本棚に秘密をひとつ

彼と話をするのが、存外心地の良いものだと気付いたのはいつだったか。
「先生って図書室好きだよな」
「それはお前もだろう」
司書以外誰もいない静かな図書室の片隅で、お互い本を片手にひそひそと話をする。入り口から死角になっている隅の席はいつの間にか二人だけの特等席になった。
「そういや、俺の方が通い始めたの先だっただな」
「お前ね、俺がここで何年教師やってると思ってんの」
「入学前からのカウントとかずりぃだろ。勝負は公平に。ヒーローだからな」
「図書室の常連度にまで勝負を絡めるのはやめなさい」
くすくす、と。
楽しそうに、穏やかに笑う爆豪の顔をクラスメイトが見れば驚くだろう。相澤からすればすっかり見慣れてしまった表情に、つられるように口角が緩む。ふと気付くと目が合って、なんだと聞けばなんでもないと言って爆豪の視線が本に戻る。
今日、爆豪が選んでいるのは夏目漱石だ。理由は国語の授業で「坊っちゃん」を読み、そう言えば昔気に入った話があったなと思い出したから。手に取ったのは「夢十夜」という短編小説。
対する相澤が森鴎外を選んだのも似たような理由だ。昨日偶々見かけたテレビのクイズ番組で森鴎外が答えとなる問題を出題していた。その時にふと、そういえばあの物語の結末はどうだったかと気になったのがこの「高瀬舟」である。
「爆豪、お前はこれ読んだことあるか?」
「中学の時の授業で、ちょっと」
「全文は?」
「文章が苦手だったから途中で飽きた」
「そうか」
 二人が時折交わす会話に深い意味など特にない。ただ気になったことを、思いついたことを、好きなように話すだけだ。
 物語に集中していれば会話はすぐに途切れるし、返事がなかなか返ってこないときもある。それでもいい。お互い怒ることはない。
好きな本を好きなように選んで、好きなときに話しかけて好きなように返事をする。
 ――だからきっと。広い広い図書室の片隅のこの席も、お互い好きで選んでいる。
「……」
「……」
 会話はなく、静かな呼吸の音と紙を捲る音だけが鼓膜を揺らす。
偶然、紙を捲るタイミングが同じだったことに気付いたのは相澤だけではなかったらしい。分厚い本の向こう側で爆豪がふっと息を吐くように笑ったのが聞こえて、相澤は視線を上げた。
「いっしょだな」
 沈んでいく夕日の、最後の輝きが爆豪の石榴色の瞳に乱反射して、その時に膨れ上がった気持ちは血となって全身に回っていく。
 どう返事をしたのか相澤はよく覚えていない。
けれど、この時の爆豪の顔が目に焼き付いて、下校のチャイムが鳴り響くのが心底勿体ないと思ってしまったのは覚えている。
 忘れられない思い出は、爆豪が卒業した今も図書室の特等席で息をする。


***


 適度に冷房が効いた部屋のベッドの中で随分と懐かしい夢を見た。なんであの夢を見たのか、なんて考えなくても分かる。
夢を見た理由がもぞもぞと腕の中で動いたと思ったら、まだ眠そうな目を一生懸命擦って、ひとつ大きな欠伸。
「おはよう」
 仕草がまるで猫のようだと思いながら相澤が声を掛ければ、石榴色が彷徨うように視線を揺らして、そしてようやっと上を向く。焦点があった瞳がしっかりと相澤を映し出して、頬と耳をうっすらと赤く染め上げる。涙の跡がうっすらと残ったままの目尻が下がって、おはようと返事をしてくれた声は掠れていた。
「体は? 痛くないか?」
「……腰が、ちょっとだけ」
「そうか。すまない」
「別に、こんくらい。多分ちゃんとストレッチして、ちょっと動いたら治る」
 こんくらいでそんなに心配するな、なんてことを言うので相澤は痛くないように頬を抓って、そんなことを言わないでくれと懇願した。
「心配したいんだ。させてくれ」
「……は、ずかし、いから、やめろ」
「なんだよ。もっと恥ずかしいことし、」
 べちん、と音を立てて爆豪の大きな手の平が相澤の顔面を真正面から叩いた。こちらは全く容赦がない。すごく痛い。
「朝っぱらから爆破されたいんか、アンタ」
「すまん」
 顔に触れている手の平は熱いくらいで、本当に恥ずかしかったのだと伝わってくる。その手を掴んで、ぎゅうと繋ぐ。
「時間はまだある?」
「ん。まだ目覚まし鳴ってねぇから」
じゃあもう目覚ましが鳴るまで、と手を繋いだままで、体を寄せて、枕は半分こ。同じ位置の顔を擦り寄せたら、髭が痛いと怒られて、それでも相澤は離すことはない。
普段よりも上昇している爆豪の体温が、しっかりと自分に流れ込んでくるまで。それから目覚ましに邪魔をされるまで。夢にまで見た朝を噛み締める。


 朝ご飯は用意しておくから顔を洗っておいで、と今日も仕事へ行く爆豪を洗面所へと送り出す。
 用意しておく、なんて言ったものの、準備してくれているのは昨夜の爆豪である。相澤は無いセンスをフル稼働させて一生懸命お皿に盛りつけていく。あぁそういえばパンを焼くと言っていたなと、慌ててオーブントースターにロールパンを入れた。
(今日は、確か半日で帰ってくるはず)
 事務所のサイドキックが一人体調不良で急遽休むことになったからその穴埋めで半日出勤するのだと昨日言っていた。とは言え、ヒーロー業に予期せぬアクシデントなんていうものは付き物だ。きっちりと半日で返って来るかどうかは確証を得ないが、それはもう祈るしかないだろう。
 珍しく一日休みの相澤としては、そして昨日長年の片想いを実らせたばかりの相澤としては、一秒たりとも離れたくはないのだが、そういうわけにもいかない。
 仕事があると分かっているのに我慢できずに押し倒して、恥ずかしがる爆豪を余すとこなく食らってしまったのだから、反省も込めて大人しく待っている必要がある。なんだったら仕事終わりの爆豪を完璧にもてなして、癒して、マッサージまでしてあげたいところである。
(……いや、待て。仕事終わりに来てくれる約束なんてしてないぞ)
 三十代の半ばを過ぎても、まだまだ夢見がちな自分に苦笑いしか出てこない。下手をしたら、最近の高校生の方がもっとクールな恋愛関係だったりするものだ。
 しかし、会いたい。大人の威厳も矜持も、全てを投げうってでも一緒に居たい。出来ることなら明日の朝まで。
 うんうん唸りながら深く考え込んでしまった相澤の後ろでロールパンが焦げているのだが、それに気付くのはきっちり一分後である。当然爆豪には怒られてしまった。


 きゅっとスニーカーの靴紐を結び直して、立ち上がった爆豪にバックパックを渡す。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。気を付けて」
 ツンツンと尖った髪の毛も、キリッとしていて鋭いつり目も。表情の一つだって昨日と何も変わらないけれど、それでも昨日までの爆豪とは全く違うように見えてしまう。ただの教師と元教え子では知らなかった爆豪の表情を一晩かけて沢山見たからだろう。
いってらっしゃいと言おうとする口が寂しいと言ってしまいそうで、うまく動かない。
 更に。
「あのさ、消太さん。また、来ても、いいか……?」
 出来れば今日の仕事終わった後とか。
そんな可愛いことを言ってくるものだから、いっそう離れ難くなる。
 制御が効かない両手を伸ばして、バックパックごと爆豪を抱き締めて。ついつい離れたくないと零してしまった。本当に自分は昨日から迷惑をかけっぱなしじゃないかと鬱々とするけれど、腕の中にいる爆豪は吹き出すように笑っている。胸のあたりをやんわりと押し返されて、距離が出来て、爆豪の顔が相澤を覗き込む。
 そして。
「いっしょだな」
 いつかの図書室の片隅で、相澤に恋を教えた石榴色がまた煌いた。
 忘れられなくて、何度も何度も夢にまで見たあの笑顔は、分厚い本の向こう側じゃない。夢のように穏やかな朝の、自分の腕の中にいる。
あの日読んでいた夏目漱石や森鴎外ならば、これをどんな風に表現するのだろう。
残念ながら文才のない相澤にはありきたりな言葉しか浮かんでこないけれど、それはそれで正解なのだと思いたい。
「いってらっしゃい。待ってるよ」
「ん。行ってきます」
 名残惜しくも夏の空の下へと足を踏み出した爆豪をいつまでも見送って、まずは洗い物を片付けるためにキッチンへと向かう。
 そして、爆豪のために何をすればいいのかと考えて、まさか自分がそんな風に考える日が来るとはと愛の偉大さを思い知る。

 ――きっと、いつか爆豪に知られてしまうだろうけど、それまでは。
 この部屋の隅に置かれた小さな本棚の中にひっそりと並んでいる思い出の本は、今はまだ相澤だけの秘密である。

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