同棲している恋人、爆豪に「早く帰れることになった」とメッセージを送る指先は完全に浮かれている。何故なら今日は爆豪も早く終わるシフトの巡りだったから。ゆっくりと二人だけの時間が味わえるのだ。鼻歌の一つくらいは許してほしい。
しかし警察署を出て暫くしてもメッセージに既読のマークがつかない。これは残業になってしまったのだろうかと顎鬚を掻く。
ヒーローは二十四時間休みなしで働いているようなものなので、予想外の残業なんて珍しいことじゃない。爆豪が管轄している地区のネットニュースをこまめにチェックしながらマンションの近くまで帰ってきてしまう。メッセージはまだ既読にならない。
それでももしかしたら先に帰ってきて料理をしているから気付いていないだけかもしれないと言う期待を胸に潜ませて、最後の曲がり角を曲がって、足を止めた。
一直線上にあるマンションのエントランス。そこに爆豪の背中が見えた。
いや、爆豪と、その奥に自分が知らない女性が見えた。
(……あ)
二人の雰囲気に足を止めた。これは近付いてはいけないやつだ。そう直感した。
女性は正面から爆豪の左腕を掴み、懸命に何かを訴えている。顔を赤らめて、目を潤ませて、色付いたその唇を懸命に動かして、必死に。
何を訴えているかなんて聞こえなくても分かる。彼女は自分の胸の中で甘く熱く育った恋する気持ちを爆豪に伝えているのだ。
どういう流れでそうなっているのかは相澤の知るところではない。爆豪の反応もこちらからでは見えない。ただ、彼女の顔が曇っていくのは見えた。
(断ったのか)
彼女はとても可愛らしい顔をしていた。自分のタイプではないものの、きっと世の男性の大多数に好かれるような顔だ。ふわふわと風に揺れるセミロングの髪の毛。柔らかそうで、薄い肩。傷一つ無さそうな小さな体。露出された足は白く細い。ぐっと涙を堪えている瞳からはいじらしさも感じる。
それでも爆豪は全てを振り払うようにゆっくりと首を振った。
爆豪の態度に諦めるしかないと悟ったのだろう。彼女は掴んでいた腕を解放して、ぽろりと一粒だけ涙を流して去っていく。
相澤は思わず彼女の方を目で追った。しかし元より小さい背中。あっという間に見えなくなってしまった。金縛りにあったかのように動けなくなった相澤は、ぼんやりとした意識が戻るまでそこで立ち尽くした。
手の中のスマートフォンが僅かに震え、恋人からのメッセージを受信した。
『今帰ってきた。もう着くんか?』
もう着くよ、と沈んだ指先で返事を返す事が出来たのは、受信してから五分以上経ってからだった。
***
相澤が部屋に辿り着いて時にはもう爆豪は夕飯の準備をしていた。
「おかえり。早かったんだな」
「あぁ、うん、ただいま」
「警察の手伝いに行くんじゃなかったんか?」
「それがあっさり犯人捕まっちゃって」
「ふうん。はよ手ぇ洗ってこい」
「うん」
荷物と捕縛布だけ自室に置いて、部屋着に着替えてから言われるがまま洗面所に向かう。爆豪によって綺麗に掃除され、整頓されているそこで手を洗ってうがいをする。タオルだって今日もいい匂いがする。目の前の鏡だって曇り一つない。
「これはひどいな」
だからこそ、この情けない顔がよく見える。思わず鼻で笑ってしまう。
鏡の中の自分は、先程みた彼女と似ても似つかない、ただの四十路の男だ。
髪の毛だって伸びっぱなしで、体は爆豪よりも大きく硬く傷が多い。可愛くなりたいなんて願望があるわけじゃないが、確実に可愛いという言葉が全力ダッシュで逃げていくくらいに可愛さはない。
同性の教師と元教え子。埋まらない歳の差。そして世の摂理に従って衰えていく自分。まだまだ発展途上である爆豪はいっそう魅力に磨きがかかっていくだろう。爆豪には世の人間の目を奪うほどの華やかさがある。
――実際自分だってその内の一人だ。
男に興味があるわけでもなかったのに、あっと言う間にあの子に恋をした。自分の人生であんなにも感情が動かされたのは初めてだった。どうしても欲しいと思ってしまった。
爆豪に好きだと言われたときは年甲斐もなく舞い上がったし、今だって信じられないほどに幸せだ。
でも。
「……本当に、情けないな」
こうやって情けない顔をしてしまうくらいに、ひどく苦しい時もある。
「風呂でも入ってんのかと思った」
手洗いうがいに洗顔も追加して、ようやっとリビングに戻ってきた相澤に爆豪が料理をしながら声を掛けた。
「すまん。ちょっと考え事を」
「調子でも悪いんか?」
「そんなんじゃないよ」
「食欲は?」
「ある。今日は唐揚げ? 美味しそうだな」
「ったりめぇだろうが」
キッチンは俺の戦場だから入って来るなと言われているが、唐揚げの良い匂いにつられて傍へと寄っていく。フライヤーの中でパチパチと音を立てながら鶏肉がきつね色に揚がっていく。
どれだけ悩んでいてもお腹は空くので、それを見ているだけで腹が鳴って笑ってしまった。数年前までゼリーだけで済ませていたくせに、人間と言うのはどこまでも我儘になれるらしい。
「アンタが好きな梅肉和えにする」
「もっと楽しみになった」
「そうかよ。じゃあいっぱい食えや」
うん、と頷いて爆豪の手元をじっと見る。今日はもうこれを揚げるだけで終わりなのだろうか。普段はキッチン内をクルクルと忙しなく動き回っているのに、大人しい。
綺麗に揚がったものをパッドに移し、次の鶏肉を投入していく。ジュウ、という音が更に食欲をそそる。
「消太さん」
呼ばれて顔を上げた。爆豪はなんとも言えない顔でこちらを見ていた。
目が合って、菜箸を持っていない左手が相澤の頬へと伸ばされる。
「消太さん」
あ、と思うよりも前に人工的な華の香りがふんわりと鼻を擽った。爆豪が持つニトロの濃密な甘さとはまた違う、軽く不快な甘ったるさ。
考えずとも、それが何かなのかも誰のものなのかも分かってしまう。
だから自然と足が一歩引いた。届くはずだった爆豪の手は空振り。
「お、風呂、洗ってくるよ」
まだだろう? なんて言いながら出来るだけ自然に、引いた足を軸にして撤退しようとする。しかしそれより早く爆豪に部屋着を掴まれて引っ張られた。
「アンタ見てただろ」
確信を持った言葉にギクリと肩が跳ねる。何のことだ、なんて言ったところで誤魔化せるわけがない。元より嘘や誤魔化しを嫌う子だ。こんなあからさまな嘘なんて吐いてしまえば機嫌が悪くなってしまうに違いない。それ以前に爆豪相手に嘘を吐くのも嫌だった。
降参して、素直に頷く。
「いつから」
「……腕を掴まれてたのは見た」
「会話は?」
「聞いてない。と言うより、聞こえなかった」
「聞こえたら聞くつもりだったんか」
「いや、その、それは」
「まぁそこはどうでもいい。あれ見たから、んな情けない顔しとんか?」
「……やっぱり情けない顔してる?」
「してる。情けないっつうか、今にも死にそうな顔だな」
帰って来た時は驚いた、と爆豪はカラカラと笑う。話しながらも菜箸で鶏肉を泳がせて、火が通ったものから順にパッドに上げていく。全部終わって、火を止めた。
「随分と可愛らしかったのに、断ったのか」
「断るに決まってんだろうが。見てたんだろ?」
掴まれたままの服を引っ張られても、合わせる顔がない。今にも死にそうな顔とまで言われてしまっては恥ずかしくて見せられない。
更に。
「正直今までの告白は鬱陶しいだけだったけど、でも今日のはいいな」
なんて言ってくるものだからいっそう肩が沈んでいく。
そうか。高校時代からあまり色恋に興味を持っていなさそうに見えたけれど、やっぱり可愛い女の子に言い寄られるのは悪い気がしないのか。
しかしよく考えてみればそれが当たり前である。寧ろ今の状況の方がおかしいのだ。
高校生と言う一番多感な時期に教師の顔をした自分に惚れてしまって。夢を見るように好きだと思い込んでしまって。それが今までズルズルと続いて。
でもこうやって少しずつ夢から醒めていくのだ。
知らず、溜め息が零れた。
頭では理解していても気持ちが追いつかない。肩なんて、今捕縛布をかけたら足元までずり落ちていく自信があるくらいだ。
ふと、掴まれていた服が離される。その間に風呂に逃げ込もうとしたが、爆豪が目の前に回り込んできた。下から覗き込むようにして顔を見られる。
そして。
「やっぱりいいな。アンタのそんな情けない面ァ見られるんなら何回だって告白されてぇ」
「………かつき?」
ニヤリと口角を上げて言う言葉を理解するより前に、爆豪が自分の両手を擦り合わせた。ぶわりとニトロの香りが部屋いっぱいに広がっていく。
脳の奥まで痺れるような甘く刺激的なそれは、人工物をあっという間に上回る。彼女の痕跡が消えた腕は相澤の首へと回された。身長だけで言えばそう変わらない男のしなやかな体躯が距離を縮める。条件反射で腰に手を回して引き寄せた。
「俺からしてみりゃ、そんな顔してるアンタが一番可愛くて仕方ねぇ。なぁ今夜抱いてくれよ」
首に回っていた腕が離れて、情けないと言われている顔に両手が添えられた。皮の厚い親指に唇を撫でられ、軽い口付け。
「あんな名前も知らねぇ眼中にないモブに告白されたくらいで消太さんがヤキモチ妬いてくれるようになった、なんて高校の時の俺が知ったらぶっ倒れるかもしれねぇなァ」
今の俺でも嬉し過ぎて頭がおかしくなりそうだ。
言って、本当に嬉しそうに、幸せそうに、うっとりと瞳を細めるものだから。胸の底で渦巻いていたどうしようもない嫉妬と不安が霧散していく。
真っ直ぐに与えられる喜びと愛がじわじわと浸透していく。
(おっさんのヤキモチひとつでこんなにも喜ぶのか、お前は)
しょうたさん、しょうたさん。なんて猫なで声で何度も名前を呼んでは擦り寄って来る爆豪に相澤はキスをする。ねっとりと口腔内を撫でるように味わうように舌を這わせて、溜まった唾液を飲み込んだ。
頬を紅潮させて、とろんと蕩けている爆豪が、
「きすだけで、いきそう」
なんて煽ってくるものだから腰に回していた手を悪戯に下げていく。
「お前、明日仕事は?」
「お、そばん……っ」
「そうか。ならゆっくり出来るな」
緩いズボンの中にはあっさりと侵入できた。下着の上から尻を触って揉んで、尻たぶの間を指でなぞった。
「あとで、いっぱい抱いてくれよ」
「勿論。傷心中のおっさんを揶揄った罰も受けてもらうからな」
「嫌になるくらい癒し殺してやらァ」
「嫌にならないよ」
「ん」
離れるのが名残惜しいと言った風に何度も唇を擦り合わせて、舌先を絡める。
「消太さん、すき。俺はアンタだけでいい」
きっとこの先も今日のように嫉妬して不安になって死にそうな情けない顔を晒すこともあるだろう。苦しくて辛くて仕方がない日もあるだろう。
それでも。
「俺もだよ」
今のこの状況を手放すの考えられない。
傍に居たい。まだまだ危うい部分が見え隠れするこの子の隣で話を聞いていたい。
(悪いな)
名前も知らない女性にそっと謝罪する。あなたがどれだけ魅力的で、可愛らしくても。
この場所だけは譲ってあげられない。