怒りを助長するかのような、やたらと癇に障る高い声が狭い部屋に流れる。白い天井の隅に設置されているスピーカーは、しかしそれ以降口を閉ざしてしまった。うんともすんとも言わない。
相澤は苛立った心を隠すことなく壁を蹴り、微動だにしないことに更に苛立ちを募らせる。知らず顔が怖くなっていくが構っていられない。
今、閉じ込められているこの部屋に窓も扉もない。全面真っ白。あるのは天井の隅のスピーカーと、背後に大きなベッドがひとつ。
(こういう個性持った奴が悪戯をしているとは聞いていたが……)
思った以上に厄介だ。眉間に皺を寄せる。なにせ、個性をかけられたことにも一瞬気付かなかった。瞬きひとつにも満たない時間。抹消の個性を発動する時間も、捕縛布に手を掛ける時間もなかった。しかし、それは。
(コイツも同じだろうな)
チラリ、と横を見れば今にも壁に噛み付いてしまいそうなほどに凶暴な顔をしてガルガルと唸っている爆豪がいる。よっぽど悔しいようで、その顔は高校一年生の時の体育祭の表彰式を思い出す。
(久しぶりに会えたと思ったらこんな個性に巻き込まれるとはな)
爆豪と最後に顔を合わせたのは雄英高校の卒業式。今日は実に三年ぶりの再会だった。彼がプロの世界に足を踏み入れてから初めて一緒になった現場で、どんな風に成長しているかこの目で見られるのを相澤は楽しみにしていたのだ。爆豪の動きは磨きがかかっていてホッと胸を撫で下ろした。
しかし、事件が収束したあと、久しぶりに会ったから飯でもどうだと一緒に歩き出した瞬間、気付いたら此処に閉じ込められていた。忙しない一日である。
「ふざけてんじゃねぇぞクソモブがァ! さっさと出て来い! そんで俺に爆破されろ!」
「……爆破されるために出てくるような奴はいないだろ」
「うるっせぇ!」
ついつい指摘してしまったらいっそう怒らせてしまった。真っ白な壁に向かって大規模な爆破を繰り返しているので、相澤は溜め息をついてから個性を発動させた。爆破音が無くなって一気に静かになった白い部屋には黒い煙だけが残ってそのうち消えていく。
「それ以上は止めておけ」
爆破を繰り返しても傷一つつかないのはとっくに立証済み。無駄を積み重ねていくのは合理的ではない。現場が終わってすぐだったのでお互いコスチュームのままで、爆豪は篭手もグローブも装着しているとは言え、少なからず疲労は溜まっていくものだ。
「消すんじゃねぇ!」
「消すに決まってるだろ。無駄撃ちしていざって時に使えないと困る」
敵とご対面した時用にとっておけ、と相澤が言えば渋々ではあるが納得したらしい。アイマスクすら外していない顔に滴る汗をグローブで弾くように拭った。
「……じゃあどうすんだよ、この状況」
聞かれたところで案があるわけではない――……と言いたいところだが、厳密に言えば一つだけある。先程のアナウンスに従って、どちらかがどちらかを欲情させればいい。
しかし。
(簡単に言ってくれるなよ……)
相手は爆豪である。そして爆豪の相手は当然自分である。
三十代の折り返しを過ぎた小汚いおっさんに爆豪が欲情するとは欠片も思わないし、こちらとて元教え子の男の子を性の対象には出来ない。考えたこともない。厄介も厄介。出ることが不可能なのではないかと頭の片隅でひっそりと考えてしまうくらいだ。
「どうする、ねぇ……」
聞かれた言葉をそのまま返すように呟いて、顎鬚をザリザリと触る。何かほかに打開策はないだろうかと考え込んでいれば、隣からゴトンと重たい音がした。相澤が音のする方に顔を向ければもう一回ゴトンという音。
「――これ以上無駄な時間過ごして堪るか」
音の正体は爆豪の篭手だった。両腕に装着されていたそれを外して床に置く。その上に脱いだグローブと首周りの装備を放った。装備がないだけで爆豪の上半身はすっきりと身軽になる。アイマスクにも手を伸ばして、少し考えてからそれは止めた。周囲が黒で覆われている分、いっそう際立つ石榴色の瞳が相澤を捕らえた。
「……おい、」
覚悟が決まったかのような強い視線に相澤は嫌な予感がした。堪らず声を掛けるも爆豪はこちらへとやって来て、無言のままで相澤の腕を掴み、ベッドへと引っ張っていく。
「ば、爆豪、ちょっと待て」
「うるせぇ。俺ァ時間ねぇんだよ」
「時間ないって、お前さっき飯に誘った時は暇だって言ってただろうが」
「鈍いおっさんは黙ってろ」
「はぁ?」
ベッドまで近付いたと思えば乱暴に押されて、尻もちをつくように腰を下ろした。次いで乗っかって来る重み。
「クソモブのクソ個性だと思ってたが、……よく考えてみりゃあお誂え向きじゃねぇか」
「どういう意味だ」
「実験してみようぜ、って言ってんだよ」
相手に欲情すれば本当に出られるのかどうか。爆豪の言葉には何か裏がありそうな含みがあって素直に頷けないで居れば、アンタはじっとしてろと言われてしまう。
「何もしなくていい。その代り抵抗すんじゃねぇぞ。実験が台無しになる」
相澤が了承するより前に爆豪の手が捕縛布へと伸びた。指先でするりと辿って、端を摘まんで引く。しゅるりという衣擦れの音とともに緩んでいく。
「借りるぜ」
首に巻いていた量が随分と減り、辛うじて残っている程度。捕縛布の大部分を持っている爆豪は器用にそれを自分の体へと巻き付けていく。緩く、弛んだ状態で肩や首、腕に絡んでいる。縛られたい願望でもあるのかと茶化して笑ってやれれば良かったのだが、残念ながらそれは出来ない。
「せんせぇ」
爆豪の力強い瞳がとろんと蕩けて、嬉しそうに口元を緩ませている。そして最初に掴んだままの端を顔に寄せ、あろうことか唇へと持っていく。
相澤は驚いて目を丸くして爆豪を呼んだが肝心の返事は返ってこない。まるで聞こえなかったかのようにスルーして、とうとう捕縛布にキスをした。ちゅう、とわざとらしく音が立つ。しかしそれだけでは終わらない。唇が離れたと思ったら今度は舌先で舐めた。好物でも食しているかのように脇目も振らず。目は蕩けさせたまま、頬は紅潮させ、そしてゆっくりと目が合った。
「せんせ」
聞いたことがない甘ったるい声。無意識に腹の底がずくりと疼いた。
「せんせ、せんせぇ」
相澤の血と汗が染み込んだそれを。命を預けているそれを。何度も舐めて、キスをして、頬擦りをして、端を甘噛みしていく。ほう、と吐き出した息が熱い。そして、何とも言えない甘い香りが部屋中に充満して次第に脳がくらくらと揺れ始めた。疼き始めた腹の底は爆豪の一挙手一投足に過敏に反応して膨れ上がっていく。それに引き摺られるように驚きと焦りが胸を支配して、一気に恐慌状態へ。ドクドクと心臓が煩いのは焦りからか、それとも。
(……駄目だ、落ち着け、相手は、爆豪だぞ)
圧倒的少数派である冷静な自分が訴えかけて頭を冷やそうとしても、退けるように爆豪の動きは止まらない。空いた手で弛んだ捕縛布を掴み、ゆっくりと自分を締め上げる。緩く肩や腕に絡まって引っ掛かっていただけの捕縛布が肌に食い込んでいく。そこだけではない、突き出すようにしている胸にも同じように――……。
「や、めなさい、ばくごう…ッ!」
明らかに性的な匂いがし始めたことで相澤は顔を逸らす。止めなさいと言う声に力が籠っていなくても、そうでも言わないと取り返しのつかないことになりそうだ。
「もう、いい加減に……」
だが爆豪は許してくれない。背けた顔に触れてくる事はないが、甘えてくるような声色で「しょうたさん」と爆豪の声では聞き慣れない下の名前を呼ばれて、こっちを見てと甘く強請られてしまっては振り払う事が出来ない。勝手に返事をしようとする躾のなっていない喉が鳴る。
それでもどうにか抵抗しようと顔は背けたままで、視線だけを送る。長い前髪の向こう側で爆豪はうっとりと微笑んで、もう少しだけぎゅうと締めた。
突き出した胸に捕縛布が強く食い込み、
「ッ、ァ……!」
と、少し掠れた、艶っぽい声が唇から零れる。
それを恥じらうように頬を赤らめながらも、見せつけるように掴んでいた部分に舌を這わす。
「しょうたさん……っ」
相澤の頭の中で何かがプツリと切れた音がした。そして考えるよりも先に腕が伸びた、――瞬間。
天井の隅に設置されたスピーカーからファンシーな音楽が流れ始めて「脱出おめでとうございます!」と高い声が響く。何もなかった筈の壁にはいつの間にか扉が出現していて、触ってもいないのに勝手に鍵が解錠される音がした。
「よし」
真っ先にそう言ったのは爆豪である。
先程までの艶っぽさは瞬時に消え失せて、あっと言う間に捕縛布は解かれる。用を成した捕縛布はポイっと雑に投げて返された。相澤の上からさっさと退いて、外した篭手のほうへと歩いていく。
全く動けないのは相澤のほうである。
「………え、いや、ば、ばくご……?」
パチパチと何度も瞬きして、信じられないものでも見るかのような目線。宙ぶらりんになっている情けない右手。空いたまま塞がらない口。あ、これは、まさか。
「何やっとんだ。さっさとクソヴィラン捕まえようぜ」
ニヤリ、と上がった爆豪の口角に今度は相澤が顔を赤くする番だった。
(――……やられた)
全てはただの演技だったのだ。うっとりと捕縛布に唇を寄せていたのも、熱い吐息も、絡みつく視線も全部。勿論相澤の理性の一部を断ち切った掠れた艶のある声も。
あああぁ、と頭を抱えて声も無く唸って落胆した。落胆して、落胆してしまったことに失望した。
何やっとんだ。正しくそれに限る。
(俺は一体元教え子に何を……)
ただの演技でこんなにも翻弄されてしまっていては、爆豪に本気で誘惑されたらコロッといってしまうかもしれない。今まで沢山の色仕掛けを経験してきたが、こんなにも危うかったのはこれが初めてだ。いや、寧ろ扉が開いた時点でアウトだろう。なんてったって此処は相手に欲情しなければ出られない部屋。つまりはそういうこと。
「イレイザー、早くしろって。時間無くなる」
「あぁ、うん、ごめんね」
出口で痺れを切らしている爆豪に謝って、捕縛布は定位置へと戻した。ほんの僅かに乱れたベッドは直すことなく爆豪の元へ。そう高さの変わらない石榴色に覗き込まれて居心地が悪い。
「……なんだ」
「べっつにぃ?」
「別にって顔じゃないだろう、それ」
下唇を突き出して年甲斐もなく拗ねたように言えば、爆豪が吹き出すように笑う。
それから。
「十五も下の奴の誘惑に負けてんじゃねぇよ、せーんせ」
べぇ、と意地悪に舌を出して揶揄ってくるものだから何も言い返せなくなる。そんな相澤の反応が楽しいのだろう。笑いが止まらない。
「さっさと捕まえて飯行こうぜ」
「時間無いんじゃなかったのか?」
「まだ分かってねぇのか、アンタ。……まぁいいや、あとでじっくり教えてやるよ」
「意味が分からん」
「今はそれでいい。取り敢えず、」
グローブを嵌めた右手でドアノブを回し、真っ白な世界から現実世界へと足を踏み出した。言葉の続きが知りたくて爆豪の方をチラリと見た。
すっかり大人になってしまった顔つきで、それでも相澤が良く知っている顔をする。
「実験は大成功だっつうことだ」