっと泣けないままの大人になる。
こんな風に誰の目からも外れた薄暗い場所で声も上げずに泣いて、そして涙が止まれば、泣いたことなど気取らせないように振舞って生きていく。凄くて強くて何でも出来る自分の殻を被る。
(……それは駄目だ)
この子は太陽の下が良く似合う。痛いくらいに強い陽の光を浴びて自分の個性を最大限に発揮して飛び回る姿が、よく似合っている。
だから、少しずつ、じっくりと。決して焦らず。
「爆豪、明日からよろしくな」


***


珍しく優しく落とした相澤の目尻に爆豪の中の記憶が刺激される。そして、ゆっくりと頭の中で優しい声が再生された。もうずっと昔から聞き慣れた声。
『そっか、それで泣いちゃったのか、かつきくんは』
わんわん泣いて喚いて癇癪を起こす自分に困り果てた母親と、タイミングよく帰宅した父親。二人は何かを話しして、それから父親はそう言った。
『かつきくん。だいじょうぶ、だいじょうぶだよ』
ここにいていいよ。ずっとずうっと抱っこしててあげるから。今日はみんなで一緒に寝ようね。明日はパパとお出掛けしようか。どこに行きたいかな?
外の匂いがする父親にめいっぱい抱き締められて、頭を撫でられて、頬にキスされて。泣きじゃくりながら明日の約束をした。
そうするといつの間にか涙が止まって、くったりと疲れて眠ってしまった。
(――……似てる)
年齢も顔も性格も、何もかも違うけれど。あの日自分を抱き締めてくれた父親によく似ている。
(この人は、きっと……)


相澤の言葉に素直に頷けば、その拍子に目尻からポロリと大粒の涙が落ちる。
それを最後にようやっと涙が止まった。

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